ラ・セルバ日記 1997年2月22日〜3月7日
La Selva diary, desde 22 de febrero hasta 7 de marzo, MCMXCVII
1997年2月22日
Royal Garden
で飲茶で朝食。食べ過ぎで下痢気味。ホテルは結局一泊分しか取らなかった。夜半過ぎにチェックインしたからだろうか。前前日の夜にレセプションの男が翌日
の分まであるよ、と言っていた意味が解ける。
バスを待っていたらタクシーの運ちゃんがここはPuerto
Viejoまで行かないと言う。どうせ妄言と相手にしなかったが、40ドルで行くと言うのでバスを待たずに、その男の車でゆく。距離はちょうど100キ
ロ。1時間半の旅である。運ちゃんはリモン出身の47の男で8人の子持ちだがどうみても私と同じ年齢に見える。上の子供は20数歳で娘がいるので、彼はお
爺ちゃんということになる。ちなみに一番下の子供は3歳。彼は、途中の牛の放牧を指して、どうだ美しいだろうと言う。美的景観が文化的構築され、また後天
的に受容態度を変更することができるという文化現象の好例である。
OTS/OETの標識がわからずPuerto Viejoまでゆく。しかし、そこにはほとんど何もなかった。運ちゃんに別れを告げてチェックイン。予約は入っていないようだった。Estacion del Rioという一番はずれのドミトリーの6人部屋に入れられる。しかし、誰もいない。
セルバでの生活のやり方や情報は、Welcome to La Selvaと、Information for Researchersという2枚の説明書に書かれてある。ドミトリーまでの途中にはラボや図書室——後者はエアコンが利いてなんと24時間利用可能—— があり、まさに「密林の中の文化生産」の基盤がここに整備されている。あるいは、極めて浅い観察に基づく印象だが、ここはアメリカ合州国の大学の学部の延 長であることを改めて感じさせる。食堂の雰囲気もそのままコピーしてきたようなものだ。
早速、小道を横切る小ほ乳類(カピパラ?)の歓迎に出会う。しかし、これもバーク レーでのリス体験の後では、さほど驚くべきことでもない。つまり自然体 験もまた当然のことだが相対化することができる。夕方にわか雨。レセプションに南京錠を借りにゆく。食堂の横の店の中年女性と挨拶する。生態学者ではな く、あなた達を調査しに来たのですと説明をすると、彼女はDios Santos ! と小声で驚嘆していた。たしかに、そうである。変な研究者が来たのである。明日、日曜日は職員の家族のために保護区が開放されるらしい。
6時に食堂で夕食。私のいるRiver Stationには、Duke Uniから学部の学生が10週間の予定で来ており、その一人と話した。研究内容については彼女のアクセントと専門用語があって理解できなかった。生態学の 文化人類学的研究も楽ではない。食堂には30-40人の人たちが食事をしていて、それぞれの研究チームごとの食事をしており、ラテン系とアングロサクソン 系が棲み分けをしているようである。私はと言えば、誰も面識がないので、一人テーブルで食事をする。学生たちは、ちょうどバリ人のように私に対して気にも 留めないかのように自然に?振る舞っている。まるで密林の未開人の集落におかれた人類学者のようであり、学生たちはいくつかのリネージかクランに分かれて 食事をするようだが、どの村人とも親しくなく、ひとり取り残されている気分である。20世紀末のフィールドは未開部族の村落ではなく、調査研究機関の中に あったというわけである。なんでもそうだが、初めてのフィールドは結構気をつかうものである。しかし、最近よく感じることだが、昔よりも自分が厚かましく なって仮に邪険にされてもあまり気にはしなくなった。自分の対面が傷つくことはなにも恐ろしいことではないから。彼らとも年齢もことなるし、それよりも私 が歳をとって、その方面に鈍感になったというほうが正確だろう。
ラ・セルバ調査第一日目
2月23日(日曜)
6時起床、6時半朝食。昨夜からの雨は、終日ときおり激しい調子で夜まで降り続い た。年間4メートルの降雨量を誇ることはある。すべてのコピーや本は湿気ってしまった。コンピュータが心配である。カメラは、この滞在が終わることにはレ ンズにカビが生えているかも。朝食は一人さびしく食べ、部屋に戻りトドス・サントスの歴史を写したノートを翻訳する。時間が山のようにあったので、バーク レーでとったノートを片っ端からコンピュータに入力する。
昼は、River Station にいるニューヨーク州立大学の学部生とコスタリカの林学部の学生のテーブルに割り込む。学部生たちは専門の研究者ではないので、食事の時間に生態学の論議 をして楽しむほどの余裕はないようだ。どちらかというとくだけた世間話をしている。そこに私が割って入るのもちょっと無理なようすがする。ニューヨーク州 立大学の女子学生の情報によると大学院生が多いと述べていた。コスタリカの男子学生は、彼女を多少なりとも口説こうとしていたのか、それともラテンの血が 騒ぐのか、あるいは私の単なる過剰解釈なのか、3人で話していると盛り上がりにかけた。そうである。学者の昼飯どきの会話とは、情報交換の場であると同時 に特殊に訓練された階級確認の場でもあるのだ。そのような自己が日常生活で抑圧している常識が、場違いな人間だけが反省的に理解されるのもフィールドワー クの楽しみである。ちょっと屈折しているかな?
夜は一人で寂しくたべていたら、ベネズエラの学部の女子学生がテーブルについた。彼女は1月初頭から3月中旬までのラテンアメリカの学生を対象にした熱 帯生物学の研修を受けている。全部で20数名の参加者がラテンアメリカ各国から来ていて(ブラジルからも2名)時には1時ぐらいまで夜なべすることもある そうだ。今夜は食後に講義があるらしい。食堂の黒板を一瞥してそれを確認していた。
今日はひたすらパワーブックと向き合っていた。長い一日であったようでもあり、ま
たすぐに夜になったような気もする。
2月24日(月)
ついに現地人の「集合家屋」=ラボラトリオに入ることができ、内部に机を確保する ことができた。
6時起床、6時15分朝食、コスタリカ青年が飯を食いにきていた。一昨日の晩に傘 を盗まれて以来落ち込んでいた(しかし、だれがあんな襤褸傘を盗むのだろう?、それを思うといよいよ落ち込む)。Estacion del Rioの電話は線が切れていたので、8時すぎにレセプションでブルース・ヤングへのアポイントメントをとったら10時に来いという。その間、部屋でナン シー*の本を読む。まったく共感=驚嘆すべき内容。トロブリアンドのマリノフスキーのようにのめり込みそうになる。この時点では、OTSでの調査にはまった く希望がもてなかったから、なおさらである。
*Scheper-Hughes, N.(1992), Death
Without Weeping: The Violence of Everyday Life in Brazil. Berkeley:
University of California Press
10時にいくと彼は不在、5分ほどしてやってきた。ブルースとの会話はほとんど世 間話の域を超えなかった。ただし、訪問者に対してのインタビューは慎重にしてほしい、という示唆は、管理者としてはきわめてまっとうなところをついてい た。さらに、「この調査をとおしてOTSを利用したことを広めてほしい、なぜなら一定の財源がなかなか確保しずらいこの機関が続いていくためには、広報活 動が欠かせないから」という旨の発言は、まさに集落の首長らしい発言だった。彼を含めて、ビクトル、ジェニファーともにマネージメントの役についている人 たちが私よりも若いことが、この機関が歴史があるとともに活力のある活動をしていることの証拠のように思える。
ビクトルには11時にアポイントメントをとって話を聞いてもらったが、超面倒見が よく、矢継ぎ早に所内の関係者への面談(インタビュー)のスケジュールまで組んでもらい、絶望の底から希望の園へ、あるいは「そんなにたくさんできません がな」という気持ちにもなる。とりあえずはジェニファーへのインタビューが可能になった。
ビクトル(Research Laboratory Maneger)はここで働いて2年になるといっていたが、実質的に研究者への便宜提供の責任者である。彼へのインタビューも必要になろう。昼飯をGIS (Geografic Information System)でマスターをとろうとしている大学院生その他と食べる。相変わらず名前が覚えられない。
3時すぎから4時までジェニファーと彼女の仕事の内容についてインタービューす る。私が興味をひかれたのは、彼女が自然保護主義者で、付近の環境の悪化や地域への広報や教育活動にたいへん興味をもっていることだ。エコ・ツーリストに 対しては比較的否定的で、それは彼女の自然保護主義者としての自己の定義と対比しながら考えていることだ。人類学者と観光客、フィールドの自然科学者と観 光客という「近親」憎悪の関係を思い起こさせるが、彼女のユニークなところは、自然保護主義者は保護実践するが、エコ・ツーリストは自然主義者の「成果」 を消費するだけということになる。この弁別方法は、真の革命家とそれ以外の似非革命家との分類に似てエスノセントリックなところが無きにしもあらずだが、 まっとうなところをついているようにも思える。彼女はまたエコロジーということばそのものにも、なにか陳腐化したところがあると批判的にみていた。
夕方、コロラド大学の大学院生Terrence McGlynnと知り合う。彼と飯をたべていたら、昨日知りあったもの静かな大学院生と一緒になり、さらにOTSを視察にきたコーネル大学の教授を含む3 人の先生?たち——歳の頃は50後半から60ぐらいで、大学のアドミニストレーションに関わると言っていた——とエコ・ツーリズムや西洋人の自然観などの 談義に華が咲く。今朝の絶望とは地と天の違いほどもある。彼らによると自然科学者もまたツーリストを嫌うところは人類学者と同じらしい。エコロジー意識と 社会階級や、日本人の自然観とアメリカの自然観の違いなど、誰でも知っているような話題であり、いかようにも応えられるのだが、そのくせに信憑性のある説 明仮説が与えられない問題であることを痛感する。私は、そのような問題は実証が難しいので、議論する意味がない(まるで人種の生物学的根拠の説明のようで あるが・・)と、これらの問題をうっちゃってきたことを反省する。重要なことは、それらの質問と考えれうる答えのヴァリエーションを引き出し、その説明の 構図の中にいったいどのような暗黙の論理的前提、歴史的政治的枠組みが隠されているのかを別の次元でから考察することなのだ。そのような議論に取り合わな いことが重要なのではなく——この態度は学者の超俗的な姿勢を助長する——そのような態度に取り組みつつ、そのような態度を相対化することが重要なのだ。
夜はシャワーをあびて、新しく入居した机で10時半までワープロを叩く。夜新しい入居者が来ていた。
2月25日(火)
6時起床、だいたい5時半ぐらいから起きている連中もいるので、その根性は敬服の かぎりだ。朝食にいこうと道をあるいていたら、なんと私の傘をもってあるいている男がいるではないか。彼を問いつめると、ラボで拾ったという。あのニュー ヨーク娘が間違ってラボにもっていっから知らないふりをしているのか、謎は深まるばかりである。とにかく、ラテンアメリカのクルソー軍団と食事をして、最 後はコロンビア出身のprofesoraとコロンビアのエコ・ツーリズムについて話しこんで7時になっていた。
ラボに出てから午前中はぜんぜんアポイントメントがないので、ナンシーの本を読ん だり、昨日のジェニファーとの会話や今朝のコロンビア人などとの会話を思い出しながらノートを入力していた。ナンシーのイントロは強烈、それにくらべて私 の現在の研究テーマは凡庸とはいえないが、構想力やコミットメントにおいてはパワーが断然落ちるからコンプレックスはたまる。言うまでのないことだが、も う帰ってもいいんじゃないという投げ遣りな気持ちになる。しかし、食事の時間となると話は別である。
昼飯時は、蟻の専門家のマークと知り合い、自然保護などの話をした。朝、ルースに アポをとって午後にということだったが、彼女はリー・ストレンジら一行がサンホセから来ていてそのアテンドで忙しそうだった。リーは私に近づいて「私を憶 えていないのか?」と言ったときに初めて思い出した。彼女には、エコ・ツーリズムの英文のドラフトを渡す。
午後2時に例のニューヨーク娘——歳を聞くと20なので我々の学生と同じである ——と一緒にパブロの運転する車でLa Guaria にあるOTSのProyesto Forestal ほかの実験ステーションに見学にいった(詳しい内容は同日のノートを参照)。帰ってから食堂でコーヒーを飲んで雑談をしていたらルースもまた別の女性たち と雑談をしに来ていた。私がアポをとっていたのに御免ねといったら、(私の滞在期間が)2週間もあるんだからいいわよ、と軽く流されてしまった。ま、いい か。
というわけで、こんどはドイツ人のアニャを探しにいったら彼女もまた忙しいそう だったので、今度は私のほうから忙しそうだから、また今度でいいかと言ってしまう始末。代わりに、ペーパーバックを読んで暇そうにしているテリーを捕まえ て自然保護や生態学談義をする。最後は彼の日本滞在の話やメキシコ旅行などの経験などでだれてしまった。マークに、私の論文をみかけたか?と聞いたつもり が、どうやら読んだかてな強い調子に聞こえたらしく、彼は律儀にも私の目の前で読み始め、途中で「キミの言っていることの内容が自分にはよく理解できない ので、もう一度読み直してみる」と返事をしてくれた。たいへん有り難いことである。
夕食にはテリーのテーブルについたが、マークはいつも別のところに位置して、彼の 世代的なギャップを感じさせられる。もっとも彼らはそんなことにはぜんぜん頓着してないようだ(気にしているのは俺だけだ)。頭の禿げたおでこの大きい男 性は、鳥の行動観察と生理学の専門家である。彼によると雨が降れば鳥の行動は著しく変化するという。とくにflycatcherなどは雨がふると虫が捕ま えにくくなるので行動は変わるという。彼は、後でテーブルを移動してイギリスからきたバードウオッチャーと話にいった。OTSを訪れるエコ・ツーリストた ちの多くも鳥を中心に見に来ているような気がする。
後からミゲル?、ビクトルたちが来てスペイン語モードと英語モードが頻繁に切り替 わる会話になる。要するにこういうことである。現地人スタッフたちは、スペイン語で隠語的な会話をし盛り上がる、そこでビクトルが英語で説明を加える、そ こで英語の話者の学生たちが多少もりあがる。そんな会話のモードのスイッチが延々と切り替わる。私はといえば、堅苦しい、そして私にとって情報収集を(あ からさまに)目的とした質問をする。考えれば味気のないことである。まあそんな味気のない質問にみんなちゃんと応えてくれるから、有り難いものである。
ここんところずっと雨が降っていて、River Stationの洗濯場には洗濯物の山ができていた。まあ、20年前の私の幸島でのフィールドワークにくらべたら天国だな、コンピュータもあるしね。
で、夜ラボで日記を書いていたらマークがやってきて私の論文に丁寧にコメントしてくれた。彼のコメントは、自然の商品化をおこなっているのは資本主義の ほうでエコ・ツーリズムの文化ではないのでは?(そうかお前は資本主義も文化の一部だと言うと、そうだね)、保護思想というアメリカの中産階級の一部の文 化が教育制度を通してアメリカの社会全体にいきわたっているからね。ルーズベルトという一人の男がはじめたことが、いまや世界中に拡がっているからね。な どなど、結構盛り上がってしまった。いやいや、彼の理解とコメントの内容はふつうの人類学者との議論と遜色無いではないか。すばらしコメントで、私自身が うまくフォローできなかったのが少し残念なくらいである。ここんところ、自然科学者から冷ややか(もちろん軽蔑ではなくが)な視線をあびていたので、彼の コメントはたいへん元気づけられた。これまた有り難いことである。どうも歳をとってアリガタヤ教的になってしまったのかも?
とういうわけで、今日もたいへん有意義に一日を終えることができた。
2月26日(水)
昨日とは別の同居人だったのか?、彼は荷物をもって6時ごろ部屋を出ていってし まった。私はといえばなんと6時半まで寝てしまって、長靴をもってラボにより、おっとり刀で食堂にでかけた。7時45分にテリーと一緒にラボを出る。彼の 研究プロジェクトの調査地は、Estacion del Rio から20分ほど道沿い(CCCからSSOに分岐したすぐ先)のところだった。9時過ぎには採集をおえてラボにかえり、シャワーをあびて服を着替えた。他の 連中も同じような行動をとったのだろう。彼らは11時頃ラボに戻って、採集したサンプルを解体し、蟻をアルコールの容器のなかに集めていった。フィール ディンたちに写真をとったら許可がとれて写したが、とったあとに何につかうの?と聞いてきたので、おきまりの人類学的効用(日本の人たちにとっての異文化 の理解てな感じで)を説く。
昼飯を食べて、葉書を買い、切手代についてたずねたところ、OTSの勘定書にサイ ンしてくれないかとたずねられたので応じたら、一泊45ドルとっていることが判明。なかなか良い値段じゃないの!。まあ自動洗濯機と乾燥機、そしてラボの 空調や24時間体制でのサービスなどを考えると、ここをコスタリカと思ってはならない、北米の価値観によって運営されている研究者向けのホテルと考えれ ば、ま、こんなものかも知れない。チェックインするときに、ドクターかどうかレセプションで聞いていたので、もっとも高い値段で入居しているかも知れな い。グレーバン、ナンシー、うちの奥さん、松岡(秀明)さんに葉書を出す。
ルースにアポをとりにいこうとしていたら、彼女はビジターをアテンドしていて—— 昼間にはトゥカンがそこらじゅうにいて鳴いており、地面には猪?ペカリー?数頭が群れて歩きまわる、まさに野生の天国じゃ!——自動的に彼女を捕まえて話 すことを断念する。代わりにラボにミゲルを尋ねて、1時間話を聞く。コスタリカ人のエコロジーに関する印象や議論は、こちらの想像力や理解力の範囲にある ので実質的に飽きてきた観がある。エコロジーの議論や自然科学者の生活は、近代人の生活の延長にあるから、とくにエキゾチックなことを期待するほうが間 違っているかもしれない。
松岡さんの葉書にも書いたが、自然科学者には変人が多いので——それに比べれば中 産階級のエコ・ツーリストはなんと常識的で上品なことか!、そして中米の一般庶民もまたまともに見える——実際問題疲れてきた。おまけに主要言語である英 語、それももっともくだけた日常会話、そして食事のメニューなどの「瑣末な」話題、つまり口語表現がバンバン出てくるので、私にとって重要な研究テーマで ある、科学者たちのまさに「日常性そのもの」がとても分かりにくい。
以前にも書いたかも知れないが、食堂でのテーブルの棲み分け行動には、英語圏とス ペイン語圏でわかれる。もちろんここでは英語がドミナントな言語である。英語圏では、研究者の世代やそれぞれのメンバーのテーマ間の類縁関係や親密度—— ミゲル流にいうと「さまざまな領域の、最新の研究成果を背景にした学者が絶え間なくやってくる」ので滞在日数などによって親密度が異なる、もちろんその人 の社交性にもよるが——によって集まりに偏りがある。また現地職員のうちラボなどの高等な管理業務についている若い職員(彼らはドミナントな英語を流暢に 話せる)は、食事の時間には極端にジョークを連発する。これは彼らの学生時代のサブカルチャーの延長なのだろうか?。その流れにアニャが参加するので、お まけに彼女は多分に奇をてらうところがあるので、そしてもちろん彼女はビジターではなく職員つまりグリンガ(ミゲルの表現)のくせにあちら側の人間なの で、食堂でもアメリカ人たちの食事のなかに彼女をみかけたことがほとんどない。彼女のほうから避けているのだろう。
こんなカオス的状況の中で食事するのは本当に疲れるよな。これもくり返しになるか も知れないが、彼らは食事のときにはアカデミックな話はほとんどしない。この理由は彼らの専門分野がきわめて細分化されているために、仮に話したとしても 話にならないか、あるいはせめて食事のときにはラボラトリーライフから逃れたいという気持ちが働くのだろうか?
いづれにしても私にとって瑣末な?テーマだ、しかし、それしかデータがないので、
あるいはゴフマン好きの性癖から、この話題もいづれ使うかもしれない。そんなことを思うと多少自己嫌悪を陥る。明日はもっと面白いことが待っているだろ
う。たぶん。
2月27日(木)
6時起床。朝食、大学ツアーが来ているために食堂は大変混雑している、Very busyというやつだ。今日は結構インタビューで忙しかったので、誰と飯をたべたのかよく憶えていない。たぶんファンと飯をくっていたらマークがやってき て、スペイン語で飯をくっていたのだろう。バルガスが7時半前に食堂に来いといっていたので、いそいそとラボにいき支度をして途中までいって予備のフィル ムを忘れて、とりに帰っていたら、大学のガイドツアーのグループは各自出発していて、ホエールに率いられたペンシルバニア大学の Environmental Design?の連中に合流して、彼らと一緒についていった。ガイドツアーのスピードは鈍く、まさに自然というキャンバスに色とりどりの言説で埋めてゆく というのがエコ・ツアーの本質であることがよくわかる。素人は驚異するだけで、あるいは質問するだけで、あとはガイドが延々と講釈を垂れてゆく(遺跡ツ アーも似たようなところがある)。ツーリストは薮蚊の攻撃に耐えながらじっと講釈に耐えるか、もう次のところへいこうじゃないのというかのように写真を とったあと白々しい顔をしてガイドにそれとなしに伝えようとする。しかし、そのような沈黙の言語はガイドには一向に通じない、なぜならガイドツアーには ルーティンがあって場所と言説が組合わさってすで容易されており、観光客の退屈など意に解しないからだ。ガイドツアーの内容については同日のノートを参 照。最後にクモザルのペア?が見れたのは僥倖だった。
ツアーから帰ってミノールと話す。素朴で奧に引っ込むタイプだが、彼の「観光客は 現実をみずに綺麗な部分だけをみる」という意見はなかなか考えさせられるものがある。なんか、ラボの一室でテクニシャンとしてひっそりと水生生物の幼虫を 採集する彼の生活態度との関係を想像してしまう。パブロがカルタゴから帰ってきて、インタビューをとらないのか?と私に聞く。Con mucho gusto!である。正午前まで話を聞く。
昼飯はホエールと一緒にたべる。アーニャが私の前に現れた。ガイドたちと会話を少 し楽しんだあとラボに帰る。オルランドが来て、俺と話をしないのかと聞く。Con mucho gusto! otra vez! である。少なくとも現地職員はインタビュー=接客にはきわめて親切に応じてくれる。信じられないほどの快適さである。
午後4時にはレジデント科学者たちのミーティング、これもまたたいへん興味深い話
が聞けた。あとはワープロを叩くだけ。夕食はニコとドイツ人カップルとマークで飯をたべる。ニコはハンブルグ大学の生物学の学生であったが、交換留学でコ
スタリカに病みつきになりコスタリカ大学の修士課程に入学してセルバで研究している。英語も上手なやつだ。夕食後、テリーたちは、それぞれ200コロン
(1ドル)ずつ出し合って、ポーカーをやりはじめた。2時間ほどでポーカーは終わり、彼は200コロン勝った?そうである。私は、味気ないことに10時ま
で延々とワープロをたたいて、今日もまた一日を終える。アルゼンチンのファンが夜道での質問「今日は何か収穫があったかい?」を自答してみる。・・・・・
ひたすら空白である。
2月28日(金)
6時すぎ起床。昨日とうってかわって食堂は人もまばらで静かである。日系アメリカ 人でハワイ大学の学生で現在ララ・アビスでボランティアをやっているキャサリンと話す。彼女はお馴染みのJETで、山口県の大島の学校で英語を教えていた という。環境教育に興味をもっているという。ララ・アビスに滞在しているボランティアは5名だが、生活費が高いのであまり長く滞在するものはいないとい う。
8時すぎにテリーがやってきて、採集にいくぞっ、と声をかけてくれる。蟻を採集す る実験室にはマークがいて、前日に採集してきた食物の嗜好性をチェックするために蟻を入れたシャーレを現地人に見せて説明していた。テリーは、白蟻は蟻に とって良質のタンパク質であるのであるのでとても好物であると言っていたことを思い出した。彼の話を聞いていると、蟻の生態にとても興味を覚える、日本に 帰って社会性昆虫の生態学についての入門書を読みたい気分である——しかし日本に帰るとクソ忙しくなってそんな余裕がなくなるのではないかと心配である。 マークと採集から帰って雑談したときに、私がふと人生は短いという言葉をもらしたが、そうであるやりたいことをやならいと本当に人生は終わってしまうの だ。
とにかく遠足よろしく採集への道を歩いていたらキャサリンと出会い、テリーが一緒 に行くかいと誘い、結局4人採集にでかける。マークが2人もオブザーバーがいてとても楽しかったと、テリーにやっかみの冗談をあとで言っていたが、まった く楽しい採集だった。テリーがはじめてのキャサリンに採集のプロセスと考え方を説明するので、私もためになった。
ラボに帰ったときはもう10時半を過ぎていた。シャワーをあびる。洗濯機も乾燥機 もあるしまさにここは研究者にとって天国である——もっとも利用料金が高いので、ちゃんとグラントととってこないと厳しいわな。昼飯を食ったあとは、洗濯 以外はワープロをたたいていたか、論文を読んでいたのだろう。しかし、貧困な語学力のために、ほとんど理解力ゼロである。自分の無知を呪う。4時にルース に電話してインタビューをとりにゆく。彼女はツーリズム関係の知識が豊富で、また現在のセクションの構成について正確に解説してくれるのでたいへん助か る。結局5人の職員にエコ・ツーリズムのことを聞いたが、全員この用語については不信感を抱いていたが、彼女がもっとも批判的であった。 Educacion de Historia Naturalという言葉に言い替えているのは、たんに用語法のみならず、自然保護教育に関して独自の哲学(野心?)があるからなのだろう。
夕食を食べながら、ニューヨーク州立大学の院生——そうあのおとなしい青年であ る、蝿の研究?をしているのか——にサラピキの人びとにインタビューをとったか?と聞かれたのでびくっとした。というのは最初に彼と話したときそんな調査 の予定を話したからだ。当然かもしれないが、私の研究の当初の予定は、もちろんそれすらもバークレーに着いてから少しづつ思い付いたものだが、熱帯生物学 研究者の文化生産としての研究にあったわけだが、この1週間で集まった情報は、現地の職員の自然保護やエコ・ツーリズムに関する考え方という、きわめて私 の初期の路線の延長上にあることである。もちろんインタビューは、スペイン語でかつ昔?とった杵柄で質問や話題のテーマには事欠かないけれど。何のために こんなところにきたのか、分からないね、まったく。
生態学者の仕事に関しては、テリーのコミー(冷戦期の米国の共産主義者の蔑称と同
じ発音なので笑ってしまうが)プロジェクトが観察することができる一番親しんでいる研究だが、仕事の内容はきわめてルーティン化されていて、また研究の計
画立案はテリーの独断場でフィールディンたちはマークを除けば完全に兵隊だからね。英語の壁——せめて彼らの食堂での会話についていければ、それなりの展
開も期待できるのだが——と、蟻の生態学に関する知識がゼロなので、文化生産どころが研究内容そのものが絶望の闇の中である。自然科学の知識の乏しい人間
が、格好良さに引かれて——P・ラビノーについて考えているのだ——模倣してみても、滑稽で笑われるだけかもしれない。まったく学問の世界は厳しいね。
帰ったら生態学をもう一度やり直して勉強しなければならない。田川先生も柿沼先生も、岩本先生も、森クンもいるし、日本での師匠兼インフォーマントには事
欠かぬからね。
3月1日(土)
6時10分起床。朝食のときに日系のキャスと話す。今日ララアビスに戻るらしい。 ララアビスではまったくサラリーをもらっていないという。その代わり寝床と食事代はでるらしい。彼女いわくあそこは食事がおいしいからね、全くそのとお り。あと2カ月ほど働いて、コスタリカをまわって帰るらしいが、詳しいことは決めていないという。
私は午前中はワープロをたたき、退屈な昼飯をたべ、午後はワープロとDeath without weepingを読む。ルースは忙しくインタビューに応じてくれなかった。午後5時前になってこれではいけないと、気分を一新して2次林のSTRの3キロ を往復するちょうど1時間10分、最後はハウラーモンキーも見れて、多少は気分が紛れた。
夕食は気分をかえて、フライブルク大学のドイツ人夫妻(旦那さんが昆虫生態学者) と飯をたべていたら彼の元弟子で、別の大学の博士課程の若い男トムがコスタリカ人女性マリアときて席についた。マリアはかつてここで夜の蝶々(スペイン語 では蛾もmariposaというのだな、ちなみにmariposearというのはふらふらと気分を変えるという動詞らしい、誰かみたいだな)について2年 間調べていたので、私がここのmicro-sociedadを調べているといったら、トムと一緒に大変興味深いといってくれた。そのとき私が彼女に説明し たように、この「社会」は、ローカルな社会でもインターナショナルな社会でもない独特の社会だからね。
彼女は現在グアナカステのサンタ・ロサ国立公園なかに住んでいるらしい。仕事は忘 れたが生物多様性関係の仕事らしいが、インビオにはJICAで働いているHiroshi Kidonoという大変amableな日本人を知っているというではないか! これでインビオに行かない手はない。
彼女によるとダニエル・ジャンセンはあすコスタリカに来るそうだ。グレーバンが茶
化していたが日本人はビッグネームに弱いからね。すぐに感動?してしまう。
3月2日(日)
6時15分起床。昨日のドイツ人の教授夫妻と食べた(ような気がする)。トムとマ リアもいた。午前中はナンシーの本を読む1章読むのに2時間かかっているのだから遅いわけよ。昨夜もそのように感じたが彼女の記述のなかで人物描写や登場 人物の意見の陳述の部分はジャーナリスティックなような気がする、そこにひじょうにフォーマリスティックなブラジル人のエトスの分析が入るので、そのアン バランスが強烈である。コミー部隊は、今日も蟻を採集しにいった。私はマークを茶化して、Oh, are you do collecting garbage? マークは、ぐずぐずしている若手の共同研究者——ほとんど研究助手だね——の尻をたたいていた。
昼、ドイツ人夫妻でサンホセから来た研究者と話す。昼食時に雨が降り始めて、勢い が強くなったので、みんな食堂から立ち去ろうとせず、そこらにハンギング・アラウンドしている。私はマークたちが議論をしている中に入った。彼らは都市と 田舎の生活について議論していた、マークが私にwe are talking about Tokyonization of American Cities..などと解説してくれた。雨が止み、みんなはいそいそと席を立ち始めた。マークはコンピュータをたたく真似をして、私がさっきまでみんなが 議論していた内容を「データ」として入力するんだろっ、と私を茶化した。午前中一心不乱にキーボードを叩いていたのをちらっと見ていたからだ。しかし、彼 は親切にも、午後に数百の蟻からなるコロニーをまるごと採集し、女王、兵隊、働き蟻の3種の変異型を実体顕微鏡で見せてくれた。これらはみんな女王から生 まれた同一の遺伝型を有するのだから驚きだ。
マークにThe Journey to the ants を読んだか?と聞いたら、とても面白いぞっ、と言っていた。ウィルソンの話題が出たので、社会生物学論争の話をすると、彼は論争の名前は聞いたことがある が、内容はしらないというので、小生の浅薄な知識を披露する。帰ったらS・J・グールドの本『人間の測りまちがい』?も読まなければならないな。そうだ、 蟻の社会生活はウィルソンの社会生物学に記載があるので、それも参考になるね。マークによるとウィルソンは10年以上前にここで調査をしていたのだそう だ。人類学と異なって自然科学にはフィールドのVirginityはあまり重要ではないのだ。リーフカッターは夜は寝ないのか?と聞いたら彼も知らないと いっていた。Sura Creekにかかる橋にいまリーフカッターの道ができたが夜も葉っぱを運んでいるぜと言っておいた。
今日は4時からたっぷり1時間40分、熱帯雨林の中の散歩を楽しんだ。LOCを ずっと南下するがいっこうにSSOに出会わない。あるいは見過ごしたのか?結局LOCを引き返し、CENを通って帰ってきた。
夕食はドイツ人教授とたべる。トムがやってきたら、教授は私にインタビューをとら れていると解説し、私の意図を完全に読まれてしまった。まったく異端審問調で彼も多少は辟易していたのだろうか。
夜、洗濯したものを乾燥機にかけにステーションにもどっての帰り、鳥類学者のジム とおとなしい大学院生が道端を懐中電灯で照らしてじっとしているではないか。なにかなと覗きこむと、ワーーーオッ!なんとボアというのか綺麗な◆の模様の ついた大きな蛇がいるではないか。しばしぬらりとした表面を懐中電灯で照らす。ジムがラボに帰っていくのでついてゆきながら質問したら、私が朝方みた緑の 蛇は、Parrot snakeというやつで、いつもは樹上で生活している奴らしい。
着替えた着古しのジーンズがぼろぼろになっているのに気が付いた。もう古かつたか
らね。パソコン入力は終盤にさしかかり、Wallaceの読書ノートの入力にとりかかる。しかし、何事も遅いのがたまに傷。
3月3日(月)
雛祭り。6時15分起床、朝食。エドと彼の専門の土壌学について根堀り聞く。アメ リカの研究者は言葉の壁があるのか、それとも同質性を求めてなのか、仲間同士で食事をとりたがる。ヨーロッパ人は多少ともマージナルで、その外側に位置す る。一方スペイン語圏はアメリカ人とは別の極性をもつので、食堂のテーブルでは完全に住み分けをする。私はというと、言語の壁もあり、一緒に雑談すると時 間の無駄という気持ちもあり、なかなかメンバーとしてとけ込めない気分だ。彼らはその点は意識していない、来る者は拒まずというふうだ。その点で、ファン は今度アメリカに留学するということもあって積極的にアメリカ人たちのグループに加わろうとしていることがわかる。
ともかく、午前中は本を読んでいたり、早朝声がしていたが橋のところにずっといた ハウラーモンキーの写真をとったりする。そこは今日一日はフォトジェニックな場所になっていた。インビオにいるJICAの専門家「きどの」(彼は生涯専門 家というやつなのだろうか)さんに電話する。来週の月曜の午前中にアポイントメントをとる。私がコスタリカのエコ・ツーリズムやサステイナブルDに関して 調査してインビオのことをしらべたいのだが日本には一次資料がなくて——と言うと、彼は「ここでもありませんよ・・サステイナブルD、ああ流行の言葉です が、コスタリカは対外的な宣伝が上手でね、たいしたものはありませんよ、云々」と割にクールな対応だった。まあとにかく時間をとってくれるので有り難い。
昼はアメリカの大学生とその先生(生物学)の一行と食べる。彼らは午後ミゲルの caminataに参加する学生たちだった。大いに期待する。しかし、彼らは約束の時間前になっても一向にラボの前を通過しない。私は、これはきっと自分 自身が遅れたのではないかと心配し、あわてて外出する。途中でフィールドノートを忘れたことに気づくわ、なんか幸先の悪い予感がする。つくと誰もいない。 実験サイトの中を歩いて見回すが誰もいない。道をあるいていたおっさんにミゲルをみなかった?と聞くと、もうすぐ来るんじゃないという返事。結局彼らは1 時20分頃にきたのだ。さらに驚いたことにミゲルはサイトの中に案内し、20分ほど解説をして質疑応答をして、それで終わり。ちょっと手抜きじゃないの? という気がした。学生たちは帰っていった(夜にはもういなくなったので次の場所に移動したのだろう)。ミゲルはもっと中をみたいか?と聞く。当たり前じゃ ない!彼にさらに20分ほど中を歩きながら解説してもらう。いずれにせよ、2時過ぎには終わりラボに帰ってくる。ナンシーの本を読む。
4時過ぎあまりにも天気がいいので散歩することにした。ボブが食堂で言っていた が、本当にいい天気だったのだが、オランダ人のエドと同様、雨の林床で働くのはつらいから、そして私には罪悪感?もあり、CCC,SSO,LOC,CES のルートで回遊する(所要時間は1時間45分だな)。今日もまたWhite-Faceをみれたので、散歩には満足する。彼らは私が来る前まで林床にいてた ようだ。私が来るのを見て、一匹がグーホ、グーホと叫びながら——声は大きくない——樹上に上がっていった。それだけではない。樹上から大きな枯れ木を何 度も落としてくるではないか。グループの防衛行動としてはこれほど素晴らしいものはないではないか。
夕食。ルイスは科学者をコミュニティを研究している男性とメールを交換したことが
あるといっており、また科学者のコミュニティに関しては結構造詣が深いようだ。彼には質問を用意してフォーマルインタビューをおこなう必要がある。食事を
してラボにいく。なぜか、今夜はいろいろな人がたくさんて賑やかではないか?——夜には電話をしにくる人もいるからかもしれない。
3月4日(火)
昨夜は11時頃に新しい同居人がやってきた。橋で荷物を荷車で運んでいた御仁であ る。男性の2人組である。6時起床。朝食、ファンを捕まえて根掘り葉堀聞く、ファンは最後には嫌になったのだろうか——彼はもともとむっつりタイプなので 感情が掴みにくい。彼の現在のクモの研究は、初めて取り組んだもので、修士論文にするネタではないようだ。テクマンの大学のブランチの研究室で先生も十数 名しかいない小さなものらしい。気候はモンスーン気候で、話を聞けば日本とそっくりではないか——もちろん季節は南半球で逆だが。さて、彼の今回の滞在は OTSが全部丸抱え、といっても宿泊と飯をタダにして、研究室の利用可能にしたものである。だから旅費などは全部自弁らしい。だから今週の土曜日の帰りは サンホセからテイカブスでパナマまで陸路で、そこからボリビア航空——会社名を聞くだけで安そうだが——でアルゼンチンまで飛ぶらしい。そしてブエノス・ アイレスからテクマンまで千二百キロをバスで帰るらしい。まあ驚異的な旅ではある。彼曰く日本とは地球のはてどうしだからね。
午前中はケッツアルとマカウのノートを入力する。なかなか終わらない。フィールド にいるのに調査もせずワープロを叩くのはアホという罪悪感と、もしこのデータを入力しなかったらこれらのノートはほとんど使われずに死蔵されるのではない かという強迫感と、日本では今やっていることだけに集中してやることは不可能なので、ある意味で畑を耕すことは必要であるという義務感の三位一体の神学 ——まさにフィールド神学!——で午前中を過ごす。おまけに食事の時の長期滞在者が同じ仲間と飯を食べたがる強迫感のプレッシャー——マークだけがそこか ら自由であるように思える——で、午前中がいつもブルーである。しかし今日は——そして今後はこのような病識を明確に理解したのでもう今後は苛まれること はないだろうが、テリーがガールフレンドを連れてラ・セルバに帰ってきたのと、ロンというバークレーの魚類生態学者と知り合い楽しく過ごすことができた。
午後はルイスについていって彼のフィールド調査に同行する。この調査研究の内容に ついては同日のフィールドノートを参照のこと。蟻の生態学は、私にとって理解可能な調査だったし、非常に親しみやすかったが、彼のハイテク?調査は彼の説 明をはたしてちゃんと理解しているかどうか不安である。さて、ルイスがハワイで馴染んだジョークを教えてくれたので記しておこう。
高級客船にロシア人、キューバ人、ハワイ人、日本人が乗っていたが、船が座礁し て、救命ボートに乗ることになった。ロシア人は抱えていたウオッカの箱を海に投げ捨てた。まわりの人たちはたずねる、なぜ高級なウオッカを捨てる?、ロシ ア人曰く国に帰ればウォッカが掃いて捨てるほどあるからね。キューバ人はもっていた葉巻を海に捨てる、なぜ?キューバに帰ればよい葉巻は大量にあるから ね。さてハワイ人は横にいた日本人を海に投げ込んだ。まわりの人はたずねる。どうして?ハワイ人曰く本国にもどればたくさん日本人がいるからね。——この ジョークはルイスのニュアンスによると、日本人の人口のことを言っているよりも、ハワイに日本人が非常にたくさん居ることを指しているらしい。ルイス(英 語風の呼称はルーである)はいう。自分は日本の文化についてはほとんど何も知らないが、ハワイには寿司バーをはじめ日本のものがなんでもある。また別の表 現ではハワイは東洋と西洋の文化の接点みたいなところだという——なにかしら東西センターの宣伝文句みたいだが。日本は東洋で一番発展したところだろ?し かし我々は日本についてはあまり知ることはないという。
夕食後はルイスが大量の調査機材を抱えてコスタリカに入国したとき、税関の連中に微に入り犀?を穿った「検査」を受けた話で盛り上がる。しかし、アメリ カ的ジョークはなんでも喜劇にしてしまうので疲れるね。笑いに屈折がないので浅く感じる。まあとにかく退屈なラ・セルバ暮らしを演出するのはジョークしか ないのかも。
マークは帰りの道すがら、観光客——あるいは一時の滞在者——が懐中電灯をつかわ
ないことを嘆く。なぜなら観光客の中には夜道をあるいていて不注意にも蛇に噛まれる者がいるからだという。彼に宿泊施設のことについて色々聞き、教えてく
れた後、懐中電灯でさまざまなレジデントの部屋を照らし、最後にラボの私のいる部屋をさし、お前はここに住んでいる(ようなものだ)と冗談をとばす。ま
あ、それもあと数日で終わりである。長いような短いような。
3月5日(水)
6時起床。同日の植物学者のおじさんはもう出たあとだった。朝食はファンたちとた べたあとロンとヨーロッパの大学からなる熱帯生物学協会(ヨーロッパ版OTSのようなもの)から派遣された女性と話をする。またしても英語がよくわからな い。通常の会話にはついていけない。
今日は朝からルーのお供で、その行状については本日のフィールドノートを参照のこ と。作業の全部は午前11時に終わる。
昼飯は、京都大学の生態学センターから来た井上(民二)先生とはなす。彼は吉田集(而)ちゃんと 仲がよく地域研究センターの共同研究会を組織している人だった。会話の内容はノートに記した。食後はずっとワープロを打つ。午後3時すぎにエドがおこなっ ている7メートルの深さのテストピットのことをボビーたちが知らせてくれたので、CES750にある場所に写真をとりに出かける。後で彼に聞いたらプレコ ロンビアン期の木炭のあとが出てきたという。私が彼に、それはshifting agricultureの跡か?と聞くと、たぶんそうだという。ゴメス−ポンパの説によると地球上の熱帯雨林はどこでも人間の手の入ったところらしいか ら、木炭がここで出土してもまったく不思議はない。
帰ってきたらルースが「ビジター」を案内していたので、捕まえて半時間ほどいいか
とお願いするとOKがとれた。短い間だったが科学観光や研究者の行動についての興味深い話を聞くことができた。
夕方研究者たちがサッカーをやっていたが人の集まりはいまひとつだった。
夕食——興味深いデータとその現地的解釈(同日のフィールドノート参照)のあと
で、実証的に観察すると期待が裏切られることがままあるが・・。食卓の形成を経時的に追っていくとどうやら遷移=サクセッションがみられるみたいだ。つま
り古株によるテーブルが、新しい人たちをコアとする別種のテーブルによって駆逐されてゆくのである。まあそんなことはどうでもいいが(anyway)井上
さんもルーもパナマでの会議に出席するから、ルーを井上先生に紹介する。井上さんはBCIに1年いたし、おまけにハワイ大学のボタニーの教室には知り合い
がいるので、ルーはよろこんでいた。ルーの話だと、井上さんのD論はルーが調査している樹木なので、とても良い機会になったという。ベスというBCIから
きた女性をルーが紹介する。私の現在の研究課題をルーが説明すると「あなたはBCIに来ないとだめね」という。つまりルーと同様に、あそこは恰好の研究場
所だという。また米国人の次にはラテンアメリカ人を除くとドイツ人——それもハイテクで武装した——が多いという。というわけで英語のお勉強を、というか
このドミナントな言語をもっと身近なものにしないと、私の人類学の未来も明るくないと痛感する。
3月6日(木)
6時半起床。朝食、誰と食べたかな?。井上さんとロンである。井上さんはキャノ ピーを観察するゴンドラを見にゆくという。さてロンはきわめて議論好きな研究者で、かつさまざまな仮説をチェックするタイプである。だから彼と話しをする ことは非常に興味深い。ただ、私は彼と議論するときに、どちらかというと自説を主張し弁教しがちで、議論がオープンにならない。その点、彼は議論において 新たな疑問を提示し、それへの応答について吟味するという典型的な弁証法タイプの議論をするので、きわめて生産的である。彼から学ぶべきことは大きい。
午前中は結局この議論を再現することに費やされた。昼飯は、ジョージア大学で土壌 昆虫をやっている男性で、その日の晩のセミナーの発表者になっていた人だった。この彼との話は、科学論や科学史——とくに生態学——の話で、自分の学問の ベースになることを、そして我々には余計あるいは余業と考えがちなことをしっかりと身につけていることにきわめて感心する。ジョージアの彼は歴史的相対化 ——バークレーのロンは歴史的相対化と同時にシンダーマンのような文化的社会的相対化——をおこなっているので、意外に自分の学問にクールな見方ももって いる。これが井上さんが言うところの彼らの「学問に対する集中力」と関係しているのではないかと思う。学問に集中できるのは、その人の世界が狭量だからで はなくて、その人が相対的な見方でもって自分の学問を中和化できるからではないだろうか。
午後はバークレーでとったノートの入力をおこない夕方にはすべて完了する。思い返 してみれば、本当にナイーブな内容で赤面ものである。しかし、この資料から出発するほかはない。
ルーは昨夜のフィエスタで1時ごろまで歓談していたようで、9時半まで寝ていた。 フィエスタをしていた連中は、そのために朝食を逃し、午前中腹減ったといろいろなところで叫んでいた。
夜はガーリーのテーブルについたのが運のつきで、隣はあいその悪いハワイ大学の教 授で、この人は現地人指向があると同時にアカデミックなところにもグッと食い込むタイプの人みたいだ。私が人類学をやっているというと「知ってるよ」と一 言である。ガーリー(?/TBAのロージーとタミジ・イノウエ教授をアテンドしているOTSの現地の所長)は、OTSのサポーターの教授夫妻とおぼしき人 と、その養子(10歳の女の子で70歳ぐらいの彼らにマミーと言っているわけだから)の席で、それなりに楽しいのだが、基本的にヨイショのサービストーク なので死んでしまう。後からロンが来て救われたけれど、彼はいきなり「お前は科学者のいうことを信じるか?」ときた。井上さんにコスタリカのエコ・ツーリ ズムの拙文をわたす。彼は「飛行機のなかで読みます」有り難いことである。
この日は退屈なまま終わるかと思っていたら、アカデミックなトークが7時半からビ ジターセンターであった。最初でメインのスピーカーはジョージア大学のPD?アシスタントP?で土壌生態学をやっている、昼間話した男性である。内容は熱 帯と温帯の枯葉の分解と土壌昆虫の多様性についての研究だった。翌日井上さんがコメントしていたのだが、「昨日の発表なんかは、べつに仮説を組み立ててや るほどのものでもなく、常識でわかるようなものだが、Ph.Dを取得していくなかで、ああいった言い方をやらないとしょうがなくなるんですよ」と。そう、 一言でいうと内容は非常にシンプルだったが、スライドのなかでちゃんと仮説を記した文言を提示して、おまけに謝辞などのタイトルを最後に入れているのが印 象的だった——まるで自然科学の発表のハリウッド映画的手法だ。次にはTBAの所長のロージー(Dr.Rosie Trevelyan)のアフリカでの実習の様子を紹介したスライドショー、彼女はなぜかカモシカや昆虫の交接のスライドを間に挟んでいるところがへんに面 白かった。眠気ざましなのか、英国人独特のユーモアなのだろうか?、この実習は1カ月で実習参加日は五百ポンドだったらしい(ただし、航空運賃は除く)、 彼女によると"very cheap"でTBAがサポートしたので、実際は九百ポンドぐらいかかったという。
そして最後はDr.イノウエの発表で、文部省がバックアップか主催しているアジア の生態学研究のネットワークの紹介で、ほとんど日本のハイテク技術の実験場——地上七十メートルの樹冠の調査道は圧巻!——みたいなもので一同皆感激とい うやつである。私の研究上の関心からは、サラワクでの調査研究がどのようなものであるかについて非常に興味が湧くし、実習等に参加して研究してみたい。他 方、彼は講演の最後で非常に興味深い次のようなことを言っていた。「現在ではアジアの各国が、生態学に関するそれぞれの保護地や研究機関を持ちはじめてき た。しかし、それだけだと各国が自国指向の発想をしてお互いに排除してしまい勝ちである。そこでサラワクでおこなっているような次世代を担う若い研究者が 教育を通して交流する場が確立すれば、各国の生態学の調査研究の交流はますます発展するだろう」という主張である。
結局全部の講演が終わったのは9時半であった。10時過ぎまでルーとの対話を忘れ
ないためにワープロをたたく。シャワーをあびで11時就寝。
3月7日(金)
ラ・セルバ最後の夜。
6時起床。井上さんと朝食。最後にまたまたいろいろ興味深い話をうかがう。食後に うかがった内容を整理していたが、日本語はよく憶えているし、論理的にもニュアンスもフォローしているし、再現している部分が類推で書いているのか、確固 とした自信のもとで書いているのかちゃんと自己検証できる。スペイン語はニュアンスは別にすればある程度検証できる。あーしかし英語では絶望的だな。とく にミクロ社会学的な分析に耐えるようなデータ収集にはあと何年も彼らと一緒にいなければ不可能だろう。
では、日本をやればいいのか?問題は選択肢が日本しかないという発想が、大きな現 象と取り組もうとする根性そのものを腐らせてしまうことだ。しかし、道は厳しい、一ヶ月前のバークレーの私といったいどれくらいの進歩があったのだ。マリ ノフスキーの二重の翻訳など夢また夢、一重の翻訳でも死んでるのに・・
あれやこれやで11時ぐらいまでかかる。文字数だけは十分なフィールドノートだ、 but 中身のない。
昼食!これはビジターと食べたね。彼はボストンで企業コンサルをやっている人だっ た。もとバルセロナのビジネススクールの先生(Gilbert Rodgers)。彼は私の仕事に興味をもって、論文の英訳を読みたいという。やっぱり企業家は興味の持つんだな、私のテーマは。ということは学者には興 味が湧かないわけだ。
サイエンティストの実証研究と歴史研究の違いは、クソにまみれて地を這う熱帯生物
学者とコンピュータでシュミレーションする数理生態学者ほどの違いがあるね。どちらも前者は努力のわりには実入りが少ないとね。
すっかりご無沙汰したDeath without
weepingを読み始める。ここでルーが登場して、新しい木にプローブを設置するというのでついてゆく。しかし、これが川の横の常緑落葉樹、みなフィー
クス(イチジク科?)の仲間で、おまけにヤブで蚊が強烈に多いところで閉口した。
ステーションに帰ってシャワーを浴びて洗濯をして、一回の水槽をみていたら、それ はロンの持ち込んだ機材だった。彼とそのまま話をして、食後の七時半過ぎまで彼と話していた。テーマは彼の生活から——彼はテニュアーがなくいま奥さんに 喰わせてもらっているらしい——、ラテンアメリカの魚の事情——今回の調査は自弁でこれが終わればまた来年までお預けらしい、チップを埋め込まれたアロア ナ、北米自由市場下におけるカナダ経済まで——彼はカナダ人で、NAFTAには批判的だが、これによってバークレーで教えることができてグリーンカードを 取得することができるという。
その後は、ラボにいたマークを捕まえて、1時間ほど話込む。というわけでラ・セル
バの最後の夜もまたジャンキーなデータとも心情告白ともいえることを打ち込んで終わる。adios!
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