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「三つの人種——原住民・白人・黒人」に関する、現代コロンビア人歴史家サルセド・バスタルド(1986)の言及

De negro é india sale lobo "from black man and Indian woman comes 'wolf' (Zambo)." (Pintura de castas, ca. 1780), Unknown author, Mexico

池田光穂

「ボリーバルが生まれた植民地時代のベネズエラは混血社会であったが、原住民インディオ の割合はわずかであった。メキシコやベルーのように圧倒的な原住民 人口もなかったし、インディオが絶滅したため白人と黒人間の人種的混交だけが行なわれた地域のように、原住民がまったくいないといった状態も存在しなかっ た。

新大陸発見の頃、ベネズエラにいた原住民は少なかった。詳細な調査によると、コンキス タ(スペイン人によるアメリカ大陸の征服)の初期におけるベネズエ ラの百万平方キロメートルの住人の数は三十五万人を越えることはなかったという。この住民はさまざまな理由で、長くそして血生臭い対決という形でスペイン の衝撃を受けることになる。実際、あの拒漢としたベネズエラには、スペイン人がその首都ないしは中枢を占拠したならば、全地域と全住民を完全かつ決定的に 支配できるような統一体はまったく存在しなかったのである。原住民は多くの部族に分かれ、十五を下らない語族のほかに数々の方言があったといわれ、現代の 人類学ではコロンブスによる新大陸発見以前にこの地域に約十の「文化圏」があったことを識別するに至っている。そこでベネズエラにおけるコンキスタは、急 速かつ流血を見ないというわけにはいかなかった。ベネズエラの諸地方におけるインディオ支配は、部族を一つずつ征服するかあるいは絶滅していくことを意味 した。コンキスタは戦闘というよりも狩猟であった。この地域の原住民の相当数は、勇敢な戦士とされたカリプ族であった。原住民の大部分の文化水準は、アン デス地域にいたティモト・クイカ族を除いて、アメリカ大陸では最も低い部類のものだった。しかしどんなに圧迫されても、インディオ人口は、あのすさまじい スペイン人との衝突の中で消えてしまったわけではなく、ベネズエラ国民を生み出した人種混交の基盤となりうるものであった。これらインディオの文化的、精 神的そして霊的遺産は、我々がそれを量的かつ質的にいかに評価するにせよ、そのスペイン人および黒人との混血から生まれた新人種へと受け継がれていった。

ボリーバルの生地における原住民の多様性という特徴を強調することは興味深い。「ベネ ズエラ・インディオ」などというものは決して存在しなかったし、一 般住民の唯一のタイプなどというものもなかった。数は多くないもののインディオは確かに存在したが、彼らの間では、身体的および遺伝的特徴だけでなく、文 化および地理的分布においても顕著な相違点がみられた。肌の色や、背丈、頭がい骨の形、限、唇に関する相違はつねに指摘されてきた。そのような多様性は新 大陸発見以前の結合、ないしは混血の結果ではないかと推察できる。いずれにせよ、ベネズエラのインディオは共通してある種の一般的特徴を具えていた。そし てこうした特徴が後に同地に作り上げられることになる国民性に対して土着的要素を持ち込むことになるのである。

ベネズエラの諸地方にいわゆる「白人」の要素として到着したスペイン人は、その身体の 中に、小アジアおよびきわめて複雑なヨーロッパのさまざまな民族の 血、そしてイベリア半島に多くのアフリカの血を持ち込んだアラブの統治を通して黒人の血を受け継いでいる。つまり約十七種類の血がスペイン人とともにやっ てきたことになる。他方、ベネズエラにはイベリア半島のモザイクを作っているすべての模様がやってきた。カスティーリャからだけでなく、アラゴン、アンダ ルシア、エストレマドゥーラ、レオンなどのさまざまの王国から、そしてつづいてバスク、カタルーニャからも、スペインのすべての土地から人々がやってき た。スペイン人は女性を連れずにきて、ここでとても評判のよい原住民の女を手に入れ、混血が盛んに行なわれた。ベネズエラに来たスペイン人征服者の数は非 常に少なく、コロンブスによ る発見後の最初の一世紀聞に来航した者は五千を越えないだろうと推計されている。インディオの数と比べてわずかなこの人数のうえでの劣勢は、言語、宗教、 政治面の文化的統一性と、テクノロジーおよび工具面の優越性によって相殺された。混血が生み出したものはスペイン調のものであり、西欧文明に属することに なろう。マリオ・ブリセーニョ・イラゴリーの名言によれば、

「そのシンボルはアフリカ未開人の物神でもなければ、原住民のトーテムでもない。国際 化されたスペインのシンボルの一変形である。歴史的にみると、我々 はスペイン世界の発展を表しているのだ」。

アフリカ人は力ずくで新世界のるつぼに引き込まれた。ベネズエラにきた黒人の数は比較 的少なかったが、彼らの間の相違はインディオ同様顕著であった。人 類学は「人種」という議論の多いテーマについて、黒人種は最も多様性に富んだ人種であることを強調している。こうした人種類型学上の多様性はあの強制的な アメリカ大陸への移住において明白であった。ここでもまた、遺伝および身体上の相違だけでなく、文化的相違も小さくないことを強調する必要がある。ベネズ エラ征服後の最初の一世紀間に約一万人のアフリカ人が連れてこられた。これ以上の奴隷集団をそこに定着させるような経済的理由もその他いかなる理由もな かった。

ベネズエラ人の中には、他のいかなるアメリカ大陸の国の人間の中にみられるよりも、 もっとはっきりと全地球的性格が観察される。このことはボリーバルの 行動を理解するうえで大切である。実際、ベネズエラにはインディオのアメリカが存在しており、これを通じてアジアの影響がみられ、そして多分、ポリネシア との太平洋を越え接触——これはコンティキ号の実験によって最近-証明されている——によってはるかな大洋州の影響もみられるのである。つまり、アメリ カ、アジア、大洋州の影響が原住民の中にみられるわけだ。ヨーロッパ的要素はスペイン人とともにやってきた。すなわちイベリア人、リグリア人、ケルト人、 ローマ人、バスク人、ギリシャ人、ゲルマン人、西ゴート人、スエヴィ人、ヴアンダル人の影響である。小アジアの影響は、フェニキア人、ユダヤ人、アラビア の回教徒、そしてアフリカの影響はカルタゴ人、エジプト人、リビア人、チュエジア人、アルジェリア人、モロッコ人、さらにコンゴとナイジェリアの人々など イベリア半島に流れ込んだすべての人々とともにやってきた。さらにアフリカ自体も、奴隷制という恥辱によって、その地から引き裂かれたバンツー人、スーダ ン人およびヨルーバ人の子孫の中にみられる。

これらすべての人種、すべての大陸、すべての文化が、遠い昔アメリカ大陸内の民族移動 の要衝であったベネズエラの地で合流したのである。もともとこの地 域は、アンテイル諸島から南ヘ、あるいはその逆方向に、また海岸に沿って東から西ヘ、そして西から東へ、非常に多種多様の原住民が通り過ぎていくのを見て きたのである。新大陸発見後、全地球的な出会いはしばしば暴力を伴って行なわれ、まことに広範で、奥深くそして多様な混血を生み出した。この融合にはいか なる要素も除外されず、来たるべき祖国の創造への参加を拒否された者は一人もいなかった。

このような混血に対する開放的で好意的な態度は、最も重要な証言である碩学フンボルトの著書において証明されている。国名も国民といったものもない状態 から、三十五万の原住民と五千のスペイン人と一万のアフリカ人によって国造りが始められてから三世紀後の一八〇〇年頃、ベネズエラは八十万人の住民を数え るに至った。フンボルトはこれらの住民の半分||四十万をくだらない人口——が混血の結果であると述べている。つまり、スペイン人でもインディオでもアフ リカ人でもない人々である。

アメリカ大陸の他の地域においても類似した現象がみられ、やはり混血が通例となってい たが、時としてその結果は、混血において原住民が優位を占めたり、 原住民の絶滅や経済的な理由によって、大きな黒人人口が混血人にもその基本的特性を色濃く残したりした。この点、中間帯であるベネズエラでは均衡のとれた 結合がみられ、ボリーバルの祖国は、文化面でもまた人種面でも、まさにアメリカ大陸の平均的姿を示したのである」(サルセド・バスタルド 1986: 9-12)。

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