対位法的読解
Contrapuntal Reading
(バックアップ)
J.S. Bach's
"The Art of Fugue"
解説:池田光穂
「対 位法において重要なことは、楽想の組み合わせそのものではなく、むしろ楽想を多面的に示すことである。テーマはすでに、それ自身のうちに、この多くの音型 を含むように構成されているのであり、楽想を多面的に示すことも、これを通してできるのだ」——アーノルド・シェーンベルク(Josef Rufer, The Work of Arnold Schoenberg, p.151)
「私見だけど、ショパンやシューマンとその同類が、ピアノはホモフォーンの楽器だと思い込んでき
たこと。僕はそうでないと思う。ピアノは対位法楽器だから、垂直と水平の次元が結びつくように扱わなくては面白みがないんじゃないかな」——グレン・グー
ルド(ティム・ページとの対話の中で;1981年)
エドワード・ウィリアム・サイードに よる、批判的読解の方法のひとつである。(→サイードのオリエンタリズム)
対位法とは、ポリフォニー(多声音楽)の技法で、同時に複数の旋律が存在し、個々の旋律(音の繋 がり)が独立性を失うことなく共存する(複音楽的な組合せという)ことである。
和声対位法の大成者のヨハン・セバスチャン・バッハの『フーガの技法』『二声と三声のインベ ンション』『平均率クラヴィア曲集』などを聞いてみれば一聴瞭然になるように、右手と左手の旋律がそれぞれ独立して旋律を奏でながら、同時に掛け合いをす るという——すばらしい漫才のように(私はボケとツッコミという古典的ペアを超脱して2人が駄洒落を掛け合いまくる絶頂期のWヤングを思い出します)—— 様子が手に取るようにわかります。
サイードはクラシックピアノ名手で、バッハの鍵盤音楽の革新的な演奏者であったグレン・グー ルドのよき理解者であるので、サイードが対位法という時に、バッハを念頭においていることは想像に難くありません。
【文献】サイード,エドワード・W.『音楽のエラボレーション』大橋洋一訳、東京:みすず書 房、1995年
音楽の対位法にヒントを得て、サイードは対位法的読解(読み)を提唱する。これは、同時代的状況 の中で地理的にまったく離れたところで、まったく関係のないように思われた出来事によるテキストの生産をつき合わせることで、その相互に共通にみられる、 ないしは、独立した出来事(旋律)が絡み合う対位法的なハーモニーの生成——専門的には和声的対位法 harmonischer Kontrapunk ——を発見しようとすることである。
サイードのテキストでは以下のように表現されている。
「わたしが「対位法的読解」と読んだものは、実践的見地からいうと、テクストを読むときに、 そのテクストの作者が、たとえば、植民地の砂糖プランテーションを、イギリスでの生活様式を維持するプロセスにとって重要であると示しているとき、そこに どのような問題がからんでくるかを理解しながら読むことである」(サイード『文化と帝国主義1』p.137/原著、1993:66)。
サイードの対位法的読解は文学批判のみならず、歴史における因果的連鎖にこだわり暗黙利に「歴史 の原因」を追求する実証主義的歴史観から自由になれる可能性をもっている。また、世界の中心と周辺での出来事を統一的に理解しようとする世界システム論な どとの議論とも関連性をもっている。
社会事象を狭量な因果関係のみで把握してきた社会の理解や、客観的中立の分析態度に対して、(文 学批判における)対位法的読解や(社会科学領域における)世界システム論が登場することも、ある意味で対位法的に捉えることができるかもしれない。
■引用
「わたしが「対位法的読解」と呼んだものは、実践的見地からいうと、テクストを読むときに、その テクストの作者が、たとえば、植民地の砂糖プランテーションを、イギリスでの生活様式を維持するプロセスにとって重要であると示しているとき、そこにどの ような問題がからんでくるかを理解しながら読むことである。またさらに、あらゆる文学テクストにいえることだが、文学テクストは、その形式上のはじまりと 終わりによって永遠に閉じられ拘束されることはない。『デイヴィッド・コパーフィールド』におけるオーストラリアに対する言及、あるいは『ジェイン・エ ア』におけるインドに対する言及は、それらが言及可能であるがゆえになされるのである。つまり大がかりな植民地収奪について、小説家がことのついでに言及 することを可能にしているのは、イギリスという国家権力そのものである(それは小説家のたんなる気まぐれではないのだ)。しかし次のさらなる教訓も、これ におとらず真実をついているかもしれない。つまり海外植民地は、やがて、直接支配からも間接支配からも解放されるのだが、このプロセスは、イギリス(ある いはフランスやポルトガルやドイツなど)がまだそこにいるあいだからすでにはじまっていたのである。たとえ、このプロセスが、原住民のナショナリズムを抑 圧するいとなみのひとつとからまりあっていても、その点については、おざなりな注目のされかたしかされてこなかったとしても。要は、対位法的読解は、両方 のプロセス、つまり帝国主義のプロセスと、帝国主義への抵抗のプロセスの両方を考慮すべきであるということだ。テクストを読むときに、視野をひろげ、テク ストから強制的に排除されているものをふくむようにすればいいのである。たとえばカミュの『異邦人』から排除されているのは、フランスの植民地主義の歴史 全体であり、アルジェリア人国家の破壊であり、その後の独立アルジェリアの台頭(カミュはこれに反対した)である」(サイード 1998:137-138)。
In practical terms, "contrapuntal reading"
as I have called it means reading
a text with an understanding of what is involved when an author shows,
for instance, that a colonial sugar plantation is seen as important to
the
process of maintaining a particular style of life in England. Moreover,
like
all literary texts, these are not bounded by their formal historic
beginnings
and endings. References to Australia in David Copperfield or India in
Jane Eyre
are made because they· can be, because British power (and not just the
novelist's fancy) made passing references to these massive
appropriations
possible; but the further lessons are no less true: that these colonies
were
subsequently liberated from direct and indirect rule, a process that
began
and unfolded while the British (or French, Portuguese, Germans, etc.)
were
still there, although as part of the effort at suppressing native
nationalism
only occasional note was taken of it. The point is that contrapuntal
reading
must take account of both processes·, that of imperialism and that of
resistance
to it, which can be done by extending our reading of the texts to
include what was once forcibly excluded-in L 'Etranger, for example,
the
whole previous history of France's colonialism and its destruction of
the
Algerian state, and the later emergence of an independent Algeria
(which
Camus opposed). (Said 1994:66-67)
■リンク
■文献