かならずよんで ね!

エルンスト・カッシーラー

Ernst Cassirer, 1874-1945


池田光穂

国家の神話

「カッシーラーの遺作となった『国家の神話』 (1946年)は、ナチス・ドイツの知的起源を理解するための試みである。カッシーラーは、ナチス・ドイツを、神話の危険な力が、優れた力によって抑制さ れたり、鎮圧されたりすることのない社会であると見ている。ギリシャ思想におけるロゴスとミュトスの対立、プラトンの共和国、中世の国家論、マキャベリ、 トマス・カーライルの英雄崇拝に関する著作、アルチュール・ド・ゴビノーの人種論、ヘーゲルなどが論じられている。カッシーラーは、20世紀の政治におい て、マルティン・ハイデガーの消極的な同意のもとに、神話の非合理性、特に運命というものが存在するという信仰への回帰があったと主張した(宮田訳 1960:387-388)。この受動的受 容について、ハイデガーは、哲学の客観的、論理的基礎に対するフッサールの信念から離れることで、1930年代のドイツ政治における神話の復活に対抗する 哲学の能力を減退させたと述べている」英語ウィキペディアからの翻訳)

第1部 神話とは何か(神話的思惟の構造;神話と言語;神話と情動の心理学 ほか)

第2部 政治学説史における神話にたいする闘争(初期ギリシア哲学における“ロゴス”と “ミュトス”;プラトンの『国家』;中世国家理論の宗教的および形而上学的背景 ほか)

第3部 二十世紀の神話(準備:カーライル;英雄崇拝から人種崇拝へ;ヘーゲル ほか)

第3部二十世紀の神話にある「英雄崇拝から人種崇拝へ」(宮田訳 1960:297-329)において、ナチスドイツには、カーライルの英雄崇拝(宮田訳 1960:245-)が あり、ゴビノー『人種不平等論』を通して、人種(北方人種論や、アーリア人論)への崇拝が、やがて、全体主義的人種の理論へと繋がっていったと説明してい る。つまり、全体主義体制における人種信仰は、ヒトラーの専売特許というわけでなく、それに先行する、ゴビノーとカーライルによって、すでに(思想史的 に、その受容が)あらかじめ準備されていたことになる。

エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer、1874年7月28日 - 1945年4月13日)は、ユダヤ系のドイツの哲学者、思想史家。新カント派に属し、“知識の現象学”を基礎にしながら、シンボル=象徴体系としての「文 化」に関する壮大な哲学を展開した。

息子のハインツ・カッシーラー(ドイツ語版)も新カント派の哲学者となった。

シュレージエンのブレスラウ(現在のポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ 系の家庭に生まれる。ベルリン大学で文学と哲学を学ぶ。マールブルク大学でコーエンやパウル・ナトルプに学ぶ。1899年に博士論文(デカルト論)をコー エンのもとに提出する。

1903年から、ベルリン大学の私講師(Privatdozent)を勤めながら、哲学、科学、理論的思考へと考察を集中させていった。1906年に『認 識問題』で教授資格申請。審査にはディルタイとアロイス・リールがあたった。1907年には『認識問題』第二巻におけるカント解釈によりベルリン大学にポ ストを得る。この時期、『実体概念と関数概念』(1910年)を執筆する。

1919年に新設されたハンブルク大学の教授に就任した。当地にあった「ヴァールブルク文化学図書館」に衝撃を受ける(カッシーラーは「この文庫は危険で す。わたしはここを避けるか、あるいは何年もここに閉じこもらねばならないでしょう」と述べたと報告されている)。1923年には当時クロイツリンゲンの 診療所で精神治療を受けていたアビ・ヴァールブルク本人を訪ねる。ヴァールブルク図書館を利用しながら神話論やルネサンス期の研究に取り組み、『神話的思 考における概念形式』(1922年)や『言語と神話』(1925年)を発表しつつ、主著『シンボル形式の哲学』(全三巻、1923, 1925, 1929)をまとめあげた。学生にレオ・シュトラウスがおり、博士論文の指導をする。他ハンス・ライヘンバッハも生徒の一人だった。

1929年にハイデガーとのダヴォス討論を行なう。

ナチス政権樹立(1933年)により、イギリスへ移住、オックスフォード大学講師( - 1935年)となる。イギリス時代には、の収集した資料を基礎に設立されたヴァールブルク研究所(ハンブルクから1934年に移設。ウォーバーグ研究所) の初代所長フリッツ・ザクスルらと交流した[1]。のちスウェーデンのヨーテボリ大学教授(〜1941年)となるが、ナチスの勢力が拡大するにつれてアメ リカ合衆国へ移る。はじめハーヴァード大学に受け入れてもらう予定だったが、30年前のベルリン時代にハーヴァードからの招聘を断っていたため、断られ る。イェール大学(〜1943年)で教えたのちニューヨークのコロンビア大学に移る。スウェーデンに帰化しており、ドイツ・ユダヤ系スウェーデン市民とし てニューヨークに在住、心臓発作により急逝した。

ニュージャージー州パラマスのシダーパーク墓地に埋葬されている。

●哲学
カッシーラーの学業は、新カント派(マールブルク学派)の影響下での哲学史研究に始まる。1899年に博士論文「数学的自然科学的認識のデカルトの批 判」。続く1902年『ライプニッツ体系の科学的基礎』を執筆。新カント派の影響下で哲学史に取り組んだ。
ベルリン時代に執筆された『認識問題』(1906-07)では中世思想から近代思想での認識論の問題を軸に論じ、『実体概念と関数概念』(1910)では 近代的な科学の認識論的な転回として、実際に見ることの出来る、実体概念から、関数的な記述によってのみ捉えられる、関数概念への移行を分析した。これら の哲学史・思想史的な著作により、マールブルク学派とは一線を画していった。

●シンボル形式
ハンブルク時代、カッシーラーは中心概念である「シンボル形式」の研究を開始する(「精神科学の構築におけるシンボル形式の概念」1921/22年な ど)。主著『シンボル形式の哲学』(第一巻「言語」1923年、第二巻「神話的思考」1925年、第三巻「認識の現象学」1929年)へと結実させた。カ ント的な「理性の批判」を「文化の批判」へと転換させる試みである。直観でも概念でもなく、言語や神話・宗教、科学などの「シンボル形式」の分析によっ て、原初的な神話的思考から洗練された科学的思考までを発生的に結びつけ、人間精神の本性をその全体的な顕現の相より把握する

●人間文化
晩年の亡命期には、アメリカの読者に向けて著した『人間』において、人文、社会科学を横断して独自の哲学的人間学を構築した。カッシーラーは“シンボリッ ク・アニマル(象徴を操る動物)”として人間をとらえ、動物が本能や直接的な感覚認識や知覚によって世界を受け取るのに対して人間は意味を持つシンボル体 系を作り、世界に関わっていく。シンボル体系は、リアリティ(実在性)の知覚を構造づけまた形を与え、またそれゆえに、例えば世界に実在しないユートピア を構想することもできるし、共有された文化形式を変えて行くことができる、とみなした。こうした理論基盤には、カント哲学の超越論的観念論がある。カント は現実の世界(actual world)を人間は完全に認識することはできないが、人間が世界や現実を認識するその仕方(形式)を変えることはできるとした。カッシーラーは人間の世 界を、思考のシンボル形式によって構築されていると考えた。ここでいう思考には、言語、学問、科学、芸術における思考のみならず、一般の社会におけるコ ミュニケーションや個人的な考えや発見、表現などを含めた意味あいがある。

●国家の神話(冒頭)

◎トーマス・カーライル『英雄、英雄崇拝、歴史における英雄的なるもの について
On Heroes, Hero-Worship, & the Heroic in History is a book by the Scottish essayist, historian and philosopher Thomas Carlyle, published by James Fraser, London, in 1841. It is a collection of six lectures given in May 1840 about prominent historical figures. It lays out Carlyle's belief in the importance of heroic leadership.
The book was based on a course of lectures Carlyle had given. The French Revolution: A History had brought Carlyle recognition, but little money, so friends organized courses of public lectures, drumming up an audience and selling one guinea tickets. Though Carlyle disliked lecturing, he discovered a facility for it; more importantly, it brought in much-needed income. Between 1837 and 1840, Carlyle delivered four such courses of lectures, the final of which was on "Heroes". His lecture notes were transformed into the book, with the effects of the spoken discourse still discernible in the prose.[1]

"The Hero as Man of Letters" (1840):

- "In books lies the soul of the whole Past Time; the articulate audible voice of the Past, when the body and material substance of it has altogether vanished like a dream."
- "A man lives by believing something; not by debating and arguing about many things."
- "All that mankind has done, thought, gained or been: it is lying as in magic preservation in the pages of books."
- "What we become depends on what we read after all of the professors have finished with us. The greatest university of all is a collection of books."
- "The suffering man ought really to consume his own smoke; there is no good in emitting smoke till you have made it into fire."
- "Adversity is sometimes hard upon a man; but for one man who can stand prosperity, there are a hundred that will stand adversity." (Often shortened to "can't stand prosperity" as an unknown quote.)
- "Not what I have, but what I do, is my kingdom."
On Heroes, Hero-Worship, & the Heroic in Historyは、スコットランドのエッセイスト、歴史家、哲学者であるトーマス・カーライルが1841年にロンドンのジェームズ・フレイザー社から出版 した著作。1840年5月に行われた歴史上の著名人に関する6つの講義をまとめたもの。カーライルは、英雄的なリーダーシップの重要性を信じていた。
この本は、カーライルが行った講義をもとに作られた。フランス革命 カーライルは『フランス革命史』によって知名度を得たが、資金はほとんどなかった。そこで友人たちが公開講座を開き、聴衆を集めて1ギニア券を売り出し た。カーライルは講演を嫌っていたが、講演の面白さに目覚め、さらに重要なことに、必要な収入がもたらされた。1837年から1840年にかけて、カーラ イルは4回の講義を行い、最終講義は「英雄」についてであった。彼の講義ノートは本へと姿を変え、その散文には講演の効果が残っている[1]。

「文学者としての英雄」(1840年)

- 本には過去の時間の魂が宿っている。過去の肉体と物質が夢のように完全に消え去ったとき、過去の明瞭な音声が聞こえるのである。
- "人は何かを信じることによって生きている。" "多くのことについて議論したり、論争したりすることによって生きているのではない。"
- "人類が行ったこと、考えたこと、得たもの、されたことのすべては" "書物のページの中に魔法のように保存されている。"
- "我々が何になるかは、教授陣がすべて終わった後に何を読むかによって決まる。最も偉大な大学とは、本のコレクションである。
- "苦難の人は自分の煙を消費すべきです。" "火になるまで煙を出すのは良くない"
- "逆境は時に人を苦しめる。しかし、繁栄に耐えられる者が一人いれば、逆境に耐えられる者は百人いる。" (不明な引用として、しばしば「繁栄に耐えることができない」と短縮される)
- "私が持っているものでなく、私が行うものが私の王国である"
Carlyle was one of the few philosophers who lived through the British industrial revolution but maintained a non-materialistic view of historical development. The book included lectures discussing people ranging from the field of religion through to literature and politics. The figures chosen for each lecture were presented by Carlyle as archetypal examples of individuals who, in their respective fields of endeavour, had dramatically impacted history in some way.[2] The Islamic prophet Muhammad found a place in the book in the lecture titled "The Hero as Prophet". In his work, Carlyle outlined Muhammad as a Hegelian agent of reform, insisting on his sincerity and commenting "how one man single-handedly, could weld warring tribes and wandering Bedouins into a most powerful and civilized nation in less than two decades". His interpretation has been widely cited by Muslim scholars to show Muhammad without orientalist bias.[3]

Carlyle held that "Great Men should rule and that others should revere them,"[verify] a view that for him was supported by a complex faith in history and evolutionary progress.[improper synthesis?] Societies, like organisms, evolve throughout history, thrive for a time, but inevitably become weak and die out, giving place to a stronger, superior breed. Heroes are those who affirm this life process, accepting its cruelty as necessary and thus good. For them courage is a more valuable virtue than love; heroes are noblemen, not saints. The hero functions first as a pattern for others to imitate, and second as a creator, moving history forwards not backward (history being the biography of great men). Carlyle was among the first of his age to recognize that the death of God is in itself nothing to be happy about, unless man steps in and creates new values to replace the old. For Carlyle, the hero should become the object of worship, the centre of a new religion proclaiming humanity as "the miracle of miracles... the only divinity we can know".[4] For Carlyle's creed Bentley proposes the name "heroic vitalism", a term embracing both a political theory, aristocratic radicalism, and a metaphysic, supernatural naturalism. The heroic vitalists feared that the recent trends toward democracy would hand over power to the ill-bred, uneducated, and immoral, whereas their belief in a transcendent force in nature directing itself onward and upward gave some hope that this overarching force would overrule in favor of the strong, intelligent, and noble.[5]: 17–18, 49–58 

For Carlyle, the hero was somewhat similar to Aristotle's "magnanimous" man – a person who flourished in the fullest sense. However, for Carlyle, unlike Aristotle, the world was filled with contradictions with which the hero had to deal. All heroes will be flawed. Their heroism lay in their creative energy in the face of these difficulties, not in their moral perfection. To sneer at such a person for their failings is the philosophy of those who seek comfort in the conventional.[non-primary source needed] Carlyle called this "valetism", from the expression "no man is a hero to his valet".[6]
カーライルは、イギリスの産業革命を生きながら、歴史の発展を非物質的 にとらえた数少ない哲学者の一人である。本書には、宗教から文学、政治に至るまで、さまざまな分野の人物を論じた講義が収められている。各講演で選ばれた 人物は、それぞれの分野で、何らかの形で歴史に劇的な影響を与えた人物の典型例として、カーライルによって紹介された[2]。イスラムの預言者ムハンマド は、「預言者としての英雄」と題する講演で本書に登場した。カーライルはその中で、ムハンマドをヘーゲル的な改革者であるとし、彼の誠実さを主張し、 「たった一人の男が、20年足らずで、戦争中の部族や放浪中のベドウィンを最も強力で文明的な国家に溶接できたのか」と論評している[3]。彼の解釈は、 東洋主義的な偏見なしにムハンマドを示すために、イスラム教の学者によって広く引用されている[3]。

カーライルは「偉人は支配すべきであり、他の人々は彼らを尊敬すべきである」とし[verify]、彼にとってこの見解は歴史と進化の進歩に対する複雑な 信仰によって支えられていた[不適切な合成?] 社会は生物のように歴史を通して進化し、一時的に繁栄するが、必然的に弱くなり、死に絶え、より強い、優れた品種に取って代わられる。英雄とは、この生命 のプロセスを肯定し、その残酷さを必要なものとして受け入れ、それゆえに善とする人たちである。彼らにとって勇気は愛よりも価値ある美徳であり、英雄は聖 人ではなく貴族なのである。英雄は、第一に他の人々が模倣するための型として、第二に歴史を後退させるのではなく前進させる創造者として機能する(歴史と は偉大な人物の伝記である)。カーライルは、神の死は、人間が古いものに代わる新しい価値を創造しない限り、それ自体何も喜べないことを認識した、同時代 の最初の人物であった。カーライルにとって、英雄は崇拝の対象となり、人間性を「奇跡の中の奇跡...我々が知りうる唯一の神性」として宣言する新しい宗 教の中心となるべきである[4]。ベントレーはカーライルの信条に「英雄的生命論」という名前を提案するが、この言葉は、政治理論である貴族の急進主義 と、形而上学の超自然主義の両方を含むものである。英雄的バイタリストは、近年の民主主義への流れが、育ちが悪く、無教育で、不道徳な人々に権力を譲り渡 すことを恐れた。一方、自然界の超越的な力が自らを前へ、上へと導くという信念は、この包括的な力が強く、知的で、気高い人々に有利になるよう打倒すると いう希望を与えている[5]: 17-18, 49-58 

カーライルにとって、英雄とは、アリストテレスの「大らかな」人間、つまり、全面的に栄える人間といくらか似ていたのである。しかし、カーライルにとっ て、アリストテレスとは異なり、世界は矛盾に満ちており、英雄はそれに対処しなければならなかった。すべての英雄は欠点があるだろう。彼らのヒロイズム は、こうした困難に直面したときの創造的なエネルギーにあるのであって、道徳的な完全性にあるのではない。そのような人の欠点を嘲笑することは、従来のも のに安らぎを求める人々の哲学である[non-primary source needed] カーライルはこれを「付き人に対する英雄はいない」という表現から、「付き人主義」と呼んだ[6]。
University of British Columbia professor Michael K. Goldberg writes:

The gospel of heroes met resistance from nineteenth-century liberalism for ignoring the masses; from Engels, at least, among nineteenth-century Marxists for being too religious and mystical; from some segments of the established church for being too radical; and later from some twentieth-century democrats for being too tyrannical.[7]

Two reviews which appeared in the Christian Remembrancer in 1843 provide representative reactions to On Heroes. Archbishop of York William Thomson denounced Carlyle's syncretism, writing: "It is not a Christian Book." In response, theologian Frederick Denison Maurice defended Carlyle's emphasis on truth over semblances, as well as his ability to challenge and test the sincerity of readers that disagree with him.[8]

Whether positively or negatively, the impact of the book was felt by all. Richard Garnett wrote that it was "echoed by all the best minds of [the] day".[9] Vincent van Gogh wrote to his brother Theo in 1883 that it was "a very beautiful little book."[10]

These lectures of Carlyle's are regarded as an early and powerful formulation of the Great Man theory of historical development. Friedrich Nietzsche agreed with much of Carlyle's hero worship, transferring many qualities of the hero to his concept of the Übermensch.[5]

Elizabeth Barrett Browning referenced the work in the 5th book of Aurora Leigh (1856). George Bernard Shaw took inspiration from On Heroes in his plays Arms and the Man (1894), The Man of Destiny (1897), Man and Superman (1905), and Back to Methuselah (1920).[11]

Mahatma Gandhi read "The Hero as Prophet" in his studies of Islam and "learnt of the Prophet's greatness and bravery and austere living."[12]
ブリティッシュ・コロンビア大学教授のマイケル・K・ゴールドバーグは こう書いている。

英雄の福音は、大衆を無視しているという理由で19世紀の自由主義から、宗教的で神秘的すぎるという理由で19世紀のマルクス主義の中の少なくともエンゲ ルスから、過激すぎるという理由で既存の教会の一部から、そして後に専制的すぎるという理由で20世紀の民主主義者から抵抗を受けている[7]。

1843年に『クリスチャン・リメンブラー』誌に掲載された2つの批評は、『英雄について』に対する代表的な反応である。ヨーク大司教のウィリアム・トム ソンはカーライルの異端性を非難し、次のように書いている。「これはキリスト教の本ではない "と。これに対して神学者のフレデリック・デニソン・モーリスは、カーライルが見せかけよりも真実を重視し、彼と意見の異なる読者に挑戦し、その誠意を試 すことができたと擁護した[8]。

肯定的であれ否定的であれ、この本のインパクトはすべての人に感じられた。リチャード・ガーネットは「(当時の)すべての最高の頭脳によって反響された」 と書いており[9]、フィンセント・ファン・ゴッホは1883年に弟のテオに「とても美しい小さな本」であると書いている[10]。

カーライルのこれらの講義は、歴史的発展に関する偉人説の初期の強力な定式化とみなされている。フリードリヒ・ニーチェはカーライルの英雄崇拝の多くに賛 同し、英雄の多くの資質を彼の「ユーベルメンシュ」の概念に移し替えた[5]。

エリザベス・バレット・ブラウニングは『オーロラ・リー』(1856年)の第5巻でこの著作を参照した。ジョージ・バーナード・ショーは『英雄について』 からインスピレーションを得て、『武器と男』(1894年)、『運命の人』(1897年)、『人間とスーパーマン』(1905年)、『メトシェラに帰れ』 (1920年)の劇に登場させている[11]。

マハトマ・ガンジーはイスラム教を学ぶ中で『預言者としての英雄』を読み、「預言者の偉大さ、勇気、厳格な生き方について学んだ」[12]。
https://en.wikipedia.org/wiki/On_Heroes,_Hero-Worship,_%26_the_Heroic_in_History
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Ernst Alfred Cassirer (/kɑːˈsɪərər, kəˈ-/ kah-SEER-ər, kə-,[1] German: [ˈɛʁnst kaˈsiːʁɐ];[2][3] July 28, 1874 – April 13, 1945) was a German philosopher. Trained within the Neo-Kantian Marburg School, he initially followed his mentor Hermann Cohen in attempting to supply an idealistic philosophy of science.

After Cohen's death in 1918, Cassirer developed a theory of symbolism and used it to expand phenomenology of knowledge into a more general philosophy of culture. Cassirer was one of the leading 20th-century advocates of philosophical idealism. His most famous work is the Philosophy of Symbolic Forms (1923–1929).

Though his work received a mixed reception shortly after his death, more recent scholarship has remarked upon Cassirer's role as a strident defender of the moral idealism of the Enlightenment era and the cause of liberal democracy at a time when the rise of fascism had made such advocacy unfashionable. Within the international Jewish community, Cassirer's work has additionally been seen as part of a long tradition of thought on ethical philosophy.[4]
エ ルンスト・アルフレッド・カッシーラー(/kɑːˈɪər, kə-, [1] German: [ˈɛɐ]; [2][3] 1874年7月28日 - 1945年4月13日)はドイツの哲学者。新カント派のマールブルク学派で学び、当初は師であるヘルマン・コーエンに従って観念論的な科学哲学の構築を試 みた。

1918年のコーエンの死後、カッシーラーは象徴主義の理論を展開し、それを用いて知識の現象学をより一般的な文化哲学へと拡張した。カッシーラーは20世紀を代表する哲学的観念論の提唱者である。彼の最も有名な著作は『象徴形式の哲学』(1923-1929)である。

彼の死後間もなく、その著作はさまざまな評価を受けたが、最近の研究では、ファシズムの台頭によってそのような主張が流行らなくなった時代に、啓蒙時代の 道徳的観念論と自由民主主義の大義を断固として擁護したカッシーラーの役割が注目されている。国際的なユダヤ人社会では、カッシーラーの著作はさらに、倫 理哲学に関する長い思想の伝統の一部とみなされてきた[4]。
Biography
Born in Breslau in Silesia (modern-day southwest Poland), into a Jewish family, Cassirer studied literature and philosophy at the University of Marburg (where he completed his doctoral work in 1899 with a dissertation on René Descartes's analysis of mathematical and natural scientific knowledge entitled Descartes' Kritik der mathematischen und naturwissenschaftlichen Erkenntnis [Descartes' Critique of Mathematical and Scientific Knowledge]) and at the University of Berlin (where he completed his habilitation in 1906 with the dissertation Das Erkenntnisproblem in der Philosophie und Wissenschaft der neueren Zeit: Erster Band [The Problem of Knowledge in Philosophy and Science in the Modern Age: Volume I]).[5]

Politically, Cassirer supported the liberal German Democratic Party (DDP).[6] After working for many years as a Privatdozent at the Friedrich Wilhelm University in Berlin, Cassirer was elected in 1919 to the philosophy chair at the newly founded University of Hamburg, where he lectured until 1933, supervising amongst others the doctoral theses of Joachim Ritter and Leo Strauss. On 30 January 1933, the Nazi Regime came to power. Cassirer left Germany on 12 March 1933 - one week after the first Reichstagswahl under that Regime - because he was Jewish.[7]

After leaving Germany he taught for a couple of years at the University of Oxford, before becoming a professor at Gothenburg University. When Cassirer considered Sweden too unsafe, he applied for a post at Harvard University, but was rejected because thirty years earlier he had rejected a job offer from them.[citation needed] In 1941 he became a visiting professor at Yale University, then moved to Columbia University in New York City, where he lectured from 1943 until his death in 1945.

Cassirer died of a heart attack in April 1945 in New York City. The young rabbi Arthur Hertzberg, who was a student of Cassirer's at Columbia University, conducted the funeral service.[8] His grave is located in Westwood, New Jersey, on the Cedar Park Beth-El Cemeteries in the graves of the Congregation Habonim. His son, Heinz Cassirer, was also a Kantian scholar.

Other members of his prominent family included the neurologist Richard Cassirer, the publisher and gallery owner Bruno Cassirer and the art dealer and editor Paul Cassirer.
略歴
シレジア(現在のポーランド南西部)のブレスラウでユダヤ人の家庭に生まれる、 カッシーラーはマールブルク大学で文学と哲学を学び、1899年にルネ・デカルトの数学的・自然科学的知識の分析に関する論文『デカルトの数学的・自然科 学的知識批判』で博士課程を修了: Erster Band [The Problem of Knowledge in Philosophy and Science in the Modern Age: 第1巻])。

政治的には、カッシーラーはリベラルなドイツ民主党を支持していた[6]。ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学でプライヴァート・ドーゼントとして 長年働いた後、1919年に新設されたハンブルク大学の哲学講座に選出され、1933年まで講義を行い、ヨアヒム・リッターやレオ・シュトラウスの博士論 文を指導した。1933年1月30日、ナチス政権が誕生。カッシーラーは1933年3月12日、つまりナチス政権下で最初の帝国議会が開かれた1週間後 に、ユダヤ人であることを理由にドイツを去った[7]。

ドイツを離れた後、オックスフォード大学で数年間教鞭をとった後、イェーテボリ大学の教授となった。1941年にイェール大学の客員教授となり、その後ニューヨークのコロンビア大学に移り、1943年から1945年に亡くなるまで講義を行った。

カッシーラーは1945年4月にニューヨークで心臓発作のため死去した。葬儀は、コロンビア大学でカッシーラーの教え子であった若きラビ、アーサー・ハー ツバーグが執り行った[8]。彼の墓はニュージャージー州ウェストウッドのシーダーパーク・ベス・エル墓地にあり、ハボニム会衆の墓の中にある。息子のハ インツ・カッシーラーもカント学者であった。

彼の著名な家族には他に、神経学者のリヒャルト・カッシーラー、出版社でギャラリーを経営するブルーノ・カッシーラー、画商で編集者のポール・カッシーラーなどがいる。
Influences
Donald Phillip Verene, who published some of Cassirer's papers kept at Yale University, gave this overview of his ideas:

"Cassirer as a thinker became an embodiment of Kantian principles, but also of much more, of an overall movement of spirit stretching from the Renaissance to the Enlightenment, and on to Herder’s conception of history, Goethe’s poetry, Wilhelm von Humboldt’s study of the Kavi language, Schelling’s Philosophie Der Mythologie, Hegel’s Phenomenology of Spirit, and Vischer’s conception of the aesthetic symbol, among many others. Cassirer’s own position is born through a mastery of the whole development of this world of the humanistic understanding, which included the rise of the scientific world view — a mastery evident both in his historical works and in his systematic philosophy."[9]
影響
エール大学に保管されていたカッシーラーの論文の一部を出版したドナルド・フィリップ・ヴェレーネは、彼の思想について次のように概説している:

「思想家としてのカッシーラーは、ルネサンスから啓蒙主義へ、さらにヘーダーの歴史観、ゲーテの詩、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトのカヴィ語の研究、 シェリングの神話の哲学、ヘーゲルの精神現象学、ヴィッシャーの美的象徴の概念など、他の多くの思想家とともに、カント主義を体現する存在となった。カッ シーラー自身の立場は、科学的世界観の台頭を含む、この人文主義的理解の世界の発展全体に対する熟達によって生まれたものであり、その熟達は彼の歴史的著 作と体系的哲学の両方に明らかである」[9]。
Work
History of science
Cassirer's first major published writings were a history of modern thought from the Renaissance to Kant. In accordance with his Marburg neo-Kantianism he concentrated upon epistemology. His reading of the Scientific Revolution, in books such as The Individual and the Cosmos in Renaissance Philosophy (1927), as a "Platonic" application of mathematics to nature, influenced historians such as E. A. Burtt, E. J. Dijksterhuis, and Alexandre Koyré.

Philosophy of science
In Substance and Function (1910), he writes about late nineteenth-century developments in physics including relativity theory and the foundations of mathematics. In Einstein's Theory of Relativity (1921) he defended the claim that modern physics supports a neo-Kantian conception of knowledge. He also wrote a book about Quantum mechanics called Determinism and Indeterminism in Modern Physics (1936).

Philosophy of symbolic forms
At Hamburg Cassirer discovered the Library of the Cultural Sciences founded by Aby Warburg. Warburg was an art historian who was particularly interested in ritual and myth as sources of surviving forms of emotional expression. In Philosophy of Symbolic Forms (1923–29) Cassirer argues that man (as he put it in his more popular 1944 book Essay on Man) is a "symbolic animal". Whereas animals perceive their world by instincts and direct sensory perception, humans create a universe of symbolic meanings. Cassirer is particularly interested in natural language and myth. He argues that science and mathematics developed from natural language, and religion and art from myth.

The Cassirer–Heidegger debate
Main article: Cassirer–Heidegger debate
In 1929 Cassirer took part in a historically significant encounter with Martin Heidegger in Davos during the Second Davos Hochschulkurs (the Cassirer–Heidegger debate). Cassirer argues that while Kant's Critique of Pure Reason emphasizes human temporality and finitude, he also sought to situate human cognition within a broader conception of humanity. Cassirer challenges Heidegger's relativism by invoking the universal validity of truths discovered by the exact and moral sciences.

Philosophy of the Enlightenment
Cassirer believed that reason's self-realization leads to human liberation. Mazlish (2000)[citation needed], however, notes that Cassirer in his The Philosophy of the Enlightenment (1932) focuses exclusively on ideas, ignoring the political and social context in which they were produced.

The Logic of the Cultural Sciences
In The Logic of the Cultural Sciences (1942) Cassirer argues that objective and universal validity can be achieved not only in the sciences, but also in practical, cultural, moral, and aesthetic phenomena. Although inter-subjective objective validity in the natural sciences derives from universal laws of nature, Cassirer asserts that an analogous type of inter-subjective objective validity takes place in the cultural sciences.

The Myth of the State
Cassirer's last work, The Myth of the State (1946), was published posthumously; at one level it is an attempt to understand the intellectual origins of Nazi Germany. Cassirer sees Nazi Germany as a society in which the dangerous power of myth is not checked or subdued by superior forces. The book discusses the opposition of logos and mythos in Greek thought, Plato's Republic, the medieval theory of the state, Machiavelli, Thomas Carlyle's writings on hero worship, the racial theories of Arthur de Gobineau, and Hegel. Cassirer claimed that in 20th-century politics there was a return, with the passive acquiescence of Martin Heidegger, to the irrationality of myth, and in particular to a belief that there is such a thing as destiny. Of this passive acquiescence, Cassirer says that in departing from Husserl's belief in an objective, logical basis for philosophy, Heidegger attenuated the ability of philosophy to oppose the resurgence of myth in German politics of the 1930s.


仕事
科学史
カッシーラーが最初に出版した主要な著作は、ルネサンスからカントまでの近代思想史である。マールブルクの新カント主義に基づき、彼は認識論に集中した。 ルネサンス哲学における個人とコスモス』(1927年)などの著書における科学革命の読みは、自然への数学の「プラトン的」応用であり、E.A.バート、 E.J.ダイクスターホイス、アレクサンドル・コイレなどの歴史家に影響を与えた。

科学哲学
Substance and Function』(1910年)では、相対性理論や数学の基礎など、19世紀後半の物理学の発展について書いている。アインシュタインの相対性理論』 (1921年)では、現代物理学が新カント派の知識概念を支持しているという主張を擁護。また、量子力学について『現代物理学における決定論と不確定論』 (1936年)という本を書いた。

象徴形式の哲学
カッシーラーはハンブルクで、アビー・ヴァールブルクが設立した文化科学図書館を発見した。ワールブルクは美術史家であり、特に感情表現の残存形態の源泉 としての儀式と神話に関心を寄せていた。カッシーラーは『象徴形式の哲学』(1923-29年)の中で、人間は(1944年の『人間論』ではより一般的な 表現として)「象徴的動物」であると論じている。動物が本能と直接的な感覚によって世界を認識するのに対し、人間は象徴的な意味の世界を創造する。カッ シーラーが特に関心を寄せているのは、自然言語と神話である。彼は、科学と数学は自然言語から、宗教と芸術は神話から発展したと主張する。

カッシーラーとハイデガーの論争
主な記事 カッシーラー-ハイデガー論争
1929年、カッシーラーはダボスで開催された第2回ダボス会議において、マルティン・ハイデガーと歴史的に重要な出会いを果たした(カッシーラー-ハイ デガー論争)。カッシーラーは、カントの『純粋理性批判』が人間の時間性と有限性を強調する一方で、人間の認識をより広範な人間性の概念の中に位置づけよ うとしたと主張する。カッシーラーは、厳密科学と道徳科学によって発見された真理の普遍的妥当性を持ち出すことによって、ハイデガーの相対主義に挑戦して いる。

啓蒙思想
カッシーラーは、理性の自己実現が人間の解放につながると考えた。しかし、Mazlish (2000)[要出典]は、カッシーラーが『啓蒙の哲学』(1932)において、思想にのみ焦点を当て、それが生み出された政治的・社会的背景を無視していると指摘している。

文化科学の論理
カッシーラーは『文化科学の論理学』(1942年)の中で、客観的かつ普遍的な妥当性は、科学だけでなく、実践的、文化的、道徳的、美的現象においても達 成されうると主張している。自然科学における間主観的な客観的妥当性は普遍的な自然法則に由来するが、カッシーラーは文化科学においても同様の間主観的な 客観的妥当性が生じると主張している。

国家の神話
カッシーラーの遺作となった『国家の神話』(1946年)は死後に出版されたもので、ナチス・ドイツの知的起源を理解しようとする試みである。カッシー ラーはナチス・ドイツを、神話の危険な力が優れた力によって抑制されることのない社会と見なしている。本書は、ギリシャ思想におけるロゴスと神話の対立、 プラトンの『共和国』、中世の国家論、マキャベリ、英雄崇拝に関するトマス・カーライルの著作、アルチュール・ド・ゴビノーの人種論、ヘーゲルについて論 じている。カッシーラーは、20世紀の政治においては、マルティン・ハイデガーの受動的な同意のもと、神話の非合理性、とりわけ運命というものが存在する という信念への回帰があったと主張した。この受動的受容についてカッシーラーは、哲学の客観的、論理的基礎に対するフッサールの信念から離れることで、ハ イデガーは1930年代のドイツ政治における神話の復活に対抗する哲学の能力を減弱させたと言う。


Partial bibliography
Leibniz' System in seinem wissenschaftlichen Grundlagen (1902)
The Problem of Knowledge: Philosophy, Science, and History since Hegel [Das Erkenntnisproblem in der Philosophie und Wissenschaft der neueren Zeit] (1906–1920), English translation 1950 (online edition Archived 2011-06-05 at the Wayback Machine)
"Kant und die moderne Mathematik." Kant-Studien (1907)
Substance and Function [Substanzbegriff und Funktionsbegriff] (1910) and Einstein's Theory of Relativity [Einsteinschen Relativitätstheorie ] (1921), English translation 1923 (online edition)
Freedom and Form [Freiheit und Form] (1916)
Kant's Life and Thought [Kants Leben und Lehre] (1918), English translation 1981
Philosophy of Symbolic Forms [Philosophie der symbolischen Formen] (1923–29), English translation 1953–1957
Volume One: Language [Erster Teil: Die Sprache] (1923), English translation 1955
Volume Two: Mythical Thought [Zweiter Teil: Das mythische Denken] (1925), English translation 1955
Volume Three: The Phenomenology of Knowledge [Dritter Teil: Phänomenologie der Erkenntnis] (1929), English translation 1957
Language and Myth [Sprache und Mythos] (1925), English translation 1946 by Susanne K. Langer
The Individual and the Cosmos in Renaissance Philosophy [Individuum und Kosmos in der Philosophie der Renaissance] (1927), English translation 1963 by Mario Domandi
"Erkenntnistheorie nebst den Grenzfragen der Logik und Denkpsychologie." Jahrbücher der Philosophie 3, 31-92 (1927)
Die Idee der republikanischen Verfassung (1929)
"Kant und das Problem der Metaphysik. Bemerkungen zu Martin Heideggers Kantinterpretation." Kant-Studien 26, 1-16 (1931)
Philosophy of the Enlightenment [Die Philosophie der Aufklärung] (1932), English translation 1951
Determinism and Indeterminism in Modern Physics: Historical and Systematic Studies of the Problem of Causality [Determinismus und Indeterminismus in der modernen Physik] (1936), English translation 1956
The Logic of the Cultural Sciences [Zur Logik der Kulturwissenschaften] (1942), English translation 2000 by Steve G. Lofts (previously translated in 1961 as The Logic of the Humanities)
An Essay on Man (written and published in English) (1944) (books.google.com)
The Myth of the State (written and published in English) (posthumous) (1946) (books.google.com)
Symbol, Myth, and Culture: Essays and Lectures of Ernst Cassirer, 1935-1945, ed. by Donald Phillip Verene (March 11, 1981)
Ernst Cassirer: Gesammelte Werke. Hamburger Ausgabe. Electronic Edition. (2016) – The electronic version of the definitive edition of Cassirer's works, published in print by Felix Meiner Verlag, and electronically in the Past Masters series.
The Philosophy of Symbolic Forms, Vol. 4, The Metaphysics of Symbolic Forms. Edited and translated by John Michael Krois and Donald Philip Verene from manuscripts left after Cassirer's death. Published 1996, New Haven & London: Yale University Press.
The Warburg Years (1919-1933): Essays on Language, Art, Myth, and Technology. Translated and with an Introduction by S. G. Lofts with A. Calcagno. New Haven & London: Yale University Press.

https://en.wikipedia.org/wiki/Ernst_Cassirer



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