道具としての身体
道具とはなにか?(あるいは道具力と実践知):最終回
20071127現場力と実践知(9) 文責:池田光穂
◆【先週の講義担当者のまと
め】……思い出してください→[道具と人間の身体がつくる世界]
命題A:「道具は身体に記憶=刻印され、それが独特の感情を生起させる」
命題B:「道具は身体の延長でありながら、時に身体(=主人?)を裏切る自律性をもつ」。
→ 授業のフィードバックあるいは照会先(池田光穂):rosaldo[at]cscd.osaka-u.ac.jp([at]を@に変え てください)
◆【前回までのまとめ】→[このページとは異なる異説があります:道具と人間の身体がつくる世界[2]]
Aさん
・道具ー使う、という……セットで語られる。
・道具を使うことによって世界があらわれる。
・めざす世界のあらわれの途上で道具が道具としてあらわれる。
・道具がなければ世界があらわれてこなかったのでは、と思う。
Bさん
・道具には完全に従わないとあったけど、それって厚かましいとも言えます[か]? 自分がコントロールできないだけかなぁ[と思います]。
・道具はプロセスが見えるものかなぁと。例えば、ハサミなら、始点(手)と終点(紙)がつながっていると感じられるもの。たとえ使いこなせ なくても、プロセスを感じられる、伝わっている。[他方で]機械はプロセスが見えない。スイッチと動くところが離れていて直ちに伝わってこない。
Cさん
・道具にしても何にしても、その人のもとで初めて持つ意味というのは大きい[=重要]と思った。
Dさん
・道具は使い込むことによっても変化しない。変化するのは自分である(ただしカスタマイズできる道具もある)。
・携帯もパソコンも同じで、人間が道具に歩み寄っている。
・機能を持てば、それは道具になる。道具とは、大きさや、機構、目的、実体のあるなし、機能というものがあとづけで、「使いこなせる」 「使っている」という実感、認識が生じた時に生まれる概念そのものかもしれない。
Eさん
・前回、私は「道具を使っているうちに、すごく愛着を感じて『道具』と呼ぶのは申し訳ない感じがする」とい[った]。確かに、そのとおりだ し、私もそういう経験はあるけど、じゃあなんなんだろうという、と引っかかっていました。
・西川先生の「道具には使いこなして動かすもので、使いこなしていくうちに身に馴染んでいくと、愛着あるものになる」という話で少し、[頭 の中が]すっきりしました。
Fさん
・道具という言葉のとらえ方に個人差がある。ただ、〈使い込む〉のは前段階に〈使いこなす〉という段階があるという西川さんの言葉にはうな づける部分がある。
・道具という言葉のとらえ方に一定のジェンダー差があるというのは、直感的に理解できるが、パソコンに名前をつけるような女性の知り合いに も私にはいるので、ルーツのCMとそれがジェンダーと結びつくのはやや疑問。
Gさん
・他の人の話を聴いてみると、道具と機械を分けているらしい。[私には]どうにもそれが意外です。たぶん市場に出ているような機械はある程 度インターフェースが洗練されているという信頼から、ちょっといじれば分かる自信があるため、私は道具=機械という意識をもっているらしい。まったくもっ て個人差もあって難しいものです。
Hさん
・前回以上に“道具”という言葉の定義がわからなくなりました。人の話を聞くと個人差があると感じました。それがわかっただけでもよかっ た。
Iさん
・西村先生の話で「常に道具に従わされているのでは」という言葉にハッとした。近い将来、道具が人間を支配するという世界が――といったよ くある安っぽいSF小説みたいな話が現実になるかもしれない。恐いことです。……私たちは発明者に間接的に支配されているということに。恐ろしいことで す。
Jさん
・道具は、その人のもとにわたってから進化するものだな、という思いを強くしました。
・道具にマイナスイメージがあるということにもなるほどと思いました。〈人を道具に使うな!〉という使い方など。
Kさん
・道具にもモノによっても身体が使われ、規制され、動かされているのではないかということに納得した。
・外界のさまざまな自分以外のモノ、物体に自分は生かされている……というのをこれらの授業で言ってしまうのは、大事のような気もするけ ど、これにもそれにも影響を受けながら生活しているんだなぁと感じた。
Lさん
・道具に対する意識の違いが道具への思い入れ、愛情の深さが異なり、それは人によってさまざまに違ってくるということを改めて感じました。
・道具が身体の延長と考えるようになるには、使いこなした上でそのようになるのかも知れないとも思いました。
・道具のなかでも消耗品や日用品の類には意識を向けることがなく、あって当たり前という感覚が先行するということも、グループワークの中で 明らかになり、その中でもやはりこだわりをもつ人もいました。
◆【少女の図像の解釈をめぐる問題】
バーナード・ルドフスキー[1980=1999]の提言:
「さて、高貴な人間と卑しい身分の人間がともに同じ床に座った場合を考えてみよう。床に座ると背を支える必要もないし、威厳をそこなわない ように身体を高くかまえる必要もない。そのうえ床面がいわば椅子やテーブルの代わりになって、その上で王女と農夫/がともに足をのばして等しく食べ物を味 わうことになる。西欧の家庭においてさえ、食事は床の上に配膳されることがある。もちろんこの場合は、苦行のタイプでもなければ、床に身体を接している東 洋人の慣習のまねでもない。床はたんに、そうする人々に安堵感を与えるだけなのだ。
このことは、子供にとっても同様である。子供がまだ教育を受けないうちは、床に対して愛着を抱いている。ニュートンのリンゴのように、子 供は地面に引きつけられているわけだ。だから、子供は、本能的に椅子を嫌う。とくに「高椅子」――レストランなどにある食事用の椅子(引用者註)――のよ うな罠ほどいやなものはない。その椅子にしばりつけられているのは、自尊心のある犬が鎖につながれているのと同様、屈辱的なことなのである。これを体験し た子供は、この屈辱感を忘れることなく、後になって反抗的な座り方をすることで復讐する。
百科事典や家具事典の編者は無視しているが、サディステックな教育法は、児童用の懲罰的家具を生んだと記録されるべきだ。気紛れな子供を 固定しておくためのこの種の手かせ、足かせや木枠に、鍛錬主義者――disciplinarianのことか?[引用者]――の心の底をみることができよ う」[ルドフスキー 1999:50, 53 訳文の一部を変えました]。
・絵の出典:Mary Cassatt (1845-1926)「Little Girl in a Blue Armchair」1878年、油絵89.5 x 129.8 cm, National Gallery of Art, Washington
◆【設問】
ルドフスキーの所論によると、本来の人間の身体にとって、椅子という道具の使用は強制され学習された結果であり、それらへの反抗が期せずし て図像のようなポーズを子供にとらせることになる。
それをよむ皆さんにとって、彼の主張は果たして首肯できるものでしょうか。首肯(=そのとおりだと思う)できる場合は、この所説を補強する それ以外の証拠を探してください。同意できない場合は、理屈づけて反論してください。
グループ討論では、まず自由な感想(油絵が綺麗だというものでもかまわない)を各自述べて一通り回したあとで、上記の本題に入ってくださ い。
◆【引用参考文献】
・ルドフスキー,バーナード1999『さあ横になって食べよう』奥野卓司訳、東京:鹿島出版会[Rudofsky, Bernard. 1980. Now I lay me down to eat : notes and footnotes on the lost art of living. Garden City, N.Y. : Anchor Books.]。
・モース,マルセル 1976「身体技法」『社会学と人類学』有地亨・山口俊夫訳、Pp.121-156、東京:弘文堂。
◆授業のフィードバックあるいは照会先(池田光穂):
印刷用ハンドアウト(2007.11.27, pdf 1MB―サイズが大きめですので注意してください)
● 【現場力と実践知 2007】にもどる