科学を葬りされ!
Funeral in Dead Science
お情け容赦のない科学の現場におかれた科学者は、精
神的に厚顔無恥になっていくか、あるいはそのような権力亡者になること以外には、研究不正をおこなう可能性があっても不思議ではない。情け容赦のない科学
の現場において、これまでも、現在も、そしてこれからも研究不正が出てきてもやむを得ないではないか、と研究の中心の現場で叫んでみたい気分にもなる。も
ちろんこのことが改善されるか否かは、情け容赦のない科学の運営維持している人じしんの今後の責任の取り方次第である。
ストレスフルな場所において「科学研究にルールなんかねぇ!なんでもOKだ」と叫ぶことは、まったく愚かである。では、情け容赦のない科学界において、権
力の頂点に君臨するボスや一部のエリート研究者だけが「科学研究は何をしてもよい」と主張できるのだろうか。もちろんそうではない。現代の科学者集団は、
社会学者エリオット・フリードソンの言う「専門職支配」を自ら運営しかつ自ら支配しつつ生きているのだ。支配する人たちは科学技術政策に関わる学識経験者
という利害関係者である。だから科学研究のスポンサーたる政府公共機関ないしは民間の研究助成団体では、科学者のクードス原理が広く流通しているはずだ。
もちろんそのことが手放しで無反省に論じられるのではなく、ザイマンなりの指摘(=プレースという現実)などを踏まえて、研究不正が行われないように「適
切」に管理するという発想もみられる。他方、支配される研究者たちの所感(=本音)はプレースそのものだと、ひそひそ声で囁かれているはずだ。
現代社会における科学技術の専門職支配の構造のなかで、ファイヤアーベントの言う認識論的アナーキズムの理想を語っても、誰も耳を傾けるものはいないだろ
う。だが、この先覚者の御託——いやもとい主張——は彼の存命中から、そしてパウルが死んだ一九九四年以降においてもつねにバッシングの対象になりつづけ
ている。だがパウルは自分への批判を甘受する驚くべきタフさを発揮した。彼の存命中に公刊された『パウル・ファイヤアーベントに関する魅惑的エッセー』
(一九八一:英抄訳一九九一)二巻本において、ファイヤアーベントは、自分と自分の主張に対する反論のみならず露骨な嫌みに関して、驚くべき寛容性——あ
るいは冷感症——をもってそれらをやり過ごしている。
この本の編者は、なんとノルベルト・エイリアスに関する大部の批判本「文明化の過程の神話」五冊を書いたパウルに負けないほどの特異的な個性と知性をもつ
人類学者のハンス・ペーター=デュルなのだ。ペーター=デュルには科学論の著作もあり、パウルへの多くの非難も少数の擁護も公平に取り仕切る行司としての
風格がある。他方、パウルの遷化後には、墓場から骸骨を引きずりだして鞭打つ趣味の悪い輩もいる。「ポストモダン思潮」という仮想敵にイチャモンをつけた
『「知」の欺瞞』(二〇一二、原著は一九九八)の著者たちであるアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンがそれである。
セント・ポール(=パウル)も、墓場から甦り認識論的アナーキズムの釈義を改めて吹聴するつもりはないと言うであろう——こう言うのはパウル以外の誰にお
いても自由だろう。パウルの言説が死後もしばしば甦り、生きている科学者を苦しめたり喜ばせたりするのはなぜだろうか? そのような精神的混乱から解放さ
れるには、皆がファイヤアーベントの認識論的アナーキズムについて改めて理解し、社会的歴史的意義を評定し、そしてその限界について我々がきちんと自覚し
なければならないと思うのだ。それを私は、ファイヤアーベントがもつ(一)歴史主義の限界、(二)エリート主義、(三)アナーキズムという用語についての
誤解、(四)倫理上の教訓を産み出せない蒙昧主義、の四点について解説しよう。そして、科学論の学説上に秩序立てて——正しくとは言わないが——位置づ
け、この偉大な先覚者に本当の永遠の眠りについてもらおうと思う。
(01)歴史主義の限界
歴史主義(historism)は、歴史つまりある時間の流れのなかで起きたことの再現的記述に関する説明をもたらそうとする場合に、自然法則とは異なる
——あるいはそれを模倣した——歴史という秩序のもとで理解しようとする立場のことである。我々が過去の科学史上の出来事に遭遇した際に、ファイヤアーベ
ントが警告してくれるのは〈歴史における合理的な説明に出会ったらそれを警戒せよ〉というものである。彼にとって歴史というのは、実に逆説的な概念であ
る。それは因果関係という法則的なことに対して歴史は偶発性を齎す撹乱要因としても捉えられるからである。これは科学史上の出来事の特異性をアドホックに
説明するが、そのことから〈偶発性をもたない歴史はない〉というメタ的な法則を導いているようにも思える。
トーマス・クーンのいう「共約不可能性」との関連性が指摘される、ファイヤアーベントの「歴史的伝統」は、つねに事後的に事実のなかにあらわれる疑似的な
法則であり、実践的には知や認識がそれらを統御できるような代物ではないことを主張するものである。だから「歴史的伝統」は理論的伝統がその対概念なので
ある。ファイヤアーベントが、歴史から偶発性の意義(=メタ法則という極端な相対主義)を学ぼうとする意志は非常につよく、それが翻って彼が現在の科学の
あり方について述べる時、驚くべきスローガン「なんでもあり!」に化けるのだ。
(02)エリート主義
私のところに大学院生という研究者の「卵」が来る。目的のほとんどが、研究上の指導である。その議論の内容のほとんどは、私たちが住まう学問的パラダイム
をめぐる重箱の隅をつつくような話題であることが多い。重箱の隅をつつくのだから、皆様にはさぞや退屈と思われるかもしれないが、クーンがパズル解きと表
現したように、その分野に熟達した議論の核心に触れることが多く、お互いに興奮して時間が経つのを忘れるほどである。ここでの議論では、明らかに「なんで
もあり!」ではない。
研究者の卵がパラダイムにはない正当な作法の圏外に出れば、教師はためらいもなく、軌道復帰するよう促すだろう。もちろん、学生が——まさに重箱の隅を電
子顕微鏡でのぞくような——ひじょうに細く硬直した議論をおこなったり、論理上退屈な堂々巡りをおこなったりした場合には、教師は「視野を広げて隣接分野
の文献を渉猟したら?」とか「ちょっと距離を置いて、大胆な思考実験をおこなってみるのはどうか?」という助言を行うこともある。そこではまだ、健全でマ
イルドな「認識論的アナーキズム」を刺激することもあるだろう。
しかし、その大学院生が「アカポス(=研究職求人)に公募申請をしていますが、なかなか通らなくて…」と苦境を吐露し始めると、やはり教員は「アナーキズ
ムはちょっとマズイかな」と小心になる。テーブルを挟んで研究者の卵と指導教員との間には、まさに溺れる者と助かる者、という嫌な予感が過るわけだ。ま
た、真っ当な研究者になってもらうために、指導教員は口が裂けても卵に「(アナーキズムに近いぐらいの)好きなことを自由にやれ!」とは言えない。自分の
信念を曲げてでも、現在流行の研究トレンドを紹介することを厭わず、政府や同業者が重要とみなす分野や研究アプローチに配慮するようにと、指導してしまう
のだ。
類似の状況が「研究の現場」では日々起こっているわけだから、パウルの著作『方法への挑戦』『自由人のための知』は、研究指導を行っている立場からみると
「言ってることは最高に面白い!が所詮、功なり名を遂げたエリートの放言なんじゃない?」と思いたくなる。つまり「勝ち組の論理じゃん!?」というわけ
だ。
(03)アナーキズムという用語についての誤解
そもそも「認識論的アナーキズムは懐疑主義からも、また政治的(宗教的)アナーキズムからも異なっている」(一九八一:二五二)。こう述べるパウルが、そ
もそも混乱の原因である。彼は別のところで、自分は、これまで歴史に登場した「アナーキズム」という信条を支持しない、自分はダダイストだと強調する。
「ダダイストはわれわれが事物を軽快に受けとめることを開始し、われわれの話から数世紀にわたって蓄積し続けてきた深遠な、しかし悪臭を放つ意味(「真理
の探究」「正義の擁護」「熱烈な関心」、等々)を除去するときに限って、生きるに値する生活が生じることを確信している」(一九八一:九)。これは生きる
ことに関する明快な道徳的信条を示唆している。
すなわち、我々は事物を軽快に受けとめることを旨として、「真理の探究」「正義の擁護」「熱烈な関心」などのスローガンが発せられる時、それに警戒し、か
つ除去した状態に、我々の生活の基盤をおくべきだ、という考え方である。ただ、これは私(=池田)が先に述べた「権力が派生する暴力性に警戒するがゆえ
に、…共同体内に流通する権力というものを最小限に食い止めようとする」というアナーキストとは、まったく接点を持たない。パウルは、自分の認識論やそこ
からうまれる行動指針は、ダダイストの信条に由来すると言うべきだった。後世に残るパウル・ファイヤアーベント=知のアナーキストは、本人も認める用語の
確信犯的誤用をしたが、本来、彼の書物は『方法に抗して——知識のダダイスト理論粗描』とすべきだったのだ。
(04)倫理上の教訓を産み出せない蒙昧主義
近年に起こったちょっとコミカルな——だがそこには多大な国民の税金が投入されている!——「科学の捏造」問題報道について。もしパウルが生きていれば、
どのようなコメントをするだろうか? ダダイストだから口が裂けても「捏造はイカン!」と全面否定することはないだろう。他方「僕は再生医療にまつわる分
子生物学的知識は持ちあわせておらんから分からない」などと逃げることは決してないだろう。パウルは、およそ「科学論」について一家言も百過言も話せる人
だったからだ。せいぜいところ「捏造があろうがなかろうが、これは〈真理の探究〉にまつわるパロディであり、〈正義の擁護〉をめぐるレベルの低い政治的水
掛け論である!」と言い「〈熱烈な関心〉が演出した、研究者の白無垢のエプロンの中に、議論のためのヒントがあるようじゃ〜♪」と私たちを煙に捲くかも知
れない。あるいはボードリヤールばりに「実験データの有無とは関係なしに、STAP細胞は〈存在〉するよ〜♡」と託宣されるかもしれない。
そもそも〈なんでもあり!〉の論法に対して限りない寛容の精神を持ち合わせているパウルなので、このようなシャーマニズム的〈口寄せ〉は許していただける
だろう。パウルの認識論的アナーキズムが示す〈無権力〉は、現代日本の科学界が血眼に求めている科学の研究不正に抗する倫理的教訓や今後の「捏造予防法」
に関する方策を引き出すことができないように思われる。実際のところスポーツ新聞社はパウルのところに取材を申し込むだろうが、大手の新聞社は黙殺するだ
ろう。知識のダダイスト理論からは、世俗的な科学者とその管理者に役に立つ実践倫理という教訓を引き出すことができない。
先に触れたソーカルやブリクモンは、このような立場に対して、露骨にパウルを蒙昧主義者(obscurantist)として退けるだろう。ただし、彼らの
この見方に対して、私はあまりにも幼稚で底の薄いパウルの理解だと反論したくなる。「蒙昧主義の魔法の本質は、人びとの頭脳を蒙昧にしておこうとする点に
あるのではなく、世界の像を黒く塗り、生存に関するわれわれの表象を暗くしようとする点にある。そのために蒙昧主義は、しばしば、精神の啓蒙を妨害すると
いう手段を使いはするが、また時には、それと正反対の手段をも使う。すなわち、知性を最高度に精妙にすることによって、かえって、知性の諸成果に対するう
んざりした感情をおこさせようとする」(ニーチェ
一九九四:四一)。繰り返すが、パウルの主張だけからは、私たちは何の科学倫理上の課題を引き出すことができない。だが、パウルという科学者の生き方や実
践からは、ニーチェの蒙昧主義がもつ高度に洗練された示唆により、科学という営為に伴う倫理上の教訓を数多く引き出すことができるのではないのかというこ
とだ。
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