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アパッチ民族浄化戦争

Apach Ethnic Cleansing War, 1951-1886

池田光穂

アパッチ戦争(アパッチせんそう; :Apache Wars)は、1851年から1886年にかけ、アメリカ合衆国南西部で先住民であるアパッチ族をはじめとするインディアン部族と米軍が交戦したインディアン民族浄化戦 争である。日本語版ウィキペディアの項目を検討する。なお、項目を吸い上げる前に、筆者は元の記載にあった「原住民」を「先住民」に、「酋長」を「首長」 に、ウィキペディアの執筆倫理原則に従って変えている。しかし、今日では、ネトウヨやヘイト系のウィキペディアンも多く、また、中には権限をつよくもつ スーパーバイザーもいるために、元の用語法に変わる可能性もあることを、付言しておく。

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「アパッチ戦争」概要
1851年から、アパッチ族の戦士ジェロニモ が降伏した1886年までが「アパッチ戦争」と呼ばれている。ただしアパッチ族の白人入植者に対する襲撃は、1910年代まで続いた。白人はアパッチ族や ナバホ族(ディネ)ほか周辺部族が同じアサバスカ語族だったので、すべてひとまとめに「アパッチ族」と呼んでいた。したがって合衆国の歴史では、ナバホ族 などに対する白人の攻撃もこの「アパッチ戦争」に含まれている。

なによりもアパッチ族の領土には、白人が喉から手が出るほど欲しい金鉱があった。また、メキシコとの国境でもあり、両国の政治と交易の駆け引きの重要点で もあった。略奪民族だったナバホ族やアパッチ族は合衆国にとって、大平原のスー族と並んで植民地拡大のためにどうあっても絶滅させなければならない最大抵 抗勢力であった。アパッチ族は合衆国の保留地政策に抵抗し、メキシコと合衆国の国境近くの山岳地帯を領土として、両国に遠征し、略奪婚のためにメキシコ女 をさらい、牛馬や人員を略奪していた。しばしばその襲撃は、入植白人、土地投機者、あるいは連邦政府の政策によって挑発された。

19世紀の「アパッチ戦争」を戦った戦士たちとしては、ベドンコヘエ族のダソダ・ハエ(マンガス・コロラダス(英語版))、チョコネン族(チリカウア族 (英語版))のコーチーズ(英語版)、ミンブレス族のビクトリオ(英語版)、ローコー、ナナ、アラバイパ族のエスカミンジン、ネドニ族のジュー、トント族 のデルシェイ、ホワイトマウンテン・アパッチ族のアルチェセー、およびチリカウア族(英語版)のゴクレイエ(ジェロニモ)、チャトーらがよく知られてい る。

完全合議制民主主義社会であるインディアンの社会では、独任制の「首長」や「部族長」は存在しない。「部族の指導者」だと白人が考えている「首長」は、実 際は「調停者」であって、「指導者」ではない。インディアンの戦士は、おのおの個人の判断で行動するものであって、誰かに指図されるような存在ではない。 白人が考えるような「軍事指導者」や「戦争首長(War Chief)」は、実際にはインディアン社会には存在しない。インディアンの戦士団は集団であって、命令系統のもとで動くような「軍隊」や「部隊」ではな い。

発端
アメリカ合衆国がメキシコとの米墨戦争(1846年 - 1848年)を始めたとき、多くのアパッチ族は、米軍が彼らの土地を安全に通行することを保証した。合衆国が1846年にメキシコの旧領土の領有権を主張 したとき、ミンブレス・アパッチのマンガス・コロラダスは和平条約に署名し、合衆国がアパッチの宿敵であるメキシコの領土征服者であることを認めた。この 「署名」とは、「文字を持たないインディアンに×印を書かせる」というものである。

1850年代まで保たれた、アパッチ族と新参の「アメリカ合衆国市民」との不安定な平和(古い伝統の世紀)は、ニューメキシコ準州のサンタリタに金の採掘者が流入したことで破られた。

1860年12月、30人の白人採掘者がミンバース川の西岸で、ベドンコヘ・アパッチ族の野営地に急襲をかけた。歴史家のエドウィン・R・スウィーニーに 拠れば、採掘者達は「4人のインディアンを殺し、他の者達を傷つけ、13人の女と子供を捕まえた。」アパッチ族による報復が再度起こり、白人とその資産に 対する襲撃が続き、「アパッチ戦争」が始まった。

「アパッチ峠」一帯はその名の通りアパッチ族の領土であり、乾燥した南西部でも貴重な真水の湧く泉がここにはあった。アパッチ族にとっては、ここは何に代えても死守しなければならない要所、部族の生命線だった。

18世紀ごろのアパッチ族領土 18世紀ごろのアパッチ族領土、中央の点線四角形が現在のニューメキシコ州。WA:ウェスタン・アパッチ(Western Apache)、N:ナバホ(Navajo)、Ch:チリカウア(Chiricahua)、M:メスカレロ(Mescalero)、J:ジカレラ (Jicarilla Apache)、L:リパン(Lipan Apache)、Pl:平原アパッチ(Plains Apache)の各部族を示す。
コーチーズ
コーチーズ(英語版)はチリカウア族(英語版)(チリカウア・アパッチ族)の若い首長で、ゴクレイエ(ジェロニモ)より数歳年上で、部族民の尊敬を集める有力者だった。米軍のジョン・グレゴリー・バーク大尉は、次のように述べている。

「コーチーズは姿勢正しく気品ある顔立ちのインディアンで、身長は1m80cm、胸は広くて厚く、鷲鼻をしている。温和で、やや陰鬱と見える表情が断固たる容貌を和らげている。話しぶりや態度にも、インディアンによく見られる空威張りは見られなかった。」
アパッチ峠の西の新設のブキャナン砦のそばに、メキシコ女のヘイスーサ・マルチネスを愛人とするジョン・ウォードというならず者が、怪しげな牧場を開いて いた。ここにはマルチネスの息子のフェリックスという10歳か11歳の少年がいたが、この少年の父親はアパッチ族だった。

1860年の夏にピネル・アパッチの一団がこの牧場にやってきて、牛数頭とフェリックスをさらった。ウォードはブキャナン砦に訴えたが、米軍は手いっぱい で何カ月もこの訴えは放置された。そのうちに、ウォードは根拠もなく、この襲撃はチリカウア・アパッチの有名なコーチーズの仕業だと妄想するようになっ た。現在では、このウォードの考えは根も葉もない妄言と断定されているが、米軍は彼のこの考えに賛成した。

翌年1月に、ようやく米軍のジョージ・N・バスコム少尉が派遣されてきた。バスコムは西部に来たばかりで、名を挙げることしか考えていない青年将校だっ た。バスコムは部下54名とともにアパッチ峠に向かい、ジョン・ウォードもその部隊と同行した。バスコムはバターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所 で、チリカウア族と親しい御者のジェームズ・ウォレスに、「我々はリオグランデ川に定例の巡察に行くところだ」と嘘を教え、そのまま峡谷に野営を張った。

ほどなくしてコーチーズが中継所に来て、なぜ大勢の軍人が来たのか尋ねた。ウォレスは聞いたままを答えたので、コーチーズは安心し、弟のネレテナ、妻のナ レカディア、息子ナチーズ、甥二人を連れてバスコムの野営を表敬訪問した。コーチーズは礼儀正しく挨拶をし、テントの中に座ったが、バスコムはこっそりと 兵士たちにテントを包囲させた。

バスコムはいきなりコーチーズに、例の一件を詰問した。コーチーズは寝耳に水のこの話に驚いたが、この犯人を捜そうと言った。コーチーズはチリカウア・ア パッチの沈着冷静な戦士で、白人も一目置く人物だった。コーチーズはあくまでもチリカウア族であるから、他のアパッチ支族に対してなんらの責任もない。そ れでも努力を約束したのであるから、ただでも理不尽なこの要求に、これ以上の返答などあり得ない。

しかしバスコムはこれを偽りと思い込んで満足せず、「コーチーズ自らが事件に関与した」と非難し、コーチーズの家族を人質にすると脅迫した。コーチーズは 非難されたことと拘束されたことに怒り、テントをナイフで切り裂いて逃亡した。コーチーズはウォレスにだまされたと思い込み、中継所に戦士たちと押しか け、出てきたウォレスと所長のカルバー、馬丁のウォルシュを取り押さえた。カルバーとウォルシュは逃げたが、カルバーはアパッチに射殺され、ウォルシュは インディアンと間違えられて米兵に射殺された。コーチーズはウォレスを人質にした。

バスコムは人質交換を行うことには気乗りしないままであり、コーチーズたちは通りかかった幌馬車隊を襲い、アメリカ白人を二人捕虜にし、メキシコ人家畜商 人を馬車ごと焼き殺した。その後バターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所での人質交換は、バスコムの拒否によって成立しなかった。バスコムとコー チーズの間の交渉は行き詰まりとなっており、その間にバスコムは援軍を要請する伝令を送った。コーチーズは怒り狂い、三人の捕虜を惨殺した。バスコムは軍 医のバーナード・アーウィン博士の助言を容れ、コーチーズの弟と二人の甥を樫の木に吊るして縛り首にした。

バスコムはコーチーズの妻と息子は返したが、コーチーズの怒りは収まらなかった。この一件は「バスコム事件」と呼ばれるようになり、小さな事件であったに も拘らず、その後11年間におよぶアメリカ白人入植者および米軍と、コーチーズたちチリカウア・アパッチとの戦いのきっかけとなった。

1861年遅く、マンガス・コロラダスとその義理の息子であるコーチーズは同盟を結び、アパッチ族の領土から白人を追い出すことで合意した。彼らの動きに はネドニ・アパッチのジューや有名な戦士であるジェロニモも加わることになった。「バスコム事件」から2カ月たたない間に、コーチーズらは各地で襲撃を行 い、白人たちの噂によると、150人に上る白人入植者を殺したという。南北戦争の勃発とともにバターフィールド・オーバーランド駅馬車中継所が閉鎖され、 米軍が去ったために、多くのインディアン部族が、コーチーズらが彼らの領土から白人を追い出したと思うようになった。

バスコムら白人は、コーチーズを「アパッチを統率する大指導者のひとり」と思い込んでいたから、彼に無理難題をふっかけ、このような呼ばなくてもいい悲劇を呼んだ。白人のインディアン文化に対する無理解と偏見は、この南西部でも「インディアン戦争」を激化させていった。
カーライル・インディアン工業高校
カーライル・インディアン工業学校」は、対大平原部族戦に従事した軍人、リチャード・ヘンリー・プラット少尉の、内務省の出先機関BIA[4]への働きかけで、元軍事施設を利用して、1884年にペンシルベニア州カーライルに創設された「インディアン寄宿学校」の第一号である。

1875年、カイオワ族、コマンチ族、シャイアン族、アラパホー族他の対白人抵抗戦の指導者・戦士たちはフロリダ州のセントオーガスティンにあったマリオ ン砦に護送され、無期拘留の囚人となった。ここで死んでいくインディアンたちを見たプラット少尉は、彼らを牢から出し、英語の読み書きを教え、パン職人、 水夫、漁夫、農夫などとして職業訓練を行い、三年後には、彼らが白人の生活に順応できるようになったとして釈放させた。この経験を元に、プラットはイン ディアンを子供の段階から一般の農夫や労働者に同化しうる「生産的なアメリカ市民」として育てるべく、以下の理念でもって、カーライル校の初代校長となっ た。

「インディアン問題の根本的な解決は、教育にある。子供のうちからインディアンとしての自覚、民族性全てを剥ぎ取って、アメリカ市民に同化させる。彼らを職業訓練し、産業化思考を教え込むべきである」
BIAは、このプラットの思いつきに賛同し、拘置所が元となったカーライル校をモデルに、全米各州にインディアン寄宿学校が設けられた。1887年、BIA局長は以下の通達を出した。

「インディアン寄宿学校は英語のみにて教育を施すべし。インディアン語は一切を禁ず。インディアン児童は、キリスト教各派の教えにより文明の何たるかを学ぶべし。インディアンの宗教は一切を禁ずる」
プラットの掲げた「生産的なアメリカ市民」という美辞麗句の裏には、「義務」の強制と同時に「権利」の剥奪をも伴っていることに留意すべきである。かつて インディアン側が白人子女をさらい、部族員として教育した例は多いが、これはほとんど例外なく米国陸軍の派遣によって奪還された。異民族間で行われたこの 施策であるが、あくまで白人側からの一方的な図式で成り立ったものであった。

【アパッチの悲劇】寄宿学校制度の初期には、学校の衛生状態が劣悪だったために、天然痘やその他の白人の病気をうつされた児童が数十人単位で死亡する例も多かった。以下のアパッチ族の例は珍しいものではない。

1886年秋、ジェロニモたちの降伏のすぐ後に、チリカワ・アパッチ族の子供たちが親元から引き離され、カーライル・インディアン工業学校へ送られた(写 真)。総勢112人の子供たちのうち、その後3年間で30人が白人の病気に罹って死亡し、数十人が心と身体に重い病を負って故郷に還されるという悲劇を起 こす事となった[6]。
マンガス・コロラダスの死
メキシコ人から「マンガス・コロラダス(英語版)(赤い袖)」と呼ばれ たダソダ・ハエは、ミンブレス・アパッチの温厚な首長だった。1860年から61年にかけ、彼らの領土内のニューメキシコの「ピノス・アルトス」という金 鉱町に白人の採掘者が押し寄せてくると、マンガス・コロラダスは不安を募らせ、彼らに「もっとよそに金が出る場所がある」と関心を他所に向けようと図っ た。これはアパッチの土地に勝手に入り込んだこの白人たちの怒りを買うこととなり、マンガス・コロラダスは縛り上げられ、気絶するまで鞭で打たれた。似た ような事件が続き、和平条約を破るこれらの行為は、アパッチ族の報復につながった。

1862年春、マンガス・コロラダスはコーチーズのもとを訪ね、白人鉱夫の追い出しのための助力を願い出た。コーチーズは、しばらく復讐を見合わせるよう 言って、その前にやるべきことがあるのだと話した。そのころ、ちょうど米軍指導層はニューメキシコ準州に対する南軍の圧力に対して軍事行動を行うことに決 め、ジェイムズ・ヘンリー・カールトン大佐の指揮するカリフォルニア人志願兵隊を派遣していた。このカリフォルニア部隊は古いバターフィールド・オーバー ランドの道を東に進み、アパッチ族の領土を侵犯したのである。

コーチーズはこれを知り、マンガス・コロラダスとジェロニモの協力を得て、700人という史上最大のアパッチ族戦士団を結成した。アパッチの戦士は泉を見 下ろす崖の上で待ち伏せし、泉を周りに岩を組んで銃眼のついた防壁を築くという、アパッチ族で史上初めての戦法を採った。

7月14日、米軍がアパッチ峠の泉までやってくると、アパッチ族との交戦となった。この戦闘で米軍は幌馬車二台に積んだ、新鋭の曲射砲を使い、アパッチ族 はこの4.5キロ榴散弾という、見たことのない白人の武器に蹴散らされた。マンガス・コロラダスは胸を撃たれて負傷した。

1863年1月、マンガス・コロラダスは白人と和睦を図るために危険を冒し、休戦の白旗を揚げて金鉱町ピノス・アルトスを訪ねた。ちょうどそこには、カリ フォルニア民兵隊の士官で後にルイジアナ州からアメリカ合衆国上院議員になった名誉昇進職ジョーゼフ・ロッドマン・ウェスト准将がいた。ウェストは問答無 用でマンガス・コロラダスを捕縛させ、護衛兵にこう言った。

「こいつを生かすにしろ殺すにしろ明日の朝のことにしたい。わかったかね? わしはこいつを殺したいんだ。」
その晩、たまたま米軍のキャンプの中を通りかかった鉱夫は、次のように証言している。

「九時ごろ、私は兵士たちがマンガスに何かしているのを見た。兵隊たちは銃剣を火で焼いて、マンガスの脚に押し付けているのだった。マンガスは、『俺を子 供扱いするな。そんなふうにいじめるのはよせ』と言って抗議していた。そのあと、護衛兵が銃を4発撃ちこんで彼を殺した。」
護衛兵たちはマンガスの頭の皮を剥ぎ、首を斬り落として、頭蓋骨をスミソニアン博物館に送った。和平の使者であるコロラダスを虐殺したことは、アパッチ族 と侵略者の争いに油を注いだだけだった。アパッチ峠の戦いに先駆けた1862年5月、コーチーズはドラグーン・スプリングスの戦いで南軍に対して小さな勝 利を挙げていた。

山岳ゲリラとも言うべきアパッチ族の戦法は、米軍を翻弄した。辺境でのアパッチ族による1、2人の白人入植者の死は、情報操作されて数十人という途方もな い数字に膨れ上がって東部の白人たちを震え上がらせた。コーチーズは侵略者から彼らの領土を守ろうと努力したが、押し寄せる白人の群れはとどまることを知 らなかった。コーチーズは仲間のアパッチにこう言っている。「白人を10人殺せば、代わりに100人やってくる。」

このなかで、コーチーズと和平を結んだトーマス・ジェフォーズという合衆国郵便配達人の指導監察官がいた。1871年までに14人の配達人がアパッチの領 土を横切ってこれに殺されたために、彼は単身コーチーズに直談判を行った。ジェフォーズはバスコムやウェストのようにインディアンを子供扱いせず、アパッ チの言葉でコーチーズに和平の申し入れを行い、武器を預けてコーチーズを感嘆させた。ジェフォーズはコーチーズについてこう語っている。

「彼は生まれながらの極めて優秀な男だと思う。鷲のような目を持ち、申し分のない男らしい身体つきをしていた。私たちは互いを尊敬した。彼は嘘をつかない男だった。」
アパッチ族に対して偏見の目をもたなかったジェフォーズはコーチーズと終生の友情を結び、郵便通行をアパッチ族から保証された。

ナバホ族絶滅作戦
1863年夏、合衆国のエイブラハム・リンカーン大統領はジェイムズ・ ヘンリー・カールトン准将に命じ、保留地に入ることを拒んで抵抗戦を続けていたナバホ族の殲滅を命じた。カールトンは、テキサスでのカイオワ族やコマンチ 族の絶滅作戦で実績のあった部下のキット・カーソンを南西部に送り込んだ。カーソンはナバホ族の作物を焼き、家畜を奪う焦土作戦で彼らの力を削いだ。

1864年、カールトンはナバホ族をサムナー砦の収容所ボスク・ルドンドまで、「ロング・ウォーク・オブ・ナバホ」と呼ばれる、徒歩連行を強制した。それ までの準備段階で、寒さと栄養失調から126人のナバホ族の捕虜が死んだ。強制収容所までの道程でさらに197人が死んだ。8000人のナバホ族の行きつ く先のボスク・ルドンドには、アパッチ族がすでに強制収容されていた。宿敵同士のアパッチとナバホも、白人からは見分けがつかなかった。彼らはそこで強制 労働に従事させられ、1868年に和平協定で元の土地に戻るまでに、2000人のナバホ族が死んだ。

コーチーズの死
1872年、合衆国のユリシーズ・グラント大統領は、アパッチとの和平 協定のため、南北戦争に参加した隻腕の将軍オリバー・O・ハワードをアパッチ族の領土に派遣した。ハワードはジェフォーズに案内されてコーチーズと面会し た。11日間に及ぶ和平協定の末、チリカウアとドラグーン山地にまたがる先祖の地を、白人の侵入の許されないチリカウア族の指定保留地とし、コーチーズの 強い要望で保留地監督官にはジェフォーズが任官されることで和平は成立した。コーチーズはこのとき、こう言ったとされている。

「白人とインディアンは同じ水を飲み、同じパンを食べ、仲良くしなければならない」
1874年、コーチーズは病に倒れた。死期を悟ったコーチーズはジェフォーズを呼んで、次のようなやりとりをした。「兄弟よ、あなたは生きている私とまた 会えると思うか?」「いいや、明日の夜にはあなたは死んでいるだろう。」「私もそう思う。明日、昼前ごろになるだろう。いつかまたあなたは私に会えると思 うか?」「私にはわからない。あなたはどう思う?」「親友というものはまたどこかで会えるものと私は信じている」

コーチーズは翌日、予言した時間に死んだ。51歳だった。この偉大な戦士の死後、2年間は平和な時代が過ぎた。しかしやがて、保留地定住を拒否したジェロ ニモたちの抵抗戦が、ジェフォーズを悩ませることとなった。メキシコと合衆国双方から抗議を受け、ジェフォーズはつらい立場となった。ジェロニモはおそら く当時のアパッチ族の中でも最もよく知られた戦士だった。ジェロニモはチリカウア・アパッチ族の戦士であり、その逸話はアパッチ族の戦いのなかでも典型的 なものである。

ジェロニモの抵抗
1876年、アリゾナ州知事アンスン・P・サフォードはジェフォーズ監督官の更迭を要求し、地元新聞「アリゾナ・シチズン」紙は次のように社説を載せた。

「チリカウア・アパッチ族に対する戦いは、絶え間なく、無慈悲かつ絶望的で、無差別なものでなければならない。男はもちろん女だろうが子供だろうが皆殺し にし、最後には谷や山頂、険しい岩山、砦のいたるところから、膿みただれゆくチリカウア・アパッチの小気味よい腐臭の煙を立ち昇らせようではないか。」
地元からの抗議に応え、連邦政府は6月にチリカウアの保留地の保留を解消し、集められる限りの部族民を、すでに4000人の別のアパッチ支族が居住するサ ンカルロス・アパッチの保留地に強制移動させることとした。これにチリカウア族の半分は従ったが、半分はジェロニモとともにメキシコに逃亡した。

1877年春、アメリカ合衆国のジョン・クラムというサンカルロス保留地監督官は、「話し合い」をジェロニモに持ちかけて油断させ、これを捕縛し、サンカ ルロス保留地に連行した。1872年にハワード将軍が指定したこの保留地は、ヒーラ川の両岸にまたがる1万3000㎢の不毛の土地だった。合衆国は山岳民 族であるアパッチ族に、毒蛇や毒虫の横行するこの乾燥した土地で強制労働を課していた。インディアン監督官たち白人はアパッチ族に対する保留地年金をピン はねし、食糧を横流しして横領した。

1881年、絶望的なアパッチの収容所となったサンカルロス保留地では、ノチ・アイ・デル・クリンという呪い師の、「死んだ偉大なアパッチの戦士が蘇り、 再び自由なアパッチの世界を取り戻す」という教理が急速に拡がっていた。8月にインディアン監督官はこの呪い師を逮捕しようと85人の米軍兵士を、保留地 の端にあるノチ・アイ・デル・クリンの家まで派遣した。騎兵隊の接近を宣戦布告と受け取ったアパッチ族と、白人兵士との交戦となり、呪い師と併せ、双方に 死者が出た。保留地周辺に援軍の米軍兵士が集まるのを見て、ジェロニモは自分が縛り首になるとのうわさを聞き、9月に74人の仲間とともに再度メキシコに 逃げた。翌年4月、ジェロニモは馬と銃を持ってサンカルロス保留地に戻り、残っていたアパッチ族を解放した。

1883年5月南西部方面軍に赴任したジョージ・クルック将軍は「アパッチを制するにはアパッチを使うべきだ」と考え、197人のインディアン斥候(ア パッチ族以外も含む)と共にメキシコに遠征した。アパッチ族をよく知るインディアン斥候はメキシコ山中のジェロニモたちの宿営地を急襲し、アパッチ族を9 人殺し、コーチーズの孫娘を含む5人のアパッチを捕虜にした。これは山中では無敵を誇ったアパッチ抵抗者たちにショックを与えた。5月20日にメキシコ領 内でクルックと会見したジェロニモは、クルックが意外にも話せる白人だと考え、2か月以内に保留地に戻ると約束した。

1884年3月に、アパッチ抵抗戦集団はメキシコから合衆国へ入った。このとき、ジェロニモは交易に使うつもりで350頭の牛を連れていたが、これを白人 当局に没収されてしまったため、最初から深い憤りに満ちていた。アパッチ族にとって、牛馬を盗むことは部族の美徳、英雄行為であり、この牛たちはアパッチ にとって正当な財産だったからである。クルックは劣悪な保留地について、幾つかの改良を行ったが、地元の新聞はクルックがジェロニモに対してあまりに寛大 であると批判し、ジェロニモを悪者扱いした。

インディアンは酒造文化を持たないが、アパッチ族はその数少ない例外の一つだった。彼らはトウモロコシを発酵させた弱いビールを楽しむが、白人たちは保留地でアパッチ族に禁酒を強制し、強い不満がアパッチ族に高まっていた。

1885年5月7日、ジェロニモは10数人の仲間と、アパッチ族伝統のビールで故意に宴会を開き、アパッチ族の飲酒の正当性を挑発誇示してみせた。サンカ ルロス保留地の白人将校はこれをクルックに充てて電報を打とうとし、インディアン斥候隊長のアル・シーバーに見せた。アル・シーバーはこのときひどい二日 酔いで、「大した事じゃないよ」とつぶやいた。これを聞いた白人将校は電報を打つのをやめてしまった。いつまでたっても白人が何も言ってこないので、ジェ ロニモは次第に不安になり、子供を含む男女134人とともに再びメキシコ側に逃亡した。クルックは電報の一件を聞いて激怒した。彼は「もし私がこのことを 知っていたら、こんな事態にはならなかったと確信している」と述べている。

1885年から翌年にかけての冬の間、クルックは騎兵20個中隊、インディアン斥候200名余という、対アパッチ戦史上最大規模の軍勢でシェラマドレ山脈 でのアパッチ追跡行を行った。1月に一度アパッチを襲って馬と食糧を奪ったが、3月になってついにメキシコ国境を越えようとしているジェロニモに追いつい た。クルックはインディアンに対する偏見を隠そうともせず、こう回想している。

「我々の絶え間ない追跡で彼らには疲労の色こそ隠せないが、肉体的状態はすこぶる良好で、完全部族した猛虎さながらの精悍さだった。自分たちがどれほど無 慈悲な人非人なのか知っているため、彼らはほかのあらゆる人間を信じない。我々は彼らが1000人の兵力で包囲しても逮捕できる見込みのない場所に野営を 張っていた。彼らは敵が接近してもすぐに周囲の峡谷に四散して身を隠すことが出来た。」
白人はあくまでもはジェロニモを「指導者」だと思っているから、クルックも終始ジェロニモ個人との会談を望み、ジェロニモの同意を他のアパッチの総意と誤 解している。しかしインディアンの社会は合議制に基づいており、部族民を率いる「指導者」や「首長」は存在しない。部族のもめごとは調停者である首長がと りまとめるが、ジェロニモは戦士であって首長ではない。

ジェロニモとクルックは2日に渡って会談を行った。ある記録では、交渉の為の会合を設定している間に、アパッチ族の多くの者が強い酒を与えられ、地元の牧 場主による噂を吹き込まれた。ジェロニモとその集団は雨の降る暗い夜に、男女と子供合わせた38人とともに逃亡した。クルックは彼らを捕まえられなかっ た。もともとインディアン斥候の大量動員に反対していたフィリップ・シェリダン将軍はこの失敗でクルックを譴責し、こう電報を送った。

「貴下の昨日の報告書を受け取った。甚だ残念に思う。インディアンの斥候に気付かれずにジェロニモたちが逃亡できたのは奇妙な話である」
インディアンを全く信用しないシェリダンのこのそっけない返報に嫌気のさしたクルックは辞任した。後任は1886年4月にネルソン・マイルズ准将が継い だ。マイルズは2ダース以上のモールス信号用の日光反射信号機を山頂30か所に設営し、5,000名の兵士、500名のアパッチ族斥候、100名のナバホ 族斥候および数千の白人民兵を組織して、ジェロニモとその仲間の探索に向かわせた。ジェロニモたちは日光反射板を白人の魔法だと思い、山頂には近づかな かった。

1886年4月、ジェロニモたちはメキシコ側とアリゾナ側で襲撃を行い、人命と馬、糧食を奪った。ジェロニモたちがマイルズの警戒をかいくぐって襲撃を繰 り返すさまに、南西部全体は病的な恐慌状態となった。地元新聞はアパッチの襲撃による死者の数を数十倍に誇張し、「ジェロニモには150人の配下がいる」 と主張した(インディアンには「上司」も「配下」も存在しない)。「ジェロニモは狼煙で保留地の仲間を先導している」、「すでに米軍かメキシコ軍に一掃さ れている」といった噂も囁かれたが、実際にはこの時期にはアパッチ抵抗者たちは6月にシェラマドレ山中の奥深くで休息していて、一人の死者も出ていなかっ た。

1886年9月、マイルズはインディアンに精通したチャールズ・ゲートウッド中尉を説得役に派遣した。ゲートウッドはジェフォーズのような豪胆な人物で、 インディアン斥候2人と25人の護衛隊のみでメキシコに向かった。ちょうどアパッチ族は、メキシコのフロンテアスという町にメスカル酒入手のために女たち を使いに出していた。ゲートウッドはその町でメキシコ人がインディアンの皆殺しを企んでいることを聞き、一計を案じて隊を減らし、8月下旬にアパッチの女 一人を尾行した。こうして、ゲートウッドはジェロニモと会談することとなった。彼らは安全のため人質を取りあい、一対一で面談した。ジェロニモはゲート ウッドに、「我々が降伏したら米国は何を提供してくれるのか」と聞いた。ゲートウッドは「お前たちは無条件降伏あるのみで、お前は逮捕されフロリダに強制 移送されるだろう」と答えた。ジェロニモは「保留地へ連れて行くならよし、さもなければ戦いだ」と迫った。

しかしゲートウッドは、ジェロニモの家族がすでに米軍によってフロリダの強制収容所へ送られていることを教えた。これを聞いたジェロニモは意気消沈し、マ イルズとの会談に応じたい、と言った。女子供を含むジェロニモたち37人のアパッチ族は投降したが、マイルズはわざと会談の日に姿を現さなかった。9日間 待たされ、しびれを切らせたジェロニモたちはゲートウッドにシェラマドレ山脈へ一緒に帰らないかと提案したほどだった。

9月3日、ようやくマイルズが現れ、アパッチ族抵抗者たちはフロリダ州のピケンズ砦に強制収監された。女や子供はフロリダ州のマリオン砦に収監された [1]。このなかにはジェロニモ追跡に登用されたアパッチ斥候もいたが、白人にはアパッチの敵も味方も見分けがつかなかったので、彼らもいっしょくたにフ ロリダに送られた。多くの者がそこで死んだ。ジェロニモは二年間フロリダに幽閉され、家族とは一度も面会を許されなかった。

降伏から8年経った1894年、生き残ったチリカウアの抵抗者たちはインディアン準州のシル砦に送られ、絶望と病気で大半がまたたく間に死んだ。ジェロニモ達は降伏したが、白人侵略者たちは彼と38人のアパッチ族の降伏を得るために5000人の白人を必要としたのである。

保留地で強制労働を強いられたアパッチ族の社会は崩壊し、その子供達は同化政策のもと、ペンシルベニア州のカーライル学校に連行された。彼ら児童は白人の伝染病やストレスによって、50人以上が死んでいった。


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インディアン寄宿学校:インディアン寄宿学校(イン ディアンきしゅくがっこう、Indian boarding school)とは、19世紀後半から20世紀にかけて主としてアメリカ合衆国やカナダで作られたインディアンの若年者を同化教育 (Americanization)するための私立施設。

アメリカ
1879年11月1日、インディ アン戦争に従事した将校、リチャード・ヘンリー・プラット(英語版)中尉がペンシルべニア州にアメリカで最初の同化施設としての先住民寄宿舎学校「カーラ イル・インディアン工業学校(英語版)」を設立した。1892年、彼はデンバーでの演説で寄宿舎学校制度を「うちなるインディアンを殺し、その人間を救 う」[1]という言葉でもって説明した。また、1885年、インディアン事務局の監督官を務めたハイラム・プライス(英語版)は、「彼らと戦うより、彼ら に教育を与えたほうがより安価ですむ」と、新たなインディアン政策としての同化政策と寄宿舎学校制度の効率性を主張した[2]。インディアン討伐戦争と寄 宿舎学校制度が、先住民を根絶することを目指す点において同根にあったことを示すものである。

その後、多くアメリカ中で設立された寄宿舎学校はカーライルと同様に「工業学校」と名付けられたものが多く、リザベーション(保留地)に暮らす先住民の子 どもたちを、親と先住民共同体から強制的に引き離し、彼らの宗教や習慣、言語を禁止して、「内なるインディアンを殺し、人間を救う」を合言葉に、キリスト 教や英語教育、職業教育などを行った。証言によると、「工業学校」という名の通り、数学の基礎や品詞など英語文法の基本よりも、大工や家政などに多く比重 をおいた職業訓練であったという[3]。

こうした方針はインディアン民族のアイデンティティに深刻な影響を与えるもので、2000年にBIA局長ケビン・ガバー(Kevin Gover)はBIAの公式な文書でこれを「アメリカ合衆国によるインディアン部族に対する民族浄化である」と記載している。

その影響については20世紀から21世紀にかけて、アメリカでドキュメンタリーの題材として盛んに採りあげられた。

アーカンソー州に本部を置くインディアン組織「アメリカインディアンの生得権の支援センター(The American Indian Heritage Support Center)」は、彼らの公式サイトで「インディアン寄宿学校」についてこう述べている。

「インディアン教育政策は歴史的に、 部族の主権とインディアンの文化を破壊するために西洋人が設立し行使した、『孤立と同化のための兵器』です。 部族の主権とインディアンの文化を破壊することによって、これらの教育政策は本質的に、インディアン個人個人を滅ぼそうとしたさまざまな政策のうちのひと つなのです。」

カナダ
カナダにおいては、アメリカよりも早く、1840年代に「インディアン寄宿学校」が発足している。成り立ちや目的は、アメリカと同じく民族浄化のためのもので、カナダ最後の「インディアン寄宿学校」が閉鎖されたのは、1996年になってようやくのことであった。

カーライル・インディアン工業学校
【上掲:右側のカラムで説明】

インディアン寄宿学校での生活
「インディアン寄宿学校」での生活は、以下のようなものであった[5]。

親元から引き離されたインディアンの5歳から10歳までの児童たちは、「黄色いバス」に乗せられ、わざと彼らの保留地から数百キロ離れて選んだ地に入学さ せられた。入学するとまず身体を洗われて部族の衣服を脱がされ、制服に着替えさせられ、髪を短く切られた。インディアンにとって髪を切るのは、身内が亡く なった時である。ミネソタ州の「パイプ・ストーン寄宿学校」に入れられたデニス・バンクスはこのときの自らの体験として、「みんな家族が死んだと思って泣 き叫んだ」と回想している。

部族の名を名乗ることは禁じられ、「ハンフリー」や「マーガレット」といった白人の名前のいくつかの候補の中から適当なものをつけられた。日常生活は朝6 時から午後10時までで、軍服での行進が日課にあり、軍事教練を基本にした規律で縛られた。教員は白人だった。学習内容は、読み書き算数のほか、男子は大 工仕事や農業、女子は白人料理と裁縫といった手内職である。このほとんどは保留地では何の役にも立たなかった。課目は過密であり、生徒に考える余裕を持た せないように図られていた。

聖書の暗記とキリスト教の祈祷が強制され、部族の信仰は弾圧され禁止された。英語以外の言葉で話すことは禁じられ、話せば「汚い」言葉を話した罰として教 師に石鹸を食べさせられたり、石鹸で口をゆすがされたり、ビンタを食うなどした。もちろん、彼らの幼い心は深い心的外傷を負った。白人の食べ物しか食べさ せられず、インディアンの伝統食は許されなかった。児童生徒たちに許された娯楽はフットボールや野球といった白人の遊びだけで、伝統的な遊びは許されな かった。

学校によって異なったが、学年は最大で12学年まであり、学期末の夏休みにのみ故郷の保留地への帰省が許されたが、家族の事情で帰省できない児童も多かっ た。脱走も多かったが、家から数百マイルという距離がそれを阻止した。ホームシックにかかることは「恥ずべきこと」とされ、脱走者には、「ホット・ライ ン」というガントレットに似た懲罰が加えられた。これは、教師がまず鞭を加え、次に鞭や棒を持って並ばせた20人ほどの生徒達が殴りかかる中を走らされる というものである。前述のデニス・バンクスはそれでも抵抗したために、教師によって丸刈りにされ、数日間女子の制服を着せられて生活させられたと語ってい る。児童生徒が精神的虐待や性的虐待を受ける例もあった。

学生たちは、インディアンの生活様式が白人のものよりも「野蛮で劣っている(savage and inferior)」と教え込まれ、彼らは寄宿学校に入ることでより良い生活様式に教化・上昇(raised up)していると教えられた。また、伝統文化を守るインディアンたちは「ばか(stupid)で汚い(dirty)」とされ、最も速く白人文化に同化した インディアン達を「良いインディアン」と呼び、そうでない人々を「悪いインディアン」と呼ばせた。

インディアン学生は、お互いをスパイする義務が課せられており、つねに教師による監視下にあり、プライバシーは一切無かった。これはほとんどのインディアン部族がプライバシーを非常に尊重する文化を持っているのと対照的である[要出典]。

アパッチ族の悲劇
【上掲:右側のカラムで説明】
アメリカ政府とインディアン寄宿学校
「インディアン寄宿学校」は、様々な政治的道具としても利用された[7]。

1906年、アメリカ政府はホピ族に対して騎兵隊を送り込み、老若男女合わせた全部族民[8]の「インディアン寄宿学校」への入学を強要した。ホピ族はこ れに断固反発し、署名しなかった。アメリカ政府の目的は、彼らホピ族の土地に眠る時価10億ドル相当の石炭、石油、水資源であり、この「インディアン寄宿 学校」入学を強制移住の手段として、これら地下資源を私企業に売り渡す計画が進んでいたのである。

寄宿学校が相次いで作られたのに対し、インディアンの保留地内には1940年代になってもなお公立の学校は作られなかった。「教育」はすべて保留地外の寄宿学校で行われたのである。

強制就学であるにもかかわらず、私立の寄宿学校の年間学費は、1940年代当時で50ドルという高額なものだった。これはインディアン児童の親に対しても多大な経済的負担を強いるものであった。

寄宿学校とインディアン教育を取り巻くその後の歴史
この「文明化」、及び「同化」のプログラムは1926年ま で持続したが、1933年にフランクリン・ルーズベルト大統領の任命を受けBIA局長に就任したジョン・コリアーは、1934年に「インディアン再編成法 令」を可決し、インディアンの自治を促す方針を挙げて同化政策は公式目標から外された。

しかし、1940年代から50年代にかけ、再び同化政策は標準目標化された。 第二次世界大戦の間、保留地のための基金が削られた一方、校舎は老朽化し、寄宿学校は閉鎖され、インディアン学生は保留地から離れた全寮制インディアン学 校に通うよう強制された。これはその後50年に渡って「反再編成方針」として続けられた。

1960年代になると、「インディアン若者会議(NIYC)」や「アメリカインディアン運動(AIM))」など、組織化されたインディアンたちの抵抗勢力 がアメリカ政府が推し進める同化政策と戦い始めた。これを受けて1965年、議会に「インディアンの教育に関する国家諮問協議会 (NACIE)」が設立され、1968年には合衆国政府のインディアン政策決定に関して、インディアン当人たちの参加を容易にするための「インディアンの 機会に関する国家会議(NCIO)」が、ようやく合衆国政府に設立された。

1969年、「インディアンの教育:国家的悲劇、国家的挑戦」と題して、上院小委員会と公共福祉委員会からなる「インディアン教育特別小委員会」によって 「上院報告書91-501(「ケネディ報告書)」がまとめられ、提出された。この報告書は「アメリカインディアンに対する連邦政府の優越的方針は、強制的 な同化のうちのひとつである」と述べ、「そしてその政策はインディアンの子供たちの教育に、悲惨な影響を与えた」と記している。

全米のインディアンの教育方針を束ねる「インディアン教育事務所(OIE)」は元々、「公共法令92-318」の4項目目に基づいて創設された。この法令 は一般的に「1972年のインディアン教育法[9]」と呼ばれているが、この法令は、「インディアン管理局(BIA)」と同様に、アメリカ合衆国に属する すべてのインディアンや、アラスカのエスキモー、アレウトの学生や部族の教育のために直接的な資金援助を提供する、たったひとつきりの異様な連邦法となっ ている。

1995年、「インディアン教育事務所(OIE)」はアメリカ連邦議会で1ドルしか予算配分されず、実質的に廃止状態となった。部族代表者と汎インディア ン組織の代表たちは、ワシントンDCへ出向いて徹夜で議会に抗議し、継続的な資金提供の確約を呼び掛けて報道会見を行った[10]。

BIAの歴史的謝罪
2000年、BIA副長官ケビン・ガバー (1997~2001年まで就任。 彼はポーニー族である)は、寄宿学校を始めとする施政にまつわる、数十億ドルに上るインディアン基金のBIAによる不正隠匿を認めたうえで、過去百数十年 にわたる部族強制移住と同化政策の犯罪性を認め、全米のインディアン部族に対し、涙に濡れながら歴史的な謝罪を行った。以下は彼によるその声明である。イ ンディアン部族で満員の会場は、涙と嗚咽、拍手で沸きかえった[11][12]

「私達は二度と貴方がたの宗教、言語、儀式、また部族のやり方を攻撃することはありません。私達は二度と、貴方がたの子供を里子に出させ、自分たちを恥ずべきものと教えるつもりはありません。」

カナダにおける寄宿舎学校墓地の調査
カナダでは1863年から1998年までの間に15万人以 上の先住民の子どもが寄宿学校での生活を強制された。2008年、先住民寄宿学校の実態とその影響を調査する「カナダ真実和解委員会」(TRC) が発足した[13]。委員会は、5年間の詳細な調査に基づき、寄宿舎学校制度が文化的ジェノサイドに相当するとした複数の最終報告書を発表した[14]。 2015年にその取り組みと記録はマニトバ大学の「国立真実和解センター」(NCTR)へと継承され[15]、地中探知レーダーなどを使った調査が続けら れている。

2021年5月27日、ブリティッシュコロンビア州、カムループス・インディアン・レジデンシャル・スクールの敷地跡から3歳の子供を含む215人の遺骨 が発掘された[16]。この寄宿学校は1890年にカナダ政府の意向をうけカトリック教会が開校・運営し、1969年には政府の運営となった後、1978 年に閉校された。また続いて6月25日にはサスカチュワン州のカウェセス先住民居住区にあるマリヴァル寄宿学校の敷地内において、名の記されていない墓が 751基見つかったと報告されている[17]。


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