トドス・サントスの歴史
Municiparidad de Todos
Santos Cuchumatan, una historia corte

私は、この町とこの町に住んでいる人 々のことを研究しています/ いました。すでに、この町や、それ以外 のグアテマラ共和国の各地のマヤ系先住民の人たちとの交流を通して知り得た情報にもとづいていくつかの論文を書いています。(→「商品としての民族・文化・ 定期市」「クチュマタン高原の歴史」「池田光穂『暴力の政治民族誌』」)
I am researching this town and its inhabitants. I have already written several articles based on the information I have obtained through my interactions with the indigenous Mayan people in this town and other parts of the Republic of Guatemala.
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トド ス・サントスの歴史(翻訳)
●名前 の由来
「マム 語ならびにキチェ語においてクチュマタンCuchumatanとは、強制力によって集会あるいは 会議を意味する。kuchuは、集会あるいは会議であるkuchujに由来し、matanは強制による(por la fuerza)を意味する副詞句である。これらのことから強制的に集められた山々であると考えられていたことが想定できる。メキシコの教師Marcos Becerraは、その著書『チアパス州のインディオ的地理名称』において、山岳の複数名詞を意味するクチュマタネスがこの県の2つの村落、San martin Cuchumatan とTodos Santos Cuchumatanから由来することを確認している。」
●歴史
「ク チュマタンの人びと(los Cuchumatanes)がおよそ紀元前1500年前の古典期前期(el periodo clasico temprano)以来この土地にいたことを示す考古学的証拠がある。マムの人びとの歴史に関する資料はスペインによる征服以前に遡れ、キカヴ偉大王の統 治(el reinado de Quicab el Grande, 1425-1475)の頃、キチェによる領土は山岳の中央部までおよび、たぶんトドス・サントス・クチュマタンにまで達していたのであろう。」
「ゴン サロ・デ・アルバラードによる『サクレウ征服記(el relato de la conquista de Zaculeu)』によると、およそ八千におよぶマムの兵隊についての記載があり、山岳中央部からやってきてカイビル・バラム(Caibil Balam)に率いられたサクレウの守備隊を援護したとある。この兵隊は確かに、今日ではサン・マルティン、サンティアゴ・チマルテナンゴ、サン・ファ ン・アティタンおよびトドス・サントス・クチュマタンとして知られるマムの人びと出身の兵士から構成されていた。1525年10月のサクレウ[王朝]の崩 壊後は、スペインの統治は今日ウエウエテナンゴ県で占められている地域に拡大された。」
注:
グアテマラにあるマヤ・マム王国の首都ザクレウの征服は、スペインによる征服において重要な場所であった。1525年、ゴンサロ・デ・アルバラドとその同
盟者トラスカラ族による数ヶ月にわたる激しい包囲の後、都市は飢餓により陥落し、最後の支配者カイビル・バラムはスペイン軍に降伏した。防衛側は弱体化
し、人食いの状態にあった。マムの抵抗は顕著だったが、スペイン軍の数の優位性と戦術、そしてマヤ内部の抗争が相まって、彼らは敗北し、この地域における
スペインの支配が固まった。
「征服 後、インディヘナの労働力を搾取するためにスペイン人たちはエンコミエンダ制を導入した。 1528年マルコス・ルイスはクチュマトラン(Cuchumatlanすなわちトドス・サントス)のエンコミエンダによって富を得た。1549年のトド ス・サントスのエンコメンデーロス(エンコミエンダ所有者)には、マルコス・ルイスの息子たちの名前があり、控えめな租税(un modest tributo anual)、すなわち6ファネガス(1 fanega=55.5litros)のトウモロコシ、8ダースの雌鶏そして200マンタスを受領していた。」
注:
「エンコミエンダ(スペイン語発音:[eŋkoˈmjenda]
ⓘ)は、征服した非キリスト教民族の労働を征服者に報酬として与えるスペインの労働制度であった。理論上、征服者は労働者に軍事的保護や教育などの恩恵を
与えた。エンコミエンダはキリスト教のレコンキスタ後にスペインで初めて確立され、スペインがアメリカ大陸とスペイン領東インド諸島を植民地化した際に、
より大規模に適用された。征服された民族はスペイン君主の家臣とみなされた。王室は特定の個人に対してエンコミエンダを付与した。16世紀初頭の征服時代
には、エンコミエンダはエンコメンデロと呼ばれる付与権者によって永続的に保持される、特定の先住民グループの労働力の独占とみなされていた。1542年
の新法から、エンコミエンダはエンコメンデロの死亡によって終了し、レパルティミエントに取って代わられた」
「1540 年のuna real cedulaへの儀礼状によると、ドミニコ教会の使節がレドゥクシオンつまりウエウエテナンゴ領内のインディオ住民を形成する事業にとりかかっている。ア ントニオ・デ・レメサール師の年代記によると、山岳の住民のレドゥクシオンは1549年におこなわれ、そのなかにクチュマタン住民に関する記載がある。」
「1600 年代にはトドス・サントスはクイルコの修道院(convento de Cuilco)の訪問担当区の村落として登場する。この修道院は聖メルセ(Nuestra Senora de la Merced)の教えを説く使命を奉じていた。他方サン・マルティンはハカルテナンゴの修道院の訪問担当区になっていた。」
「1625 年にはクイルコ修道院から派遣されたアイルランドのドミニコ会士トーマス・セージ (Tomas Sage)がトドス・サントスを通過した。彼の旅行年代記には、後にチアパス司教管区から放棄されることになる、サン・マルティンとそれに引き続くクチュ マタン・グランデを通過したとある。クチュマタン・グランデは、わずか二十軒程度のサン・マルティンよりも多少大きい村落であった。」
「年代 記作家フランシスコ・アントニオ・デ・フエンテス・イ・グスマンの『フロリダ記録 (Recordacion Florida)』(1690)には、クチュマタンの村落に関する記載があり、800名の住民がおり、トウモロコシ、フリホル豆、いんげん豆、そしてとく にguaquiと呼ばれるトウガラシの耕作に従事する勤勉な人びとに触れている。さらに、小家畜(羊)、糸、織物、および「豊富なリンゴ」から造られるリ ンゴ酒などの重要な産品の記録をしている。」
「[羊 の]放牧に関しては、1768年と1770年の間に大司教ペドロ・コルテス・イ・ララスが次のよ うな内容の記載をしている。トドス・サントス・クチュマタンの住民は472名を数え、97名の住むサン・マルティン・クチュマタンと併せてともにチャント ラのカンデラリアの聖母(Nuestra Sen^ora de Candelaria)の教区に属すると。ジョセフ・ドミンゴ・イダルゴが1797年に出版したトトニカパン司教管区の記載のある箇所では、筆者はトド ス・サントスの村落について述べ、クチュマタネスの谷間に位置し、極めて寒冷な気候で、その住民827は、羊を飼い、毛糸を売り、またマント (chamarra)を製造するとしている。」
「植民 地の時期にトドス・サントス・クチュマタンはトトニカパンに属する代官 (corregimiento)後には町長(alcardia)に治められていた。1825年のグアテマラ州憲政議会は国を7つの県に分割し、トドス・サ ントスをトトニカパン県に属するとした。司法行政のためにグアテマラ州を分割する際にトドス・サントス・クチュマタンは、トトニカパン県に属する代わりに ウエウエテナンゴ区域に属していた。1866年ウエウエテナンゴが県として昇格した。」
「1878 年の憲政会議の国会議員選挙の表にはトドス・サントス・クチュマタンの名前がある。」
「1935 年の12月11日の政府合意では、サン・マルティン郡(municipio)とそれに付随す る村としてのトドス・サントス・クチュマタンが廃止された。」
「1955 年のセンサスでは、郡では、上水道をもち5つの町学校(escuela urbana)と2つの村落学校(escuela rural)がある。INDEは1973年に郡に電気を引いた。」
【出 典】:FUNCEDE ed.,1996, "Municiparidad de Todos Santos Cuchumatan; Diagnostico del Municipio de Todos Santos Cuchumatan, Departamento de Huehuetenango". Ciudad de Guatemala, Guatemala: Fundacion Centroamericana de Desarrollo(FUNCEDE).pp.7-9
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