対訳版:第4章 エスノメディシン
Ethnomedicine
Notes on George M. Foster and Barbara G. Anderson'
Medical Anthropolpgy, 1978
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医療人類学 第4章 民族医学(Ethnomedicine) この章とそれにつづく3章では、我々は人類学の伝統的な対象である部族民、農民や工業化以前の諸民族に注意を向ける。我々はこれらの社会で考えられてい る限りの病いの本質やその原因、治療を問題にする。病いを緩和する治療者達のタイプ、彼らの技術や社会的役割を問う。そして第2部の最後の章では、非西洋 の医療体系の効用についての証拠を検討し、次のように問う。「非西洋医療を受けている人々の健康への要求を、このシステムはどれだけ満たしているだろう か」と。我々の第一の関心は非西洋の民族にあるにもかかわらず、ここで議論される項目の多くは比較という視点に立ってこそ最も完全に理解されるのである。 我々が述べる医療体系の重要な諸相を最も鮮やかに照らし出すような対比を与えるために−啓発的だと我々に思われるところでは−それらの体系の特徴と現代世 界でそれらに相当するものの特徴とを比較する。 我々は非西洋医療体系の探究を民族医学から始める。これは適切な出発点である。というのは、第1章で見たように、人類学者の抱く、彼らが研究してきた伝 統的社会の成員の医療についての信条や実践に対する関心は医療人類学の「ルーツ」の中で最も古いものだからである。民族医学とは、人類学者のこの関心とそ れを高めるのに用いられた研究方法から帰結した膨大な知識に与えられた現代用語であるが、それは理論的な理由からも、実践的な理由からも、人類学者の興味 をそそるものである。理論面では、医療についての信念や実践はどんな文化でも、その重要な構成要素であり、その結果、人類学者たちは医療についての信念や 実践には興味が持たれる。また、それらが一部をなしている文化の他の側面に与える洞察からも関心が持たれる。実践面では、土着の医療についての信念や実践 に関する知識が伝統的な人々のための保健計画の設計と彼らへの保健サーヴィスの提供の点で重要である。第4部で理解されるように、医療人類学者の主要な役 割の一つは、保健計画者達にその土地の医療についての信念や実践を説明し、それらを、全ての国々の公的な保険計画を特色づけている現代の実践とどのように 統合していくかということに示唆を与えてきたことである。しかしながらこの章では、我々の興味は理論面であり、土着の医療体系、特にその背後にある原因に ついての考え方に主眼を置くことにする。 用語上の問題 我々自身の医療体系以外の医療体系を記述する際に、人類学者達は用語の問題にますます困惑を示している。通常もちいられる全ての術語は、「現代」医学 と、土着の文化的発展の産物である医学との質的なギャップを含んでいる。それは「科学的」に対して、「未開の」(primitive)、あるいは「西洋」 と「非西洋」、「現代的」と「伝統的」という対照的術語の形で強調される二分法である。しかし、(この章の終りで指摘するように)両者には質的なギャップ があるにもかかわらず、極端な文化相対主義の時代の中で、多くの人々は評価を示唆する用語によって混乱している。初期の研究者は、これらの問題には悩まな かった。彼らは「未開の」人々を研究したのであり、極めて自然に「未開医療」(primitive medicine)と呼んでいる。1940年代のエルウィン・アッカークネヒトは医療人類学の「父」とも呼ぶべき医者であり人類学者なのだが、彼は恥じる ことなく「未開医療」と言い、それを「基本的には呪術−宗教的(magicoreligious)で、わずかの合理的要素を用いる」と説明している (Ackerknecht 1971 : 21)。第二次世界大戦後、村落共同体の研究が流行し始めた時、レッドフィールドの初期の用語に従うと、それらの人々はしばしば「民俗文化」(folk culture)を持つといわれた。当然彼らの医療体系は通常「民俗医学」(folk medicine)と記されたが、このことがしばしば混乱を生む原因となった。つまりテクノロジーの点で複雑な社会の大衆的医学もまた「民俗」と呼ばれる からである。 人類学の文献でこの用語法が伝統的に、また頻繁に用いられたがゆえ、伝統的な人類学のカテゴリー、「未開の」、「村落的」、「現代的」に由来する用語に 固執する誘因となっている。しかし、「未開の(primitive)」は蔑称的な含意があるので、我々は「未開」人について語ることを躊躇する。「原始 的」は最初「野蛮な」(savage)の代わりに侮蔑的ではない代用語として登場したが、このような婉曲語法は究極的には、有効性を持ちえないし、置き換 えられた言葉も同意を得ることができない意味のままである。アッカークネヒト自信は、1971年の彼のエッセー集の中で用語の変更の必要を感じ、多くの表 現から「未開の」という語を削除することにした。現代の人類学者達は、批判回避に苦心して、しばしば「西洋の科学的医学の語彙」、「文化特異的な病い」、 「非科学的な保健実践」「土着または民俗医学的役割」または「土着の病についての概念的伝統」という長ったらしい用語に訴える。 しかし、もし我々が社会の型についての枠組から病因論、つまり疾病の原因についての考え方に目を向けると、我々は初期の用語や、後になって出た、婉曲語 法の蔑称的な意味合いを極力回避することができよう。我々は、「西洋」、「科学的」、「現代的」、「非西洋」、「伝統的」、「土着の」などの言葉を削除す ることは容易にはできない。しかし、我々は次のように信じる、比較的中立的用語からなる分類体系の文脈の内部で用いられれば、それらの用語は誰にとっても 不快ではないと。 病因論 ( Disease Etiology ) 病気の因果論的概念を扱った民族医学的文献を通覧すると、非西洋の人々の間では、病気の存在を「説明する」のに必要な認知枠組の数があまりに少ないのに 我々は驚かされる。 実際我々は、主なカテゴリーや体系を区別するには二つの区別で十分であることを見い出す。我々はそれをパーソナリスティク (personalistic)と、ナチュラリスティク(naturalistic)と呼ぶよう提案する。それらの用語は特に因果論的概念に関するもので あるが、それらの用語はまた全医療体系(例えば因果論ばかりでなく、その見解に由来する関連した行動の全て)について語るときにも用いると便利である。 1 パーソナリスティクな医療体系 パーソナリスティクな体系とは超自然的存在(神格あるいは神)、非人間的存在(例えば幽霊、祖先あるいは悪霊のようなもの)、または人間(呪術師や邪術 師)などの生命のある作用体が目的を持って干渉することによって病いが引き起こされると信じられている医療体系である。病人とは文字通り犠牲者であり、彼 一人に関わる理由によって攻撃と罰の対象となっている。 2 ナチュラリスティクな医療体系 ナチュラリスティクな体系において病いは非人格的な体系的用語で説明される。ナチュラリスティクな体系はとりわけ平衡モデル(equlibrium model) に従う。つまり、身体中の非生命的な要素、熱、冷、体液あるいはドーシャ(dosha)、陰陽などが自然環境および社会環境の中で個人の年齢や状態にふさ わしいバランスにあるとき、健康であるとされる。平衡が乱されたときに病いになるのである(1)。 用語はいちいち異なるが、類似の二分法的分類体系が他の人類学者達によって使われてきた。セイヤスの「超自然」と「非超自然」といったカテゴリーは、我 々のパーソナリスティクとナチュラリスティクのカテゴリーと極めて近いものであることは次の文章から明らかである。 「超自然的病因論のカテゴリーとは直接に見ることのできない超感覚的な力、作用体、あるいは行為の中に病気の起源を位置づけている説明をいう。邪術、呪 術、精霊の侵入、ススト(susuto)、邪視(evil eye)などのような疾病の説明は全てこのカテゴリーに入る。病気の非超自然的説明は観察可能な原因と結果の関係に完全に基礎づけられているものであり、 不完全あるいは誤った観察のために、その確立された因果関係が誤っているか否かには関わらない」(Seijas 1973 : 545)。 ナージはフィリピンのある村の医療についての信念と実践について論じた際に、病いの「超自然的」原因と「自然的」原因について語っている。前者は精霊神 (spirit-gods)、呪術師や邪術師のような「疾病の作用体」を指し、後者には消化しにくい食物、気温の急激な変化、強風、血液あるいは「体の中 に取り込まれる」空気が含まれている(Nurge 1958 : 1160-1162)。 サイモンズによると「呪術的」病因論と「経験的」病因論は対照的であり、それを彼はペルーとチリの沿岸部に住むメスティソ(mestizo)の人々の民 俗的な医療についての信念を記述する際に用いている(Simons 1955)。 「自然的」、「非超自然的」、「経験的」は我々が用いた「ナチュラリスティクな」というラベルの適切な同義語であろう。しかし「超自然的」と「呪術的」 については、的確とはいえない。それはそれらが概念的には完全に区別されるような作用体を一まとめにしてしまうことを要求するからである。用語としての 「超自然」は自然、すなわち可視的で観察可能な自然を越えた、神、精霊、幽霊あるいは他の非物質的実体のような存在を含む存在の次元について言及してい る。しかし呪術的と邪術的は超自然的世界には属してはいない。しばしば彼らは超自然に頼るが、彼らの力は、呪文、護符、黒魔術からなる、呪術的なものとし て捉えるのが最上である。セイヤスやナージがそうしなければならなかったように、超自然的なものとして呪術師や邪術師を分類することは、我々にとって概念 をねじ曲げることのように思われる。サイモンズも正反対な立場からではあるが、同様なディレンマに陥っている。「呪術的」は邪術師や呪術師の仕事に対して は適切な用語だが、神、精霊、幽霊の行為に対しては不適切である。超自然的および呪術的なものの公分母は犠牲になるものを病いに陥し入れようとする生命力 をもつ「作用体」である。このゆえに、超自然的−呪術的病因論を指して使われてきた他の用語よりも「パーソナリスティク」の方が好ましいと我々は思う (2)。 もちろん、パーソナリスティクな、およびナチュラリスティクな病因論体系は相互排他的なものではない。ほとんどの病いを説明するのに、パーソナリスティ クな原因を持ち出す民族も、普通はいくつかの自然的または偶然的な原因を認めている。同様にほぼ常にナチュラリスティクな原因が支配的な民族も、ある病い は呪術師や邪視のせいであると説明する。そのような多くの重なり合いがあるにもかかわらず、大抵の人々は、ほとんどの病気を説明するのに、これら2つの説 明原理のどちらか一つを採用するように思われる。例えば、エル・モローにおいてヴェネズエラ人の農民の89パーセントは、病気の原因を自然的なものと見な し、わずか11パーセントの人々のみが呪術的で超自然的な原因によるものと考えているにすぎない。これはその人々の固有の因果論体系がパーソナリスティク ではなく、ナチュラリスティクなものであると理解できる。逆に全ての病気が悪意に基づくものとされ、「死は呪術師、邪術師、毒物、自殺あるいは傷害による ものである」(Fortune 1932 : 135,150)とされるようなメラネシアのドブ族については明らかにパーソナリスティクな原因が優勢である(3)。 パーソナリスティク体系における因果論的概念についての考え方 この体系の本質はニューギニア高地のギミ族について書かれたグリッグの文献においてうまく表されている。「病いは作用体によって起こされ、犠牲になる患 者に対して力をおよぼすのである。そのような作用体はおそらく人間、超人、……あるいは人間以外の存在であったりする。しかし、常にそれらは意思を持った 存在であると信じられており、無差別にではなく意図的に感じられるような個人的動機に対して反応している」(Glick 1967 : 36)。象牙海岸のアブロン族もそのような作用体が中心になる役割が見られ、そこでは人々が病気になったり、死ぬことはいくつかの力が作用したためだと考 えられている。「アブロン族の疾病理論は、ある特定の状態の原因となりうる一群の作用体を含んでおり、それらのおのおのは病気の蔓延の一組の可能な理由と 結びついている。これらの作用体は自然的そして超自然的世界にまたがって存在する。病気を起こすための適当な技術を持つ普通の人々や幽霊、やぶの中の悪 魔、呪術師といった様々な超自然的実体、あるいは邪術師、単独で、あるいは下級の神々を通じて作用する卓越した神ニャメ(Nyame)、これらは全て病気 の原因になりうる(Alland 1970 : 161 作用体への傍点筆者)。 パーソナリスティクな原因理念が優勢な体系の記述においては、全て、あるいはほとんど全ての死や病いが作用体によって引き起こされるのがしばしばなのは 驚くべきことであり、西洋人が自然の原因によると考えるものがこのモデルにあてはまるものと見なされる。ここで見たメラネシアのドブ人達は全ての病いを作 用体、特にその人をうらむ人達のせいだとする。「偶然の事故という考え方は存在しない。ココナッツヤシや他の木から人が落ちることは呪術のせいであり、同 様の事故でもそのように見なされる」(Fortune 1932 : 135,150 傍点筆者)。リベリアのマノ族とともに15年間働いた医師のハーレイによると、「病気は非自然的なものであり」、それは通常呪術的手段を駆使した、「外的 な力による侵入の結果である」。そして病気や若死は「外的な力か呪術によるものであると考えられている」(Harley 1981 : 7, 20)。ハーレイは病気と死亡に関する16の非自然的な原因をリストアップし、その中に呪術、毒物、タブーを破ること、呪物の力、動物憑きを挙げている。 「自然な」原因は、薬草療法で治る単純な患い、高齢による死(彼はこのケースはまれであるという)、そして供犠のために奴隷や子供が死ぬことのみに限られ る(同書、35-36)。 疾病の原因についてのパーソナリスティクな信念の方が「未開」人についての古典的な民族誌の中の医学、保健に関するデータでは数の上で圧倒的に優ってい る。これらの民族誌には、南北アメリカ、サハラより南のアフリカ、オセアニアとアジアの部族の原住民のものが含まれている。これらのほとんどは、グループ が比較的小さく、孤立し、無文字社会であり、古代に高度な文明と接触していない(していなかったというべきか)。逆に、西アフリカの土着の複合文明、アメ リカ大陸のアズテック、マヤ、インカにも見られるような重要な例外もある。 ナチュラリスティク体系における因果論的概念 パーソナリスティク体系とは対照的に、ナチュラリスティク体系は、病気を非人格的な体系の用語で説明し、生命のある作用体は役割をもたされない。この体 系では健康は平衡モデルに従う。例えば、「体液」、陰と陽、アユルベーダでのドーシャ(dosha)などの基本的な身体の要素が個々人の年齢や状態にふさ わしい均衡を保っているときは健康が約束される。この均衡が熱さ、冷たさ、そして時には強い感情といった自然の力によって、外部または内部から乱されると き、病いが引き起こされる。ナチュラリスティク体系での平衡原理は様々の方法で表現されるが、現代的な記述によると、健康に対する主要な脅威としての熱さ と冷たさの第一次的な役割を示すものである。この熱さと冷たさという2つの言葉は時には実際の温度を指していることもあるが、しかし、それ以上に直接に熱 さと冷たさとは関係のない性質について述べている場合の方が多いのである。この体系のラテン・アメリカ版では、食物、薬草、他の多くの物質、状況や出来事 (氷、月経、妊娠、月食など)も、本来の性質という意味での熱い、冷たい、あるいは中性として分類される。この概念原理は合衆国で「硬水」と「軟水」、 「ハードな」飲物と「ソフトな」飲物、「ドライな」ワインと「スウィートな」酒という時に用いられるものと類似している。我々は液体が言葉の普通の意味で ハードだったり、ソフトだったり、「ドライ」であったりするわけではないことを知っている。しかし、もし火星から民族学者がやって来たならば、彼らは我々 の用語法に困惑することであろう。 現代のナチュラリスティク体系は一つ重要な歴史的意味においてお互い似ている。それらの説明と実践の集積は特にギリシア、インド、中国の古代の古典的文 明の「偉大な伝統」の単純化され大衆化された遺産である。ほとんど現代人の人類学の研究を通して知られている、パーソナリスティク体系とは異なり、ナチュ ラリスティク体系を記述した歴史的記録は今から2500年も昔にまで遡ることができる。これらの体系の起源と発展に関する知識のおかげで、現代の民族誌の 報告だけに依らなければならないとしたらば我々にとってとうてい不可能なような明確さで、現代の多くの変種について理解することができるのである。ここで はそのうち次の3つの体系を要約する。体液病理学(今日ラテン・アメリカに見られる)、アユルベーダ医学(インド及びその隣接諸国で見られる)、伝統中国 医学である。 1 体液病理学 ( Humoral Pathology ) 液体病理学は身体の「液体」の概念にその根拠を置く。そのルーツは紀元前6世紀までにはすでに確認されていた四元素(土、水、大気、火)についてのギリ シア理論である。ヒポクラテス(紀元前460年頃の生まれ)の時代までにこの理論は四元素説と類似の4つの性質−熱、冷、乾、湿−についての概念によって 補強されていた。四性質が前者の理論に統合されて、4つの「体液」概念が生み出された。それぞれには四性質のいくつかが結びついていた。すなわち、血液 (熱と湿)、粘液(phlegm)(冷と湿)、「メランコリー」とも呼ばれる黒胆汁(black bile)(冷と乾)、黄胆汁(yellow bile)あるいは「かんしゃく」(cholen)(熱と乾)である。 ヒポクラテスは歴史的に確かに実在したが、彼の名を冠する医学論文集−『ヒポクラテス全集』−の出所は複数である。『全集』の現在まで残っている最も古 い原稿はたぶん紀元後10世紀のものである(Chadwick and Man 1950 : 5)ので、どれが実在のヒポクラテスのものなのか、どれが彼の名前がつけられただけなのかを正確に知ることはできないであろう。しかし、あたかもヒポクラ テスによって『全集』が書かれたかのように、古代ギリシアの医学を記述すれば便利である。 健康の平衡理論が古代ギリシアで充分に発展していたことは「ヒポクラテス」の疾病の記述から明らかである。「人体は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁を含む。 これらは体質を構成し、痛みや健康の原因となる。この構成物質が力と質の点で互いに正しい割合にあり、充分に混合している状態がまさに健康である。痛みは その物質の一つが不足したり、過剰であったり、また体の中で分離し他のものと混合されていないときに起こる」(同書、204)。 ヒポクラテスによると、4つの体液は「外見的において本質的な差異があるゆえに、特定の違った名前を持っている……それらは熱、冷、乾、湿という性質の 点で異なっている」(同書、205)。ヒポクラテスが体液の質を正確に特定しているところはどこにもないように思われるけれども、それらの質を明確に把握 し、それらの量が気候や天気に従って、一年を通じて変化することを記している。粘液は冬に増加する、なぜなら、それは体液中で最も冷いものゆえに冬と最も うまく調和するからであると彼は書いている。春には雨期の湿って暖かい日々に刺激されて血液の量が増加する、それは湿って熱いから、春は血液と最もよく調 和する。夏には、血液は強力なままだが、胆汁は次第に増加し夏と秋の間身体を支配する。暑く乾いた夏には黄胆汁が主導的だが、冷たく乾いた秋が来るとこの 胆汁は冷やされ、黒胆汁が優位にたつ(同書、207)。 ヒポクラテスはいう。このような季節的な変動のゆえに多くの病気が一年の特定の時期に起こると思ってもよい。つまり、治療するにしても、「医師が心して おかねばならないことは、すべて病気はその性質を最も強く持つ季節に最も流行するということである」(同書、208)。さらに、治療はその疾病の原因に対 抗することを目標にするべきである。「過食を原因とする疾病は絶食により、飢餓による疾病は摂食により治される。過労による疾病は休息により、怠惰による ものは勤勉によって治される。要するに、医師は、疾病の治療において、その形態、季節的および年齢的誘因に応じて、疾病の原因に対する対立の原理(the principle of opposition)に従い、緊張には弛緩、あるいはその逆に弛緩には緊張をもって対処せねばならない。このことは患者を最も落ちつかせ、また治療の原 理であるように私には思える」(同書、208 最初の傍点は筆者)。 古代ギリシア時代では最も重要な臓器(心臓、脳、肝臓)はそれぞれ、乾と熱、湿と冷、熱と湿であると考えられたので、正常な健康体では余分の熱と湿があ ることになる。しかし、この均衡には個人差があり、それで気質や「顔色」にも個人差があることになる。例えば、多血質(顔色が良く、快活で、楽天的)、粘 液質(静かで、落ち着いて、不精で、無感動)、胆汁質(怒りっぽく、気難しい)、憂うつ質(うち沈んで、悲しく、憂うつ的な)である。したがって、良い医 療とは患者の自然の顔色を知り、一つまたはそれ以上のどの体液の量が一時的に過剰になっているか、あるいは不足しているかを確かめ、この発見を季節の支配 的な体液と比較し、それによってどのようにすれば正常な体液の均衡を最もうまく再構成することができるかを決定することである。これは、食事、内服薬、下 剤、吐剤、瀉血、吸角などの療法を用いることでなし遂げられる。 古典的なギリシアの医学が我々の時代まで受け継がれ、現代の民俗的な体液病理学となるまでの経路はあまりにも複雑であり、詳細に論じることはできない。 紀元前3世紀に創立されたアレキサンドリアの大図書館でギリシア医学は保存され、原稿は複写そして再複写された。ガレノスは(約130−約200)が彼の 膨大な知識を集めたのはこの図書館からである。ギリシア人ではあったが、ガレノスは人生の大半をローマで診療し、初期ギリシアの著作に加筆したり、洗練 し、体液理論を完全なものにし、その最高の大家としての地位を確立した(Sarton 1954 : 54)。ビザンチン文明を通じて、ガレノスの影響は東方のキリスト教徒とイスラム教徒の間に広がっていった。彼の記録の多くはシリア語に訳され、それから アラビア語に訳されたり、直接アラビア語にも訳された。 ギリシア語の原典の翻訳の初期の作業の多くは、メソポタミア、エデッサのネストリウス派教徒が手がけていた。5世紀の終わりにはこの宗派はエデッサを脱 出しペルシア南西のジュンデ−シャプールに定住した。この地で、九世紀中葉まで、古代ギリシアとガレノスの医学知識はアラビア語に翻訳され、このことが体 液病理学のアラビア版を生み出した。ジュンデ−シャプールでもインド由来のアユルベーダ医学は体液病理学と接触した。しかし、その接触が起こったのは確か だが、その考えの交流の形態や程度については我々はほとんど何も知らない。 9世紀後半の間に、バグダッドの翻訳学校がペルシャへ移動した。東カリフの国の偉大な医者達−彼らの多くはペルシア人であった−が活躍したのはこの地で あった。すなわちラーゼス(865−925頃)、ハーレイ・アッバース(994没)、彼らの中で最も有名であり、当時の医学知識の集大成である『医学規 範』の著書であるアヴィセンナ(980−1037)などである(Gruner 1930)。 同じ頃、他のイスラム教徒達はアフリカ北海岸に沿って西へと進攻し、スペインとイタリアを征服した。そして、それらの国々に古代ギリシアと東方アラブ世 界の医学を持ち込んだ。その中でヨーロッパの医学に最も影響を及ぼしたスペイン生まれの医者達には、アヴェンゾアル(1113−1162あるいは −1196)、アヴェロエス(1126−1198)やユダヤ人のマイモニデス(1135−1204)がおり、、マイモニデスは生涯のほとんどをカイロで過 ごした。 このような、古代ギリシアとアラビアの結合した医学的遺産はアラビア語からラテン語へ翻訳され始めた。特に1085年のムーア人の追放の後のトレド、サ レルノ(シシリー王国)、モンテ・カシノ(イタリア)で盛んであった。 かくして、体液の古典的教義は中世キリスト教的医学の基礎となった。ここでも、体液理論はヴェサリウス(1514−1564)、ハーヴェイ (1578−1657)、シデナム(1624−1689)らの諸発見まで支配的であった。現代までのキリスト教医の書物によると、ヒポクラテス、ガレノ ス、アラブの医者、特にアヴィセンナは医学の理論と実践にとって主要な権威であったことがわかる。科学的医学によってそれらの医学が廃された後ですら、体 液病理学は民衆のレベルで、薬草書や家庭療法書というかたちで、19世紀に至るまで影響を及ぼしている。イギリス植民地時代の合衆国へも本国から体液の教 義が伝えられ、最近のスノウによると、この教義はふつう考えられている以上に民衆のレベル、特に低収入の黒人と貧困な南部の白人の間で普及しているという (Snow 1976)。 しかしながら、体液病理学が最初はエリートへそれから民衆に対して最大の影響を及ぼしているのはラテン・アメリカである。アメリカ大陸の発見と征服とと もに、スペイン人の征服者と後の植民者の文化的荷物の一つとして体液病理学が新世界に入ってきた。スペイン本土と同じように新世界においても、体液病理学 は18世紀に至るまで科学的医学であった。そして同時に、いまだによく分っていないルートを通って体液病理学のある部分は民俗レベルにまで浸透し、メス ティソ(スペインとアメリカ・インディアン混血)農民や文化の洗礼を受けたインディアンの集団の間で、征服以前の医学の大部分にとってかわり、さらに残存 した部分と混合した。エリート文化の単純化された部分のみが徐々に民俗と農民のレベルに浸透していくというプロセスに従い、体液病理学の中から湿と乾とい う性質が失われていった(Foster 1953a,1953b)。 今日、メキシコ南部からスペイン語系とポルトガル語系の南アメリカにかけてのラテン・アメリカの多くの地域で体液病理学の民俗版は農村−およびある程度 は都市−の諸民族の医療体系において最も重要な説明要素である。メキシコの民俗医学における熱−冷の二分法のルーツはアズテカ文化の中にあるという指摘が あるが(例えば、Lopez Austin 1974 : 209,218-219)、この説明はこの体系がほぼ全てのラテン・アメリカに分布しているという事実を説明できない。このことは、先ほど述べた歴史的事 実の方がより良く説明できる。 つまり、現代ラテン・アメリカの体液病理学では、病いの原因は過度の熱さや冷たさが体に侵入したことにあると説明される。時には、実際の温度が関係す る。例えば、ある女性は手と腕の痙攣を、手と腕が着物のアイロンかけで一時的に暖められているのに、不注意にも冷たい水で手や腕を洗ってしまったためと説 明する。またそれ以上に、熱さと冷たさは隠喩的に考えられる。例えば、手と腕の痙攣を患っている男性はその症状を、白壁を塗るための石灰で手や腕が一時的 に暖められているのに、不注意にも手や腕を洗ったからだと説明することだろう。冷たさは「アイレ」(aire)すなわち空気から、「冷たい」食物の摂食か ら、裸足で冷たい床の上を歩くことから、体の中に入る。体の熱が上がるのは、太陽、陶工の窯や料理の火にあたること、暖いお湯につかること、眠ること、読 むこと(眼が暖められる)、妊娠と月経、「熱い」食物や飲料(beverages)を摂取すること、恐れ、怒り、悲しみなどの「熱い」感情を体験すること による。この理論によると熱が原因と信じられている病気には、冷たい薬草療法と冷たい食物、そして、(皮膚へのある種の湿布のような)冷たい処置によって 治療される。冷が原因と信じられる病気には、熱い薬草療法と熱い食物、そして、(辛子湿布や吸い玉のような)熱い処置によって治療される。事実、ほとんど の治療は熱あるいは冷のどちらかが優勢であるような数種の要素の混合物なのである。 現代ラテン・アメリカの体液病理学の代表的な著述は次のとおりである。Cosminsky(1975,1977)、Currier (1966)、Foster(1953a, 1967 : 184-193)、Harwood(1971)、Ingham(1970)、Logan(1973)、Madsen (1955)、Mazess(1968)、McCullough(1973)、Molony(1975)、Orso(1970)、the Reichel-Dolmatoffs(1961)、Ryesky (1976)、Simmons(1955)、そしてSuarez(1974)である。 ガレノス的な形でのギリシアの体液病理学は、西方への伝播と同じように、拡大するイスラム文明に運ばれて東方にも広がっていった。イスラム教徒はガレノ スの医学をティブ・イ・ユナニー(Tibb-i-Yunani)またはウナニー・ティビ(Unani-Tibbi)と呼び、この医学はペルシア、パキスタ ン、他の西南アジアの国々において上流階級のレベルでも民俗のレベルでも驚くべき活力を示した。ブラウンは彼が1887年、テヘランのペルシア公衆衛生協 議会の会合に参加した時に、この国の多くの医師がアヴィセンナ以外の医学について何も知らないことに驚いたことを回顧している(Brown 1921 : 93)。今日、体液病理学は、マレーシア、ジャワ(ここでは健康を第一に害するものとしてマスク・アンギン(masuk angin)すなわち「風が侵入」がある)、フィリピンの多くの民俗医学の基礎になっている。フィリピンでは、これらの信念はメキシコおよびマニラのガレ オン船経由のスペインの影響の結果であるように思われる(Hart 1969 :62)。それに対して、マレーシアの体液病理学者は明らかにイスラム教徒の影響であり、それは一部にはイスラム語の文献のマレー語への直接の翻訳の形 で、一部には初期のイスラム教徒の侵略者の遺産としてであった(同書、45)。ジャワ人の熱−冷症候群もまた土着の南アジアの影響よりもイスラム教徒のパ ターンにより多く対応しているように思われる。こうして、イスラム教徒やスペインの進出という東方および西方への拡大に乗って、基本的な古典的ギリシア医 学の信念は地球を一周したことになる。 2 アユルベーダ医学 現代インドでは、体液病理学のように、多くの食物が暖めるか冷やす特質を持つと考え、体の平衡が乱れた時に、食物や薬草の正しい組合わせが適正な均衡に 戻すとされる。ガラム(garam、熱い)食物には卵、肉、ミルク、ダル、蜂蜜、砂糖があり、トンダ(tonda、冷たい)食物には、フルーツジュース、 ヨーグルト、酸味のバターミルク、米、水が含まれる(Jelliffe 1957 : 135)。これらの考え方の起源はインドのアユルベーダ医学にある。この土着の体系は紀元前第一千年紀の初期に書かれたベーダの著述の中に最初に登場す る。しかし初期のテキストでは、「悪魔、邪術師、敵に対する呪いの言葉、悪魔が引き起こした病気や人間の罪に対する罰として神が下した病気を追い払うため の呪文という立場から書かれている」(Zimmer 1948 : 1-2)。古典的なアユルベーダ医学が現存しているサンスクリット文献の中に登場するのはずっと後である。すなわち、一世紀の『チャラカ・サンヒター』 (Caraka Samhita)、四世紀ごろの『スシュルタ・サンヒター』(Susruta Samhita)、8世紀の『ヴァグハター』(Vaghata)である(Leslie 1968 : 562)。しかしそこに見られる理論はそれらの資料より数世紀も前のものであることは確かである。 アユルベーダ理論によれば、ギリシア人によって認められたのと同じ4つの要素(土、水、火、空気)ともう一つエーテルから宇宙が作られている。これらの 要素の身体中のでの配列は宇宙の縮図であり、それぞれの要素は5つの「微妙な」形態と5つの「物質的」形態をとる。身体は同時に3つの液体、すなわちドー シャ(ここからトリドーシャtridosha 理論と呼ばれる)より成る。すなわち、粘液、胆汁、そして、風素または空虚(フラタレンス)である。3つのドーシャが平衡した時に健康になる。したがっ て、不健康とは一つまたは複数のドーシャが適切に機能しないときに現れる(Leslie 1969, Opler 1963)。ドーシャもまた年齢や季節に関連している。すなわち、粘液は青年や春に、胆汁は中年や雨季に、風素は老年や寒く乾燥した天候に、それぞれ結び ついている(Beck 1969 : 562)。 アユルベーダ医学と体液病理学の類似性は2つの体系間のかなりの相互関係を示唆している。しかし、そのような相互の影響を歴史的な記録に見つけること は、よほど近年のものでない限りは難しい。20世紀初頭、アユルベーダはインド文明の伝統と偉大さのシンボルとしてインドのナショナリスト達に重視され た。例えば、独立に先だつ一世代分以上前の1920年、インド国民議会は「インドにおける医学大系としてアユルベーダとウナニーの体系が広く有用であり、 一般にそのように認められていることに顧み、それらの固有の体系に沿って指示と処方を行うための学校、大学、病院を普及するための努力がインド国民によっ てなされるべきである」という趣旨の決議を採択した(Udupa 1975 : 54)。その後、インド国民の学校がマドラス、ボンベイ、デリー、ベンガルや他の都市において開設され、「現代医学の実用的な知識を持ったインド医学の有 能な施術者を養成し、農村部の人々に包括的な医療サーヴィスを提供することができるようにすることを目指した」(同書、55)。 インドにおけるアユルベーダの象徴的な役割のおかげで、おおざっぱで、文献の裏付けのないことを述べる傾向が著作者の側にある。例えばウドパは「アユル ベーダは西歴紀元の初年にはすでに遠くまで広がっており、エジプト、ギリシア、ローマ、アラビアでの医学体系に影響を及ぼしていた」(同書、54)と書い ている。アユルベーダの最初の偉大な著述家であるチャラカは紀元1世紀の終わりか2世紀の初めに生まれたので、この陳述は明らかに大袈裟である。 1947年に、新しく独立したインド政府の保健省は、ヒンズーのアユルベーダとイスラムのウナニー・ティビー医学の有効性を強化するための方策を考える ための委員会を認命した。この委員会の1948年報告の付録の「科学的な覚え書き」は、アユルベーダ医学から始まり、「これはこの国の天才の作り出したも のであり、外来のものではない。……ギリシア人の体液理論はおそらくトリドーシャ理論のできの悪い応用であろう」としている(Opler 1963 : 32)。この点でも、このような意見を支持する証拠はない。体液病理学とアユルベーダ医学の大きな交流はジュンデ−シャプールにおいてはかなり盛んであっ たという証拠がある。バシャムの報告によると、6世紀の初めに(すなわち、ジュンデ−シャプール学校が設立された直後に)ペルシア皇帝の宮廷医がインドを 訪れ、インドの医学書と学校で施術していたインド人の医師をペルシアに連れて帰った。「その後、少なくとも15のインド医学のテキストがアラビア語に翻訳 されている」(Basham 1976 : 39)。 インドにおける体液病理学の直接的な形跡は逆の場合よりかなり明らかである。ウナニー・ティビー医学は、今日のインドではイスラム医によって広く施術さ れているが、この医学はアラビアの学者によって変形されたギリシアの古典医学である。ウナニー(あるいはユナニー Yunani)の語はアラビア語の「イオニア語」(つまりギリシア語)の転訛である。 歴史的な関係がどのようなものであるにせよ、体液病理学とアユルベーダ医学はお互いに異なる文化的歴史を持っている。体液病理学が著明な医学センターの 一連の有名な医師によって発展、洗練され、大量の文書記録の形で残されているのに対して、「ヒンズーの医学伝承は数世代を通じて、教師団、団体、大学、研 究センターによってではなく、技術を有する施術者、彼らの技術の達人が弟子を一人一人訓練することを通じて伝えられた」(Zimmer 1948 : 75)。しかしながら、今日の体液病理学の民俗医学であり、歴史的な興味の対象にしかなりえないのに対して、アユルベーダ医学は今日のインド政府から大き な支持を受けているのである。1970年代の中頃までに91のアユルベーダ医学の大学と10のウナニー医学の大学が年間約7000人の学生を受け入れ、す でに「この制度による資格のある」約5万名のアユルベーダ医を養成している(Udupa 1975 : 64-65)。また、「この制度によらず資格を得た」、「登録された」アユルベーダ医学とウナニー医学の施術者が約15万人おり、さらに、非登録のアユル ベーダ施術者はおそらく20万人にも及ぶ。これは、毎年約1万3000人の学生を入学させる107の「現代」医学の大学と対照的である。また、インド国政 府と州政府はインド医学を提供する約9000のアユルベーダ医学の診療所と195の病院を支援している。アユルベーダ−そして、それほどではないがウナ ニー−医学は明らかに現代インドの保健ケアに重要な役割を果たしている。 3 伝統的中国医学 「古代」の伝統的中国医学は『黄帝内経素問』、すなわち黄帝の内科学書によって最もよく知られている。黄帝は中国の系譜では最初の5人の支配者のうち3 番目であり、紀元前2697−2597という正確な期間が彼の統治期間とされている(Veith 1972 : 5)。しかし、この本は古いものではあるが、実際はそれよりかなり新しい。証拠を詳しく調べて、ヴェイスは、「このテキストの大部分は、漢朝(紀元前 202−紀元後221)に成立した。そして、その多くの部分はそれよりかなり古い紀元を持ち、おそらく中国の最も古い時代からの口伝であろう」(同書、 9)と結論している。換言すれば、古代中国医学は、ギリシアやインドでナチュラリスティクな説明に変わり始めたのと同じ頃に、同じ過程が起こっているとい うことになる。 伝統的中国医学は、中国の宇宙論の中心概念である「陰と陽の2つの力、すなわちそれらの不断の相互作用が人間の体の構成と機能を含む森羅万象の背後に存 在するような2つの力」(Croizier 1968 : 17)の特別なケースである。先に触れたように、陰と陽の均衡は健康のための根本である。「病気が基本的には、外的または内的、身体的または精神的な原因 によるこの調和の不全のせいであると見なす、この調和の原理は後の中国医学全ての中核として伝えられた」(同書)。 陰と陽はそこから宇宙が展開した根元的な要素であると考えられているので、これらに無数の性質が付与されていても驚くには値しない。それらの最初の意味 −曇と晴−はほとんど全ての概念を包括できる哲学的二元論を生成するまでに拡大された。例えば、陽は、天、太陽、火、熱、乾、光、男性原理、外面性、右、 生命、高、高貴さ、善、美、美徳、秩序、喜び、富−要するに全ての正の要素を意味する。逆に陰は、地、月、水、冷、湿、闇、女性原理、内面性、左、死、 低、卑しさ、悪、醜、悪徳、混乱、貧困−要するに全ての負の要素を表わす(4)。過度の陽は、その熱ゆえに、発熱の原因になり、また、過度の陰は、その冷 ゆえに、寒気を引き起こす。外部の力によって引き起こされると信じられている病気が陽の病気であり、内部の力によって引き起こされる病気が陰の病気であ る。しかし、陰と陽は常に合体して一つの実体であり、いかなる存在または状況でも正と負の両方の要素の合体であると考えられてきた。 (医師も含めた)中国の哲学者は、水、火、金、木、土の5つの要素が人間の体内にあり、全て生理学的過程と特定の内蔵に関連していると考えた。5という 数は、実際、人間をも含めて全宇宙を記述し、それらを結合するような数的一致の洗練された体系の基盤である。つまり、季節、方向、音譜、色、感情、体の 穴、食物の味、内蔵、その他多くの現象は、この5つの組み合わせの中で起こると考えられる。人体、健康、宇宙のつながりもまた、一年の日数と、残存する最 古の薬草365種(Croizier 1968 : 20)と鍼のツボと考えられている体表の365の穴(Veith 1972 : 62)との一致の中に見出される。哲学的な優雅さに対するこのような執着が経験的観察と実験による医学の前進を阻んだことは言うまでもない。ペレグリノの 言うように、「人間の構成についてこのように確固とした見方は、解剖学の研究にかなりの阻害になった。中国の医学は人間の解剖についての非常に曖昧な概念 を特徴とした。その治療は、陽を多く含む物質であるとされる動物の臓器を投与することによって、欠乏した陽を補うことに向けられた」 (Pellegrino 1963 : 12)。クロアジェも同じように記している。明らかに初期の人間の解剖に基づくある程度の正確な知識があったにもかかわらず、『内経』の解剖学的および生 理学的原理は「哲学的に洗練されればされるほど、経験による修正を受けることがなくなる傾向にあった。そのため、それらは結局、彼らのより大きな宇宙論の 体系とは矛盾しないが、物質的な現実からはしばしば遠くかけ離れてしまったのである」(Croizier 1968 : 18)。 伝統的中国医学における熱−冷の二分法の古さと重要性を決めるのは、体液病理学とアユルベーダ医学の場合よりも難しい。これは一つには、中国社会におい て研究をする民族学者が最近になるまで民間医療にほとんど注意を払わなかったからである。ここ10年足らずの、中国についての人類学的報告は、熱−冷の分 類体系について全く何も述べていない。最近になってやっとその存在−それは普遍的ではないが、広く行きわたっているらしい−が記述され始めたばかりであ る。しかも、最近の報告は、医学それ自体のコンテクストよりも、食物と健康を増進する食習慣のコンテクストにおける熱−冷二分法を扱っている。熱−冷、湿 −乾の二分法の概念は、当然陰陽の二分法に含まれている。しかし我々は、この信念についての言及を『内経』の中に見つけることはできない。その代りに、食 物は5つの味(辛い、酸っぱい、甘い、苦い、塩辛い)によって分類されており、障害を受けた臓器に回復力を与えるために、熱−冷の均衡の他の2つの体系で の回復と全く同じ方法で、これらの食物の適当な操作が行われた。 チュとチィヤングによって様々な資料から得られた散在する証拠によると、特定の熱−冷二分法は紀元前180年の昔まで遡れるらしい。例えば、腸管寄生虫 に対する普通の説明では、腸での「湿とともに濃縮された」熱と冷である(Chu and Ch'iang 1931)。もっと良い証拠は、西暦1368年の張明の『飲食須知』にある。この驚くべき著述には、43種の火と水、50種の穀物、87種の野菜、63種 の果実と堅果、33種の「調味料」と香辛料、68種の魚類、34種の家禽、42種の肉類について記されている。これら460種の品目のおのおのについて、 それが5つの味のカテゴリーのどれに属するか、その「性質」(熱または冷の度合いが特定されている)と他の食物との食い合わせの禁忌について記してある。 例えば、天然の雨水の性質は冷たい、しかし鍾乳洞の水は暖かく、そしてその両方とも味は甘い。またモチ米は暖かいとされ、その過食は発熱の原因となる。大 豆と香りの良い西洋ネギは暖かく、食酢は「やや暖かく」、蒸留酒は「とても熱く」、ホウレン草や牡蠣や牛乳は冷たい(Mote 1977 : 227-233)。 中国における食生活と医学大系の熱−冷二分法の公式化の年代がいつにせよ、最近の民族誌的研究は今日、その信条が広く普及していることを示している。 トップレイの香港での調査は、熱と冷の間の均衡が身体を健全にするための根本であり、食物や薬は、食事や病いの治療において適当な均衡を保つ際に考慮され ねばならない熱あるいは冷の性質を含んでいると信じられていることが明らかになった(Topley 1970 : 425-426)。さらに鍼(身体の「経絡」の線にそった細い針の挿入)は「冷たい」処置であり、したがって、過度の陽による疾病に特に適している。一 方、灸(乾燥したよもぎの葉の細かい球果を皮膚の上で燃やす)は「熱い」処置で、過度の陰による疾病に特に適している。 アンダーソン夫妻は、香港とマレーシアの華人村落における食物と健康に関する信念と実践について記している。それによると、熱い食物には、強いアルコー ル性飲料、香料や脂肪分の多い食物、蛋白質が豊富な食事、強火で長く料理された食物などが含まれ、冷たい食物には、薬草茶、薄口で低カロリーの野菜、ビー ルなどがある。いくつかの少数の食物、蟹肉、軟体動物、ナマズなどは熱と湿を持っている。また性病も「湿」と熱を持つ(Anderson and Anderson 1975 : 146-148, 1977 : 366-370)。台湾でも、健康とそれとの食物の関係を示す熱−冷の身体的平衡についての良い資料がある(Ahern 1975, Pillsbury 1976)。このことや在米中国人についてのリンダ・クーの研究(Koo 1976)のような類似の調査は、中国人の健康についての信条における熱−冷二分法に関する十分な情報がなかったのは、過去の研究がそれを無視していた結 果であり、それがなかったからではない。 因果論的概念理論における感情的要素 ほとんどの非西洋医学の病因論が、ナチュラリスティクとパーソナリスティクの項目のもとにまとめることができると示唆するとき、我々はもちろん一般化を 行っている。そして、あらゆる一般化と同様に、大図式にはきちんとあてはまらない、おさまりの悪い部分がある。ねたみ、恐れ、悲しみ、恥のような強力な感 情的経験が病いの原因になるという広く受け入れられた信念は2つの大きなカテゴリーのどちらにもあてはまらない。あるいは、我々はおそらく次のように言う べきであろう。状況と環境によって、それらの信念はどちらかのカテゴリーにあてはまることがあると。ススト−恐れが引き起こす病い−はラテン・アメリカに 広範に存在するが、これはその好例である(例えば、Gillin 1948, Kearney 1972 : 54-58, O'Nell 1975, O'Nell and Selby 1968, Rubel 1968, Seijas 1972, Uzzell 1974)。幽霊、精霊、悪魔との出会い、水辺で躓き、溺れ死ぬことを恐れるような単純なことなどによって人は驚かされることがある。もし、その作用体が 人を害することを意図したならば、その病因論は確かにパーソナリスティクである。しかし、そのような出会いの説明はしばしば偶然か事故を示しており、故意 の行為ではない。そして、溺死するのを恐れる場合には、いかなる作用体も存在しない。 あまりにきちんとした分類体系を試みることに固有の問題は、広東の村落の子供達がおそわれる魂の損失(なぜ恐れが病いを引き起こすかについてのよくある 説明)についてのポッターの報告でも明らかである。その病いの主な犠牲者となる小さな子供の魂はその身にそれほどしっかりとは結びついていないと信じられ ている。だから恐れによって、あるいは、体に侵入して魂を「盗む」餓えまたは邪悪な幽霊によっても子供の魂は抜き取られてしまうだろう(Potter 1974 : 222)。前者の場合は原因はナチュラリスティクであり、後者では明らかにパーソナリスティクとなる。 メキシコおよび中央アメリカではチピル(chipil)が離乳中の幼い子供を襲うことがある。西洋医はこの状態の症状である泣き叫び、むずり泣き、無感 動を、主に、子供が母親の乳房から離された時のタンパク質欠乏によると説明する。しかし民族的説明では、病気は、歩行前の子供の母親の愛情への嫉妬やそ将 来その兄弟となる者に対する恨みと憤慨からくるとされ、また胎児はそのことを母親の子宮(womb)の中で感じることができるという。この場合、胎児は意 図的で、計算ずくで、外を見張っている作用体なのだろうか。これについてはどう理解することもできよう。 邪視(evil eye)はさらにカテゴリー分けが難しい。近東、地中海、ラテン・アメリカや世界の他の地方では、恨みの結果、人間の作用体が意識的あるいは無意識的に他 人に病いを起こしたり、妬まれた人の所有物に損害を与えるということが多くの人に信じられている。最もよく妬みの対象となるのは美しく健康な子供である が、家畜、自動車その他、人が望むいかなる対象も潜在的な「眼(eye)」の犠牲となる。妬みを持った人の一瞥は子供を病気に、動物に具合を悪くさせ死に 至らしめ、自動車を故障させると信じられている。もし妬みが実際にあり(しばしば人々は他人から妬まれているのではと疑ったり恐れたりする)、それが象徴 的な攻撃を表すとしたら、邪視はパーソナリスティクなモデルに対応することになろう。しかし邪視の告発をされた人が意図して呪いをかけたのではないのかも しれない。彼らは意図せずにその力を持っていて、しかもそのことに気づいてはいない。意図が欠けているので、それらをパーソナリスティクな原因として分類 することはより難しい。 病いの原因についての非西洋の信条のごときさまざまな現象を二分法的に分類するといくつかの・・・・・?????・・・・である。この区別は明瞭に見え る。しかし、「いかなる外的な霊の侵入と同様に、悪魔の侵入は3つの体液の乱れを引き起こす。それゆえに、悪魔の病いの徴候は身体的病いのそれと類似して いることがある」(Obeyesekere 1969 : 175)。同じ疾病がナチュラリスティクか鬼神論的な要因のどちらかによることがあるので、セイロンの病いのいくつかは分類することは難しい。しかし分類 学はそれ自体が目的ではなく、その優雅さが賞讃される何かではない。分類学の有効性は、それが取り扱う現象間の関係についての我々の理解を明白にすること にある。 因果論的の相関 全ての下位文化体系と同様に、病気の原因論体系は多くの部分が内部で基本的調和を示し、合理的に統合している。またこの体系は、全ての下位文化体系と同 様に、基本的な構造原理や様式、それが埋め込まれている文化の前提を反映してる。特に非西洋医学体系について言及すると、パーソナリスティク−ナチュラリ スティクという分類体系の最大の有効性は、世界中の社会について記述される治療者、治療技術、占い、その他の全ての医療の要素のごった煮をある程度の秩序 らしきものに還元することができる点にあると、我々は信じている。 もし我々が因果論の言葉で医療の信条と実践を見るなら、所与の医学体系の他の重要な側面がその概念から論理的に由来していることを知るだろう。我々がも しある民族が何を病いの原因と信じているかについての明確な記述を与えられたならば、その医学体系内の他の要素をあらまし知ることができるといっても過言 ではない。さらに、パーソナリスティクな病因論は、論理的に特定の種類の治癒者、シャーマンあるいは他の占い師に、病気の直接の原因の確定のみならず、よ り重要なことに、その原因の背景にあるのは誰かを発見することを要求する。逆にナチュラリスティクな病因論は別の種類の治療者、例えば医師や薬草師のよう な、体の平衡を回復させる薬や他の療法を知っている治療者を要求する。パーソナリスティクな因果論だけでなくナチュラリスティクな因果論にさえ伝染の概念 を実質的に取り扱うことはほとんどできない。そして、病原についての科学的概念の発達によってのみ、ある人から他の人への病気の伝染を容易に説明すること ができる。 著者の一人(Foster 1976b)は最近、パーソナリスティクな病因論とナチュラリスティクな病因論の対照的な主要な相関を議論した。それを次に要約しよう。 1 包括的な病因論と制限された病因論 パーソナリスティクな病因論はより包括的な説明体系の一部なのに対して、ナチュラリスティクな病因論は大体病いに限定されている。換言すれば、パーソナ リスティクな体系で、病気はあらゆる不幸の説明の中での一つの特殊なケースにすぎない。疾病についてのパーソナリスティクな説明が行われている社会では、 同じ作用体、同じ存在がまた作物の不作、経済的破綻、窃盗、家庭の争いのような全ての不幸の背後に存在していることがわかる。病いは不幸一般から区別され たカテゴリーではない。 これとは対照的に、ナチュラリスティクな病因論は、疾病それだけに限定されており、それらは旱魃、狩猟の不振、土地争い、あるいは人生における他の妨げ となるものを説明するときに持ち出されることはない。熱−冷二分法があるところでは、その役割は病気の説明とそれに対する治療を導くことに限定されてい る。逆に、不誠実な友人や生まれつきもんちゃく起こしの人物は、多くの不幸の背後にあるかもしれないが、彼らが病気の原因だと告発されることはない。 2 疾病、宗教、および呪術 グリックによると、「《医学》が、どのように、そしてどこで《宗教》にあてはまるかについて我々は考えるべきである。……ある宗教の体系についての民族 誌において、医学体系の記述がどこに属しており、どのようにそれ以外のものと関係しているのか」(Glick 1967 : 33)。同様に、南アフリカのボンバナ・コーサ族についてのジャンセンの記述によると、「宗教、医学、呪術は密接にからみあっており……ボンバナ族自身 は、宗教、呪術、医学の間に区別をつけない」(Jansen 1973 : 34)。 医学、呪術、宗教は、あたかも、一つの体系の不可欠の部分であるかのようにしばしば論じられるので、人はめったに「いつそれらが相互に分離するか」と問 うことがない。しかし、我々が宗教と呪術を病因論体系と関係づけるとき、それらはパーソナリスティクな体系と相関し、ナチュラリスティクな体系にはほとん ど欠けていることが明らかとなる。後者の体系では治療の手続きが儀礼的であることはまれであり、宗教と呪術の要素は、治療のわずかの部分しか果たさない。 例えば、アフリカでは祭司または女祭司と記述される治療者を我々は聞いたことがない。病いの処置の際、ナチュラリスティクな体系で宗教的要素が見つけられ たとしても、それらの要素はパーソナリスティクな体系で見られるものとは概念的に区別される。見方によれば、2つの体系の実践と信条はお互いに鏡像の関係 にある。ラテン・アメリカや地中海地方では病いの犠牲者はキリストやマリアの「奇跡の」像の上または願かけ側に供え物を置く。その際、犠牲者は治癒を意図 した宗教的行為に従っている。しかし−ここが重要な点だが−それらの懇願は病いの原因とされる存在に直接に向けられずに、むしろ、人間の擁護者として、人 がいかなる難局に直面した時にも間に入って助けることのできる超自然的存在に向けられる。対照的に、パーソナリスティクな体系では、犠牲や供え物は病気の 原因と考えられる存在をなだめるためになされる。 3 原因の水準 ガーナのロダガー族の研究から一般化して、グッディは、西洋人が自然なものと認める疾病の説明はほとんどの文字を持たない人々にとっては、病と死の説明 としては十分ではないと結論している。彼らは蛇に咬まれることは人が死ぬことの原因と認識しているが、蛇は媒介とする作用体でしかないと見られている。そ して、故人の縁者たちは誰がそして何が故人に敵意を持ったのか、故人を咬むような蛇を放ったかを知りたがる(Goody 1962 : 208-209)。グッディの「媒介的作用体」という用語の使用はパーソナリスティクとナチュラリスティクの体系間の重要な対比を指摘する。後者のナチュ ラリスティクな体系では通常、自然の平衡を乱している体内の過度の熱または冷のような単一の原因によって病気が説明される。その患者は、彼の側のいかなる 不注意な行為によって熱または冷が彼を襲ったかを確定するように思い起こすだろうが、「誰が熱(あるいは冷)を自分に仕掛けたか」を問わない。 パーソナリスティク体系は2つあるいはそれ以上の原因の水準を区別することができ、治療上これらの水準を考慮に入れなければならないという点で、ナチュ ラリスティクな体系より複雑である。少なくとも我々は、パーソナルな作用体(呪術師、幽霊、あるいは神)と、作用体によって用いられる技術(疾病という物 体の侵入、毒、脱魂、憑依、呪術)を区別することができる。しかし、この技術だけでは十分だとは見なされない。もし回復を恒久的にするならこの行為の背景 に潜んでいる作用体を同定し、なだめるか他の方法で無害なものに変えなければならない。後で見るように、いくつかの異なる原因の水準は、2つの体系で見ら れた治療技術の基本的差異を理解する上で重要なものである。 4 シャーマンと他の治療者 複数の原因を認めるパーソナリスティクな体系では論理的に超自然的または呪術的な占う力を用いる治療者が求められる。ここでは患者と家族にとって第一の 関心は、「誰が」であり、「何が」ではない。精霊の世界と直接に接触するシャーマンと、(アフリカの文献から得られる、時代遅れだが有用な用語を用いれ ば)呪術的な力をもつ呪術医(両者とも「誰が」そして「なぜ」という問いに答える)は複数原因の概念から必要とされるものへの論理的な答えである。これら の質問が答えられた後で、直接の原因に対する処置は占い師によって行われるか、またはその作業はより下級の治療者に引き継がれていくだろう。 主要な病因論がナチュラリスティクであるような社会では、ふつうシャーマンや呪術医は見られない。ふつう医師も患者も何が起こったかについては意見が一 致するし、問題は失った平衡を回復させるための適切な処置を決定することである。したがってナチュラリスティクな体系では、治療者は技能を神的な介在を通 じて獲得するのではなく、観察と実践を通じて学習する「医師」という存在になる傾向がある。 5 診断 診断の技術の基本においてもまた、パーソナリスティクとナチュラリスティクの病因論体系を区別することができる。前者では今まで述べたように、原因とな る作用体を同定するためには、力のあるシャーマンや呪術医が望ましい。徴候の処置はその次の問題となる。それとは対照的に、ナチュラリスティクな体系で は、治療者に関する限り診断というものはそう重要なものではない。つまり原因の決定は患者自身がまたは患者の家族成員による。患者は症状の軽減のために治 療者に救いを求めるが、何が起こったかを発見するために求めることはない。 ナチュラリスティクな社会での自己診断はメキシコのチンツンツァンでの例によく示されている。例えば、ある人が不順を感じた時、彼は前夜または昨日、さ らには一ヶ月、一年以上も前の経験を思い起こす。そして、彼を悩ましている症状の原因と考えられる出来事が明らかになる。彼は目覚めたとき喉が痛かったの ではないか。彼は昨夜寝に行くときに不注意にも裸足でタイルの床の上を歩いたことを思い出した。このことにより冷が彼の足に侵入し体内の正常な熱の一部に 圧力をかけて、それを胸から喉へ、さらに頭に押し上げることがあるのを知っている。こうして、彼は「押し上げられた熱」に苦しんでいることになる。彼は医 師に何が悪いのかを説明し、治療を求めた。同様に腕のリウマチにかかった女性は、彼女がアイロンをかけ、その結果腕が暖まった後に、それらが冷える前に冷 水で腕を洗ったことを思い出すことだろう。なぜ彼女が災いを受けたかを説明してくれる占師を彼女は必要としない。少なくとも理論上は、どのような患者も回 想により、自分を苦しめているかもしれない全ての病因を発見することができる。 アメリカの民俗医学 大まかに言ってアメリカ合州国(以下、アメリカ)の人々の医療に関する信念と実践は民族医学という概念的枠組の中では研究されてはこなかった。最近にな るまでこの分野のほとんどの研究は人類学者ではなく民俗学者によるものであり、理論ではなく個別的な記述の方が出版物における支配的なトーンであった。し かし、人類学者のアメリカ社会やその民族文化に対する興味が増加するにつれて、この状況は変わりつつある。そして現在、アメリカの民俗医学についての人類 学的報告はますます増えつつある。これにより、民族医学の概念(明らかに現代医学からは派生しないような医療に関する信念と実践)は、非西洋の医学体系と 同様アメリカの民俗医学)の理解にとっても有益であることが明らかである。 最も一般的なレベルにおいて、我々は単一のアメリカ民俗医学体系について語ることができる。それは正統的な科学的医学の一部分ではない全ての信条と実践 と定義される。最も特定的な水準では、アメリカにある民俗集団の数と同じだけ民俗医学があるともいえる。しかし、どちらか一方のレベルだけに注目してアメ リカの民俗医学を論ずることは実情を過度に単純化することになる。明らかに、いくつかの異なった民俗医学が存在する。例えばメキシコ系アメリカ人の伝統的 な実践は、ペンシルバニアのドイツ系のそれとは全く異なっている。しかし同時に、民族の点で異なった民俗医学体系は、しばしばある程度共通の歴史的起源を 持つ。このことは、メキシコ系アメリカ人、キューバ系、プエルトリコ系、あるいは他のスペイン語系アメリカ人の民俗医学への体液病理学の影響という点で特 に明らかである。体液病理学の要素はさらに、黒人の民俗医学、つまり、カリブ海における、スペイン、フランス、ニグロの文化の混交の遺産の中に見られる。 そしてより遠方のいまだにほとんど明らかにされていないレベルでも、体液病理学がヨーロッパや植民地時代のアメリカにおいて科学的医学であった時代の名残 りを、ヨーロッパ系のエスニック・グループの民俗医学はその中に取り込んでいることは疑いない(例えば、Snow 1974 : 83, 1977a : 34)。 1 ヨーロッパ系アメリカ人の民俗医学 我々はヨーロッパ系アメリカ人という用語を、合衆国にあるヨーロッパからの移民や彼らの子孫の医療の信条と実践に言及するために用いる。ただし、(例え ばメキシコ系アメリカ人の場合と同様に)これは同質的な体系ではない。というのは、それは多くの異なった国々や時代を指しているからである。しかし、主要 なパターンを比較したり対比することができるためには、いくつかのカテゴリーを「まとめること」がどうしても許される必要がある。特に19世紀において は、植民者の母国がどこであっても、ヨーロッパ系アメリカ人の医学は開拓者の生活という共通な経験によって形成されていた。つまり、医師は少なく、その能 力は限られており、インディアンの「パウワウ」(powwow)医は尊敬を受けていた。そして、自分で治したり、家族の所有する資源に頼ることが生存のた めには不可欠であった。ヨーロッパ系アメリカ人の医学はまたもう一つの要因によっても形成された。この要因は、ヨーロッパ系アメリカ人の民俗医学を他の全 ての民俗医学から区別する要因である。すなわち、信条と実践の形成と維持に口承だけでなく、印刷された言葉が重要な役割を果たしたという点で有文字の (literate)現象であったということである。自己の資源と地方の治療者の資源に依存していた人々のほとんどが文字を読むことができた史上初の場所 が合衆国であった。そして実際に彼らは読んだ。聖書と一緒に一冊あるいはそれ以上の家庭療法書を持ち歩き、地方新聞で地方の「医師」によってなされる法外 な、そしてふつう詐欺まがいの主張や特許薬についての記事を読まない家族は非常にまれであった。 開拓時代の初期には民俗医学へのインディアンの影響は強力であった。「初期の頃のいくつかの西洋人コミュニティには常任の白人医師と全く同等の評判を得 ているインディアンの医師がいた」(Pickard and Buley 1945 : 36) 。現地のアメリカのメディシン・マンが大衆医学において直接的な役割を果たさなくなってからでさえ、インディアン医の神秘性は強力に残った。それは治療と 保健のための「パウワウ」ガイドという表題が19世紀前半に合衆国に氾濫したことからも明らかである。例えば、ピーター・スミスの『インディアン医の処方 注解』(The Indian Doctor's Dispensary)(1813)、医師リチャード・カーターの『全ての神経や腐敗の障害の治療に役に立つ野菜の医学的処方書』(Valuable Vegetable Medical Prescriptions for the Cure of All Nervous and Putrid Disorders)(1815)、医師S・Hセルマンの『健康へのインディアンのガイド』(The Indian Guide to Health)(1836)、医師ウィリアム・デイリーの『インディアン医の医療』(The Indian Doctor's Practice of Medicine)(1848)、ジェームズ・クーパーの『インディアン医の処方集』(The Indian Doctor's Receipt Book)(1855)があり、他にも似たような表題を持つ多くの本があった(5)。 面白いことに、インディアンの神秘性は現代アメリカの精霊信仰の中に強力に残っている。「1ダースは下らない霊媒、男女、そして彼らのインディアンの支 配霊の名が『精神科学百科』(Encyclopedia of Psychic Science)に載っている。レッド・ジャケット、ブラック・ホーク、ティカムセーのような歴史上の人物と並んで、ホワイト・フェザー、ブライト・アイ ズ、ムーン・ストーンのような名の精霊がリストに挙げられている」(Macklin 1974 : 409)。インディアンの支配霊は、降霊会において時々少々手がつけられなくなることはあっても、ふつう慈悲深く、恵み深いものと考えられている。 インディアンの治療者の評判高い力を語るそれらの作品に加えて、読み書きのできる開拓者は、同じほど多数の家庭療法書を入手できた。それらの本の多くは 合法的な医師の手によるものであった。彼らの多くはしばしばその職業全体には反対の立場にあったが。『家庭医』(The Family Physician)と『旅行者のポケット医学ガイド』(Travellers Pocket Medical Guide)というような表題の本が無数に発行された。その中でおそらく最も有名な、医師ジョン・ガンの『患い、痛み、病気のある家庭における、家庭医学 または貧乏人の友』(Domestic Medicine or Poor Man's Friend, in the House of Affliction, Pain and Sickness) は1830年に初版が出て以来、1885年までにドイツ語訳を数えなくとも23版を重ねた(Pickard and Buley 1945 : 93)。 医療の救いを必要とした19世紀のアメリカ人はドイツからの輸入物に明らかなような「セクト的な」医学にも頼ることができた。例えば、ホメオパシー、サ ミュエル・トムソンの自家製「植物」医学やその分派である「折衷派」植物医学や「改良的」植物医学、それに水療法、骨相学、メスメリズムといった他の「治 療」体系である。 しかし、読み書きの能力があってもなお、純粋な口承による民俗医学もまた栄えた。その中でおそらく最も影響力を持ち、確かに最もよく研究されたものはド イツ系のペンシルバニアの人々のものであった。彼らは18世紀の終わりか19世紀初頭に合衆国にやって来たドイツ移民であり、当初ペンシルバニアに入植 し、その後、農地開拓が許されるに従い、その子供達をアメリカ中西部に送り出した。これやその他のアメリカの口承の伝統において、多くの民俗文化がより古 い世代の洗練された文化の反映であるように、多くの民俗的な医療の信念や実践はより古い時代の正統的医学の残存であることを我々は知る。例えば、よく言わ れることわざ「風邪には食事、熱には絶食」は、医学的には否定されて久しいが、この国では広く信じられていて、ケルスス(紀元50年頃)まで遡ることがで きる(Gebhard 1976 : 95)。同様に、食酢という古代からの霊薬は民間薬方では必須のものであり(Hultin 1974 : 199)、血止めのためのクモの巣の使用は、少なくともガレノスまで遡る。 他の項目、特に超自然、妖術、呪術に関するものは、古代それに先行するものを欠いているが、ヨーロッパ系アメリカ人の民俗医学では重要であった。「ペン シルバニアでは特にパウワウ医についての報告がある。彼らは患者のいる家の周囲に呪術の円を描き、患者のベッドの周りにも別の魔法の円を描き、それから、 時には怪我をした部分や病気の部分の周囲にも円を描く。呪文と種々の決まり文句を唱えることで徐々にパウワウ医達は、邪霊をこれらの円内から追い出した」 (L.Jones 1949 : 484)。「血止め者」はただ祈ることによって力を持った(し、また持っている)。つまり、手を置くことや物理処置は必要でもなかったし、事実、患者は治 療者のもとにいる必要も全くなかった(Dorson 1952 : Chap.7)。 どの民俗医学体系でも見られるように、呪術信仰もヨーロッパ系アメリカ人の伝統の一部であったし、今でもそうである。実際、「呪術使い」(hex)とい う言葉はドイツ語の hexerei に由来し、ドイツ系のペンシルバニア人を通じて使われるようになった(L.Jones 1949 : 481, Dorson 1958 : 85)。後期のヨーロッパ移民、特に地中海地方からの移民は超自然的なものについての強い信仰を持ち込んだ。それは彼らの呪術や邪視に対する恐怖に明らか である(例えば、E.Smith 1972 : 97)。 にもかかわらず、ヨーロッパ系アメリカ人の民俗医学は、その病因論の点で、常に驚くほどナチュラリスティクであった。例えば、もし病いがしばしば神罰だ と説明されても、非超自然的、非呪術的原因が考え出される頻度は著しく高い。このことは19世紀の家庭療法書で特にそうであり、今日の多くの民俗医学でも そうである。例えば、今日のアンマン派*1で「《肝の肥大》(livergrown)と呼ばれるある神秘的な病気」は子供ではよく起こるが、それは「突 然、戸外の空気にさらされたり、馬車に乗って揺さぶられたこと」が原因だと信じられている(Hostetler 1963-1964 : 272)。そして、デトロイトのある南アパラチアからの移住者は「すばやい(クイック)結核」は、シャワーを浴びたり、風雨にあった月経中の女性がかか り、家族の中で恐れられている病気であったと報告している(Stekert 1970 : 137)。後者の例は、体液病理学の名残りであることを強く示唆している。というのは、それによると、月経は通常より高い体の熱が特徴であり、したがっ て、月経中の女性はどのような形での「冷」にも襲われやすいようになっている。 2 黒人の民俗医学 ヨーロッパ系アメリカ人の民俗医学とは対照的に、アメリカの黒人の伝統的民間療法は、それが完全に口承の伝統であるという点で本当の民俗医学である。 この民俗医学は合衆国に最初の奴隷が連れて来られたとき以来存在しているが、最もよく知られた変異形は、ふつう「ヴードゥ」(voodoo) とか「フードゥ」(hoodoo) とか「コンジャー」(conjure) と呼ばれ、19世紀初頭にニュー・オリンズの近くで形をなしたものである。ハイチの奴隷が彼らのフランス人奴隷主に対して反乱を起こし、彼らを追い出した ときに、数千の黒人やムラット(黒人と白人の混血人)、および白人が最も近い港であったニュー・オリンズに逃げた(Hurston 1931 : 318)。ティンリングはヴードゥについて「ヨーロッパのカトリシズムとアフリカ部族宗教との混合」(Tinling 1967 : 484)と述べている。そしてこれはカトリックの多いルイジアナを超えてプロテスタントの多い南部までに広がっていくにつれて、その「カトリック的装飾」 を失っていった。スノウの指摘のように(Snow 1977a : 34)、アメリカにヴードゥが来たとき、それと一緒に体液病理学の諸要素も来たことは極めてありうることのように思われる。というのは、熱−冷の二分法が 今日までハイチでよく見うけられるからである(Wiese 1976)。しかし、それらの要素は消えつつある。つまり、熱−冷の二分法そのものは完全に欠けており、代わりに病いの原因としての「冷」に対する強い恐 れが登場した。それには、とくに、月経異常が含まれるが、既に見たように、これは、完成された体液病理学では、通常より高い熱と関係づけられている。 黒人の民俗医学はまたイギリスから直接大西洋を渡って来た要素を含んでいる。ノース・カロライナの「邪悪なオカルティズム」についての研究で、ホイット ンは次のことを印象づけられた。この州の現代のオカルトの実践は17−18世紀のヨーロッパのオカルティズムをかなりの程度同化吸収している。彼はこの事 実を、アフリカの言語よりもむしろ英語の使用、ヨーロッパの教会への所属、そして−ノース・カロライナでは−相対的に密接な、奴隷と白人奴隷主の接触によ るものと説明している(Whitten 1962 : 318-319)。 多分、黒人の民俗医学に複数の起源があることにより、この医学は我々に、治療者や彼らの方法を記述するのに最も写実的で、最も幅広く使われる用語のいく つかを提供してきた。例えば、「ルート」(root) 医学(とその派生語「ルート・ワーク」root workや「ルート・ドクター」root doctor)、「モジョ」(mojo)、「コンジャー」(そして「コンジャー・マン」conjure man)、そして当然「ヴードゥ」や「フードゥ」などである。スノウは黒人の病因論を「自然的」と「非自然的」の2つに分類した。前者には厳しい天候から 体を保護しそこなうこと(体液病理学の要素の希薄化がここでも見られる)や罪に対する神聖な罰といったものが含まれる。後者は「社会の成員としての個人の 地位に関係している」(Snow 1973 : 272)(すなわち、身体病理学ではなく社会病理を反映している)。後者のいくつかは不安や他の形のストレスより由来すると説明されるが、呪術への恐怖が 一番重要であるように思われる。「(私の)野外調査では、呪術についての問いほどに情緒的反応を引き出すものは他になかった。答えが肯定、否定のどちらで あっても、その激しさはしばしば驚くべきものであった」(同書、274)。 黒人の民俗医学は、その初めから、超自然、呪術、妖術の存在についての信仰が、ヨーロッパ系アメリカ人の民俗医学より重要な役割を果たしてきた。した がって、当然ながら、成功する治療者とは薬草に関する技術だけでなくオカルトの力を持っている治療者である。ノース・カロライナについて、ホイットンは次 のように書いている。「オカルト複合体全体の中心は……祈祷師(conjurer)である。この祈祷師は専門的占い師、治療者、作用体発見人であり、オカ ルト活動全般の統禦者である」(Whitten 1962 : 315-316)。 スノウは、民俗医学についての信念、特に黒人のそれは、世界観の3つの主要なテーマを反映していると確信している。つまり、世界は敵意に満ちた危険な場 所であり、個人は外的な原因によって攻撃にさらされており、そして個人はそのような攻撃と戦うのに外からの援助に依存しなければならない(Snow 1974 : 83)。確かに、そのような世界観は呪術への強い信仰、および妖術から人を守護し、呪術による病いから人を治すように企図されている民俗医学体系とうまく 適合する。しかし、黒人の民俗医学は呪術やオカルトに限られているわけでは決してない。作家は無学の田舎の「おばあさん」について賞讃の情をもって語る。 彼女達は(最近まで)南部のほとんどの黒人の子供をとりあげた有能な産婆であり、薬草についての幅広い知識を持っていた。伝統的な黒人医学の知識の多様性 と豊かさはアメリカの他の主要な民族集団で記録されてきたものと完全に同等である。 3 スペイン系アメリカ人の民俗医学 スペイン系アメリカ人の民俗医学の研究はヨーロッパ系アメリカ人や黒人の民俗医学の研究と次の点で異なっている。すなわち、我々に最良の報告をしてきた のは民俗学者よりもむしろ人類学者であるという点で。人類学者がメキシコと他のラテン・アメリカの民俗医学についてかなり広い範囲をカバーしてきたことを 考えると、この関心を広げて合衆国のスペイン系アメリカ人の民俗医学をも取り上げるようになったのは、論理的な展開であるといえる。スペイン系アメリカ人 の民俗医学はここで我々に関係する他の民俗医学とはいくつかの点で異なっている。我々はそのうちの2点に注目する。第一に、他の2つの民俗医学に比べてよ り統合された「体系」であるということができる。というのは、この民俗医学は理論と治療においてその多くが健康の「平衡」モデルに合致するからである。平 衡の考えは何よりもまず、希薄になりつつある体液病理学の信念の中に表現されている。すなわち、健康な体は「熱」と「冷」のカリダデス (calidades)−質あるいは要素−のバランスを維持しており、「熱」や「冷」の過剰が体を侵襲したり、体の中に侵入したりして平衡をこわした時に 病気が起こるという信念である。平衡モデルはまた、体の各部分、特に泉門、子宮、「神経」(または腱)がその位置を変えることがあるという信念に表現され ている。したがって回復はこれらの部分を正常な位置に戻すための手技とその他の処置にかかっている。 第2に、スペイン系アメリカ人の医学は、ヨーロッパ系アメリカ人や黒人の民俗医学とは異なり、母国、特にメキシコ、キューバ、プエルトリコからの直輸入 であることは第一の点以上に明らかである。ほとんどの場合、輸入が始まってから今日までの時間が非常に短いので、他の2つの民俗医学に特徴的な地方的変形 が起こらなかった。しかし、これはスペイン系アメリカ人の民俗医学が完全に同質であるということではない。18世紀終わりからほぼ独自に存在してきた ニュー・メキシコ州とコロラド州のスペイン系の民俗医学の場合だけは、我々は明らかに「地方特有の」スペイン系アメリカ人の医学を見ることができる (Schulman 1960, Samora 1961 を参照)。 したがって、スペイン系アメリカ人の医学を完全に理解するには、それが由来した国の民間医療(popular medicine)を理解しなければならない。例えば、現代のメキシコ系アメリカ人の民俗医学は、読者がもしその体液説の祖型、カトリック儀礼、そして超 自然的守護者、救済を求める祈願、誓いの実行に関する信仰について知らないとしたらほとんど理解できないだろう。 スペイン系アメリカ人の体系についての信念によると、健康な人の平衡を乱す「冷」と「熱」はいくつかの方法で体内に侵入することがある。アイレ、すなわ ち空気として、「冷」は頭を襲い、プンサダス(punzadas)−眼と耳の刺すような痛み−、頭痛、風邪を引き起こすことがある。人々が自分の足を濡ら したり、裸足で冷たい床を踏んだりしたときにも、冷は体内に侵入する。このことが「押し上げられた熱」を引き起こすことがある。この状態では、正常な体の 熱が圧迫されて体の上部に上がり、発熱、気管支炎、扁桃腺炎や他のいくつかの呼吸器系の病気の原因にもなる。「熱」は、とくにカリエンテ (caliente 熱い)でイリタンテ(irritante 刺激のある)と考えられている食物から生じ易く、それは下痢や他の種類の胃の障害を引き起こすことがある。熱−冷の体系についてのほとんどの英語文献で は、病気は単に熱か冷であると言われているけれども、古典的体液病理学の場合のように、病いは熱または冷の原因から生じるといった方がより適切である。つ まり、病いの原因の熱あるいは冷の「質」に応じて、患者は、反対の性質を持つ薬、下剤、吸い玉、浣腸(それは発熱の熱を取り除く)、チクィアドレス (chiquiadores)−診断に応じて、熱または冷を抜くために、頭痛に苦しむ人のこめかみに貼る、冷または熱の薬草や膏薬−を用いて治療される (6)。 ふつうの病気は、そのスペイン語名に対して、それと同じ意味の英語がある(例えば、頭痛、歯痛、気管支炎、扁桃腺炎、結核、肺炎、腹痛、赤痢など)。こ れらに加えて、いかなる英語名の病いにも合致しない、いくつかの「民俗的」病いが文献によく記載されている。これらのうち最もよく取り上げられるのは、カ イーダ・デ・ラ・モレラ(caida de la mollera 下がった泉門)とカイーダ・デ・ラ・マトリース(caida de la matriz 下がった子宮)の2つである。この2つは、身体の部分の位置のずれという病因論に合致している。前者は子供(時には大人)がかかり、驚きや頭を一発なぐら れるとか、体系(system)へのショックが原因で生じる。後者は子供を出産した後に重い物を持ち上げたり、転倒あるいはショックの結果起こる。多くの メキシコ系アメリカ人の女性は、もし思春期から始めて、子供を生める間ずっと腰帯を固く巻きつけておくと、後者の病気にかからないと信じている。 エンパチョ(empacho)は、食べすぎや青い果実のような間違った食物を摂取することからくる胃の上や上部腸管の詰まり(便秘ではない)である。ビ リス(bilis)は、怒りまたは恐れの結果生じると信じられている黄疸様の状態であり、それには薬草から作った苦い便秘薬が処方される。ススト (susto)は恐れという意味だが、いくつかの地域では、それ自体で病気と見なされている。しかし、それは、ビリスの場合と同じく、しばしば他の病気の 原因であったり、始まりであったりする。最後にマル・プエスト(mal puesto)[あるいはブルフェリーア(brujeria、すなわち妖術)]、すなわち呪術使いがその特性となる者に対して共感あるいは感染呪術を使う という信仰がある。通常それは犠牲となる者への、彼ほどは恵まれない者が抱くエンヴィディア(envidia)すなわち妬みが原因である。またマル(・ デ)・オホ(mal [de] ojo)、すなわち邪視がある。意識的、計画的である呪術とは対照的に、邪視はしばしば非意図的であり、「眼」を使うことができると秘かに噂されている人 達のいく人かは自分達の能力に気づいていない。文化に通じている人は、子供をほめる時には、大事をとって、もしかしたら子供が持っているかもしれない邪視 の力をなくすために、子供の頬を軽く叩くことを欠かさない。 興味深いことに、それらの「民俗的」病いの病因論は熱−冷という症候群の範囲を大きく逸脱しているのである。例えば、魂の喪失という新世界に固有の病因 論を暗示しているスストのように、いくつかの病因論は新世界起源であるように思われる。また、呪術の形態(人形にピンを突き立てること)や邪視のように、 多分ヨーロッパから持ち込まれたものもある。 スペイン系アメリカ人の民俗的な治療者で最もよく知られているのはクランデロ(ラ)(curandero [a])である。これは薬草やそれ以外の療法の「性質」とそれぞれの病いに対するそれらの療法の適切な組み合わせ方を習得した男性あるいは女性の古典的薬 草師といえよう。クランデロはまた摩擦、マッサージ、その他による身体の操作(例えば泉門をもとの場所に「引き上げること」)も行う。さらに他のクランデ ロはオカルトの力を持ち、治療だけでなく、呪術をかける能力を持っている。そのような治療者は普通ブルホ(ハ)(brujo [a])として知られている。彼らはその天職の二重の性質から両義的な感情を引き起こす。 スペイン系アメリカ人の治癒はクランデロや家庭療法をそれほど伴ってはいない。すなわち、言い方を換えれば、ここでは神が究極的な治療者なのである。多 くの病い(それに、不幸一般)に対して、スペイン系アメリカ人はしばしば祭壇にロウソクをつけ、祈りを捧げて、聖者、聖母マリア、あるいはキリストの介入 を求める。しばしば誓願や厳粛な約束はキリストや聖母の「奇跡の」像に向かってなされる。もし要求が認められたら、祈願者は取引の際約束したことを実行し なければならない。その約束には、その像を崇拝する人々がいる町や市への長い巡礼の旅がしばしば含まれている。しかし、キリストや聖母マリアは人間のため にとりなしてくれる擁護者でしかない。神が結局のところは結果を決定するのである。 治療の一部としての巡礼はまた病者の、カリスマ的な民俗的治療者をまつった神殿への旅という、それほど古くはないパターンにおいても明らかである。その 治療者は、生前あるいは死後に、カトリック教会の聖職者の持つ性質の多くを帯びている。合衆国で最も有名な民俗的な聖者はドン・ペドリト・ハラミロであ る。彼は生地グアダラハラからテキサス州のロス・オルモスト・クリークへ1880年頃やって来たときにはすでに治療者として認められていた。彼の治療は水 治療に大いに基づいていたが、その治療のおかげで、彼は州全体に及ぶ名声を得、さらには国際的名声をはくした。1907年の彼の死後、彼の墓にロウソクと 花を供える訪問者が出始めた。数年後そこは病気治療のための正にメッカとなった。救いを求める誓願書と平癒を得たことに対する感謝状は常に現在の小さな神 殿に置かれ、ドン・ペドリトは本当の聖者と同じように、神への強力な仲介者と見なされている。多くの誓願者が中央メキシコのような遠方からやって来る (Romano 1965)。メキシコにも、ヌエボ・レオンのエル・ニーニョ・フィデンシオという民俗的聖者がいるが、彼はドン・ペドリト以上の人気を得ており、メキシコ 系アメリカ人の間からも数千の信者がやって来る(Macklin 1974b)。民俗的聖者は、神殿の自分の墓をはるかに越えて影響力を及ぼすこともある。というのは、エル・ニーニョ・フィデンシオの場合は、少なくと も、ある小さなインディアナ州の町で開業している一人のメキシコ系アメリカ人の精霊信仰者によって「捕え」られているからである。フィデンシオは「A夫 人」の口を通して語り、そのことが、夫人の患者−彼らの多くは遠方の州から来る−から彼女の力の源泉と見なされている(Macklin 1974a : 394-402)(7)。 民族医学として見たアメリカ民俗医学 我々が簡単にスケッチした民俗医学の3つの体系に基づいて、現在および過去の信念と実践が、この章の最初に記した、非西洋医学体系の相関物とどの程度一 致するか検討してみよう。第一に、病因論としてのパーソナリスティク−ナチュラリスティクの二分法が他の体系と同様にアメリカの民俗医学にもあてはまるこ とは明らかである。パーソナリスティクな病因論は、呪術、邪視、罪に対する神罰としての病いについての広範な信仰をカバーしている。ナチュラリスティクな 病因論は、冷がおそらく子供の普通の病いや、捻挫や骨折のような外傷(これらは呪術によって引き起こされたと説明されることもあるが)だけでなく、多くの 方法で病いを引き起こすという信仰を含んでいる。 我々が治療者のタイプや役割に関して記したのと同じ相関物がアメリカの民俗医学においても見られる。特にパーソナリスティクな病因論について言えば、類 似の非西洋の病因論と同じく、そして、ナチュラリスティクな病因論とは対照的に、「健康は、成功、金銭、良い仕事、平和な家庭といった、あらゆる幸運と一 緒に分類される。他方、望ましくない出来事の一つと見なされる。(個人による)出来事操作の試みは、健康を含めた良いことを呼び寄せ、そして、不健康を含 む悪いことを追い払うための広範な実践をカバーしている」(Snow 1974 : 83)。 非西洋の民俗医学と同じく、アメリカ民俗医学におけるパーソナリスティクな因果論にもしばしば二重の原因水準がある。かくして、ニューヨーク州バッファ ローにおけるシシリー系アメリカ人の間で医師は、通常はっきりした自覚もないままに、しばしば「スピラト(spilato)、医師、または呪術師と共同し て仕事をする。というのは、患者と/またはその家族が、治療を首尾よく行うには一つ以上のレベルがあると信じていることがあるからである」 (E.Smith 1972 : 95)。 多くの治療者の質は非西洋世界で記述されたものと驚くほど似ている。呪術医やアラスカのシャーマンと同様、例えばコンジャーは善事も悪事も働く。つまり 彼らは悪事を働く場合に限り「悪い」のである(Whitten 1962 : 318)。現代の多くの治療者は驚くほど古典的なシャーマンと酷似している。例えば、コネチカット州の65歳になるヤンキーの「M夫人」はトランスを伴う 憑依の霊媒であるが、彼女は19歳のときに巫病にかかった。「啓示」があった時、彼女は霊媒になりたくない、「普通の」生活をおくりたいと反抗した。しか し、彼女は、彼女の世話をしていた他の霊媒から「これはあなたの望んでいることではなく、《彼ら》が望んでいることなのだ」と言われた。要するに、M夫人 はちょうどシベリアのシャーマンのように、「神聖な選抜」によって自分の力を得ることができた。「主は癒しの特別の能力を授ける人を選ぶ」という現代のア メリカのパターンについて、スノウは、このリクルートを「人類学的文献に記されたシャーマンのそれ」と比較している(Snow 1977b : 35)。 最後に、多くの現代の民俗医学において、宗教、呪術、医学の間の区別は非常に不明瞭である。アメリカの民俗医学を概観すると、パーソナリスティクな病因 論とそれに結びついた治療はナチュラリスティクな病因論の犠牲のもとにその力を得ているという気がする。人類学者が民俗医学の研究を始めると、すぐに−ほ とんど強制的に−パーソナリスティクなものと超自然的なものに引き込まれてしまう。例えば、スミスは、シシリー系アメリカ人の研究について「その研究は民 俗医学について……(そして呪術についてではなく)……知るために企てられたのに、情報提供者は超自然的アプローチを強調する傾向があり、私が注目したい と思っていた薬草や古い薬方にはほとんど興味を示さなかった」(E.Smith 1972 : 92-93)。1946年のことだがウィザースは、「祈願や他の宗教的技術による治療の最新の胎動」(Withers 1966 : 233)について語った。スノウもまた、南部の貧困な黒人および白人についての最近の研究で「私の仕事は、宗教そのものに向けられたものではなかった。む しろ、その焦点は民俗医学についての信念にあったが、宗教的要素は不可避であった」(Snow 1977b : 28 傍点筆者)と述べている。第14章で、保健サーヴィスにおける土着の治療者の利用の可能性について議論をするとき、このパーソナリスティクな病因論に向か う傾向が起こりつつあるとなぜ我々が信じているのかを示したいと思う。 原註 (1) パーソナリスティク−ナチュラリスティクの二分法についてのより完全な議論は Foster (1977b)を参照のこと。 (2) インドについて、マンデルバウムは我々が行ったと同じ線に沿って病因論というパイを切り取っている。彼は病いの一つの原因として「患者の他者や超 自然なものとの関係における不調和」と、それとは対照的な、もう一つの原因として「生理学的不調和」の2つを認めている。前者は、「人間または精霊による 激しい悪意の結果であるかまたは患者が怒りっぽい超自然的存在を思わず知らず侵害した結果のどちらかであると考えられている」。後者は「アユルベーダ医学 の中心的教義」であり、それは体系的な用語で病いをほとんど説明する(Mandelbaum 1970 : 179)。 (3) 世界中の医学体系の完全な分類を試みるとしたら、「科学的」、「西洋的」、あるいは、「コスモポリタン」(この用語はレズリーの近編著『アジアの 医学体系』(1976)への寄稿者たちによって用いられた)医学が第3のタイプを構成することになろう。この体系では、病因は、物理学、化学および精神の 科学において明らかなような病因と結果の基本的パターンに合致するものとされる。病原−細菌とウィルス−と、栄養欠乏、老化などによる身体の生化学的変化 と、喫煙のような環境要因疾病の原因として持ち出される。 (4) 読者が誤解しないように、これは中国の評価であり、我々の評価ではないことを急いで指摘しておこう。 (5) こうしたタイトルは Pickard and Buley (1945 : Chap.2) による。 (6) 少なくとも「南西部の大都市」のメキシコ系アメリカ人の間では、熱−冷の二分法についての自覚的な知識は消えつつある。ケイは「30歳以下の女性 は誰もそのような区分ができず、この分類体系について知っているようには見えない」ことを発見した(Kay 1977 : 162)。しかし、ケイが描く健康に関する信念と行動の大部分は、直接的に体液の仮説に由来し、熱−冷二分法が常識となっているメキシコの共同体で見られ るものと同じである。したがって、「扁桃腺炎は裸足で歩かなければ、特に冷たいコンクリートの上を歩かなければ、これを防ぐことができる」(同書、 147)。メキシコでは、冷たい床はカロル・スビド(calor subido 「押し上げられた熱」)の原因となり、それは、とりわけ、扁桃腺炎となって現れると信じられている。さらに、熱のある子供にマルバ(malva)の葉の浣 腸を行うこと(同書、47)は、メキシコでは体液説による古典的処方である。つまりマルバはフレスカ(fresca)[「肉」、すなわち冷]であり、これ を用いた浣腸は過度の熱を引き出す。 (7) スペイン系アメリカ人の民俗医学について引用を明記したもの以外に、次のものも使用した。 Clark (1959a)、Harwood (1971)、Kiev(1968)、Madson(1964)、Martinez and Martin(1966)、Rubel(1960,1966)。 訳註 *1 プロテスタント再洗礼派に属するメノー派の一小会派は17世紀スイスの Jakob Amman。 |
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