中川シンポ2018実行委員会(代表:村岡潔)
中川米造氏逝去20年にあたり、「中川医学概論とは
何だったか」を考えるシンポジウムと、中川の下に勝手に集っていた「中川研」を振り返る同窓会を企画しました。
企画の概要は以下の通りで、シンポジウムも懇親会・
同窓会も参加費無料で、予約も不要です。中川医学概論・中川研と縁を持った人、興味を持った人、またこれからこれらを眺めてみたいと思う初見参の人、どな
たでも、どうぞ、ご自由にご参加ください。
「中川米造追悼シンポ・中川研同窓会」
主催:中川シンポ2018実行委員会(代表:村岡潔) 共
催:医療社会学研究会: 実行委員会連絡先 : mail : 2018nakagawa@gmail.com
期日:2018/3/17
10:00~21:00
会場: 山西福祉記念会館 (大阪 梅田:https://www.yamanishi-fk.jp/)
参加費用:シンポも懇親会も、全員無料(しゃべり放
題・飲み放題・食い放題)
第 I
部:中川米造追悼シンポジウム (10:00-16:00)
発表予定:
特別講演: マーガレット・ロック(McGill
大) 「The Social Life of Microbial Multitudes(微⽣物たちの社会生活) 」
マーガレット・ロック先生は、1936年に英国イン
グランドのブロムリーにお生まれになりました。ウェストヨークシャー州にあるリーズ大学で生化学を勉強。その後、カナダに渡りトロント大学大学院にすすみ
ヴァンティング研究所で生化学の研究をつづけられました。1961年にカナダ国籍も取得し英国との二重国籍となりました。その頃ケンブリッジ大学出身の医
師のリチャードさんと結婚されました。その後、カリフォルニア大学バークレー校で生化学での研究を続けられました。サンフランシスコで働いていたチャード
と共に日本を1964年に訪問されました。リチャードがケンブリッジ大学の柔道チームの主将を務めており、同年開催された東京オリンピック出場のために来
日したとのことです。このことがきっかけになり文化人類学者への転向を彼女は図ることになりました。米国のバークレーに戻り人類学の大学院に再度入学され
ました。博士論文の研究に、京都を中心にして都市における東洋医学の調査研究に従事されました。この間にお二人の子供を得ました。中川米造先生とは、漢方
医学研究の大塚敬節(1900-1980)や医史学研究の酒井シズ先生(1935-
)などを経由してお知り合いになられたのではないかと推察します。1976年にカリフォルニア大学バークレー校で博士号をとられ、その4年後に博士論文を
基にした『都市日本における東アジア医療:医療的経験の多様性』(邦題:都市文化と東洋医学)を出版されました。カリフォルニア大学サンフランシスコ校
(医学校や保健科学の大学院がある)でポスドク研究に従事した後に、1977年カナダのマギル大学医療の社会科学部ならびに人類学部に就職されました。そ
の後もマギル大学に務め、現在は同大学のマジョリー・ブロッフマン記念教授(名誉教授)です。その間、これまでに、パリの社会科学高等研究院、スロベニア
科学アカデミーの招聘研究員などを歴任し、日本では、京都大学や聖路加看護大学で教鞭をとったこともあります。さて本日は、The Social
Life of Microbial Multitudes(微生物たちの社会生活)と題して、ロック先生には、ご講演をいただきます。
「微生物たち(Microbial
Multitudes)」とは、別名、マイクロバイオームあるいは専門用語では細菌の集まり、叢(訓読みで「くさむら」音読みでソウ)つまり「細菌叢」と
もいい、いわば極小の世界のコミュニティのことをさします。人間は、他の動物と同様、微生物との共存・競争・戦い・和解・交渉を通して人間生活を築いてき
ました。しかしながら、人と獣——家畜や「害獣」など——が近接して生活するようになり人獣共通感染症(zoonosis)が深刻になりました。その後、
エピデミック(流行病・疫病)やパンデミック(世界流行)とよばれる大規模な流行病は、人→獣→人というプロセスから[獣]の部分の媒介を省略し、人→人
への現在のような病気の流行様式に進化したと言われています。それが17世紀後半におこった顕微鏡を通した微生物の発見、19世紀中ごろの消毒の経験的発
明、その後の自然発生説の否定、細菌の病原性の発見、20世紀前半からはじまる抗生物質の発見と開発を通して、微生物はすっかり悪者扱いされています。そ
して、これまでの生物医学は消毒と殺菌を一義的な手段として、さまざまな勝利を収めてきたと大学では教育されています。しかし、身の回りにあふれる発酵食
品の数や利用頻度や、「善玉菌と悪玉菌」と表現される医学知識の理解にみられるように、近年では、人類と細菌との間の関係を見直す=リビジョンすることも
重要だとわかってきました。本日のロック先生のご講演は、そのような細菌叢(マイクロバイオーム)の豊かな多様性、人間と細菌叢との共存関係などについて
最新の研究の成果のお話しをうかがうのと同時に、細菌叢との「豊かな多様性」や「共存関係」などの用語や概念は私たちの隣人や種を超えた動物たちとの関係
を表現する社会的な想像力を抜きにして理解することはできません。ロック先生の医療人類学のさまざまなご業績には、生物医学に翻弄される人間の姿だけでな
く生物医学の知識や概念を市井の人たちが咀嚼して、伝統的で習慣による日常知として組み換えて、自らのものとするローカル・バイオロジーズについての調査
研究が数多くあります。それは、精霊や霊魂といった見えない存在について儀礼の観察や対話をとおして「見えない存在」と人間社会の共存・競争・戦い・和
解・交渉などを明らかにしてきたかつての民族学や文化人類学の鮮やかな調査手法にも通底するところがあります。本日の講演のタイトルが「微生物たちの科学
的分析」ではなく「微生物たちの社会生活」となっているところからみても、ロック先生の目論見が、これまで敵とみなされてきた微生物たちと人間の新たな共
存の模索にある、一種の調和的な和平交渉の第一歩を示すものとして、故中川米造先生が生前において提唱されてきた「病いと健康との付き合い方」の哲学に通
じるものがあると思います。質疑の時間もつくってあります。是非ともこの特別講演をお楽しみください。
Margaret Lock(1936- )氏と共に(出典:https://www.mcgill.ca/ssom/staff/lock)
■「中川医療人類学をめぐって」のハンドアウト
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1
中川医療人類学をめぐって
On Medical Anthropology of Y. Nakagawa
池田光穂
大阪大学COデザインセンター
2018年3月18日 山西福祉記念会館
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2
• 弁士自己紹介:池田光穂(Mitsuho IKEDA, 1956- )
• 1989年大阪大学大学院医学研究科(社会医学専攻)単位取得済退学。
• 中川米造さんとは、大学院医学研究科修士課程の1年生から知り、1年生終わりの1980年春先より環境医学教室に入る。
• 1982年からの博士課程では(生年とは無関係に)佐藤純一氏が1年先輩となり、村岡潔氏が後輩になる。
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3
• 本日お話する内容
• 1.中川医療人類学は不滅(死なない)テーゼ
• 2.下級学部の学問としての医療人類学
• 3.人類学には自己反省の歴史がある
• 4.中川医療人類学の紹介
• 5.言いたいことは1996年に全部僕は話した
• 6.2009年には、中川米造に弟子なしと僕は言った
• 7.種は播かれた。これからは、私たちの仕事だ!
• 8.中川米造と聖チャペレット
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4
• 医療人類学は人格に帰属するようなものではない、
• つまり医療人類学は[人のようには]死なない、
• したがって中川医療人類学も死なない(かも知れない)。
• 中川米造という人格は1997年に死んだ、
• つまり中川医療人類学は1997年に死んだ。
• 他方、医療人類学は死なない、と言ったではないか?
• したがって中川医療人類学というものは撞着語法であるが、同時に死なないもの(=不滅)でもある。
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05
カント「諸学部の争い」1798
• Der Streit der Fakultäten
• 上級学部(神、法、医)と下級学部(哲)
• 上級は、政府より委託されつつ、国家は教説(学問)を認可を通して統御する。
• 下級は、国家利害から自由で、国民の理性に委ねられる。しかし哲学部は反権力ではなく、国の内部から批判的理性を通して上級学部の動向に対抗する(→争いの意味)
• 学部のあり方の建築術を通して、理性の行使たる政治戦略の多元化・多様化を保証する
• 今日の大学/大学院教育のなかでの医療人類学の役割は、明らかに下級学部に属するものであると思われる。
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6
人類学の由来とその脱植民地化
• 尚古趣味による博物学が、人類学として組織的拡大した原因は、西欧列強の植民地的拡大にあった。
• 人類学や民族学(文化人類学)が、植民地統治に役立つか/加担したか、それとも否かについては、多くの論争があるが、強いエビデンスはないようだ。
• むしろ、植民地状況の存在が、人類学的知見の蓄積に大いに貢献しているので、人類学の発展は「植民地統治の負の遺産」に負うところが多い。
•
フランツ・ボアズの人類学は総合人類学と言われ、関連学問の方法を総合し、かつ研究対象への倫理的コミットメントを示唆したという点で、人類学パラダイム
の民主化/脱植民地化プロジェクトとして再解釈できる。
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7
中川医療人類学の紹介
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8
「医療人類学ことおこし」中川米造
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9
言いたいことは1996年に全部僕は話した
• 体験と学問あるいはモラルサイエンス
• 日本における医療人類学は敗戦から始まった!
• 中川学派?医療人類学の認識論的前提の検証
• W・H・R・リヴァースの現代的意義
• 医療人類学のポストモダン?としての中川米造
• 本人からのコメント:「君は後期中川というが、私の仕事はこれまで中期だった、これからが後期だ!」
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中川医療人類学の認識論的前提
• 1.医療は最初は民族学の研究領域からスポイルされていた。
• 2.民族学が非西洋の原始医療の珍奇な面を強調し、現代医療との差異を主張してきたのは、白人優位思想によるものである。
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3.「医療」のようなもの——医療というラベルが貼られる以前の境界の曖昧な集合的範疇のものである、名前はまだない——の共通点を発見することが人類に
とっての「医療の原型」を明らかにすることにつながる。
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中川米造に引導を渡したのはこの俺だ!
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中川さんご自身が、がん罹患でカミングアウトされてから後の古稀講演会の時に、この前期と後期の時代区分を私が講釈して話したら、師はちょっとムスっとし
てから、これまでの中川は中期で、これから後期が始まるとおっしゃったのが印象的であった。この軽率な私の発言は実際のところ、まったく赤面どころか蒼白
もので、今でも思い起こす後味の悪い経験である。たしかにその通り。すでに師の学問的使命はおわりとご本人に宣告したようなものだからだ。私じしんは後期
フーコー、後期ヴィトゲンシュタインなどと、我が師を知的英雄に仕立てたつもりだったのだが、引導を渡したのも確かも知れぬ
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Medical Humanities復興期の精神
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中川さんは、日本における医療・医学の人文社会学的伝統のパイオニアたるさまざまな仕事をおこなってきた。その興味の数は夥しい。しかし他方で、蛸壺に住
む知識人(丸山真男の表現)からは、詰めが甘いとずいぶん酷い陰口を叩かれたようだ。私はその批判はもっともだと思う。なぜなら我が師はまさに文芸復興期
の知識人(私はそのイメージを当時熱読していた花田清輝や林達夫から随分仕込んだものだ)そのものだったからだ。細かい論証ではなく大きな見取り図を書く
人。知識と権力の癒着以前の時代を生きた幸せな人。あるいは彼こそは近代が生んだ専門知識人誕生以前に数多く棲息していたと思われる「智慧ある人」だった
かもしれない。中川さんの最大の人徳は、その知識習得を可能にする寛容性にあった。
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中川米造に弟子なしと僕は言った
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そういう智慧ある人が、ほとんど絶滅危惧種となった現在、中川さんの記憶を自分の都合のよいように思い起こすことはよく言えばノスタルジー、悪く言えばア
ナクロニズムである。彼の死後、弟子を僭称する数多くの知人友人あるいは面識のない人と出会ってきたが、そのたびに同門のよしみとして先方がどうやら私の
ことを値踏みするような眼差しを向けたように感じまったく辟易してきた。それがどうした(so
what?)と言い返したい気分である。ある高名な学者を死後批判的に評したエッセーの標題を捩って、この文章を閉じるとすれば、それは「中川米造に(唯
一の例外を除いて)弟子なし」という一言に尽きるだろう。
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これからは私たちの仕事だ!
• 1997年6月頃の弟子佐藤と師匠中川
• 佐藤純一「(中川)先生のこれまでの医学概論は、多くの人を変えましたか?」
• 中川米造「わからん......でも、種はまいた。これからは、あたたちの仕事だ」
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語り部としての中川
• (シモン・ペテロとしての)佐藤純一(2011)よる中川米造の神格化(apotheosis)の聖典としての「いのち・病い・死・癒しの語りべ」についての修辞分析
•
「医学概論の中川です」「医学がわからなくなった」「軍国少年からの改心」「偽医者の矜持」「イメージとしての病いと癒し」「患者中心ではなく患者側に立
つ」「話かけ—語りのスタイル」「ひかり協会と和田移植事件」
• 中川は医療哲学者、医療倫理学者、医事評論家でもない。「いのち・病い・死・癒しの語りべ」なのである!
•
私(ユダ)が、佐藤をペテロだと主張する理由:「わからん……でも、種はまいた。これからは、あたたちの仕事だ」と師「米ちゃん(あるいは米造)」から聞
いたのは彼(ペテロ)しかいない!——法螺なのか?ねつ造なのか?それとも純一の詐話なのか?それは誰にもわからない。ただ、彼が墓場に持っていくのみ
か……(続く)
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16
極悪人チャペレット
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ボッカチオ『デカメロン』の第1日第1話の公証人チャペレット氏の物語。七つの大罪を犯しても平気、犯罪者の中の犯罪者とも言えるチャペレット氏が、死が
やり残した最後の罪をやり遂げようと思い修道僧を呼び臨終の懺悔をする。人生の美談を語り、自分の唯一の小さな罪に後悔するチャペレット氏の法螺話にすっ
かり騙された修道僧は、死後、街の人たちに彼の美談を物語り、とうとう法王庁にまでその美談が届き、聖人「聖チャペレット」として列聖されたという。
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聖チャペレット問題
• チャペレットの人倫に対する大罪行為と、彼の最後の詐術話の社会的意味を峻別せよと、医療人類学者は助言する。
• 強盗であり人殺しであり嘘つきである彼は、人生の最後の局面で「最も美しい語り」を後の人にもたらした。
•
彼の最後の嘘の告白話で、彼は生きている間になにか特を得たわけでもなかろう。いやむしろ、人に模範となる善き道徳の寓意を残すことで、後世の人にすばら
しい「希望」を与えたのではないか?あるいは、推奨されはしないが「強盗に生まれても死後聖人になることもあるぞ!」と泥棒や受刑者をエンパワーしていな
いか?
• そもそも当人は痛くて死に至る苦痛をこうむっている苦悩の記録である「闘病記」は、同じ病いを抱える人たちを元気づけ、ときには癒すほどの力をもつ(「イメージの力」)。
• 本当か嘘かというけちくさい話(「ケサリードの逆説」)ではなく、病人や苦悩する人たちの癒しになる美談には倫理がいるのか?——これは中川が遺した生命倫理学の練習問題になるはずだ!
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結 論
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中川米造と聖チャペレットという不遜な対比の「意味」:終油の秘跡を授けた修道僧(佐藤)ペトロによる「中川医学概論の寓話」こそが、中川医療人類学のエ
スノグラフィーにとっての最高の《語り》である。
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播いた種の世話をするのは「あなたたちの仕事」と言い遺して去った中川米造は、僕たち/私たちを弟子と見ていたというよりも中川研のファミリーの子孫とし
て、これらの仕事が長丁場になることをきちんと自覚していたのではないか?
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ご静聴ありがとう!
The tears of Saint Peter, by El Greco, ca. 1541-1614
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20
メモ用紙
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第 II
部 「中川研とは何だったか」(16:20-21:00)
1: シンポジウム&free
discussion ( 16:20-18:20)
2:
懇親会 兼 中川研同窓会 (18:30-21:00 現地解散)
(中川研に関係なく、どなたでも参加できます、費用は無料です。)
リンク
文献
その他の情報