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身体感覚の観光学

Tourist Studies of Bodily Sensitive Insentives

池田光穂

みる・きく・あじわう・ふれる・かぐ。旅の体験に おいてわれわれは五感(感覚)を総動員させる。

まず「みること」である。観光の目玉は文字どおり〈見物〉であり、「場所を−見る」(Sight-Seeing)ことに他ならない。人間は、高等動物で も並外れた視覚をもち、それを抽象化させる能力にも優れている。異質なものをみて、それを感覚経験のなかに記憶させるのである。前世紀に観光旅行というも のが近代社会に徐々にひろがってゆく過程で、そこでしか見れないものを提示するシステムが形成されてきた。見られるものは、大自然の景観でもよいし、人工 的な構築物でもよい。またその大きさは、我々自身をちっぽけな存在にしてしまう巨大なものから、等身大で眼前に対峙したり、あるいは眼を凝らして見つめる ほどの小さなものでもよい。そこにしかない〈もの〉が提示され旅の印象を決定づける。

「きく」ことは、見ることの延長である。いやそれ以 上に見るという経験を決定づける。なぜなら、異質な景観や日頃眼にすることのない事物は、音による注 釈や言葉による説明を受けてこそ初めて〈実体化〉するからである。耳をつんざくほどの瀑布、森林の静けさ、荘厳な教会の鐘、横切る自動車の排気音‥‥、そ してガイドによる説明。旅先から送られてきた絵はがきは、差出人による絵説きがなければただのエキゾチックな写真や図像に過ぎない。我々は写真に付された 〈説明を聞く〉ことによってリアリティーを感じるのであり、またそれを他の人たちに伝えようとする。実際とは、いささかかけ離れた〈異質な情報〉が流布し だすのもここからである。次々に人の耳に伝わってゆくにつれて冗長性が増すからだ。

さて「あじわう」ことはもともと近代観光における異 端的経験であった。なぜなら我々の味覚体験というものは基本的に保守的であり、また体内における食物 の消化に与える心理的な影響は我々が想像する以上に大きいからである。すなわち、旅において「あじわう」ことは否定的価値を帯びていたのであり、長いあい だ旅人は異郷の食物に無理やり身体を従わせる労苦を味わってきたからである。「水があわない」「土地の(違いの)せいだ」「空気が異なる」‥‥。このよう な表現は日本からの旅行者たちの常套句ではなく、異郷を旅する人々の共通表現なのである。「あじわう」ことを含めて、これらの表現は異質な環境を固有の身 体の内部に取り込まざるを得ない旅人が長年身につけてきた〈隠喩的表現〉に他ならない。

食物におけるこの異質経験が、積極的な意味をもち始 めたのは比較的最近になってからである。すなわち旅先でグルメ気分を満喫したり、わざとエキゾティッ クな食体験に自らを浸すことが古くからあったのではない。それは旅先のみならず自分たちの周りに〈飼い慣らされた異質さ〉が蔓延するようになった結果に他 ならない。食に対する〈精神的な免疫〉ができてから〈本場の味〉を試みることができるのである。

「ふれる」ことと「かぐ」ことは、〈異質さ〉とより 近接することを意味する。異郷体験の中核をなすこれらの感覚もむろん、より本質的な経験である必要は ない。売/買春など容易に商品化されて、エキゾティックな性的冒険を求める男の旅人たちを迎えるために特化することもある。むろん欲望だけではない。良く も悪しくも触れたり嗅いだりすることは、原初的な感覚体験として深く旅人の身体に刻まれる。旅行経験として人々や事物の臭いの違いを極端に強調し、異質な ものに認識の上で特別な位置を与えてしまうことは、差別や排斥における非合理的な理由としてしばしば指摘されてきたとうりである。

いま旅における身体感覚を五感という観点から、その 片鱗を眺めてみたが、それらの感覚は旅の経験という出来事のなかで同時進行し、また相互に影響を与えて いる。そして人々は〈旅の快楽〉を享受するために、ある種の感覚を抑圧し、また別の感覚を必要以上に増長させるという器用なこともおこなうのだ。

さて学問の対象としてこのような観光に伴う現象を省 みたとき、我々はどれだけのことについて理解を深めてきたのだろうか? このような〈旅の身体感覚〉 という視点は、個別に言及されることはあっても、総合的に論じられることは意外に少なかったのではないかと、私は考える。観光における身体経験の諸相につ いて今後はさまざまな角度から論じられるべきであろう。

またそのように考えることによって、観光という現象 が実は五感に対する〈ある種の健全さ〉を前提に構築されてきたことが明らかになる。今日に至るまで、 ハンディキャップを担った人々にも旅というメディアが平等に開放されてきたとは考えられないからである。〈身体感覚の観光学〉を実践することとは、異種異 質な個々の人々の旅の体験を新たに読み直すだけでなく、さらに多くの人々に旅を開放させる試みに他ならない。

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