商品としての民族・文化・定期市
Commercializing Ethnic Culture and International Labor Market: A Guatemalan Highland Case.
池田光穂
出典:『市場史研究』第17号、pp.93-99、1997年
二〇世紀後半の四〇年あまりのうちに国際観光客は二千五百万人(一九五〇)から五億人(一九九 三) へと二〇倍以上の成長を遂げた。国際観光の量的成長は、結果的に商品の多様化すなわち観光の目的地・対象・スタイルの多様化を促進した。生態観光 (ecotourism)や民族観光(ethnic tourism)の登場は、その一例である。民族観光の魅力の最たるものはエキゾチックな衣装を纏った先住民族が催す定期市にある。定期市は、現地にすむ 人々にとって重要な商業活動であるが、観光客にとっては異文化を体験する恰好の機会であり、土産品購入を通して先住民族と観光客は社会的な交渉の場を形成 する。
私は、平成八年度文部省科学研究費補助金の交付を受けた「グアテマラ観光地における文化創造と 階 級・人種・性差意識の民族誌」(研究代表者:太田好信九州大学助教授:当時・現、教授)の研究分担者として、一九九六年の九月から一〇月にかけておよそ四 〇日間グアテマラのクチュマタン高地のマム語をはなすマヤ系インディヘナ(先住民族)の町に滞在した。そして毎週開かれる定期市に参与観察する機会を得 た。本稿はこの町における民族観光の発展とその現状に関して、おもに、経済の変化、インディヘナと観光客の関係、そして民族観光と汎先住民文化運動、の三 点について紹介し、最後に中央アメリカ地峡にあるこの先住民社会が市場史研究のなかでどのような位置を占め得るのかについて提言する。
グアテマラ共和国ウエウエテナンゴ県のクチュマタン高地西側の谷間にある標高千メートルから三 千五百メートルに位置している人口約二万人の郡(municipio)は、ここに住むマヤ系インディヘナの生活を見にくる外国人観光客にとってはよく知ら れている。
面積およそ三百平方メートル、高度差が二千五百メートルもあるこの地域にやってくる観光客は、 正確 には人口約三千人の役場がある町だけにやってくる。現在この町には四つの宿屋と後に触れるNGOの語学学校(PLEM)があるが、推定で年間四千人以上の 宿泊観光客が滞在する。これには毎週定期市が開かれる際にやってくる日帰り観光客やこの町の守護聖人の祭りに訪れる人数が含まれていないので、総数にすれ ばさらに多くの外国人観光客が訪れていると推測される。
この町がなぜ、そしてどのように民族観光の目的地として発達してきたか、という疑問に答えるに は、 この町の政治経済的背景を押さえておく必要がある。この町は、少なくとも一九四五年の時点ですでに太平洋岸のプランテーションへの出稼ぎ労働が始まってお り、それ以降外部経済との深い繋がりが形成されていった。出稼ぎ労働は、プランテーションの所有者または代理人と密接な関係をもつ土地出身のブローカーに よって仲介される。プランテーションへの移動は五〇年代に主要幹線道路からの支線(ともに現在まで未舗装)の開通以来格段に便利になり、その規模も大幅に 増加した。当時の事情を知るある男性は、ブローカーがやってくるのは守護聖人の祭り直前の何かと金銭が必要になる時期であり、彼らと労働契約を結ぶと同時 に給料の先払いを受け、祭りが終わってから、プランテーション側が回したトラックにのって渋々出稼ぎに出かけたという。出稼ぎ労働には六〇年代の中頃から は隣県のコーヒー農園への維持管理やコーヒー摘みなども加わった。さらに七〇年代に入ると、同じ町内の低地でもコーヒー栽培が始まるようになり、賃労働の オプションは拡がり、プランテーションだけに特化する傾向は減少した。
一九八一年の初頭「貧民ゲリラ軍」(EGP)がやってきて、同じ年の夏まで町を占拠した。その 後、 ゲリラ掃討のためにグアテマラ国軍が、八二年三月二十三日のリオス・モント将軍のクーデタの直後まで占拠していた。ゲリラもグアテマラ国軍の兵士たちも、 査問、拷問、人民裁判や公開処刑、虐殺などの一連のテロリズムを日常的な統治手段としたため、多数(推計では約二百名)が殺害され、多くの人々が周辺の山 林に潜んだりプランテーションへと移住した。そのため町は一時ゴーストタウンと化して、あらゆる社会経済活動が停止した。
この町の終末論的な危機から徐々に人々が社会的活動を再開する過程のなかで、八〇年代中頃以降 の観光客の増大、九〇年代以降のモハード(mojado, 英語wet back)と呼ばれるアメリカ合衆国への移民労働の増大などで経済状況は今日では活況を示すようになってきた。
米国にいる移民労働者達が送金する額は現地の彼らの生活水準によってまちまちだが、一回におよ そ数 百ドルが送金される。この額はグアテマラ一人あたりの年間所得がおよそ三千米ドルであることを想像すればその経済影響力の大きさがわかる。九〇年以降、移 民労働者数(人口の七・五%とみる観測もある)は急増しているので彼らが出身家族に送金するドルマネーの総額はかなりなものになる。実は私は九年前にこの 町に二カ月ほど滞在したのだが、今回の再訪でもっとも印象的だったのは、町の家の数そのものが増えたのみならず、ブロック造りの二階建て家が多く目につい たことであった。人々はブロック造りの家を指して「あの家の息子は今アメリカで働いている」と異口同音に説明した。
流入したドルマネーは家を新築することだけではなく、商売を始める、トラックを買うなどのさま ざま な投資行為を引き起こした。土地の値段も上昇したが、土地転がしのような事態は起こらなかった。ようやく銀行の支所を町に設置すべく銀行の職員が派遣され て調査が行われ始めたばかりであり、貯蓄や投資という考え方は必ずしも多くの人々に十分に馴染んでいなかったためであろう。
定期市は地方でできた農生産物を流通させるという伝統的な機能から、この一〇年間で中央からの 工業 生産物を流通させるという機能のほうに大幅に比重が変化したと思われる。定期市は、すでにプランテーションへの出稼ぎの時代においても儲けた金が現地に持 ち込まれ現地経済の活況に貢献した。しかし今日ではそれが移民労働者たちの送金によっており、その規模はかつてのプランテーション労働によるものを完全に 凌駕しており、その影響力は以前の比ではない。
また織物を中心とする民芸品が定期市において取引されるようになり、民芸品産業ともいえる部門 が成 長した。それにともない民芸品の性格が、自分たちが身につけることを通して「アイデンティティを表象する事物」と、外部にむけて生産される「商品」という 二つに分解することをますます促進させた。現在では、土地の民芸品である編み物の袋の半完成品が出荷され、この町の圏外で加工をうけた民芸品がグアテマラ 国内はおろか北米やヨーロッパにまで輸出されるようになった。
三軒の宿屋の一九九三年から九六年九月までの宿帳から抽出した一五八九名の外国人宿泊客のう ち、旅 行者の国別の内訳の上位六カ国は次のとおりである。アメリカ合衆国(三一四人、二〇%)、オランダ(一七八人、 一一%)、フランス(一五二人、一〇%)、ドイツとスペイン(ともに一三六人、九%)、カナダ(九五人、六%)[日本は一二番目二九人]となり、欧米諸国 からの観光客がほとんどを占める。二つの宿屋の宿泊者の平均滞在日数は、それぞれ一・二四日と一・二七日で、ほとんどが一泊二日の滞在者ということにな る。この町にやってくる観光客は県庁所在地からバスで二時間半から三時間の道のりをやってきて、翌日にはその同じ道のりを帰る者がほとんどである。バスの 発着点である県庁所在地は三千メートルのクチュマタン高原の反対側にあり多くの観光客が苦労してやってきて、すぐに帰る様子は長期滞在した私から見ると落 ち着きがないように思える。しかし、グアテマラ全土をバス旅行すれば分かることだが、若者を中心としたグアテマラ高地の民族観光客は、実践的なハンドブッ クを携帯して各地のインディヘナ共同体を一日かそこらで訪問しながら一週間から一カ月をかけて回遊しながら移動することが一般的なのである。従ってこの町 もそのような民族観光地の一つであると言える。
観光客はガイドブックを読んで「今でも古代マヤのカレンダーを使っている」という文言に惹かれ て やってくる。しかし、そのカレンダーがどのように使われているかを見るものはいない。観光客が見ることができないのは当然で、実はそんなカレンダーを今で は使う人がいないからである。写真に映えるカラフルな民族衣装もこの観光地の魅力である。この町の男性用の赤地に白い線の入った長ズボンと、見事に刺繍が 織り込まれた大きなカラーのついたシャツの民族衣装は特に有名で、グアテマラ市の観光業者や旅慣れた観光客なら誰しもその町の名を特定することができる。 インディヘナが映った十種類は下らない絵はがきは人気の高いものの一つである。男性が手編みで作るショルダーバッグも目が込み丈夫で有名である。
この町の人々は外国人に対して友好的であるというステレオタイプが国際観光客の間にあり、ガイ ド ブックの情報のみらず口コミでこの観光地を薦められてやってくるものも多い。実際に町の人々の中にはそのようなステレオタイプを地でゆく「観光客に優しい インディヘナ」も数多くいる。観光客のこの町の人に対する印象は概ね良好であるが、なかには予めもっていた古代マヤ的なイメージが少ないと不平を漏らした り、他の地域で頻繁に要求される写真撮影の際のチップもあまりひつこく要求されないので逆に肩すかしを喰らったようだという観光客もある。
この町を訪れるのは一般の観光客だけではない。ゲリラおよび軍隊によるテロリズムが横行した一 九八一年から八四年の町の人達が言うところの「暴力の時代」(Epoca de Violencia)の終焉以降、治安が安定するにしたがって外国からの援助団体、ジャーナリスト、人類学者などが大挙してやって来た。この特殊な観光客 たちは、この町の人たちを普及員や情報提供者として一時的ないしは継続的に雇用した。
この町の人たちが、どのようにして観光客に対して友好的に接するようになったのかについては不 明な 点が多いが、暴力の時代が終焉して以降、共同体の復興のために欧米諸国からの援助団体が多数訪れた時期と、民族観光隆盛の時期ほぼ一致しているように思わ れる。アメリカ合衆国への移民労働者の増加も含めて、外部経済とより多く節合する過程の中でインディヘナの人たちの他者へのもてなしが洗練していったこと は当然の帰結であろう。私の滞在中にも、人々は熱心な情報提供者になってくれたと同時に、私に対して金銭や援助の無心、日本で外国人労働者として働くこと の可能性、資金の融資依頼や投機としての土地購入など、実にさまざな申し出をおこなった。
このようなことが可能になったのは、彼ら自身が経済的にすでに「開明化」しているということ以 上 に、過去十数年の観光客や外国との援助団体との交渉を通して、少しでも経済的なチャンスがあれば果敢に利益の誘導を試みるという習慣が身についてきた。別 の言い方をすればそのような新しい主体として自らを造り直してきたからではないだろうか。
インディヘナではない人たちはメスティソあるいはラディーノと呼ばれる。外部からやってくる団 体観 光客はたいていラディーノか外国人のガイドが付いている。しかし、バックパッキングをはじめこの町を訪れる多くは一人ないしは少数のいわゆる自力観光の観 光客である。この町の四つの宿屋のうち三つのオーナーはインディヘナで、メルカード(市場)にある食堂も、また協同組合の織物の店舗もほとんどがインディ ヘナによって経営されている。そのため他のグアテマラの観光地やメキシコのチアパス高原で見られるようなラディーノが経営する店舗はほとんどみられない。 その歴史的な起源は「暴力の時代」に、それまで増加傾向にあったラディーノの全員が一時期、完全に村から撤退したことに遡れる。
つまり民族観光地で多くみられるようなラディーノの中間商人がほとんどみられない。最近では土 産物 品の高級化や輸出化にともない、都市のプチブルジョアや外国人向けに、織物に皮や装飾をつけたりする二次加工が流行しているが、これに従事する仲買人や加 工業者もこの町出身のインディヘナが占めている。このためラディーノとインディヘナが搾取と被搾取をめぐって社会的に対立する構図が、めずらしくこの町で はみることができない。
他方、この数年間にメソアメリカ地域全体で、マヤ系インディヘナの間では大きな汎マヤ文化運動 が起 こってきた。この背景には国民国家におけるラディーノ主導のスペイン語教育、インディヘナ住民への抑圧、とくに約三〇年間つづいた主としてインディヘナに 対する国家暴力などに対して抵抗してゆく運動が芽生えつつあった。一九九二年のリゴベルタ・メンチュのノーベル平和賞受賞などが追い風になり、にわかに世 界の注目をあびるようになった。これは土着主義的な復古運動ではなく、あくまでもそれまで想像されたことがなかった国境を越えたマヤ系先住民族のアイデン ティティを創造する一種の文化運動である。これらの一連の運動をC・スミスにならってマヤ・ナショナリズムと呼んでおくが、あくまでも国民国家を基礎とす るナショナリズムとは一線を画するものである。
この種の一連の復興運動と深く関係し、またインディヘナの小学校教師が中心になってこの町でお こし た非営利の語学学校がPLEM(Proyecto Linguistico de Espanol/Mam)である。これは一九八九年に発足し、およそ一週間外国人をインディヘナのふつうの家に寄宿させてスペイン語とインディヘナの歴史 と伝統的文化を学ばせるプログラムである。この八年間にすでに千人ちかくの研修生を受け入れた点で、この町のもうひとつの、そして重要な民族観光の一部を 形成している。
講師は完全なバイリンガルであるインディヘナの小学校教師たちの中から選抜される。また日常生 活に は問題なくスペイン語を理解し話せるインディヘナのホストファミリーと一緒に住むことは、彼らに言わせると「早口で俗語をより多く話すラディーノよりも、 インディヘナのほうが優しく丁寧に話す点で」初学者にはより適切に学ぶことができる環境だと言う。語学の教育以外に、自らの歴史を教える際には「暴力の時 代」の生き証人を講師に呼び、実際にはほとんど使われない伝統的な薬草の講義には村の伝統的助産婦が講師として登場するという、実にもりだくださんのメ ニューをもっている。
定義【民族観光】
ウェイラーとホール(一九九二)によると、民族観光とは観光客と異なる民族的・文化的背景をも つ人 々との直接の、本物の、そして親密な接触を希求することによって動機づけられる旅行だと定義される。要するに自分たちとは異なる「民族」(エスニックな集 団)に会いたい、あるいは交流を持ちたいというエキゾチシズムという欲望に裏づけられている観光が民族観光なのである。
しかしながら、この定義は民族観光客の動機のなかにある、ある種の「理念」が強調されすぎてい るよ うに私には思われる。というのは旅行者がそのような動機をもっても、実際には異なった民族の人たちとの親密な交流があることは少ないからである。今日、先 住民族や少数民族をそのエキゾチシズムの対象にした世界中でみられる民族観光において、彼らの生活や慣習あるいは人々について触れるのは、実際にはガイド の説明、文化のモデル(model culture)を展示する博物館、そして路上や店で購入される土産物を通してだけであることは誰しも気づくはずである。それは心理的な代償であり、人間 関係の物象化というわけだ。すなわちウェイラーとホールによる民族観光の定義は成就されることが困難な理念(欲望)に裏づけられており、民族観光の旅行者 は両義的な感情に苛まれていることになる。
しかし、本当にストレスばかりが詰まった観光であれば、それが商売としてなりたつこと自体が不 思議である。どこかで観光客が満足する妥協点があるはずであり、その一連の操作が行われていると仮説をもつことは何ら不自然なことではないだろう。
この町の言語研修のプロジェクトであるPLEMのスタッフは私に次のようなことを言った。「民 族観 光のもつこんな居心地の悪さを自分たちの文化について知ってもらうことで観光客の不満を解消し、また歩留まりが悪くすぐ帰ってしまう外国人観光客を長く係 留させ地元にお金を投下させることができる」。「観光客は先住民族の家族と生活することで真の先住民文化を体験することができる」と。それらの内容にはイ ンディヘナ文化を歴史的も社会的にも固有のものであるとする本質主義的な言説がいささか気になる面もある。しかし、今まで彼らに対して外部から貼られてき た否定的かつ本質主義的なレッテル——最近にいたるまでインディオの本質的劣等性を声高に主張する一部のラディーノがいる——にくらべれば、インディヘナ の新しい肯定的な本質主義的主張は排他的な要素が少なく、また「失われつつある文化は復活することができる」という文化の操作的な側面に十分に自覚的であ る点で、より健全な視点をもつものと言えるだろう。彼らの新しい文化概念の提唱は、文化人類学の古典的な文化概念の再考を迫るものとして貴重な教訓になる だろう。
7. おわりに——地球規模化する「文化」の流通の研究にむけて
文化人類学における実証的市場研究の古典にボナハンとドルトンの編集による広闊な論文集『アフ リカ の市場』(一九六二)がある。しかしながら形式主義に対する実体主義の議論の延長上に、互酬性、再配分そして市場型の社会を類型的に配置するというその分 析は、今日ではあまりにも静態的すぎる感がある。現在の我々は八〇年代以降のグードマンの文化経済学に見られるような経済と文化の相互構築の理論や、「交 換価値」が支配するプランテーションにみられる経済的な疎外を悪魔による供犠としてみる農村社会の「使用価値」的世界観から理解しようとするタウシグ的な 解釈に親しんでいる。だがこれらの一連の解釈もまた、ポランニーが示した「社会に深く埋め込まれた経済」現象という認識の延長上に、より洗練された像を提 示しているに過ぎない。
他方「経済」を埋め込んでいると考えられる社会——ここでは「文化」と言い替え可能である—— から のアプローチの理論的展開はどうであろうか。そこには世界システムや政治経済学など、分析の空間的視座が大きく時間的尺度が永すぎるように思われ、民族誌 学というミクロな視座から節合できるような中範囲な理論が用意されてこなかったことに気づかされる。
インディヘナ社会への民族観光において見られるのは、民芸品や現地の伝統的「文化」といった民 族表 象が売買され流通しているという実態である。そのような一連の民族表象は遠隔地においてはその価値の落差を生むために、観光客にとっても生産者であるイン ディヘナにとっても魅力ある経済活動を生み出す原動力になっている。そしてより重要なことは、先住民労働者が先進開発国に移民し、そこで稼がれた貨幣が労 働者を送りだした共同体に流入していることである。「文化」の外部への流通と貨幣の内部への流入が相互に関係を持ちながら同時に生起していることに着目す ることが、中範囲理論への可能性を開く。文化人類学が市場史の研究に寄与できるとするならば、このような地球規模化する「文化」と労働力の流通の相互関係 の分析にあると私は信じたい。
クレジット:池田光穂「商品としての民族・文化・定期市:グアテマラ西部高地における民族観光」『市場史研究』第17号、pp.93-99、1997年
Commercializing Ethnic Culture and International Labor Market: A Guatemalan Highland Case.
Mitsuho IKEDA
The purpose of the pepar is to examine the economic and cultural impacts of the growth of ethnic tourism on an indian community of Cuchumatan highland in western Guatemala. In spite of the lapse in the time of destruction by revolutionary gerrillas and counterinsurgent military, the economic dependency on outer world has been growing continuously through labor migration to plantations in the Pacific cost. And now organized illegal migration to the U.S. is emerging. The economic condition has influeced the cultural pattern of people, especially the social function of the local market and the community attitude toward foreign ethnic tourists. Today there are many forms of indian nationalistic movement in all the country not only in indian communities but also in urban setting. In the realm of ethnic tourism, they are successful in oparating the alternative and favorable image of indigenous people that is able to benefit from foreign people. We, the anthropologists who study how the ethnic tourism articulates local market system, are requested to get a new perspective regarding the tactics of the people in both economic and symbolic dimensions.
*Journal of Market History, [the article is written in Japanese], No.17. pp.93-99, November 1997.[issued by The Market History Society, in Japan]
池田光穂Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099