人工SEX時代の出産学
──『婦人公論』1990 年7 月号,pp.276-283——
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人工授精(AID)、体外授精、受精卵移植、選択的中絶などなど、今日の生殖技術にまつわるいろいろな問題について触れるとき、オトコの多 くは 頭を抱えてしまう。どのような箇所で、その議論のとっかかりを得ようか迷うのだ。
「人工授精とは受精が行われる場所である卵管の膨大部という場所に、受精に必要なだけの十分な精子を届けることにより受精を促す治療法です。簡単に
言ってしまえば、精子を人為的に女性の体内へ注入し、その後は自然妊娠と同じ過程をたどります。(その種類は)(1)子宮腔内人工授精(IUI):精子を子宮腔内に注入します。 (2)子宮頸管内人工授精(ICI):精子を子宮頸管に注入します。(3)卵管内人工授精(FSP):精子を卵管内に注入します。精子が卵管の端まで到達しやすく、妊娠の可能性が高まります。 (4)腹腔内人工授精(DIPI):腟の方から腹腔内(ダグラス窩)に精子を注入します。」杉山産婦人科:https:
//www.sugiyama.or.jp/comic/page5
多くのオトコは、無視あるいは洞が峠を決め込んで時の状勢を見守っている。小賢しいオトコなら、多様な「フェミニズム理論」から、そ の切り込み方を学び、適当に相づちを打つであろう。あるいは、「生殖技術のジレンマとそのイデオロギーを問う」などと知ったかぶりを装い、流行の言葉に 乗っかかりながら言い放つオトコもいるだろう。
人工授精にかかわるオトコと言っても、当事者から傍観者までいろいろな関わり方がある。家族や親族を代表するオトコ、当事者で妻に精 子を提供するオトコ、匿名の精子提供者としてのオトコ、妻が匿名の精子提供者によって受胎させられるオトコ、そして、そのような状況を読者に解説する、私 のような書き手としてのオトコである。
雇用、家事、セックス、出産・育児、などの議論において、オトコは自分たちに都合のよいように社会のしくみを作りあげたとオンナたち に批判されることがある。その意味で生殖問題は、ほとんど「オンナの聖域」と化してしまった。だが、私にとって、その議論が聖域化されてしまうことは健全 であるとは思えない。なぜなら、生殖の主人公はオンナであるにもかかわらず、「タネまく」オトコですら、やはり「その行事」にかかわっているからである。
私は、最先端であると信じられている人工授精などの生殖技術が、社会で通用しているごく普通の常識的なものに支えられていることを指 摘しよう。生殖をめぐる現象、すなわち結婚・家族・親族などのあり方が習慣や制度であるように、生殖技術も同様に人類が作り上げた社会の制度のひとつとし て位置づけられる。このように理解し、生殖技術に対する我々の関わり方に、少しは風通しをよくしようとするのが、これを書いた動機である。
●AIDの現在
この論文を書いたのは1990年である。今からほぼ30年後の朝日新聞(福地慶太郎署名記事)は次のように伝えている。
「【リード】「他人の精子使う人工授精、4割減 慶応大学の「AID」」:慶応大病院(東京都新宿区)で、他人から提供された精子を使 う人工授精(AID)のドナー(提供者)が不足し、昨年の実施数が約1千件と前年の6割に大きく減った。海外で出自を知る権利が認められてきた状況をふま え、2017年6月、ドナーの同意書の内容を変えた影響だ。同院は、ドナーの不安を減らすため、親子関係を明記した法律の整備が必要だと訴えている。 AIDは夫が無精子症などで妊娠に至らず、他の選択肢がない夫婦が対象。日本産科婦人科学会によると、全国の登録施設は12 カ所(昨年7月現在)。16年はAIDが計3814件行われ、国内で最初に始めた同院が半数を占めた。 同院は提供を受ける夫婦や生まれた子どもにドナーの情報は非公表だが、17年6月、生まれた子が情報開示を求める訴えを起こし、裁判所から開示を命じら れると公表の可能性がある旨を同意書に記した。また、日本はAIDで生まれた子の父親が、育てた男性かドナーのどちらなのか明確に決めた法律がなく、扶養 義務などのトラブルが起こりうることを丁寧に説明した。 すると、17年11月以降、新たなドナーを確保できなくなり、昨年8月、提供を希望する夫婦の新規受け入れを中止した。実施数は16年の1952件か ら、17年は1634件、昨年は1001件と17年より約4割減った。 ドナー不足が報道された昨秋以降、数人からドナーの応募があり、治療中の夫婦への精子提供は続けられそうだが、新規の夫婦受け入れ再開のめどは立ってい ない。慶応大の田中守教授(産科)は「親子関係の法整備が進まなければ、将来、ドナーに法的なトラブルが起こりうるため、私たちからドナーになることを勧 めにくい」と指摘し、法整備が必要だと訴える。 また提供精子をめぐる日産婦のルールは、精子を子宮に注入する人工授精しか想定していない。顕微鏡で見ながら精子を卵子に注入する「顕微授精」が認めら れれば、より高い成功率が期待できるため、「日産婦に相談したい」という。(福地慶太郎)」朝日新聞デジタル 2019年4月3日 11時00分
2020年7月1日の慶應義塾大学病院リプロダクションセンターでは以下のようなアナウンスをしている
「現在AB型精子ドナーの不足により、授精のご用意ができない状況が続いております。新聞各社の報道にもありますようにAIDを取り巻
く諸事情は厳しさを増しており、今後も治療の再開は難しい状況です。
また、AB型以外もドナーが不足しているため、現在はAID初診の新規予約の受け付けを見合わせております。
私どもも最大限の努力を致しておりますが、精子ドナーの確保は今後もさらに難しくなることが予想され、一施設の努力のみでは本治療の存続自体が困難になっ
ている状況です。何とぞご理解を賜りますようお願い申し上げます。……
慶應義塾大学病院では、この度わずかではありますが、AB型ドナーの凍結精子を確保いたしました。
既に当院に登録済みのご夫妻(当院はAID初診は閉鎖しており新規患者の受付は行っておりません)で、AB型ドナーの凍結精子を用いた人工授精を希望され
るご夫妻は、下記まで申し込みお手紙をご郵送ください(返信用封筒もご同封ください)。大変恐縮ですが、希望されたご夫妻に一度だけ治療が可能な現況で
す。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます」http:
//www.obgy.med.keio.ac.jp/clinical/obstet/aih_aid.php
今日の生殖技術の進歩とそれが社会生活に及ぼす影響については、既に幅広い視野から指摘されている(例えばグループ・女の性と人権編 『ア・ブ・ナ・イ生殖技術』など)。
まず、効率の問題である。体外受精(IVF)によって妊娠する確率は九〜一七パーセントしかないと言われる。すなわち、出産する確率はさ らに低くなり、受精が成功したうちの三〜十パーセントでしかない。当然、一回目の試行で妊娠する女性もいれば、複数回におこなっても成功しないこともあ る。たびたび失敗を繰り返しているカップルにとって、それは「どうして自分たちだけが成功しないのか?」というほとんど宿命的な問いにさいなまれることに なるという。
おまけに、経済的負担も大きい。米国では、最初の試みにおいて六〜七千ドルかかり、凍結受精卵を使用すると一回の胚(=受精卵)移植のた びに千ドル必要であるという。むろん、これには次に述べる臨床検査の費用などは含まれていない。
生殖技術は、体外で行なわれるだけではない。妊娠とは、女体にとって絶えざるプロセスである。従って生殖技術を試みることは、同時に女体 を絶えざるホルモン管理という医療技術の統制下に置くことを意味する。それは受精のために卵子を採集するずっと以前から始まり、山のような検査を受けなけ ればならない。また、受精卵の着床から妊娠の全期間を通して、母親は病院通いし、医師の監督下におかれることは不可避である。
女性およびその配偶者に対する、このような身体的、精神的、経済的負担があるにもかかわらず、その実態が十分に知らされていないことは、 しばしば問題として挙げられる。「産む性」や「育てる性」としての女性・母親の身体が傷つけられたり、肉体および精神的負担があることへの配慮がしばしば なおざりになる。さらに女性が、配偶者やその親族から子供を持つことへのプレッシャーを感じたり暗黙のうちに強制されたりして、自己の身体についての事柄 を自身で決める権利(自己決定権)が阻害されている、ことなども危惧されている。
また生殖技術は、たんに産むためのチャンスを開発したばかりではなく、異常を持つ可能性のある「不必要な」胎児を妊娠の比較的早い時期に 発見し堕胎させる、「選択的中絶」という方法をも生んだ。日本では、「身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」があると認められれ ば、人工妊娠中絶は合法的におこなえる。また米国では、先述した女性の身体的プライバシー権の行使として、三カ月以内の中絶を認めるという連邦裁判所の判 決が1973年になされている。
にもかかわらず、「障害をもって生まれる可能性のある胎児」への選択的中絶は、暗黙の内に「障害をもっている者」への否定的な価値観を反 映し、それを容認していることになりはしないかという危惧がしばしば指摘されている。米国では障害者リハビリテーション法(1973年)によって、すでに 生を 受けている障害者には社会がそのハンディに見合うだけの保護をすべきであると規定し、そのジレンマを乗り越えようとしてしている(米本昌平『先端医療革 命』)。
生殖技術ではまた、受精卵を凍結したり解凍したりして、「自然ではない」生命操作をおこなっているのではないかという問題や、母体に戻せ ば一個の命として成長できうる可能性をもつ受精卵を、廃棄すべきか否かという選択などとも絡まって、ひとつの「生命の尊厳にかんする論争」が生じている。
我々のからだが、生物科学に基づく近代医療の管理下におかれる状況を、R・リフトンはバイオクラシーと呼んだが、その意味で生殖技術はナ チズムまがいの「不気味な生命操作」に転落する可能性を常に秘めていると見なすむきもあり、現状を丹念に拾い上げていく作業も少ないながらも行なわれてい る(福本英子『生物医学時代の生と死』)。
生殖技術を使ってもよい、と人びとが認めることは「生殖技術について社会的合意がある」とみなすこともできる。では、その社会的合意と は、どのようにできあがっていくのだろうか。たとえば、L・ハリスが米国の女性に対して、治療としての体外受精へ是非を問うたアンケートがある。それによ ると、治療法として一般的に体外受精を是認するか、という質問をするよりも、「子供の持てない夫婦」には必要であるかという質問をするほうが、より多く肯 定の回答が得られるという。さらに、質問の中に不妊のカップルが非婚である場合と既婚である場合では、言うまでもなく、後者の既婚のケースに体外受精を利 用してもよいという答えが多くよせられたという。
この場合は一般的な技術の適用よりも、具体的な「不妊の既婚のカップル」に適用を限定したほうがはるかに社会的合意を得やすいことを意味 する。そして、日本では現実にも技術提供側である近代医療は、同性愛者や未婚の同棲中の不妊のカップルに、生殖技術を適用する機会を与えていない。これ は、医療技術を濫用させないという提供側の自己規制という側面のほかに、社会がそのようなカップルに「子供を授けない」ことを通して、既婚カップルへの妊 娠こそが、「本当の子供」を持つ権利を有しているのだと言っているようなものなのである。
生殖技術には、このような世間の常識や道徳観が色濃く反映されているが、それを支える「自然」でありかつ究極の生殖の理想とは「愛し合っ ている既婚のカップルが、性交——愛情のあるセックスならなお良い——によって、自らの子供を授かる」ことなのだ。これは全くの「幻想」とは言えないまで も、偏った見方にしか過ぎないことは、今日の多くのカップルが性生活を生殖と快楽を分離させることに腐心していることをみても明らかである。
かつてオーストラリアで、体外受精は所詮、閉塞した卵管のバイパス手術のようなものであり、特殊なものではないのだ、と推進側のある医師 が発言したが、これには反発があった。卵管形成手術は、体外受精よりも「より自然である」と考えられたからである。この手術による成功率はおよそ3〜4割 で、手術後の合併症として子宮外妊娠のひとつ卵管妊娠がおこる危険性があるが、手術後に可能となるであろう性交によって妊娠が成就されることが、体外受精 より「自然でふさわしいもの」だと判断されたためであろう。
そうすると体外受精に欠けているものは、「生殖のためにおこなう性交」なのである。このセックスのやり方は、今日の我々の性生活において も、最も真面目におこなわなければならない性交のひとつである。子宝にめぐまれない夫婦が、妊娠を目的に性交をおこなっている情景は誠に涙ぐましいもので ある。そこには一種の計画性と真面目さが要求される。生殖のためのセックスとは、それに遡る男性の禁欲、性交の時間や回数やスタイルなどが、正統あるいは 非正統を問わずいろいろな知識が総動員される二人の厳粛なるイベントなのである。
オーストラリアでの体外受精において胚(=受精卵)移植がおこなわれる際に、妻の子宮に慎重にカテーテルという管が挿入されるが、そこに は夫が同伴することが多いという。それはまさしく「生殖のための性交」同様、厳粛さを想像せざるを得ないものである。もっとも、その際には、胚移植がされ ていることを意識させないように、夫は妻に対して気を紛らわせるための会話が交わされるという(ウォルターズとシンガー『試験管ベビー』)。
代理母においては、性交の代わりに生殖技術が用いられ、養子制度、あるいは妻以外の女性に夫の子供を産ませる「借り腹」あるいは旧民法に おける「庶子」制度などとはニュアンスが異とされる。このシステムを使うと遺伝的に「より親に近く」なることもあろうし、代理母が依頼主との間に性交を行 なうことがなく、借り腹より少しは「嫡子」のイメージに近づくというわけである。
体外受精を受ける、あるいは成功させるためには、そのカップルに相当なストレス(身体的および精神的)や欲求不満を伴わせる。そのため に、諸外国では治療をうける予定の夫婦やカップルを支える支援グループがあり、治療者側は治療目的に叶うためにいろいろなかたちで彼らを審査選別してい る。
日本において、その議論の具体的なようすは十分に知られていないが、学会の倫理要綱や各医療機関の倫理委員会などのチェックがあると言わ れている。それは、不妊のカップルがそのような苦難に耐えることができるかということであり、それゆえに夫婦あるいは「既婚のカップル」が、それに見合う だけの紐帯を築いているかという、さらに一歩踏み込んだ具体的な社会的チェックにもなっている。体外受精にふさわしいカップルを選ぶ過程は、ここでも社会 の道徳や価値観の影響を受けている。
他方、生殖技術そのものがが、我々の結婚や家族制度への脅威になると主張する一連の人びとがいる。すなわち、生殖と性愛と制度のあいだ に、ある種の調和した関係を想定しており、「自然な」生殖の過程に科学技術が介入してくると、それは性の結びつき、すなわち性愛のあり方を変え、さらには それに支えられている結婚や家族の形態にも影響を与えるのだ、と主張するのである。だが、生殖技術で生まれた子供たちを授かって以来、その子をもつ家族の 形態が特別に変化したという事実は、そう多くは見つからない。
他方、逆に生殖技術を駆使しても得たいという情熱に支えられた末、出産された子供は、カップルの愛情を一身に受け「普通の方法で生まれた 子供」よりも愛されるだろう、という意見がある。あるいは、受精卵は「愛の結晶」であり、それは「尊重され育てられる権利」があるし、実際そのようにされ なければならない、という主張がある。
これも理屈の上での話であって、苦労した末に生まれた子供が、苦労して生まれなかった子供に比べてより愛されながら育つという経験的根拠 はどこにもない。子供に愛情をもって接するといえども、そのかたちは多様であり、そのような育児の形態が、はたして「愛情」というひとつの概念で表現でき るのかさえ疑問である。育児における愛情の因果論は、我々が見たり聞いたりしたことがある多様な経験の前に、もろくも崩れさるのである。
生殖技術の登場が、現有の結婚や家族制度に対する強力に影響を与えるだろうという主張は、したがって次のように理解できる。不倫や離婚の 増加といった、今日の結婚や家族に対する我々の危機感や疑問、あるいは不安が、そのような新技術をきっかけにして、さらに加速するという危惧感を人びとが 抱いているのである。
人びとは現在の夫婦や性交の制度に「本質的問題」があるとは見なさず、生殖技術が伝統的な価値観を解体させる脅威になると解釈している。 それゆえに、人びとは生殖のためには「自然で」神聖な性行為がなければならないと信じ、立派な夫婦には子供が与えられるべきだと言う理想像は温存され続け る。
文化人類学では、産業化する以前の社会、いわゆる「未開社会」において、生殖に関与したとされる女性と男性を、それぞれジェニトリックス とジェニターと呼び、社会的に認められた母親と父親を、それぞれメーターとペーターと呼んで区別する。このようにするのは当の社会の人びとは、しばしばそ のように区分することがあり、意識して区別することによって、「未開社会」における親族の関係を多様な側面から分析し、西洋人がもっている自分たちの常識 的(母親はジェニトリックスとメーターが一致することが当り前と思っている)理解から生じる混乱を避けてこようとしたからである。これは、我々の社会にお いてちょうど、産みの親と育ての親を区分することと似ており、文化人類学のそれは、より正確に厳密化させたものであると言えよう。
今日の生殖技術の発達は、ジェニトリックスとメーター、産みの親と育ての親、という区分のみならず、さらに別の女性の分類のカテゴリーを 必要とすることとなった。それは、㈰法律や規定における母親、㈪懐妊における母親、㈫遺伝学における母親である。あるいは、精子の「由来」——文化人類学 では「出自」がそれに当たろうか——が、配偶者の精液による人工授精(AIH)、他の男性の精液による人工授精(AID)などと区分されている。このよう に新世代の親族関係に新たな規定を設け、それを意識することは、近代社会がかつての「未開社会」に見た、親族を中心として社会が展開する現象が、我々の社 会に相変わらず続いている——あるいはリバイバルしている——ことを意味する。
もうひとつ、「未開社会」でも、生殖技術を受け入れている近代社会でも、共通するひとつの論理がある。それは、人間は自己の身体の部分が 子々孫々にわたって継承するように親族の組織を作り上げていることである。その身体の部分は血液に擬されることが多いので、これをさしあたり「血の原理」 と呼んでみよう。
「血を分けた子供」、「腹を痛めた子供」、「血は水より濃い」、「カエルの子はカエル」という言辞は、遺伝学上のひとつの概念と言うより も、「血の継承」と言ったイメージの変形なのである。人びとはこの「血の継承」に飽くまでも執着する。例えば、二世学者、二世政治家、二世タレント、二世 スポーツマンなど、その話題には事欠かない。あるいは、源氏と平家をはじめとする名家の継承とその「意義」の強調。これらのことへの執着はたんに、当事者 間の利害の問題ばかりでなく、他人もそれを認めたり、否定したりして、「血の継承」について常に意識しているのである。
オーストラリアの不妊のカップルの例では、子供はこのような「血の原理」を具現化するというよりは、カップルの「愛の証」であると見なし ていたという。にもかかわらず、その卵子と精子はお互いのカップルのものでなければならかったのだ。そして、「血の原理」への人間の執着がどれほど強力で あったかは、それを超える社会的なシステムを人間が容易には創出できなかったことからも推察できる。
いささか唐突であるが、血の原理を超えた数少ない例外のひとつとして、チベットの王ダライ・ラマの継承方法が挙げられる。ダライ・ラマは 観音菩薩の化身であり、人間の姿を借りて次々と生まれ変わるという信仰がある。先代の死後四十八日間の間に、新たに受胎されるものが転生した活仏であり、 生まれ変わった新たな王が国中で捜されるという。
ダライ・ラマは人間的な生殖方法によって世継ぎを作らず、はじめから「血の原理」の要素が入る余地はなかった。にもかかわらず、清朝下の チベットでは、時にその遺産相続をめぐって混乱が起こり、候補者を抽選で選ばざるを得なかったことから、「血の継承」を乗り越えることがいかに難しいもの であるかが分かる。
写真は、ダライラマ13世(3歳時)Thubten Gyatso
代理母制度も、より「嫡子」に近い子供を造ることができる点で、養子制度よりも、より「血の原理」に則ったかたちで出来上がったシステム であるということができる。言い換えれば、親子における「血の原理」という願望、妊娠を金銭によって引き受けてくれるシステム、および生殖技術が相まって 出来上がったものが代理母制度なのである。
「血の原理」は、世界の多くの社会で見られる親族の「識別」と「正統化」を導く基本的な論理である。生殖技術によって、親子・夫婦・親族 を貫く「自然」な生殖のあり方が乱されたと、我々は考えてはならない。生殖技術は、ほかならぬ伝統的な考え方である「血による継承」をさらに強固にするか たちで発達してきたのだ。
その意味で、生殖技術は我々——少なくともオトコたち——を威嚇しているのではなく、いまだにそれに仕えているのである。それでもなお生 殖技術が、うす気味悪いものであるならば、それは我々自身が「血の繋がった」ことや「腹を痛めたほんものの」の子供に執着すること、そのものに不気味さを 求めるべきである。
生殖技術が我々にもたらしつつあるのは、あらゆる先端医療技術と同様、人間が技術を管理して運営しているのにもかかわらず、「技術が我々 を苦しめる」ように感じることである。すなわち、人間と技術の主従関係において人びとは完全に混乱に陥っているのが現状ではないか。
生殖技術は、我々の固有の行動様式や価値観が育ててきたものであることを、私は再度確認したい。その上で、生殖技術のイメージがまき散ら す暗黒面の芽を摘み、我々——もちろんオトコとオンナである——が快適に利用できたら、これもまた便利なものなのであろう。しかしながら、これはオトコが 言う身勝手で楽観的な見解かも知れない。
オンナの視点から見て、この社会の行動様式や価値観がオトコ中心的なものであれば、むしろ変えなけれはならないのは生殖技術ではなく、社 会制度そのものである─だから生殖戦線を闘わねばならないのだ。もし、そのような新しい社会を迎えたら、変革後に我々が直面するであろう生殖技術は、当然 現在とは全く異なった姿になっているに違いない。
[この原稿を仕上げるのにあたって、故・堀池依子さん、八木祐子さん、広瀬洋子さんのシビアで暖かいコメントと注文を受けた。記して感謝し たい。]
クレジット出典:人工SEX時代の出産学,婦人公論,1990 年7 月号,pp.276-283 ,1990 年7 月
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