カーゴ・カルト・サイエンス
(ファインマンさんの講演)
Cargo Cult Science,by Richard Feynman, 1985
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カーゴカルト・サイエンス(出典:Adapted from the Caltech commencement address given in 1974.)
中世には、犀角を服用すれば精力が増すといった、さまざまな荒唐無稽な考え方があった。そして、その考えを検証する方法が発見された。それは、まず試して
みて、効果がない場合はその考えを排除するというものだ。もちろん、この方法は科学として体系化された。そして、科学は発展を遂げ、私たちは科学の時代を
生きている。実際、科学の時代だからこそ、呪術医がかつて存在していたことを理解するのが難しい。なぜなら、彼らが提案したことは何一つとして本当に効果
があったわけでも、ほとんど効果があったわけでもなかったからだ。
しかし、今日でも私は、遅かれ早かれUFOや占星術、あるいは神秘主義、拡大意識、新しいタイプの認識、超能力などの話題を振ってくる多くの人々に出会い
ます。そして、私はそれが科学の世界ではないと結論づけたのです。ほとんどの人は、多くの素晴らしいことを信じており、私は彼らがそうする理由について調
査することにしました。そして、私の調査への好奇心は、多くのガラクタに圧倒されるという困難に陥った。まず、私は神秘主義や神秘体験に関するさまざまな
考えを調査することから始めた。私はアイソレーションタンクに入り、何時間も幻覚を体験したので、そのことについてはある程度知っている。それから、この
種の思想の温床であるエサレンに行った(素晴らしい場所なので、ぜひ行ってみてほしい)。そして圧倒されてしまった。自分がどれだけ多くの情報に触れてい
たのか、その時には気づいていなかった。
エサレンには、海面から約30フィートの高さの岩棚に、温泉を利用した大きな浴槽がいくつかある。私にとって最も楽しい経験のひとつは、その浴槽のひとつ
に座り、下の岩だらけの海岸に打ち寄せる波を眺め、頭上の澄み切った青空を眺め、そして、静かに現れて一緒に浴槽に入る美しい裸体を観察することだ。
ある時、私はある浴場に座った。そこには、一人の美しい女性が、彼女を知らないような男性と一緒に座っていた。私はすぐに、「なんてこった!この美しい全裸の女性にどうやって話しかけよう?」と考え始めた。
何を言えばいいのか考えていると、その男性が彼女に言った。「マッサージの勉強をしているんだ。君で練習させてもらってもいいかな?」
「もちろん」と彼女は言った。二人は湯船から出て、彼女は近くのマッサージテーブルに横たわった。
私は心の中で「なんて気の利いたセリフなんだ! 私にはとてもそんなことは思いつかない!」と思った。彼は彼女の足の親指を揉み始めた。「なんだか感じるよ」と彼は言った。「下垂体あたりにへこみがあるような気がするんだけど?
私は思わず「下垂体からはかなり遠いところにあるよ!」と口走ってしまった。
彼らは私が正体をばらしてしまったことに驚き、私を見つめながら「リフレクソロジーだよ!」と言った。
私はすぐに目を閉じて瞑想しているように見せた。
これは、私を圧倒するようなもののほんの一例にすぎない。私は超感覚的知覚や PSI
現象についても調べてみたが、そこで最近話題になっていたのは、指で鍵をこすると曲がるという能力を持つとされるユリ・ゲラーだった。そこで私は彼の招待
を受けて、彼のホテルの部屋に行き、心を読むことと鍵を曲げることのデモンストレーションを見に行った。彼は私の心を読むことはできなかった。私の心は誰
にも読めないのだと思う。そして、私の友人が鍵を握り、ゲラーがそれをこすったが、何も起こらなかった。それから彼は、水の中ではより効果があると言った
ので、私たちは皆、水を流したバスルームに立って、その下に鍵を置き、彼が指で鍵をこすっているところを想像できるだろう。何も起こらなかった。だから私
はその現象を調査することができなかった。
しかし、私は考え始めた。他に私たちが信じていることは何だろう?(そして、私は呪術医について考え、何も効果がなかったことに気づけば、彼らを簡単に
チェックできただろうと思った。)そこで、さらに多くの人が信じていること、例えば、教育方法に関する知識があることなどを見つけた。読み方や数学の教え
方など、さまざまな教育方法がある。しかし、よく考えてみれば、同じ教育方法を改善するために同じ人々を使い続けているにもかかわらず、読みの成績は下が
り続け、ほとんど上がらないことがわかるだろう。効果のない呪術医の治療法がある。それを調べるべきだ。彼らはなぜ自分たちの方法が効果があると思ってい
るのだろうか?別の例として、犯罪者の処遇方法がある。多くの理論は明らかに進歩していないが、犯罪者を扱うために用いる方法では犯罪件数を減らす進歩も
ない。
しかし、これらは科学だと言われている。私たちはそれらを研究している。そして、私は常識的な考えを持つ一般の人々が、この疑似科学に怯えていると思う。
自分の子供に読み方を教える良い方法を知っている教師は、学校制度によって別のやり方を強要されたり、自分のやり方が必ずしも良い方法ではないと学校制度
に騙されたりさえする。あるいは、問題児を育てている親は、さまざまな方法で子供を叱った後、専門家が言う「正しい方法」を行わなかったために、一生罪の
意識を抱えることになる。
だから、私たちは本当に効果のない理論や、科学ではない科学を検証すべきなのだ。
私が述べた教育や心理学の研究は、私が「カーゴ・カルト・サイエンス」と呼ぶものの例であると思う。南洋には、カーゴ・カルトの人々がいる。戦争中、彼ら
はたくさんの良い物資を積んだ飛行機が着陸するのを目撃し、今も同じことが起こってほしいと願っている。そこで彼らは滑走路のようなものを作り、滑走路の
両脇に火を灯し、人が座るための木造の小屋を作り、頭にヘッドフォンのような木の板2枚を乗せ、アンテナのように竹の棒を突き出して、操縦席とした。そし
て飛行機が着陸するのを待っている。彼らはすべて正しいことをしている。形は完璧だ。見た目は以前とまったく同じだ。しかし、それはうまくいかない。飛行
機は着陸しない。私はこのようなものを「カーゴカルト科学」と呼んでいる。なぜなら、それらは科学的な調査の明白な原則と形式をすべて踏襲しているが、本
質的な何かが欠けているからだ。なぜなら、飛行機は着陸しないからだ。
もちろん、彼らが何を逃しているかを説明するのは当然私の役目だ。しかし、南洋諸島の島民に、自分たちのシステムに富をもたらすにはどうすべきかを説明す
るのは、ほぼ同じくらい難しい。イヤホンの形をどう改善すべきかを教えるような簡単なことではない。しかし、私が気づいたのは、カーゴカルト科学に一般的
に欠けている特徴があるということだ。それは、私たちが学校で科学を学んできた中で皆さんが学んできたであろう考え方である。私たちはそれを明示的に述べ
ることはないが、科学的な調査のあらゆる例から皆さんが理解してくれることを期待しているだけである。したがって、今それを持ち出して明示的に述べるのは
興味深いことである。それは一種の科学的誠実さ、科学的な思考の原則であり、一種の徹底的な正直さ、一種の背伸びに対応するものである。例えば、実験をし
ている場合、その実験を無効にする可能性があると思われることはすべて報告すべきである。正しいと思われることだけでなく、結果を説明できる可能性のある
他の原因、他の実験で除外したと考えたこと、そして、他の要因が除外されたことを確実に伝えるために、それがどのように作用したかについても報告すべきで
ある。
解釈に疑念を抱かせるような詳細については、分かっている場合は必ず提示しなければならない。少しでも間違っている、あるいは間違っている可能性がある場
合は、できる限り最善を尽くして説明しなければならない。例えば、ある理論を立てて宣伝したり発表したりする場合は、それに反する事実も、賛成する事実も
すべて提示しなければならない。さらに微妙な問題もある。多くのアイデアを組み合わせて精巧な理論を構築した場合、その理論が当てはまることを説明する際
には、当てはまるものが単にその理論のアイデアの元となったものだけではないことを確認したいと思うだろう。さらに別のことも正しく理解できるようにする
ことだ。要約すると、このアイデアは、自分の貢献の価値を判断するのに役立つ情報をすべて提供しようとするものだ。特定の方向や別の方向への判断につなが
る情報だけでなく、すべてを提供しようというのだ。
この考え方を最も簡単に説明すると、例えば広告と対比するとよい。昨晩、ウェッソン社のオイルは食品に染み込まないという広告を聞いた。確かにその通り
だ。それは不正ではない。しかし私が言いたいのは、不正ではないということではなく、科学的な誠実さの問題であり、それは別の次元の話だ。その広告文に付
け加えるべき事実とは、ある一定の温度で調理すれば、どの油も食品に染み込まないということだ。別の温度で調理すれば、ウェッソンオイルも含めて、どの油
も染み込んでしまう。つまり、事実ではなく、その暗示が伝わっているのだ。そして、その違いこそが、私たちが対処しなければならない問題なのだ。
私たちは経験から、真実が明らかになることを学んできた。他の実験者があなたの実験を繰り返し、あなたの考えが正しかったのか間違っていたのかが明らかに
なるだろう。自然の現象はあなたの理論に同意するか、それとも反対するかだろう。そして、一時的な名声や興奮を得ることはあっても、このような研究におい
て細心の注意を払おうとしなかった場合、科学者として良い評判を得ることはできないだろう。そして、このような誠実さ、自分自身を欺かないための注意深さ
が、カーゴカルト科学の多くの研究に著しく欠けている。
もちろん、彼らの困難の多くは、主題の難しさと、その主題に科学的方法を適用できないことに起因している。しかし、これが唯一の困難ではないことに留意すべきである。だからこそ、飛行機は着陸しないが、着陸しないのだ。
私たちは、自分自身を欺くいくつかの方法について、経験から多くを学んできた。その一例として、ミリカンは落下する油滴の実験によって電子の電荷を測定
し、現在では正しくないことが分かっている答えを得た。これは少しずれており、なぜなら彼は空気の粘度の値を間違えていたからだ。ミリカン以降、電子の電
荷の測定の歴史を見てみると興味深い。それらを時間の関数としてプロットすると、1つはミリアンクの値より少し大きく、次の値はそれより少し大きく、次の
値はそれより少し大きく、最終的にそれよりも高い値に収束していることがわかる。
なぜ彼らは、新しい数値がすぐにもっと高い値になることに気づかなかったのだろうか?科学者たちはこの歴史を恥じている。なぜなら、人々がこのようなこと
をしていたことは明らかだからだ。ミリカンの値よりもあまりにも高い数値が出た場合、何かがおかしいに違いないと考え、何かがおかしいかもしれない理由を
探し、見つける。ミリアンクの値に近い数値が出た場合、それほど一生懸命探さなかった。そして、彼らはあまりにもかけ離れた数字を排除し、そのようなこと
を行った。今では、私たちはそのようなトリックを学んでいるので、そのような病気にかからなくなった。
しかし、科学的に完全に誠実であるかのように自分自身を欺かない方法を学ぶという長い歴史は、残念ながら、私が知る限り、特定のコースには含まれていない。ただ、皆さんが浸透によって理解してくれることを期待している。
第一の原則は、自分自身を欺いてはならず、自分自身を欺くのは最も簡単なことであるということだ。そのため、その点については非常に注意しなければならない。自分自身を欺かなくなった後は、他の科学者を欺かないのは簡単だ。その後は、従来通りの方法で正直でいればいい。
科学的に重要ではないことだが、私が信じていることを付け加えたい。科学者として発言する際、素人を欺いてはならないということだ。妻への浮気やガールフ
レンドへの嘘など、科学者ではなく、ただの人間として行動しようとしているときにどうすべきかを教えようとしているわけではない。そういう問題はあなたと
あなたのラビに任せる。私が言っているのは、嘘をつくのではなく、自分が間違っているかもしれないことを示すために最大限の努力をするという、科学者とし
て行動する際に持つべき特定の特別な誠実さのことだ。そして、これは科学者として、特に他の科学者に対して、そして素人に対しても負うべき責任だ。
例えば、ラジオに出演する友人と話していたとき、私は少し驚いた。彼は宇宙論と天文学の研究をしているのだが、その研究がどのような応用分野があるのかを
説明できないのではないかと悩んでいた。私は「応用分野なんてないよ」と答えた。すると彼は「あるんだけど、そう言ったら、この種の研究に対する支援が得
られなくなる」と言った。私は、それは正直ではないと思う。自分が科学者であると主張するなら、素人に自分が何をしているのかを説明するべきだし、そのよ
うな状況下で支援したくないというのであれば、それは彼らの判断に任せるべきだ。
この原則の一例を挙げると、ある理論を検証しようと思ったとき、あるいはある考えを説明しようと思ったとき、どのような結果が出ても公表する決断をすべき
だということだ。ある特定の種類の結果だけを公表すれば、議論をうまく進めることができる。両方の種類の結果を公表しなければならならない。
私は、特定の政府へのアドバイスを与える上でも、それが重要だと言っている。ある上院議員が、自分の州に穴を開けるべきかどうかについてアドバイスを求
め、あなたが他の州の方が良いと判断したとしよう。そのような結果を公表しなければ、それは科学的アドバイスではないように思える。利用されているのだ。
もしあなたの答えがたまたま政府や政治家の望む方向に出た場合、彼らはそれを自分たちの主張の根拠として使うことができる。もし反対の結果が出た場合は、
彼らはそれをまったく公表しない。それは科学的アドバイスではない。
その他の種類のエラーは、科学の質の低さを示すものである。コーネル大学にいた頃、心理学部の学生たちとよく話をした。ある学生は、次のような実験をした
いと私に話してくれた。ある状況下において、XというラットがAという行動をとることは、他者によって発見されていた。彼女は、状況Yに変えた場合、ラッ
トがAという行動をとるかどうか興味があった。そこで、彼女は状況Yで実験を行い、ラットがAという行動をとるかどうか確認するという提案をした。
私は彼女に、まず彼女の研究室で、条件 X の下で実験を繰り返し、彼女も結果 A
が得られるかどうかを確認し、次に Y に変更して A
が変化するか確認する必要があることを説明した。そうすれば、彼女がコントロールできていると思っていたことが、実際には違っていたことがわかるだろう。
彼女はこの新しいアイデアにとても喜び、教授のもとに相談に行った。すると教授は、実験はすでに終わっており、時間を無駄にするだけなので、それはできな
いと答えた。これは1947年頃の話だが、当時は心理実験を繰り返さず、条件を変えて何が起こるかを観察する、というのが一般的な方針だったようだ。
今日では、有名な物理学分野ですら、同じことが起こる危険性がある。私は、国立加速器研究所の大規模加速器で行われた実験について聞いたとき、衝撃を受け
た。重水素を使った実験で、軽い水素を使った場合の結果と比較するために、別の装置で行われた軽い水素に関する他人の実験のデータを使わなければならな
かったのだ。その理由を尋ねると、彼は「この装置で軽い水素を使った実験をしても、新しい結果を得られないので、その実験をするためのプログラムの時間
(時間が非常に少なく、装置が高額であるため)を確保できなかった」と答えた。そのため、NALのプログラム担当者は新しい結果を得ることに非常に熱心で
あり、広報目的のために事業を継続するための予算を増やすために、実験そのものの価値を損なう可能性もある。科学的な誠実さが要求される中で、そこで働く
実験者たちは仕事を完了させることが難しい場合が多い。
しかし、心理学における実験のすべてがこのようなものではない。例えば、ネズミをさまざまな迷路に通す実験は数多く行われてきたが、明確な結果は得られて
いない。しかし、1937年にヤングという人物が行った実験は非常に興味深いものだった。彼は、ネズミが入るドアが片側に一列に並んだ長い廊下を用意し、
反対側には餌が置かれたドアを用意した。彼は、ネズミをどこからスタートさせても、3番目のドアから入るように訓練できるかどうか試したかったのだ。しか
し、結果はノー。ネズミたちは、前回餌があったドアにすぐに走って行った。
問題は、ネズミたちはなぜ、廊下がとても美しく、均一に作られていたため、これが以前と同じドアだとわかったのか、ということだった。明らかにドアには他
のドアとは違う何かがあった。そこで彼はドアをとても慎重に塗り、ドアの表面の質感をまったく同じように整えた。それでもネズミたちはわかった。そこで彼
は、もしかしたらネズミたちは食べ物の匂いを嗅いでいるのかもしれないと考え、実験のたびに化学薬品を使って匂いを変えた。それでもネズミたちは気づいて
しまった。そこで彼は、ネズミたちは、普通の常識的な人間と同じように、研究室の照明や配置を見て判断しているのかもしれないと考えた。そこで彼は廊下を
覆い隠したが、それでもネズミたちは気づいてしまった。
彼は最終的に、床を走ったときに聞こえる音で分かることに気づいた。そして、廊下を砂で覆い隠すことでしか解決できなかった。そこで彼は、考えられるすべ
ての手がかりを次々と覆い隠し、ついにネズミを欺くことに成功した。ネズミたちは3つ目のドアから入ることを覚えなければならなくなった。もし彼が条件を
一つでも緩めたら、ネズミたちはそれを察知することができた。
科学的な見地から言えば、これは「アナンバーワン実験」だ。この実験は、ネズミが実際に使っているのはあなたが考えているものとは違うという手がかりを明
らかにしてくれるため、ネズミを使った実験を意味のあるものにしている。そして、ネズミを使った実験で注意深くすべてをコントロールするためには、どのよ
うな条件を使用しなければならないかを正確に教えてくれる実験でもある。
私はこの研究の後続の歴史を調べた。次の実験、そしてその次の実験では、ヤング氏のことは一切言及されていなかった。通路を砂の上に置くことや細心の注意
を払うことなど、彼の基準は何も使われていなかった。彼らはただ、これまでと同じやり方でネズミを走らせ、ヤング氏の偉大な発見には全く注意を払わず、彼
の論文も参照されなかった。実際、彼はネズミについて何かを発見するために必要なことをすべて発見した。しかし、そのような実験に注意を払わないのは、
カーゴカルト科学の特徴である。
もう一つの例は、ライン氏をはじめとする人々のESP実験である。さまざまな人々が批判を行い、彼ら自身も自分たちの実験を批判することで、その効果は徐
々に小さくなり、さらに小さくなり、そして最終的には完全に消失するまで、その手法を改善していく。超心理学者は皆、統計的に見ても、同じ効果を再現でき
る実験を探している。彼らは何百万匹ものネズミを実験に使っている。いや、今度は人間だ。彼らは多くのことを試して、統計的に一定の効果を得ている。次に
試しても、それ以上の効果は得られない。そして今、ある人物が、再現性のある実験を期待するのは無意味だと言っている。これが科学なのか?
この人物は、超心理学研究所の所長を辞任する講演で、新しい機関についても語っている。そして、次に何をすべきかを人々に伝える中で、彼らがすべきことの
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つは、PSIの結果を許容できる程度に得る能力を示した学生だけを訓練することであり、チャンスの結果しか得られない野心的な学生や興味本位の学生に時間
を無駄にさせないことだ、と述べている。学生に、科学的に誠実な実験を行う方法ではなく、特定の結果を得る方法だけを教えるような教育方針は、非常に危険
である。
だから、あなた方への私の唯一の願いは、私が述べたような誠実さを維持できる自由な場所で、組織内での地位や金銭的な支援などを維持する必要に迫られて、
誠実さを失うようなことがないように、ということです。そのような自由があなた方にありますように。
リ ンク
文 献
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