散種
Dissémination
☆散 種(さんしゅ,仏: Dissémination,ディセミナシオン)とは、哲学者ジャック・デリダの代表的な用語である。
☆ 散種とはタネを飛ばすことであるが、それが転じて、複雑性を生み出す解釈の可能性についての概念。ただし、多義性とは異なる。 「多義性」ではその単語を使った理由を知るために時代背景などを考察する必要を認め、(ほぼ)無限に遡ることを許す。しかし遡って得られるのはあくまで過 去に存在した意味の「解明」である。つまり多義性における意味は、「過去」に存在し今後未来に回復されうるものである。 対して「散種」では意味を遡る際、過去におけるその単語の存在の有無、過去のその意味での使用の有無などに影響されない。過去には別の意味で使われていた かもしれないが、それは遡ることはできない。また今後とある言語の内部で新たに別の意味が設けられる時、その意味は多義性とは異なり、一つの意味に回収さ れずに拡散する。つまり散種とは、多義性という「同一性」にとらわれない差延的運動である。
★ 林と廣瀬(2003:53)は、言語表現の一元性を要請するフッサール的企てに対して、それとは正反対の、ジョイス的複雑性を、デリダは散種と呼んだ(デ リダのソレルス論「散種」)。ジョイス的複雑性とは、地口や駄洒落を駆使する手法であり、ジョイス的企てにより、テキストの意味はますます複雑化してゆ く。
| マラルメの詩と詩法 |
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| 1971年の対談「ポジション」 |
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| 文学的エクリチュールの自立的構造 |
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| 文学本来のエクリチュール(バルト「エクリチュールのゼロ度」) |
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| 散種の概念を文学的エクリチュールから哲学的なそれに導入 |
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| 散種的エクリチュール |
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| デリダの試みで、哲学的エクリチュールと文学的エクリチュールの、対立構造が明らかになる。 |
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| 批判の代表は、ハバーマス「近代の哲学的ディスクルス」 ハバーマスの批判は、逆に、哲学が歴史的に文化的に構築された権威であり、文学的なものとは違うことを、前提化している。 |
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| ハバーマスは、理性の権威を、哲学的な議論の中に担保しようとするが、そのことが、逆に哲学における理性主義批判の手綱に対して甘くなってしまう、遂行的矛盾を生じる |
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| 論理の要請は、無矛盾だが、それが美的な要請に席を譲るのなら、レトリックに対して論理がもっていたそれまでの優位性は崩れてしまう。 |
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| 誰もが形而上学の閉域から脱出することはできない。理性による理性批判は、形而上学による形而上学批判と同じにならざるを得ない。 |
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| ハバーマス流の言語を伝達の道具とみなす古典的エクリチュールは、ロラ
ン・バルトによると1950年ごろには破綻している。その後の著述家は、古典主義的エクリチュールと対決することを抜きにして書くことは不可能である。文
学はそれゆえ、つねに言語の問題性をはらむものにならざるをえない。言語を人間が意のままに使っているのではなく、人間が言語(ないしは記号)により意のままになっている(M.ブランショ) |
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| 哲学は明証な記述体系であることを放棄することはできないが、文学は何
でも言うことができるという可能性があり、哲学は文学がもつ後者の可能性を導入することは、ハバーマスがおそれる脅威となるだけでなく、他者に語りかける
唯一の可能性を手にすることができる。哲学は文学との「対話」を通して、それまでのモノロジックな伝統から、一歩踏み出すことが可能になる。 |
リ ンク
文 献
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CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099