はじめによんでね!

感覚記号「E」につ いて

Empfindung (E) in your diary

池田光穂

『哲学探究』第1部258;「ある感覚がくり返し起こるので、私はそのことを日記につけ ようと考えた。そこでその感覚(Empfindung) を記号「E」に結びつけることにして、その感覚を感じ た日にはかならずカレンダーに記号「E」を書きこむのである。まず言っておきたいのだが、 その記号の定義をはっきり述べることはできない。——けれども自分にたいしてだけは、いわば、指 さしてする定義のように定義できるのだ——えっ、どうやって? 感覚を指さすことができるわ け?普通の意味ではできないけどね。でも、口に出して言ったり、記号を書いたりしながら、そ の感覚に注意を集中させて、いわば心のなかでその感鴬を指さすわけだな。でもなんのため にそんな儀式を?だってそんなの、儀式にしか見えないじゃないか——定義をすれば、記号の意味 が確定できるわけなのに。——ところで、確定は、まさに注意を集中することによって行われる。注 意を集中して、記号と感覚の結びっきを胸に刻むわけだから。——「胸に刻む」ということは、そう いうプロセスをへておけば、将来、正しくその結びつきを思い出せる、ということにすぎない。しか しこの場合、私には「正しさ」の規準が見あたらないのだ。ここで、「『正しさ』というのは、私にと っていつも、『正しさ』だと思えるようなもののことだ」と言いたくなるかもしれない。ということ は、「ここでは『正しさ』を問題にできない」ということでしかない」(丘沢訳, pp.176-177)。

260;「「うん、これ、また感覚Eだと思うが」。たぶんそうだと思う、と、君が思ってるわけだ!。 そうすると、この記号をカレンダーに書きこんだ人は、まったくなにもメモしなかったことになる のでは?「誰かが記号をたとえばカレンダーに書きこめば、なにかをメモしたことにな る」ということを、当然だとみなさないように。メモにはなにかの機能があるけれど、「E」には、 そのままでは機能がない。(自分にむかって話すことはできる。ほかに誰もいないときに話をしている人は、自分にむかってしゃべっているのだろうか?)」 (丘 沢訳, pp.177-178)。

261;「どんな根拠があって私たちは、「E 」をなにかの感覚の記号だと呼ぶのだろうか? ー なにしろ「感覚」は、私たちに共通の言語、私ひとりだけが理解しているわけではない言語の、単語なのだ。 だから、この単語を使うには、みんなに理解されるような正当化が必要である。「それが感覚で ある必要はない」とか、「彼が『E 』と書くときには、なにかをもっている」と言ったとしても、な んの役にも立たないだろう。——しかも、それ以上のことは言いようがないかもしれない。しかし、 「もっている」や「なにか」もまた、共通の言語に属している。——というわけで、哲 学をしている と結局は、分節化されていない音声しか発したくないような地点にたどり着いてしまうのだ。——だ がそういう音声が表現であるのは、なんらかの言語ゲームにおいてだけである。 そういう言語ゲーム のことをこれから記述する必要がある」(丘 沢訳, p.178)

270;「記号「E」を私の日記に書きこむとき、その使い方を想像してみよう。私は、つぎのような経験 をしている。ある感覚があるときにはいつも、血圧のあがつていることが血圧計によってわかる。そ うやって私は、血圧計などなくても自分の血圧の上昇をアナウンスできるようになる。これは役に立 つ成果だ。私がその感覚をちゃんとそれと認めたかどうかは、この場合、まったくどうでもいい。そ の感覚を確認するときにいつも勘違いしているとしても、問題にならない。ということから、すでに わかるように、勘違いは見せかけの仮定にすぎなかったのだ。(私たちは、あるボタンを回していた みたいなものである。そのボタンを回せば、マシンのなにかが調整されるように見えていたのだが、 じつは飾りにすぎず、メカニズムとはまったく無関係だったのである)/ ではここでは、どのような根拠があって「E」を、ある感覚の名前とみなすのだろうか?もしか したら根拠は、この記号がこの言語ゲームで使われている仕方が、その根拠なのかもしれない。——// ではなぜ、「ある感覚」なのか?つまり、なぜ毎回おなじ感覚なのか?それは毎回「E」と書 くと仮定しているからだ」(丘 沢訳, pp.181-182)。

リンク

文献

その他の情報


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099