かならずよんで ね!

医療体系選択の自由について

On Freedom of Choice in Medical Systems

池田光穂

「さて医術の話に戻ると、西欧での患者は現在ではしばしば医療上可能な複数の「見解」に対し て、選択の決断をしなければならないね。それじゃあ、これをもう少し拡張して、複数の医療上の 「体系」から選ぶようにしたらどうだろう。現代医学の治療の結果に苦しまなければならないかも 知れない、科学的医学が正しい答えを出す保証はない、医者の薦める療法に気が進まないのも理由 あってのことではないか。これに引き換え、別の可能性としての医療体系は―つの伝統全体の重要 な部分として働いていることが多く、宗教的な信仰と結び付いており、その伝統に帰属する人々の 生に意味を与えるものなんだ。自由社会というのは、他の伝統に属する人々がどう思おうと、あら ゆる伝統が等しい権利を与えられるような社会を言うんだ。他の人々の見解の尊重、より少ない悪 の方を選ぶということ、あるいは進歩する機会、こうしたことは、あらゆる医療体系を科学と自由 にまたオープンに競争できるように仕向ける方向で議論すべきなんだ。こうして初めて、ぼくらの 議論の出発点だった君の質問に答えられるというものさ、つまり、健康とはどういう意味か、病気 とはどういう意味か、という問いに答えるべきなのは誰なのか。君の答えは、医者、科学的医者だ った。僕の答えは、健康や病気を決めるのは、健康だったり病気だったりするその当人が帰属する 伝統であり、その伝統の内部でも個人が自らつくり上げた特定の生の形によってこそ、それが決め られるべきだというものさ。こうした特定の生の形は、きちんと学んでから、しかもちょうど言語 を学ぶようにマスターして後、つまりその伝統を構成する諸活動に参加することを通じてマスター して後、初めて科学的に研究してもよいものとなる。ここに古いタイプの、患者をよく知っている 家庭医の利点があるんだ。そういう家庭医は患者の特異体質を熟知し、あるいはその信仰も熟知し ている。患者が何を必要としているか、を知っており、またそれを提供する方法も学んでいるの だ。こうした医師に比べて、現代の「科学的なし医師は、まるでファシスト独裁者のようで、健康 と病気についての自分の考え方を、通常は無益な業に終わる治療法なるものの庇護の下で、患者に 押しつけることしかしない。これだけ言えば、新しい考え方を教えたり提示したりするときには、 防護装置を付随させなければならない、という論点が判ってもらえるんじゃないかな。」(ファイアーベント 1993:140-141)

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