はじめに よんでください

ダグラス・マッカーサーと日本

Douglas MacArthur and his Japan

池田光穂

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ合衆国の軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官などを歴任した。

1880
アーカンソー州で生まれ
1896
ウェストポイント陸軍士官学校を首席で 卒業
1918
第一次世界大戦に従軍、武功をたてる
1919
史上最年少で同士官学校の校長
1925
最年少でアメリカ軍の少将に就任
1930
最年少でアメリカ軍参謀総長に就任
1935
参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任。 アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定
1936
1936年にはフィリピン軍の元帥(2月)副官のアイゼンハワーは、存 在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これは マッカーサー自身がケソンに発案したものだった。1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加。
1937
12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還 を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出し、そのままフィリピンに残ること となった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。
1938
1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模 な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を 命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をし た覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは 友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。
1939
第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合 国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった[67]。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた
1939-1941
第二次世界大戦が始まってからも主に予算不足が原因で、フィリピン軍は 強化が進まなかったが、日独伊三国同盟が締結され、日本軍による仏印進駐が行われると、ルーズベルトは強硬な手段を取り、石油の禁輸と日本の在米資産を凍 結し、日米通商航海条約の失効もあって極東情勢は一気に緊張した。継続的な日米交渉による打開策模索の努力も続けられたが、日本との戦争となった場合、 フィリピンの現戦力ではオレンジ計画を行うのは困難であるとワシントンは認識し、急遽フィリピンの戦力増強が図られることとなった
1941
7月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰(7月26日付 で少将として召集、翌日付で中将に昇進、12月18日に大将に昇進)した。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司 令官となる
1941-1942
ジョー ジ・マーシャル陸軍参謀総長は「フィリピンの防衛はアメリカの国策である」と宣言し、アメリカ本国より18,000名の最新装備の州兵部隊を増援に送ると マッカーサーに伝えたが、マッカーサーは増援よりもフィリピン軍歩兵の装備の充実をマーシャルに要請し了承された[69]。またアメリカ陸軍航空隊が『空 飛ぶ要塞』と誇っていた新兵器の大型爆撃機B-17の集中配備を計画した。陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド少将は「手に入り次第、B-17をできるだ け多くフィリピンに送れ」と命令し、計画では74機のB-17を配備し、フィリピンは世界のどこよりも重爆撃機の戦力が集中している地域となる予定であっ た[70]。他にも急降下爆撃機A-24、戦闘機P-40など、当時のハワイよりも多い207機の航空機増援が約束され、その増援一覧表を持ってマニラを 訪れたルイス・ブレアトン(英語版)少将に、マッカーサーは興奮のあまり机から跳び上がり抱き付いたほどであった[71]。 マーシャルはB-17を過信するあまり日本軍航空機を過少評価しており、「戦争が始まればB-17はただちに日本の海軍基地を攻撃し、日本の紙の諸都市を 焼き払う」と言明している。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛ん で、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいと楽観的に考えていた。その楽観論はマッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省 はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(中略)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦 争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べているが、この自軍への過信 と敵への油断は後にマッカーサーへ災いとして降りかかることになった[72]。 また同時に、海軍のアジア艦隊(英語版)の増強も図られ、潜水艦23隻が送られることとなり、アメリカ海軍で最大の潜水艦隊となった[73]。アジア艦隊 司令長官は、マッカーサーの知り合いでもあったトーマス・C・ハートであったが、マッカーサーは自分が中将なのにハートが大将なのが気に入らなかったとい う[注釈 4]。そのためマッカーサーは「Small fleet, Big Admiral(=小さな艦隊のくせに海軍大将)」と、ハートやアジア艦隊を揶揄していた[注釈 5]。当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、 マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。この転換は後に、マッカーサーと アメリカ軍・フィリピン軍兵士を苦しめることとなったが、マッカーサーの作戦変更の提案にマーシャルは同意した[74]。もっとも重要な首都マニラを中心 とするルソン島北部にはジョナサン・ウェインライト少将率いるフィリピン軍4個師団が配置された。日本軍の侵攻の可能性が一番高い地域であったが、ウェイ ンライトが守らなければいけない海岸線の長さは480kmの長さに達しており、任された兵力では到底戦力不足であった。しかし、マッカーサーはウェインラ イトに「どんな犠牲を払っても海岸線を死守し、絶対に後退はするな」と命じていた
1941年暮
1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワイ 州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで真珠湾の攻撃を知り マッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時 間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけ るべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した[78]。明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待 機していたが、ブレアトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載し はじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合 計106機がクラークフィールドとイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、 その離陸した戦闘機もほとんどが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40とP-35の 戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存 機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した[79]。人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を 操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し、彼我の差は7対3と いう圧倒的不利な状況下にあった」と実際とは異なる報告をしている。マーシャルの約束していた兵力増強にはほど遠かったが、マッカーサーは優勢な航空兵力 と15万の米比軍で上陸する日本軍を叩きのめせると自信を持っていた。しかし、頼みの航空戦力は序盤であっさり壊滅してしまい、日本軍が12月10日にル ソン島北部のアバリとビガン、12日には南部のレガスピに上陸してきた。マッカーサーはマニラから遠く離れたこれらの地域への上陸は、近いうちに行われる 大規模上陸作戦の支援目的と判断して警戒を強化した[80]。マッカーサーは日本軍主力の上陸を12月28日頃と予想していたが、本間雅晴中将率いる第 14軍主力は、マッカーサーの予想より6日も早い22日朝にリンガエン湾から上陸してきた。上陸してきた第14軍は第16師団と第48師団の2個師団だ が、既に一部の部隊がルソン島北部に上陸しており、9個師団を有するルソン島防衛軍に対しては強力な部隊には見えなかったが[80]、上陸してきた日本軍 を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサー は、勝敗は決したと悟ると自分の考案した水際作戦を諦め、当初のオレンジ計画に戻すこととし、マニラを放棄してバターン半島とコレヒドール島で籠城するよ うに命じた[81]。 ウェインライトの巧みな退却戦により、バターン半島にほとんどの戦力が軽微な損害で退却できたが、一方でマッカーサーの作戦により平地に集結させていた食 糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラック までが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった[82]。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物 資集積所だけでも米が5,000万ブッシェルもあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった[83]。バターン半島には、オレンジ計画によ り40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠 もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4ヶ月はもたないと思われた。快進撃 を続ける日本軍は第14軍主力がリンガエン湾に上陸してわずか11日後の1942年1月2日に、無防備都市宣言をしていたマニラを占領した。本間はマッ カーサーが滞在していたマニラ・ホテルの最上階に日章旗を掲げさせたが、それを双眼鏡で確認したマッカーサーは、居宅としていたスイートルームの玄関ホー ルに飾っていた父アーサーが1905年に明治天皇から授与された花瓶に、本間は気が付いて頭を下げるんだろうか?と考えて含み笑いをした[84]。
1942
マッカーサーはマニラ陥落後、米比軍がバターン半島に撤退を完了した1 月6日の前に、コレヒドール島のマリンタ・トンネル(英語版)内に設けられた地下司令部に、妻ジーンと子供のアーサー・マッカーサー4世を連れて移動した が、コレヒドール島守備隊ムーア司令の奨めにも関わらず、住居は地下壕内ではなく地上にあったバンガロー風の宿舎とした。幕僚らは日本軍の爆撃の目標にな ると翻意を促したがマッカーサーは聞き入れなかった。マッカーサーは日本軍の空襲があると防空壕にも入らず、悠然と爆撃の様子を観察していた。ある時には マッカーサーの近くで爆弾が爆発し、マッカーサーを庇った従卒の軍曹が身代わりとなって負傷することもあった。一緒にマリンタ・トンネルに撤退してきたケ ソンはそんなマッカーサーの様子を見て無謀だと詰ったが、マッカーサーは「司令官は必要な時に危険をおかさなければいけないこともある。部下に身をもって 範を示すためだ」と答えている[85]。ッカーサーは日本軍の戦力を過大に評価しており、6個師団が上陸してきたと考えていたが、実際は2個師団相当の 40,000名であった。一方で、日本軍は逆にアメリカ・フィリピン軍を過小評価しており、残存兵力を25,000名と見積もっていたが、実際は 80,000名以上の兵員がバターンとコレヒドールに立て籠もっていた。当初から、第14軍の2個師団の内、主力の機械化師団第48師団は、フィリピン攻 略後に蘭印作戦に転戦する計画であったが、バターン半島にアメリカ・フィリピン軍が立て籠もったのにも関わらず、大本営は戦力の過小評価に基づき、計画通 り第48師団を蘭印作戦に引き抜いてしまった[86]。本間も戦力を過少評価していたので、1942年1月から第65旅団でバターン半島に攻撃をかけた が、敵が予想外に多く反撃が激烈であったため、大損害を被って撃退されている。その後、日本軍はバターンとコレヒドールに激しい砲撃と爆撃を加えたが、地 上軍による攻撃は3週間も休止することとなった[87]。その間、日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍 用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった[88]。マッカーサーらは「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」 と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に 圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪 水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッ カーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している[89]。しかし その当時、バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカー サー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援 策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復される であろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し、マッカーサーとケソンは狂喜したが、実際には重巡ペンサコーラに護衛されマニラへ大量の火 砲などの物資を運んでいた輸送船団が、危険を避けてオーストラリアに向かわされるなど、救援策は具体的には何もなされなかった[90]。マッカーサーがコ レヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れオランダ領東インドに撤退し、太平洋艦隊主力も真珠湾で受けた損害が大きすぎて フィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜と なることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった 場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである[91]。しかしマッカーサーは降伏す る気はなく、1942年1月10日に本間から受け取った降伏勧告の書簡を黙殺しているが、それはアメリカ本国からの支援があると固く信じていたからであっ た[92]。フィリピンへの支援を行う気が無いマーシャルら陸軍省は、この時点でマッカーサーをオーストラリアに逃がすことを考え始め、2月4日にマッ カーサーにオーストラリアで新しい司令部を設置するように打診したがマッカーサーはこれを拒否、逆に海軍が太平洋西方で攻勢に出て、日本軍の封鎖を突破す るように要請している[91]。
1942
(3月)嘘の公式発表をするのと並行してマッカーサーは脱出の準備を進 めていた。コレヒドールにはアメリカ海軍の潜水艦が少量の食糧と弾薬を運んできた帰りに、大量の傷病者を脱出させることもなく金や銀を運び出していた [101]。先に脱出に成功したケソンのようにその潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサーは生まれついての閉所恐怖症であり、脱 出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出し許可された。マッカーサーは、家族や幕僚達と共に魚雷艇でミンダナオ島に脱出する事とした [102]。3月11日にマッカーサーと家族と使用人アー・チューが搭乗するPT-41(英語版)とマッカーサーの幕僚(陸軍将校13名、海軍将校2名、 技術下士官1名)が分乗する他3隻の魚雷艇はミンダナオ島に向かった。一緒に脱出した幕僚は『バターン・ギャング(またはバターン・ボーイズ)』と呼ば れ、この脱出行の後からマッカーサーが朝鮮戦争で更迭されるまで、マッカーサーの厚い信頼と寵愛を受け重用されることとなった[103]。ルーズベルトが 脱出を命じたのはマッカーサーとその家族だけで、幕僚らの脱出は厳密にいえば命令違反であったが、マーシャルは後にその事実を知って「驚いた」と言っただ けで不問としている[104]。オーストラリアまで10時間かけて飛行した後、一行は列車で移動し、3月20日にオーストラリアのアデレード駅に到着する と、マッカーサーは集まった報道陣に向けて次のように宣言した「私はアメリカ大統領から、日本の戦線を突破してコレヒドールからオーストラリアに行けと命 じられた。その目的は、私の了解するところでは、日本に対するアメリカの攻勢を準備することで、その最大の目的はフィリピンの救援にある。私はやってきた が、必ずや私は戻るだろう(I shall return)」

(4月)日本軍第14軍は第4師団と香港の戦いで活躍した第1砲兵隊の 増援を得ると総攻撃を開始し、4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑した。軍主力 が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦を指示する が、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。結局、フィリピンが日本軍の計画を超過して、5ヶ月 間も攻略に時間を要したのは、マッカーサーの作戦指揮が優れていたのではなく、大本営のアメリカ・フィリピン軍の戦力過少評価により第14軍主力の第48 師団がバターン半島攻撃前に蘭印に引き抜かれたのが一番大きな要因となった[113]。マッカーサーは戦後に自身の回顧録などでバターン半島を長期間持ち 堪えた戦略的意義を強調していたが、日本軍の大本営は“袋のネズミ”となったバターン半島の攻略を急いで大きな損害を被る必要はないと判断していただけ で、実際にバターン半島を早く攻略しなかったことによる戦略的な支障はほとんどなかった[114]。日本軍第14軍は第4師団と香港の戦いで活躍した第1 砲兵隊の増援を得ると総攻撃を開始し、4月9日にバターン半島守備部隊長エドワード・P・キング少将が降伏すると、マッカーサーは混乱し、怒り、困惑し た。軍主力が潰えたウェインライトもなすすべなく、5月6日に降伏した。それを許さないマッカーサーは、残るミンダナオ島守備隊のシャープ准将に徹底抗戦 を指示するが、シャープはウェインライトの全軍降伏のラジオ放送に従い降伏し、フィリピン守備隊全軍が降伏した。結局、フィリピンが日本軍の計画を超過し て、5ヶ月間も攻略に時間を要したのは、マッカーサーの作戦指揮が優れていたのではなく、大本営のアメリカ・フィリピン軍の戦力過少評価により第14軍主 力の第48師団がバターン半島攻撃前に蘭印に引き抜かれたのが一番大きな要因となった[113]。マッカーサーは戦後に自身の回顧録などでバターン半島を 長期間持ち堪えた戦略的意義を強調していたが、日本軍の大本営は“袋のネズミ”となったバターン半島の攻略を急いで大きな損害を被る必要はないと判断して いただけで、実際にバターン半島を早く攻略しなかったことによる戦略的な支障はほとんどなかった[114]。1942年4月18日、南西太平洋方面のアメ リカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。
1943

1944
1944年6月から開始されたニミッツによるマリアナ諸島の攻略戦は、 サイパンの戦い、グアムの戦い、テニアンの戦いの激戦を経てアメリカ軍の勝利に終わったが、アメリカ軍の被った損害も大きかったため、マッカーサーや共和 党支持の保守系の新聞は、フィリピン攻撃は最小限のアメリカ人の犠牲で同じ戦略的利点を獲得すると主張した[124]。しだいにアメリカ軍内でフィリピン 攻略について賛同するものも増えており、太平洋方面の前線指揮官らはマッカーサーに賛同していた。一方でアーネスト・キング海軍作戦部長、マーシャル、ヘ ンリー・アーノルドアメリカ陸軍航空軍司令官はフィリピン迂回を主張しており、アメリカ軍内の意見も真っ二つに割れていた。ルーズベルトはこのような状況 に業を煮やして、マッカーサーとニミッツに直接意見を聞いて方針を決めることとし、1944年7月26日に両名をハワイに召喚した[125]。ニミッツは 自分の上官であるキングの意見を代弁することとなったが、ニミッツ自身は考えがまとまっていなかったため、作戦説明は迫力を欠くものとなり、マッカーサー の独壇場となった。マッカーサーは何度も「道義的」や「徳義」や「恥辱」という言葉を使い、フィリピン奪還を軍事的問題としてより道義的な問題として捉え ているということが鮮明となった。さらにマッカーサーはキングが主張するフィリピンを迂回して台湾を攻略するという作戦よりは、フィリピン攻略のほうが期 間が短く、損害も少ないと主張した。ルーズベルトは「ダグラス、ルソン攻撃は我々に耐えられないくらい大きな犠牲を必要とするよ」と指摘したが、マッカー サーは強くそれを否定した。そのあとルーズベルトとマッカーサーは10分ほど二人きりとなったが、その時マッカーサーは1944年の大統領選を見据えて、 「アメリカ国民の激しい怒りは貴方への反対票となって跳ね返ってくる」と脅している。ルーズベルトはマッカーサーが一方的に捲し立てた3時間もの弁舌に疲 労困憊し、同行した医師にアスピリンを2錠処方してもらうと「私にあんなこと言う男は今までいなかった。マッカーサー以外にはな」と語っている [126]。マッカーサーもルーズベルトの肉体的な衰えに驚いており、「彼の頭は上下に揺れ、口は幾分ひらいたままだった」と観察し、「次の任期まではも たない」と予想していたが、事実その通りとなった[127]。翌日も引き続き会談は続けられ、会談終了後に海軍が準備した楽団、歌手、フラダンスによる ショーにルーズベルトから誘われたマッカーサーではあったが、すぐに前線に戻らないといけないと断り、ハワイを発とうとしたときに、ルーズベルトから呼び 止められ「ダグラス、君の勝ちだ。私の方はキングとやりあわなければらないな」とフィリピン攻略を了承した。かつての卓越した雄弁家も、肉体の衰えもあっ て完全に舞台負けした形となった[126]。
1945
レイテを攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。 旗艦の軽巡洋艦ボイシに座乗したマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間中将が上陸してきたリンガエ ン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特別攻撃隊の特攻機や特殊潜航艇であった。マッカーサーの旗艦であったナッ シュビルもルソン島攻略に先立つミンドロ島の戦いで特攻機の攻撃を受け、323名の大量の死傷者を出して大破していたが、その時、マッカーサーは乗艦して おらず、ミンドロ島攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将の幕僚らが多数死傷している[147]。特にマッカーサーに衝撃を与えたのは、戦艦 ニューメキシコに特攻機が命中して、ルソン島上陸作戦を観戦するためニューメキシコに乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版)中将が戦死 したことで、ラムズデンとマッカーサーは40年来の知人でありその死を悼んだ[148]。特攻機の攻撃は激しさを増して、護衛空母オマニー・ベイ を撃沈、ほか多数の艦船を撃沈破しマッカーサーを不安に陥れたが、特攻機の攻撃が戦闘艦艇に集中しているのを見ると、側近軍医ロジャー・O・エグバーグに 「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸 送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と述べている。マッカーサーの旗艦ボイシも特攻機と特殊潜航艇に再三攻撃されてお り、マッカーサーはその様子を興味深く見ていたが、しばらくすると戦闘中であるにも関わらず昼寝のために船室に籠ってしまった。爆発音などの喧騒の中で熟 睡しているマッカーサーの脈をとったエグバーグは、脈が全く平常であったことに驚いている。やがて眼が覚めたマッカーサーは、エグバーグからの戦闘中にど うして眠れるのか?という質問に対して「私は数時間戦闘のようすを見ていた。そして現場の状況が分かったのだ。私がすべきことは何もなかったからちょっと 眠ろうと思ったのだ」と答えている[149]。

ルソン島に上陸したアメリカ軍に対して、レイテで戦力を消耗した日本軍 は海岸線での決戦を避け、山岳地帯での遅滞戦術をとることとした。司令官の山下は首都マニラを戦闘に巻き込まないために防衛を諦め、守備隊にも撤退命令を 出したが、陸海軍の作戦不統一でそれは履行されず、海軍陸戦隊を中心とする日本軍14,000名がマニラに立て籠もった。マニラ奪還に焦るマッカーサー は、市内への重砲による砲撃を許可し、激しい市街戦の上で住宅地の80%、工場の75%、商業施設はほぼ全てが破壊された[150]。マニラ市民の犠牲は 10万人にも上ったが、その中には絶望的になった日本兵による残虐行為の他、アメリカ軍が支援したユサッフェ・ゲリラとフクバラハップ・ゲリラに手を焼い た日本軍のゲリラ討伐による犠牲者も含まれていた。武装ゲリラの跳梁に悩む日本軍であったが、ゲリラとその一般市民の区別がつかず、老若男女構わず殺害し た。マッカーサーは日本軍のゲリラ討伐を「強力で無慈悲な戦力が野蛮な手段に訴えた」[151]「軍人は敵味方問わず、弱き者、無武装の者を守る義務を 持っている……(日本軍が犯した)犯罪は軍人の職業を汚し、文明の汚点となり」[152]と激しく非難したが、その無武装で弱き者を武装させたのはマッ カーサーであり、戦後にこの罪を問われて戦犯となった山下の裁判では、山下の弁護側から、マッカーサーの父アーサーがフィリピンのアメリカ軍の司令官で あった時にフィリピンの独立運動をアメリカが弾圧した時の例を出され「血なまぐさい『フィリピンの反乱』の期間、フィリピンを鎮圧するために、アメリカ人 が考案し用いられた方法を、日本軍は模倣したようなものである」「アメリカ軍の討伐隊の指揮官スミス准将は「小銃を持てる者は全て殺せ」という命令を出し た」と指摘され[153]、マッカーサーは激怒している。

広島市への原子爆弾投下直前までマッカーサーやニミッツら現場責任者に も詳細を知らされていなかった、マンハッタン計画による日本への原子爆弾投下とソ連対日参戦で、日本はポツダム宣言を受諾し、「オリンピック作戦」が開始 されることはなかった。マッカーサーは原爆の投下は必要なかったと公言しており、1947年に広島で開催された慰霊祭では「ついには人類を絶滅し、現代社 会の物質的構造物を破壊するような手段が手近に与えられるまで発達するだろうという警告である」と原爆に批判的な談話を述べていた。しかし、1950年 10月にアメリカで出版された『マッカーサー=行動の人』という書籍の取材に対して、マッカーサーは「自分は統合参謀本部に対し、広島と長崎はどちらもキ リスト教活動の中心だから投下に反対だと言い、代わりに瀬戸内海に落として津波による被害を与えるか、京都に落とすべきと提案した」と話したと記述されて いる。後日、マッカーサーはGHQのスポークスマンを通じ、そのような発言はしていないと否定しているが、のちの朝鮮戦争では原爆の積極的な使用を主張し ている

1945年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告 した。急逝したルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領は、一度も会ったことがないにも拘らずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の 降伏に立ち会わせたのちに本国に召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰かに日本占領を任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦 議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかった。戦艦ミズーリ艦上での降伏調印式(9月4日)

降伏調印式から6日経過した9月8日に、マッカーサーは幕僚を連れてホ テルニューグランドを出発して東京に進駐した。東京への進駐式典は開戦以来4年近く閉鎖されていた駐日アメリカ合衆国大使館で開催された。軍楽隊が国歌を 奏でるなか、真珠湾攻撃時にワシントンのアメリカ合衆国議会議事堂に掲げられていた星条旗をわざわざアメリカ本国から持ち込み、大使館のポールに掲げると いう儀式が執り行われた

1945年(昭和20年)8月8日に英米仏ソの連合国4国がロンドンで調印した国際軍事裁判所憲章に基づき、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、同年1月19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立を宣言した。
1946-1948 裁判は1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年) 11月12日にかけて行われ、憲章第6条A項が規定する「平和に対する罪」に違反したとされる政治家や軍関係者をA級戦犯容疑で約100人を逮捕、そのう ち28人を起訴した。裁判の結果、7名が死刑、16名の終身刑の判決を受けて処罰された。初55項目の訴因が挙げられたが、ポツダム宣言6項にある「日 本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」と「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため退けられ、残りの43項目については 他の訴因に含まれるとされ除外され、最終的には「1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議」、「 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争」、「米・英・仏・蘭に対する侵略」の計4項目、その他合計10項目の訴因にまとめられた。
1947

1948
1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬 する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカー サーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。大統領 選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかっ た。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味し ており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日 本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。
共産主義陣営との対立は、日本から解放されたのちに38度線を境界線としてアメリカとソ連が統治していた朝鮮半島でも顕在化することとなり、1948年8 月15日、アメリカの後ろ盾で李承晩が大韓民国の成立を宣言。それに対しソ連から多大な援助を受けていた金日成が9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を成立 させた。マッカーサーは日本統治期間中にほとんど東京を出ることがなかったにもかかわらず、大韓民国の成立式典にわざわざ列席し、李承晩との親密さをア ピールしたが、トルーマン政権の対朝鮮政策は対国民党政策と同様に消極的なものであった[240]。朝鮮半島はアメリカの防衛線を構成する一部分とは見な されておらず、アメリカ軍統合参謀本部は「朝鮮の占領軍と基地とを維持するうえで、戦略上の関心が少ない」と国務省に通告するほどであった[241]。
1949
日本での権威を揺るぎないものとしたマッカーサーであったが、アメリカ の対極東戦略については蚊帳の外であった。マッカーサーは蔣介石に多大な援助を与え、中国共産党との国共内戦に勝利させ、中国大陸に親米的な政権を確保す るという構想を抱いていたが、蔣介石は日中戦争時から、アメリカから多大な援助(現在の金額で約2兆円)を受けていたにも関わらず、日本軍との全面的な戦 争を避け続けて、数千万ドルにも及ぶ援助金を横領したり、受領した武器を敵に流すなど腐敗しきっており、中国民衆の支持を失いつつあった。民衆の支持を受 けた中国共産党がたちまち支配圏を拡大していくのを見て、1948年にはトルーマン政権は蔣介石を見限っており、中国国民党を救う努力を放棄しようとして いた[238]。マッカーサーはこのトルーマン政権の対中政策に反対を唱えたが、アメリカの方針が変わることはなく、1949年に北京を失った国民党軍 は、1949年年末までには台湾に撤退することとなり、中国本土は中国共産党の毛沢東が掌握することとなった[239]。
1950
第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島におい て、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。当 時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわら ず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。北朝鮮軍が侵攻してきた6月25日にマッカーサーにその報告がな されたが、マッカーサーは全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。ワシントンが邪魔さえしなければ、私は片腕を後ろ手にしばった 状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問らに語っている[247]。事態が飲み込めないマッカーサーは翌6 月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオがアメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニック を起こすいわれはない」と苦言を呈している。ダレスら国務省の面々には韓国軍の潰走の情報が続々と入ってきており、あまりにマッカーサーらGHQの呑気さ に懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレ スに同行していた国務省のジョン・ムーア・アリソンはそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きて いるかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している[248]。6月27日にダレスらはアメリカに帰国するた め羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察を片腕で処理すると自信満々で語っていたときと変わり果てたマッカーサーがやってきた。 マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。われわれが唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、ダレスとアリソンはそ の風貌の変化に驚き「わたしはこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後にアリソンは回想している[249]。6月28 日にソウルが北朝鮮軍に占領された。わずかの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは、6月29日に東京 の羽田空港より専用機の「バターン号」で水原に飛んだが、この時点で韓国軍の死傷率は50%に上ると報告されていた。マッカーサーはソウル南方32kmに 着陸し、漢江をこえて炎上するソウルを眺めたが、その近くを何千という負傷した韓国軍兵士が敗走していた。マッカーサーは漢江で北朝鮮軍を支えきれると気 休めを言ったが、アメリカ軍が存在しなければ韓国が崩壊することはあきらかだった[250]。マッカーサーは日本に戻るとトルーマンに、地上軍本格投入の 第一段階として連隊規模のアメリカ地上部隊を現地に派遣したいと申し出をし、トルーマンは即時に許可した。この時点でトルーマンはマッカーサーに第8軍の 他に、投入可能な全兵力の使用を許可することを決めており、マッカーサーもまずは日本から2個師団を投入する計画であった[251]。7月7日、国際連合 安全保障理事会決議84[252] により、北朝鮮に対抗するため、アメリカが統一指揮を執る国連軍の編成が決議され[253]、7月8日に、マッカーサーは国連軍司令官に任命された [254]。国連軍(United Nations Command、UNC)には、イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍や、ベルギー軍など16ヶ国の軍が参加している。.... 8月 に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は押されて、釜山橋頭堡に押し込まれることとなってしまっ た[263](釜山橋頭堡の戦い)。しかし国連軍は撤退続きで防衛線が大幅に縮小されたおかげで、通信線・補給線が安定し、兵力の集中がはかれるようにな り、北朝鮮軍の進撃は停滞していた[264]。アメリカ本土より第2歩兵師団や第1海兵臨時旅団といった精鋭が釜山橋頭堡に送られて北朝鮮軍と激戦を繰り 広げた[265]。アメリカ軍が日増しに戦力を増強させていくのに対し、北朝鮮軍は激戦で大損害を受けて戦力差はなくなりつつあった。特に北朝鮮軍は、ア メリカ軍の優勢な空軍力と火砲に対する対策がお粗末で、道路での移動にこだわり空爆のいい餌食となり、道路一面に大量の黒焦げの遺体と車輌の残骸を散乱さ せていた[266]。11月28日になって、ようやくマッカーサーは軍司令に撤退する許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、その後38度線の後方に撤退した [302]。巧みに撤退戦を指揮していた第8軍司令官のウォルトン・ウォーカー中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。 マッカーサーはその報を聞くと、以前から決めていた通り、即座に後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦した[303]。急遽アメリ カから東京に飛んだリッジウェイは、12月26日にマッカーサーと面談した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサー の持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた[304]。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊 の状況を確認したが、想像以上に酷い状況で、敗北主義が蔓延し、士気は低下し、指揮官らは有意義な情報を全く持たないという有様だった[305]。リッジ ウェイは軍の立て直しを精力的に行ったが、中国人民志願軍の勢いは止まらず、1950年1月2日はソウルに迫ってきた。リッジウェイはソウルの防衛を諦め 撤退を命じ、1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった[306]。1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じて指示した「公式 的な意見表明は上級機関の了承を得てから」にも反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した[317]。
1951
4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、 国防長官ジョージ・マーシャル、参謀総長オマール・ブラッドレーらと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えて いたが、それを実施するもっとも賢明な方法について話し合われた[319]。また皮肉にもこの頃にマッカーサーの構想を後押しするように、中国軍が中国東 北部に兵力を増強し、ソ連軍も極東に原爆も搭載できる戦略爆撃機を含む航空機500機を配備、中国東北部には最新レーダー設備も設置し[320]、日本海 に潜水艦を大規模集結し始めた。これらの脅威に対抗すべく、やむなくマッカーサーの申し出通り4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しか し、マッカーサーが早まった決断をしないよう強く警戒し、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず戦略空軍の指揮下に 置くという保険をかけている[321]。4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった 『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に辞任するかも知れないとトルーマンに 告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表をたたきつけるようなことはさせない、私が奴をくびにしてやるのだ」とブラッドレーに言っ た。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した[322]。解任の理由は「国策問題について全面的で活発 な討論を行うのは、我が民主主義の立憲主義に欠くことができないことであるが、軍司令官が法律ならびに憲法に規定された方式で出される政策と指令の支配を うけねばならぬということは、基本的問題である」とシビリアン・コントロール違反が直接の理由とされた[309]....1951年4月19日、ワシント ンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間 で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ[Old soldiers never die, they simply fade away]」と述べ、有名になった。

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