科学において認識論的アナーキスト、ができるまで
May the anarchism be with you,
scientists!!!
このページは、池田光穂「科学における認識論的アナーキズムについて」『現代思想』42巻12号、Pp.192-203、2014年8月に関する制作秘話を提供するものです。
学校の朝礼で,強制的に並ばされ,前に倣えと整列させられ,直立不動で私語を禁じられ,校長に「君たちは自由にならなければならない」と命じられる生徒の気分を他ならぬ校長先生が感じることを,《自由を強制するジレンマ》という。なぜなら、自由は強制されるもの
ではなく、強制の鎖(頚木でもいい)を解き放った時に生じる《矛盾を生じない空白》の
ことだから
だ。もちろん、そのような命令語法を自分の自由にもとづく自己陶冶の結果と思っている錯認校長もまた《自由に隷属する奴隷》に他ならない。そして、自由を
抑圧する連中の自己正当化のテーゼ「自由はアナーキーであるから制限が必要だ」もまた自由概念の取り違いだ。自由とはアナーキー度ゼロ、すなわち、自由と
は自分自身つまりあなた自身のことだからだ。自由を否定するとは、自分を自分でないと否定すること、あなたはあなたではないと否定すること
に他ならない。
それでも、自由にコントロールが必要だという君には、革の鞭がどうも必要なようだね〜
——垂水源之介(2016年4月3日)
この論文は、霊界のパウル(ポール)・ファイヤアー ベント(Paul Feyerabend, 1924-1994)に捧げたエッセーです。
【論文の梗概】
この論文の構成は次のとおりです。
全体の梗概を示すと、次のようになります。
まず、1章では「政治的アナーキズム」の変種(ない しは帰結)としての認識論的アナキズムが紹介されます。アナキズムの一般的理解から、認識論としてのアナキズム——若干、撞着語法気味ですが——を紹介し ようと、筆者は試みます。使われる資料は、『社会科学国際百科事典』、アラン・アントリフの論考、そしてディビッド・ミラーのアナーキズムの解説本から。 第3番目のミラーは「哲学者カール・ポパーの助手を務めたこともある英国の哲学者で、その師匠が提唱した批判的合理主義を継承信奉している」人でもあるの です。それらを概観した後に、著者は、自分たちが依拠する思想的なるものについての自覚において、科学研究というものは、文学などよりも、はるかに時代遅 れであることを指摘します。つまり、科学研究って、最先端のことを追っている一見恰 好良い「サイエンス」ないしは「哲学」のように見えますが、自分自身で (sui generis)立脚できない、みじめな学問(ないしはもどき)であることが示唆されます——この真意を読める読者は筆者以外にはほとんどいませんでし た。
第2章では、科学社会学で言われている、科学者の エートスについて紹介したものです。マートンのKUDOSからザイマンのPLACEの紹介がほとんどです。ま、退屈な議論ですが、科学論をやる人は知って おかねばならない常識です。筆者の趣旨は、そのエートスを形成する科学研究の現場が、夢とロマンに満ちたものではなく、非常に残酷な現場であるというもの です。例:小保方晴子(1983- )のSTAP細胞に関する研究捏造や、その上司であるエリート研究者、笹井芳樹(Yoshiki SASAI, 1962-2014)の自死など。筆者は、これを「情け容赦のない科学 (draconian science)」の現場とよびま した。
第3章は、この論文のメインになる部分です。基本的 に、ファイヤアーベントの認識論的アナーキズムというものが、スタイルのないこと=あるいはないことを強制する(かの)ようなファイヤアーベントの論理構 成は破綻しており、現実的には、利益よりも害があることを指摘したものです。筆者は、それらを、1.歴史主義の限界、2.エリート主義、3.アナキズムの 用語への誤解、4.非生産的な蒙昧主義に陥る可能性——ただし高踏な蒙昧主義は擁護する——を指摘しました。いちばん美味しい部分ですので、本論を読んで 玩味してください。
第4章は、筆者の大好きな映画『スターウォーズ(Star Wars)』の
タイトルにかけた、結論めいたまとめの部分です。結論から申しますと、第3章で批判したにも関わらず、ファイヤアーベントの議論はできるだけ、擁護すべき
だ。それは、科学の進歩に有益だからではなく、科学の進歩史観に対して疑問を付すという意味で有益だから、という批判的かつ反省的理由から
です。また、大
学や研究機関の外で、活躍する本物の「科学アナーキスト」たちの存在を、我々はもっと強く意識し、これからの科学論を組み立てるべきだという(筆者にとっ
ては稀な具合に)生産的な提案をしています。そして、このような立論そのものが、ファイヤアーベントのアナーキズムの精神(=霊)をして、筆者に、理性的
に振る舞わせたという、高等な修辞を弄して本論を締めます。
【論文ができあがるまで:Making My Paper on Paul Feyerabend's Anarchism】
原稿依頼は、発刊の2か月前くらいだったと思いま す。5月中旬かその前後。小保方問題で特集組むので、とうかという編集部のM氏のお誘いです。社会に埋め込まれた科学という話だったような気がします。僕 は、いま(=当時)『質的心理学研究フォーラム』に研究倫理の論考を準備しているので、その延長上のものでもいいかという返答でした。M氏はそのことに了 承してくださいました。しかし、実際に書いてみたところ、質的心理学 のほうの研究倫理の論文は、短いながらも自分の言いたいことを言いきってしまったの で、すぐにできないことがわかりました——正確には情熱切れです。そこで、僕が大学院の修士課程の時代に読んだ、ファイヤアーベント『方法への挑戦』を読 み直してみようということでした。ファイヤアーベントについては、これまで何度も読んできたつもりですが、僕の理解力が足らないせいか、いつも途中で投げ 出してしまってきました。今回もまた、何度目かの挑戦ですが、それが成功したかどうかおぼつきません。だけど(現実の科学業界における不正や権力の介入を はじめとして、科学論と呼ばれている人たちとつき合ってみて、あまりシャープな人がおられないので——訳者の村上陽一郎先生はその例外のおひとり——) ファ イヤアーベントについての親近感は、以前よりも増していたため、今回は、以前よりもファイヤアーベントに近い、ないしはファイヤアーベント師が何を考 えてきたか、ということに、或る程度の確信をつかむことができましたので、執筆しなおした次第です。
今回は、時間的制約もあり、詳細なノートをとってい ませんし、詳細な文献渉猟をおこなっていません。アイディアで勝負だけの論考になりました。でも、僕は言いたいことが言えたので、それで満足しています。
書いたメモは以下のものをふくめて、他に数葉です。
向かって左から解説していきましょう。
【科学技術は本当に危機なのか?】
1)科学を取り囲む政治・経済・社会を歴史的につか みとる。2)研究における倫理を涵養するための装置を実装する、3)真の公共性の構築のために領域横断的な連携を試みる。「人間的と考えられる苦悩は人間 たらんとする自我のひとつの喜びである」26歳のカール・マルクス。ほんもの(→これはトリリング『誠実とほんもの』法政大学出版局版、215ページの意 味です)そして、「科学者であるとはどういうことか?」
【ガレージサイエンスの存在】
第4章での結論の議論の素案が書かれています。でも 採用されなかったものばかりです。デカルトの方法序説、アルバート・アイラー(フリージャズサックス奏者:中上建次のエッセーのタイトルの捩りがみられま す〜♪ )〈ヒマから革命は生まれない〉——トーマス・クーンの重要性、方法への擁護、『ファイヤアーベントはアナキストではない!』 (これは今回の議論のうち私の最大の発見=主張だと思います。だから論文のなかでファイヤアーベント師匠を【葬る】ことにしたのです)
※ガレージ・サイエンスと、大学の研究者を媒介した 臨床検査薬産業との節合の問題については次の本を参照:ぼくは科学の力で世界を変えることに決めた / ジャック・アンドレイカ, マシュー・リシアック著 ; 中里京子訳,講談社 , 2015/Jack Andraka, Matthew Lysiak, Breakthrough: How One Teen Innovator Is Changing the World. HarperCollins.
Commons Assembly:
Bridging Divides presentation by Eri Gentry, BioCurious, IFTF: “The
Democratization of Research, from Open Source Journals to Community
Labs”
【ファイヤアーベントは共約不可能性を目標にあげた のか?】
これは、引用文献に使っていない「3つの対話」ちく ま文庫版からのメモです。ここでの重要なポイントは蛍光ペンでも示したように【徳を否定するPF(ファイヤアーベント)の最後の徳、それは寛容ということ だ】という発見です。書かれてありませんが、ここへの関心は、将来のジョン・ロック『寛容についての書簡(A Letter Concerning Toleration)』(1689)への関心へと繋がります。
Christiani S. Johannis,
uti vocantur, et Christiani Genevenses diversae sut religionis,
quanquam utrique Chrisiani nuncupentur, quod hi Sacram Scripturam, illi
traditiones nescio quas pro regla religionis suae habent - Ioanne
Lockio, Epistola de Tolerantia, 1689
【第3章と第4章の実質的な下書きになっています】
最初に「師を葬る」と書いて、挿入句として「師を
【手厚く】葬る」となっています。この師は後に、先覚者というふうに本編では書き換えられました。
--
原稿執筆のためにつかった覚書です。画像をクリック すると大きくなります
刷り上がった原稿:池田光穂「科学における認識論的ア ナーキズムについて」『現代思想』42巻12号、Pp.192-203、2014年8月
文献資料:pdf にはパスワードがかかっています。【著者にアクセスして情報を得てくだ さい】
ジョン・ロック『寛容についての書簡(A Letter Concerning Toleration)』(1689)(こちらのパスワードはcscdです)
【戯れ口上】——医療社会学研究会の同志にむけて発 したメッセージです。固有名詞は匿名/偽名化しています。
エクウス・カヴァリウス先生の対談が掲載されて いる今月号の『現代思想』に下記の拙文が掲載されました。
池田光穂「科学における認識論的アナーキズムについて」『現代思想』42巻12号、Pp.192-203、2014年8月
表題のとおり、ファイヤアーベントに関する戯作文です。
思い起こせばファイヤアーベント「方法への挑戦」は出版された直後か翌年に、MAO研究会(ないしは木曜会)にて佐渡塾長の音頭で読書会をしたものである と記憶しています。マゾオカ先生もいらっしゃったと思います。Anything Goes——大 黒摩季の歌で仮面ライダーOOOの主題歌にあるそうです(大変ノリがいい!)—— という符牒のもとに、あの当時の中川研(→中川米造先生)の雰囲気を思い起こすものであります。
今回故あって読み返して、あまり、そのノスタルジーモードに陥らないように書いてみました。
もとより、STAP問題にからまった編集者の「社会に埋め込まれた科学」とか「〜すべき科学」などは、糞喰らえモードでしたので、最初は、研究不正(→研究公正)について書こうかと思いましたが、すでに「質的心理学 研究フォーラム」に文章を書いたあとなので、押っ取り刀で、ファイヤアーベント復習(=復讐)した次第です。
純一・元塾長——まるで右翼の会長みたいですけど——からは「相変わらずアホやっとるな〜♪」と叱られそうですが、中米仕込みのサンチョパンサ根性がすっ かりしみ込んでおり、踊り忘れずでした。過日の研究会でマゾオカ先生にpdfを送るとお約束しており、ついでなら、みなさんに、お調子者の座芸を披露する 次第です。
Do not copy and paste, but you might [re]think this message for all undergraduate students!!!
"Annunciazione" di Georgy
Kurasov (Russia 1958). Olio su tela, 120 x
94 cm, 2013. Collezione Privata