陀羅尼助からのメッセージ
寺岡伸悟さん
このページの作者の寺岡さんは、現在、奈良女子大学にいらっしゃいます
「陀羅尼助(だらにすけ)」という薬がある。古くから飲まれてきた家庭用胃腸薬である。関西の人々には、そ の「ほろ苦さ」とともに親しまれてきた。しかし、薬局以外の場でもときおり目にする陀羅尼助は、たんなる「医薬品」というイメージには収まりきらないモノ にも見える。
モノはその実用的な価値だけで所有されたり取引されるものではない。持ち主のステイタスを示すものとなった
り、何かの記念の品となったりもする。つまり様々な「意味」をもつモノとして持たれたり、売り買いされるのである。したがって、あるモノがなぜ売れるか/
買われるかは、モノの中身だけではわからない。モノが私たちの前に現われる場面、その文脈、そしてその場面でモノが表す意味。それらの検討が必要となる。
広告の分析は、あくまでその一部分でしかない。
本論は、陀羅尼助が実際に私たちの前に現われる場面を観察し、それがどのような文脈・意味をもつモノとして売られ/買われるか、を整理する試みである。
※以下一部文字化けがありますが、これはけっしてイケズではな く、たんにバグとりしていないだけです。寺岡さま、ならびに全国の卍ファンの方々におわびもうしあげます(下請け業者:池田光穂)。
クレジット:寺岡伸悟「不健康な医薬品たちへ:陀羅尼助からのメッセージ」『健康論の誘惑』文化書房博文社、2000年10月
一 陀羅尼助の由来・歴史・製造
○陀羅尼助とは
まずこの薬の紹介を兼ねて、その由来と歴史を簡単に辿ることから始めたい。
陀羅尼助は、オウバクを主成分として、ゲンノショウコやガジュツからつくられた水製エキスの飲 み薬である。下痢止め、整腸薬として用いられてきた。かつては黒い板状をしていたが、現在は小さく黒い丸薬が一般的となっている(図1)。苦い口当たりが 有名で、”だらにすけは腹よりはまず顔にきき”と川柳にも詠まれている。地域によっては「ダラスケ」とも呼ばれ親しまれてきた。
陀羅尼助という印象的な名前は、僧 侶が陀羅尼経を読誦するとき口に含み、その苦みで睡魔を防いだところからくる、という説(『広辞苑』『言海』『日本国語大辞典』)や、万病をなおす陀羅尼 経と同じくらいの効能からきた、という説がある。
○歴史
陀羅尼助は、薬業界ではルーツ的な製剤と言われるほどの歴史をもつ。陀羅尼助屋に生まれ、のちに薬学者となった銭谷武平と、製薬会社社長の銭 谷伊直による著作、『陀羅尼助-伝承から科学まで-』(銭谷&銭谷)などに依りながら、その歴史を辿ってみたい。
陀羅尼助は、7世紀の人物で修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が製造した薬とされる。製造のきっかけについては、いくつかの伝 承が残されている。二つほど紹介しておこう。
・飛鳥時代の斉明天皇の頃、藤原鎌足が腹痛を起こした際、役行者が「37日の呪法を修し百草を集めて製薬し」献じたところ、病もおさまり、こ れによって陀羅尼助と役行者の名声は一層高まった(『大和売薬史』in 【銭谷&銭谷】)。
・持統天皇の頃、疫病が大流行した際、奈良県葛城山麓の修行地(吉祥草寺境内)で、オウバクを煎じて人々に施薬・救済した事が始まり(現在で も陀羅尼という地名が残されている)。
ハ
役行者という象徴的な存在にこの薬の発生と伝播を結びつけた「伝承」であるが、いずれにせよ、この薬は修験道や仏教(そして行者や僧侶)と深い関わりを
もつ。僧侶や行者は医薬の知識に明るかったからだ。そして鎌倉・室町から江戸時代にかけて、国内では仏教の普及と並行して修験道が静かに広がっていった。
この信仰とともに、陀羅尼助も全国へと広がっていった。陀羅尼助に限定していえば、役行者の修行地として有名な大和葛城山麓の当麻寺(たいまでら)や金峯
山(きんぷせん)信仰の中心奈良県吉野郡内の地区で、陀羅尼助の製造・販売が現在も行われている(注1)。この過程を銭谷氏の記述から引用しておこう。
V明七年に描かれた『大峯峯中秘密絵巻』には、山上の行場近くに陀羅尼助小屋が数軒、軒を並べている。これがさらに増えて、弘化年間には、陀 羅尼助店十余軒とある。諸国からの参拝者は、ここで陀羅尼助を代参者の分や土産にと買い求め、こうして陀羅尼助は全国に運ばれていった。東は御嶽の「百 草」、山陰は大山の「煉熊(ちりぐま)」、四国では石槌山の「陀羅尼薬」と、陀羅尼助と全く同質であるが、別名の売薬となって普及していったのである(銭 谷1997、122)・
これらの薬は現在でもその名前のまま、製造・販売されている(図2)。
ハ
陀羅尼助は、その本家としての名を全国に広めていった。延享四年(1747)の文楽人形浄瑠璃『義経千本桜』には、陀羅助の請売人が登場する。また、宝
暦元年(1751)の文楽人形浄瑠璃『役行者大峰桜』にも、「陀羅助」が陀羅尼助売りとして口上を言いながら登場する(図3)。いずれも、この頃にはすで
に陀羅尼助を売る商人がいたことの証であるといえるだろう。
陀羅助の口上
・ュな名方 名方の陀羅助 この薬と申すは 唐土の天照皇太神 我朝のお釈迦様 若後家の腹の上にて 三日三夜 さのやりくりで こしらえ 立てたる名方・・・(『文楽浄瑠璃』日本古典文学大系九九 in 【銭谷&銭谷】)・
こうして享保から延享年間(1716-1750)には、売薬として広く売られるまでになった
ハ
のではないか、と銭谷氏は推測している。その後、江戸でも陀羅尼助はよく用いられる薬となっていった。慶応三年(1867年)に編まれたヘボンの和英辞書
には、「Daraniszke」の項目がある。n.
a kind of bitter medicineと説明されている。この薬が広く認められていたことがうかがわれる(図4)。
明治に入り、近代の世となってからも、陀羅尼助は家庭薬として一層日常生活に浸透していった。
「また具合悪いのん!おばあちゃん。」
「ふん。お腹がなあ」
「陀羅尼助もってきまひょうか?」
「結構よし、お腹痛ともちがいますよって」(有吉佐和子『香華』)・
また陀羅尼助の「故郷」大和地方は、富山県とならんで薬行商(置き薬)の盛んなところである。陀羅尼助も、大和の薬売りの行李に納まって全国 を巡り、家庭の薬箱に配られていった。
○製造と販売
近代医学の輸入とともに、明治政府は国内売薬の統制に乗り出した。これは伝統和漢薬にとって、大きな危機であったが、結局庶民生活の実状から みて伝統的な家伝秘法的売薬の製造も認めざるをえず、明治一〇年には陀羅尼助屋も多くが製造本舗を名乗れるようになった。陀羅尼助を多く製造してきた後述 の吉野郡天川村洞川(どろがわ)では、第二次世界大戦中、陀羅尼助製造組合を設立し、従来各製造業者が個別的に所有し使用していた工場を整理、集中管理に 移った。
陀羅尼助の製造にとって大きな変化は、昭和五五年の医薬品製造工場に関する厚生省規制(GMP規格)の公布であった。これによって、従来より
も製造施設の衛生面についての管理が厳しくなり、寺院などが自家で陀羅尼助を製造できなくなった。そこで、規制をクリアした医薬品工場に陀羅尼助の製造を
依頼し、自らは販売元となり、包装紙に独自のものを用いるという現在のかたちができあがったのである。
二 6つの文脈 ャ通・売買の場・
第二次世界大戦後、地域医療の改善や薬局の増加によって、家庭配置薬(置き薬)のシェアは縮小し、陀羅尼助もかつてほど一般的な薬とはいえな くなった(『奈良県薬業史』)。しかしながら、代表的なある製造元によると、生産量自体は横這いであるという(注2)。巷では、大々的なテレビコマーシャ ルとともに新薬がつぎつぎと登場する。にもかかわらず、CMの類と無縁にみえるこの薬の売れ行きが依然堅調なのはなぜであろうか。
そこで筆者は、陀羅尼助が売られたり、その広告が現れる場面を実際にできるだけ多く採集・観察し、それらを文脈別に分類することとした。事例
は、奈良県在住の筆者が99年1月までに知りえた陀羅尼助販売と広告を用いた。98年4月からは、陀羅尼助に縁があると思われる社寺・県内の主要観光地、
土産物店、薬局そして吉野地方の製造元などにも出向き、事例採集をおこなった。その結果、陀羅尼助が売り買いされる場面とその文脈を以下の6つに整理して
みた。
ハ
1、<山上詣り>の文脈
2、<寺>の文脈
3、<観光>の文脈
4、<置き薬>の文脈
5、<現代医薬品>の文脈
6、<健康ブーム>の文脈
ハ
ハ
1、<山上詣り>の文脈
○洞川へ
吉野郡天川村に洞川というところがある。大峯登山の起点として知られる集落である(図5)。
ハ
吉野から大峯山一帯は金峯山と呼ばれ、全国の山伏を統括した当山派・本山派双方が根本道場とした聖地である(図6)。洞川は大峰直下のもっとも近い集落で
あったため、修験者たちの宿泊地、また厳冬期の修行地として形成された。現在も大峯参拝登山(山上詣り)の起点、そして温泉郷として賑わいを見せている。
ハ
洞川へは県庁所在地の奈良市からも3時間以上の長い道のりである。奈良県を南下し、吉野川を渡り、さらに国道を南にたどる。すると、まだ天川村に入らな
いうちから、左右の電信柱に「陀羅尼助」という文字と、それより大きく個人名らしきものが記された看板が現れる(図7)。そして、これが洞川までの数十分
のドライブ中延々と続く。その数は数百枚をくだらない。そしていよいよ洞川到着。すると、古い宿場町のような佇まいの通りに大小「陀羅尼助」の文字があふ
れている(図8)。これは一体なんなのか。
ハ
○「陀羅尼助屋」と「講社の一員」(売り手と買い手が属するフレーム)
このような陀羅尼助売買・流通の文脈は、修験道、特に大峯信仰の世界で形成されたものである(注3)。上述の洞川明細帳にもあったように、修 験者たちとの長い交流のなかで洞川の人々は陀羅尼助の製造を行うようになっていった。江戸時代には、すでに洞川では大峯詣りの人々に宿舎を提供し、陀羅尼 助を販売してきた。さらに標高千メートルをはるかに超える山上の登山経路にも、出店の小屋を出して陀羅尼助を販売してきたのである(現在も同様)。「山峯 詣りの登山者は普通、講社をつくり、毎年泊まる宿も、また土産を買う陀羅尼助屋も決まっている。険しい山道を登ってきた参拝者は、まず陀羅尼助屋の出店で 休憩して荷物を置き、行場めぐりをするために軽装する。陀羅尼助屋も宿屋も、これらの参拝者のために、行場の案内人をかかえている。したがって、昔の小屋 は陀羅尼助屋の出店となり、休憩所であり、荷物置き場であり、また弁当を食べる場所でもあった(銭谷&銭谷、91)」。
このように、陀羅尼助屋と購買者である参拝者には恒常的なつながりがある。現在洞川集落では、13件の陀羅尼助屋があり、その多くが宿屋を兼 ねている。そしてある講社が利用する宿と陀羅尼助屋は常に同じであるという(注4)。陀羅尼助自体は、既述のように同じ製造所で製造されているので、中身 は同じである。したがって、大峯登山における宿屋・陀羅尼助屋とのパーソナルな結びつき、参詣の流れのなかで人は陀羅尼助を選ぶのである。
参拝者は近畿一円はもとより、西日本を中心に広い。彼らが大峰参詣のあかしとして陀羅尼助を購入する。その結果、現在でも全国の広い範囲に陀
羅尼助の利用者を形成している。
ハ
○「大峯参拝登山のしるし」として(呈示 の戦略)
先にもふれたように、現在の洞川の町は、古風な宿と陀羅尼助屋が続き、時おり山伏姿の参詣者が通りかかる静かな温泉郷である。通りには、二階 が宿屋で一階が陀羅尼助屋になっている店が軒をつらねる。そもそもこのように薬局とは異なる「陀羅尼助屋」と呼ばれる専門店があり、そこで売られるという ことが、この(1)のフレームの大きな特徴である。各店の正面には、中心商品である陀羅尼助が陳列されている(図9)。陀羅尼助は、内容量にしたがって、 紙包装のもの(小・大)を中心に、ビン詰めも含めて、多種類並んでいる。包装紙には、行者を連想させる図柄が必ずもりこまれている(行者の姿・金剛杖の 先・破魔矢)(図10)。また大峯山の図柄が入ったものも多い。これらは、この物品が大峯山信仰のフレームに納まるアイテムであることを主張する。また用 いられている活字や色は古風で、「伝統」を主張する。しかし単純化され、全体のバランスがきっちりと考えられたデザインは、それが近代の作品であることを 匿すことはできない。近代という枠のなかで意味をなす「伝統」の表現、とみることができる。
さらに、表紙に大きく発売元の名前が強調されていることが特徴である。これは、前述のような講社と陀羅尼助屋のパーソナルなつながりを直截に 表現する。購入者は、陀羅尼助によって結び付けられたパーソナルな関係の記念としてそれを入手する。先にふれた電信柱の「人名看板」もしかりである。
一方、パンフレットや売り手の説明では、薬の由来については触れられるが、効能については、胃腸薬・健胃薬である、という以外の特別な強調は ない。宗教的権威を用いた特殊な霊験や効能などは、特に語られない。そのような面からも、陀羅尼助が大峯信仰をめぐる人々の関係の象徴、といえるのではな いだろうか。
2、<寺>の文脈
○薬を売る寺
奈良県の當麻寺や壷阪寺といった歴史のある寺では、陀羅尼助が売られている。昨年までは薬師寺でもそうであった。年間を通じて非常に多くの参 拝客が訪れるこれらの寺でこの薬を知った人は、相当な数にのぼると推測される。かくいう筆者がはじめてこの薬に出会ったのも、子供の頃、たまたま参詣に訪 れた薬師寺の堂内であった。薬局でもないところで売られる薬、それはどのように呈示され、また買われていくのだろうか。
○「僧侶」と「参拝者」(売り手・買い手が属するフレーム)
ハ
全国の寺院の中に薬を販売しているところがある。かつては製造もされていた。それは前述のように、かつて僧侶や行者たちは医薬の知識に明るく、施薬や治
療も行う存在であったからだ(吉岡、141)。東大寺の豊心丹とともに、陀羅尼助はその代表的なものの一つである。當麻寺の事例からその売買のあり方をみ
てみたい。
ハ
當麻寺は、前述のようにこの薬の開発者である役行者が修行したという伝承をもつ寺院である。昭和55年の薬事法改正までは、當麻寺でも陀羅尼助が作られ
ていた。薬事法改正以後は洞川から購入し、独自の包装をして販売している。當麻寺ではかつて黄檗のみを成分とする板状の陀羅尼助しか作っていなかった。薬
事法改正後は、丸薬様の「陀羅尼助丸」と板状のもの両方を売っている。売るのは、この寺の僧侶である。そして購入者は、僧侶や當麻寺近隣の人も含まれる
が、多くは寺詣りに訪れた参拝者たちであるという(注5)。参拝者は、様々な願い事を抱いて山門をくぐる。境内の各堂をめぐり、仏像に手を合わせ、そして
この薬の買い手となる。
○「寺の秘薬」として(呈示の戦略)
當麻寺において陀羅尼助はどのように呈示されているのだろうか。葛城山の麓、當麻寺の門をくぐると、すぐ左手に中之坊がある。その入り口には
大きな「免許 陀羅尼助販売所」という立て札がたてられており、人目をひく(図11)。この建物の入った正面には、江戸時代に交付されたという「免許陀羅
尼助」の木製のついたて様のものがあり、陀羅尼助製造の二穴のカマドが横に控える(図12)。土間が、拝観料當麻寺に関する物品の販売コーナーになってお
り、そこに陀羅尼助が、寺の説明書や故事をしるした冊子とともに売られている。その冊子のひとつ『當麻寺』にはこの薬について以下のように説明がされてい
る。
ハ
末ヮ將・V坊に伝わる万能薬「秘薬陀羅尼助」は、毎年大寒の最中、一心に精進を重ねた僧侶が陀羅尼経を読誦し、精魂を込めて清浄の火を焚き、 薬を練り上げる。この薬は陀羅尼経を唱える回数に秘密があり、何千何万遍と唱えることによって薬の効き目を左右するといわれている・
ハ
そして、この説明とともに、陀羅尼助の釜の前で読経する僧侶の写真が添えられている(図13)。陀羅尼助に関するもう一つの説明書にも同様に、この薬が
僧侶による宗教行為によって、独特の効き目を生み出す、という説明がなされている。「秘薬」あるいは「万能薬」という言葉は、1の山上詣りの文脈ではな
かったものだ。また、「現在中之坊では、伝統的な陀羅尼助の販売が出来ないため、吉野大峰の陀羅尼助をお分けしている」、という表現がみえる。この、「売
る」ではなく「分ける」(結果として、「買う」ではなく「分けていただく」)という言葉は、この薬に宗教的アイテム、という強い意味付けをあたえる。くり
返しになるが、現在この寺で販売されている陀羅尼助は、洞川で製造されたものであり、(1)のフレームで販売されているものと全く同じものである。
當麻寺は、元来役行者が修業した寺であるから、修験道のフレームであり(1)と本来的には同じであるはずである。しかし、現在では、(1)の フレームから離れ、仏教寺院で僧侶によって売られている霊験あらたかなもの、というイメージが大きい。
このような意味がより端的に呈示されているのは、同じく陀羅尼助を販売する壷阪寺のケースかもしれない。ここでは、陀羅尼助の他にも、この寺 の故事にちなんだ目薬などが境内の売店で売られている(図14)。写真のように、みやげ物店ではあるが、数珠や経典など宗教アイテムのなかの一つとして陳 列されている。また壷坂寺のホームページには、以下のような説明文とともに陀羅尼助が売られている。
レの観音様として慕われて霊験あらたかな<壷阪寺の施薬>・
このような寺院と直接に結びついたかたちでの売り方によって、陀羅尼助は寺の宗教的権威付けのなかで意味を獲得し、呈示される。先にふれたよ うに、この薬は各地の山岳宗教の寺院や霊場でも販売されているが、概ねこの文脈のなかで呈示されている、とみることができるだろう。
3、<観光>の文脈
○『るるぶ』にのる薬
『るるぶ』は、大手旅行会社が発行する、若者とくにOL向けの旅行情報誌である。この『るるぶ奈良』版のお土産欄に陀羅尼助が写真入りで登場 する。「お土産に薬」という文脈はどのようにして可能になるのだろうか。
○「伝統産業」と「観光客」(売り手と買 い手の属するフレーム)
陀羅尼助は役行者によってつくられた薬とされるほど長い歴史と伝統を持っている。つまり大和産の文物としてもかなり古いものとみなすことがで
きる。またそれは、前述のように、奈良の有力な観光資源である寺院や宗教的文脈に属するものであり、さらに奈良県の主要な地場産業である製薬業の文脈にも
属するものである。もちろん生産は奈良県が元祖とされる。このように「歴史・社寺・製薬・地域性」という、奈良の地域特産物として欠かせない文脈すべてに
属しえるポジションに、陀羅尼助はある。このような点から、「『陀羅尼助』は古くから吉野山の特産として名高い胃腸薬である(『吉野町史(下)』
101)」と表現されたり、天川村の薬局が「天川みやげはだらにすけ」という看板を掲げても不自然ではない。社寺参りは、伊勢詣りの例をだすまでもなく、
観光的要素を含むものであった。その意味で、陀羅尼助は奈良や吉野への旅行記念という側面ももってきたのである。
ハ
○「特産物」として(呈示の戦略)
旅行情報誌『るるぶ』のなかの陀羅尼助は、柿の葉寿司やわらびもちと並んでページに納まっている(図15)。また同書の解説記事には「辛党人 間にぜひ買いたい土産」という見出しで陀羅尼助が紹介されている。この薬が辛党好みというのは筆者の理解を超えるが、まるで<食品>のように呈示されてい ることに目を向けておきたい。ここで柿の葉寿司やワラビもちは吉野土産とされるものだ。ここで陀羅尼助は、「吉野の特産物・観光土産」という意味をまとう のである。
むろん、どのようなものでもこれら2つと並べば、地域の特産物として認められる、というものではないだろう。このとき「陀羅尼助」というユ ニークな名前や、その包装の「伝統性」を主張するデザインが、この「薬」に、柿の葉寿司に負けない「特産品」としての呈示力を生み出している、といえるの ではなかろうか。
しかし、観光客に支持されるモノでありつづけることは、容易なことではないだろう。それは、社会のトレンドや観光客がそこに求める要素が時々
刻々と変化していくからだ。「伝統的」という呈示は、すぐにも「古くさいモノ」という意味付けに「転落」する危険性を秘める。陀羅尼助はこの点をどうサバ
イバルするのか。
ハ
実は昨年度、奈良県内の地場産業振興センター主催のデザインコンペで、陀羅尼助が「グッドデザイン奨励賞」を獲得した。これまでにない、西洋風の男女が
手を携えるデザインの箱である(図16)。受賞を発表する主催者のホームページでこの薬は、同じく入賞したミンク毛皮の小物やプラスチックの洗濯物入れと
ともに神妙に並んでいる。このデザインが一般に受け入れられるかどうかは未知数であろう。だがここに、陀羅尼助のセルフマーケティング力の強さを垣間見る
こともできるのではなかろうか。
4、<置き薬>の文脈
○行李でゆられて
大和は富山(越中)とならび、売薬業の古くから栄えた地域として知られている。すでに江戸中期には、売薬業に必要な薬種屋・合薬屋・行商請負の三者が成
立していた(『高取町史』)。陀羅尼助も「大和の薬売り」の行李に収まり、全国の家庭の薬箱に収まってきたのである(図17)。では家庭配置薬として、陀
羅尼助はどのように売られてきたのだろうか。
○「家庭配置員」と「一般家庭」(売り 手・買い手が属するフレーム)
一般に家庭配置薬は、製造会社から販売元に渡った薬を、配置員が個人で買い付け、それを各家庭に配置してまわる、という形をとる。家庭配置薬の普及は、
奈良県内でも富山の系列が早かったようだが、徐々に大和系列の販売網も整備されるようになっていった。そして昭和30年には、大和系列の配置薬業は180
社、販売額は40億円にのぼった。家庭配置員も、昭和29年時点で、北海道162人、東北地方454人、関東774人、中部1331人、関西2477人、
中国803人、四国488人、九州585人、合計7074人にまでのぼったという(奈良県薬務課1955『奈良のくすり』)。
大和売薬は、個々の業者が旅先で直接交渉にあたりつつ、行商網を全国に広げていった。これは、近世まで越中藩の積極的な保護のもとで、全国を数地区にわ
け組織的に行商システムを展開した富山商人とは対照的とされる(『奈良県薬業史-通史編-』)。したがって、大和売薬にとっては、薬を置かせてもらいたい
地域の住民と信頼関係を築くことが販路拡張にとって不可欠であった。1850年(嘉永三年)に大和の販売元から配置員にあてた規律遵守の文書が残ってい
る。
一、不正薬や粗薬をつくって売らないこと。
二、当所へ入込次第毎年一定の冥加銀を納めること。
三、仲間の売薬上包を使ったりしないこと。
四、得意先へ格別の代価を求めたりしないこと。
(中嶋家文書『奈良県薬業史』所収)
そのため家庭配置員には、その地域で信用がありかつ人柄のよい人物を選んだという(武知『近代日本と大和売薬』)。また同業組合では、一貫し て配置員の知識とモラルの向上がはかられ、今日にいたっている。次の歌には、置き薬の持つ意味や、家庭配置員のあるべき姿、そして一般家庭との関係が、 「健康」をキータームにして歌い上げられている。
「薬業音頭」作詞:岩城謙太郎 作曲:前田利明 唄:弦哲也
一、朝日輝く東の空よ あかるいみんなの笑顔を胸に 真心こめたクスリを作る 品質管理は自慢の職場 これがぼくらの生き甲斐なのさ ソレ 薬業音頭で
ドドンがドンドン 健康日本のにない手だ
二、風がつめたい北の空よ みんなの病いの回復祈り 医療の要のクスリを運ぶ ハンドル捌きと商品知識 これがぼくらの生き甲斐なのさ ソレ 薬業音頭でドドンがドンドン 健康日本のにない手だ
三、雲がとぶとぶ南の空よ きょうも幸せ明るい一日 あの窓この窓いこいの灯り クスリを通して社会へ奉仕 これがぼくらの生き甲斐なのさ
ソレ 薬業音頭で ドドンがドンドン 健康日本のにない手だ
(『薬事新報』昭和51年12月15日号、『奈良県薬業史-通史編-』所収)
陀羅尼助も、他の配置薬と同様、「健康を運ぶ」家庭配置員と一般家庭との人間的な相性や信頼関係のなかで配置・使用されていったのである。
○「家庭の常備薬」として(呈示の戦略)
置き薬は、ここまで紹介した<文脈>における呈示のされ方とは、いくつかの点で異なる。まず、購入するものではなく、配置されるものであること、そし
て、単品で配置されるのではなく、他の薬と一緒に箱にいれて配置されるものであること、などである。したがって、このフレームで陀羅尼助は表舞台にたたな
い。あくまで「家庭の健康を守る常備薬」となる。聞き取りによると、かつて陀羅尼助は竹の皮につつまれただけの板状のものが薬箱に入れられていたという
(図18)。商品名も販売元の名もなかったという。使用されるかどうかの決め手は、その配置薬をもってくる配置員の魅力であった。薬売りに求められる資質
は、能弁で人柄がよいこと、おもしろい話題を提供できること、などであったという。薬売りに限らず、行商人は、よその地域の情報提供者として人々から待た
れていたのである(注6)
しかしながら、陀羅尼助に限ると、戦後の早い時期に配置員の行李から徐々に姿を消していったようだ。後進の胃腸薬にとって代わられたのである。その理由
は定かではない。もちろん、今でも配置薬としての陀羅尼助がまったくなくなったわけではない。ただ、大和売薬の家庭配置員の数は、昭和36年をピークに減
少を続け、昭和60年で2183人、そして昨年(平成10年)は1500人であるという(注7)。地域医療の改善や、薬局の増加などによって、家庭配置薬
そのもののシェアが低下している。したがって、この文脈での陀羅尼助の流通は減っているといえる(注8)。
5、<現代医薬品>の文脈
○薬局で
ここまで、陀羅尼助が登場する4つの場面を見てきた。しかし、なんといっても陀羅尼助は現代の医薬品である。当然一般の薬局で市販されている。
○「店員」と「客」(売り手と買い手の属 するフレーム)
陀羅尼助は、元来各製造元で小規模に作られる家伝的な薬であった。しかし、大峰参拝者によって全国に知られるようになった陀羅尼助は、すでに 江戸の問屋まで送られ、売られていた。つまり一般医薬品としての流通は江戸時代から行なわれていたということになる。その後、第二次世界大戦中の、製薬所 の統合と規模拡大政策、そして戦後も一部製造元が工場化を行い、この薬の大量生産が可能となってきた。それによって、陀羅尼助も他の 医薬品と同様、薬問屋から全国の薬局へと流通するようになってきたのである。特にひろく流通しているのは、吉野町で製造と販売を行なっている業者である。 三本足の蛙を商標とし、長い歴史を有するこの業者は、緑色のパッケージのビン入りの陀羅尼助を製造・販売している(図19)。
○「緑の胃腸薬」として(呈示の戦略)
ハ
ハ
薬局の清潔な棚に、陀羅尼助は並んでいる(図20)。まわりは、テレビコマーシャルなどでも見かける胃腸薬たちである。陀羅尼助は、その中に交じって消
費者の手にとられるのを待つ。この文脈において陀羅尼助は、粒のそろった丸薬が清潔なガラス瓶に等しい数ずつ詰められ、直方体のごく一般的な緑の箱に入れ
られて、棚に並んでいる。ここでこの薬は、白衣を着た店員から、近代的な胃腸薬のひとつとして提示され、購入されていく。薬局で陀羅尼助を買う人は、まず
棚に緑色を探す。「煉熊(ちりぐま)」の産地鳥取県に近い島根県松江市のある薬局でも、「煉熊」ではなく緑の陀羅尼助が販売されている。店主に「こちらで
も陀羅尼助ですか。このあたりでは『煉熊』を飲まれないのですか」と訪ねたところ、「飲みませんねえ。それは昔の薬だから」という答えが返ってきた(注
9)。意外にも陀羅尼助は新しい薬として認識されているのである。奈良県内のある薬局では、購買者は中高年にひろくわたっているとのことであった(注
10)。
大阪市内のある私鉄のターミナル駅に、この陀羅尼助の広告がある(図21)。緑色の縁取りと伝統を表現する古風な字体、そしてそのユニークな 名前は、「なにかいわくありげな」感じを醸し出す。この広告をみた人の何人かは、薬局の客となったとき、棚に並ぶ奇妙な名前の緑の胃腸薬に、思わず手を伸 ばしているのかもしれない。
6、<健康ブーム>の文脈
○インターネットで
インターネットで「陀羅尼助」を検索してみた。すると30近いサイトが現われる。サイバースペース上でも、この薬の情報は伝えられている。そ の多くは、陀羅尼助を販売している寺院や薬局のホームページであるが、一例、これまでの文脈とは異なる呈示がされていた。あるカイロプラクティストが開く ホームページである(注11)。
○現代文明の「解毒剤」として
このホームページの作者は、現代の食物には活性イオンやアクの毒性があり、それが様々な体調不良をもたらしている、という。そして、それを解 毒する作用が陀羅尼助に含まれるオオバクにある、というのである。
ム現在でも様々な不定愁訴や成人病(生活習慣病)や難病に悩まされている方にとっても、胃腸内膜を襲う食品や薬剤のイオン毒をダラスケで中和し ておくことは、諸悪の根元を断つことにもなるので意義があると思われます(HPより)ム
そして、洞川のある販売元の人物とその陀羅尼助が写真入りで紹介される。
ム土地の方々は毎日のようにダラスケを飲んでいるそうです。そのせいか皆さんの顔は元気なオーラを放っていらっしゃいます。昭和50年頃までは 日本中の人がこんな顔をしていたような気がします(同上)ム
用量については、
ム胃腸障害の場合に30粒を3回で90粒の服用が記載されていますが、この量はかつての食品の害が弱かった良き時代の基準であって、現在のよう に有害食品が氾濫した時代では完璧に不足ですム
と、摂取する食品の種類と量によっては、相当量の陀羅尼助を飲むことを勧めるのである。ここで陀羅尼助は、近年の健康ブームの世界で馴染み深
い、「化学物質に毒された現代生活の解毒剤」として呈示されているのである。
三 購買へのサポートム意味のブレンドと 口コミム
1、意味のブレンド
ここまで、陀羅尼助が現われる世界と文脈を6つに分類して紹介した。しかし、この分類は各場面の特徴的な要素を純化してまとめた、いわば理念
型的なものである。一つの場面に複数の文脈や意味が混在しているのが実際の状況であろう。いいかえると、それらの要素のいくつかが常に陀羅尼助上でブレン
ドされて売られているということだ。またこの意味のブレンドという作用が、陀羅尼助の購買意欲を多様にかきたてる魅力を作り出す。次の事例を見ていただき
たい(図22)。
ハ
これは、吉野郡内のある著名な神社前の駐車場にある売店の光景である。ここでは、半分露天になった軒先で、山菜や吉野葛、高野豆腐といっしょに陀羅尼助
が売られている。そこには、通常薬が販売される文脈に不可欠の清潔さというものはない。一方神社の前ということで宗教的文脈(2)とそして吉野土産という
文脈(3)が混在している。ここで陀羅尼助は、この2つの意味のブレンド物として自らを呈示している。
また、もう一例あげれば、修験道の中心、金峯山寺のある吉野山でも、(1)(2)の文脈に加えて桜見物の土産(3)として陀羅尼助は購入され ていく。吉野山の売店では、数珠などの宗教的アイテムと吉野葛などの特産物と一緒に陀羅尼助も陳列されている。
このように、豊富な意味のストックと、それらのブレンドによる自己呈示の柔軟性が、陀羅尼助というモノの魅力をつくり、消費社会を生き抜くし たたかさとなっているのである。
2、口コミ
「意味のブレンド」とともに陀羅尼助の購買と普及をサポートする要素として、「口コミ」作用を指摘せずにすますことはできない。よく、陀羅尼 助は口コミで売れていく薬である、と言われる。1で紹介したような「ブレンドされた意味」が、口コミのパーソナルネットワークに乗って広まっていく。そし て同時に、そのパーソナルなネットワークから「保証」を得て、購買への動機を一層高めさせていくのである。
たとえば、大峯山信仰の世界(二の1)から講社の人々が持ち帰る陀羅尼助が、その友人や近隣の人々に口コミで広まる。そして、それが新たな使 用者の、薬局での購買(二の5)へとつながっていく。実際、この薬を口コミで知って使うようになった、という人は少なくない。
読者のご察しのとおり、陀羅尼助は広告代理店などに頼った大規模な宣伝は行なわれていない。しかしそれはモノの側から見ると、モノ自らが多様 に自己呈示できる意味領域がそれだけ開かれていることを意味する。マスコミを使った宣伝は、しばしばそのモノを単一のフレーム(薬であれば、まちがいなく 「二の5、現代医薬品」)の中に強力に閉じこめてしまうだろう。広告に規制の多い医薬品ではなおさらのことである。したがって、このモノのしたたかさ、強 さの一端は、「口コミ」にも求められてしかるべきなのである。
四 結論――殺菌された医薬品たちへ――
陀羅尼助は、長い歴史のなかで、その用
いられてきた文脈を失うことなく、むしろ新たな意味を重層的に身にまとうようなかたちで、サバイバルしてき
た。そして現在においても、多様な文脈のなかで、その場に応じた意味をブレンドして身にまとう。それは配置員とともに全国をめぐり、標高1700メートル
の修験の山にも登る。また、半露天の土産物屋で高野豆腐といっしょに売られるかと思えば、すました顔で『るるぶ』に収まっている。そしてしたたかに生き延
びているのである。前述のように、製造業者によると陀羅尼助は堅調な売れゆきをみせているという。もはや<薬>という枠を超えたこのモノの、現代消費社会
における「足腰の強さ」に目を見張らざるをえない。一体、こうしてみると、本当に不健康なのは、新薬を買いに走る現代の病める消費者たちなのではなく、広
告代理店に自らのアイデンティフィケーションをゆだね、モノとしての生命力を矮小化させてしまった、現代の医薬品自身なのかもしれない。
ハ
<注記>
(1)安政年間のものとされる洞川村明細帳には、以下のような陀羅尼助製造の由来についての記述がある。
「私方村方往古 弘メ来リ候霊薬御座候、乍恐申伝へノ趣神変大菩薩御神伝ニ而、私共先祖の後鬼江御授ケ被下候処、辱くも人皇四十五代聖武天皇天平一七年始
メ而右御神伝の霊丹を陀羅尼数計と唱候、御勅命を蒙り候由ニ而今ニ御陀羅尼助と唱ヘ、連綿と諸国参詣人エ弘通仕リ来リ候」(『奈良県薬業史・資料編』)
(2)ある製造元への電話インタビューによる(1998年12月7日)。
(3)本来ならここで大峰山とそれを包括する金峯山(きんぷせん)信仰について説明しなければ、文脈の記述は不十分なものとなるが、拙論の構成 上きわめて簡潔なものとなった。入手しやすい解説として【小野他1994】などがある。
(4)洞川の陀羅尼助屋、および宿屋での聞き取りによる(1998年8月4日)。
(5)当麻寺中之坊での僧侶への聞き取りによる(1998年8月11日)。
(6)奈良県香芝市田尻地区での山下テル子氏ら古老への聞き取り(1999年1月16日ほか )による。
(7)『奈良県薬業史』および奈良県家庭配置薬商業協同組合への電話インタビュー(98年11月2日)による。ただし、ここでいう配置員には、 この協同組合への加盟者のみが含 まれ、非加盟員(通称「アウトさん」)はカウントされていない。
(8)しかし、昨年から家庭配置薬商業協同組合は、家庭配置薬のテレビコマーシャルを開始した。外国人タレントを起用して、「このような家庭に まで薬を運ぶ制度は外国にない、日本特有の優れた制度である」、という呈示を行っている。またふたたび、このフレームでの販売が見直されるときが来るかも しれない。
(9)松江市内の薬局にて聞き取り(1998年9月2日)。
(10)奈良県内のある薬局にて聞き取り(1999年1月14日)。および大阪・奈良の薬局数 ヶ所の観察による。
(11)http://www.iij4u.or.jp/~miyakawa
<参考文献>
(書籍・論文)
有吉佐和子(1979)『香華』中央公論社
小野他編(1994)『日本宗教事典』弘文堂
首藤善樹(1985)『金峯山』金峯山寺
銭谷武平・銭谷伊直(1986)『陀羅尼助-伝承から科学まで-』薬日新聞社
銭谷武平(1997)『大峯こぼれ話』東方出版
宗田一(1981)『日本の名薬』八坂書房
高取町史編纂委員会(1953)『高取町史』高取町教育委員会
戸木田菊次(1962)『カエル行状記』技報堂
奈良県薬業史編纂審議会(1991)『奈良県薬業史』(通史編・資料編)奈良県薬業連合
奈良県薬務課(1955)『奈良のくすり』
前田長三郎(1933)『大和売薬史』
武知京三(1995)『近代日本と大和売薬』税務経理協会
吉岡信(1981)『クスリと社会-薬業社会学序論-』薬事日報社
吉野町史編纂委員会(1972)『吉野町史』吉野町教育委員会
祐田善雄校注(1965)『文楽浄瑠璃』日本古典文学大系九九、岩波書店
(一次資料)
當麻寺中之坊『當麻寺』(冊子)
當麻寺中之坊「陀羅尼助の事」(寺院内配布資料)
吉野勝造商店「陀羅尼助」(店頭配布パンフレット)
吉野山・藤井利三郎薬房「和漢胃腸の妙薬・ふじいだらにすけ」(店頭配布資料)
JTB『'98るるぶ奈良』