澤瀉久敬と中川米造
Hisayuki OMODAKA and Yone-zoo NAKAGAWA: The two most famous Professors of Medical
Humanities in Japan
解説:池田光穂
澤瀉久敬(→澤瀉久敬と医学概論)
おもだか・ひさゆき 1904-1995 |
中川米造 [詳細史]
なかがわ・よねぞう 1926-1997 |
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1904 伊勢市生まれ 1929 京大哲学科卒(指導教官は九 鬼周造教授、『「いき」の構造』は1930) 1935 仏政府招聘留学生 留学中、久保秀雄と親交を結ぶ 1937 帰国[久保、中川知一教授の後をついで阪大生理学教室教授となる] 1938 京大講師 1941 阪大で全国初の医学概論の講義が始まる[4月〜]同年大阪帝国大学講師 1年生を対象にした「医学の哲学」開始 1945 『医学概論』(科学に就いて・生命に就いて) 1947 『仏蘭西哲学研究』創元社 1948 大阪帝国大学法文学部の創設[翌年、新制大学文学部に昇格] 1950 『医学と哲学』 1954 大阪大学文学部教授 1960 大阪大学より医学博士 - - - - - - - - - 1966 久保教授退官[医学概論教室の世話教室が衛生学へ] 1968 医学部において最終講義。日本学士院会員。 1971 『医の倫理:医学講演集』誠信書房
1995 死去 |
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- 1926 ソウル生まれ - - - - - - - - 1949 京大医学部卒業 - 1954 大阪大学医学部講師 - 【中川の演習表題—枠外下段参照】 神経学の理論的問題(1955) 形態学と機能論の論理(1956) 病者論と医師論(1957) 社会医学の基礎論的問題(1958) 健康の科学としての医学理論(1959) 理論生物学(1960) 医学思想史(1961) 1964 『医学の弁明』 1966[医学概論教室の世話教室が衛生学へ] - 1970 『医学をみる眼』 1974 『医学的認識の探究』『医療行為の論理』 (→中川米造・書誌) 1997 死去 |
戦前の大阪帝国大学医学部における「医学概論」が日本ではじめて開講された経緯については、『大 阪大学医学伝習百年史』(基礎講座・研究施設 編)にある、以下の記述を参考にされたい。
「この間[1935年7月-36年12月—引用者]久保[秀雄]はかねて私淑していたパリ大 学生物物理化学研究所のRene Wurmser 教授の下へ留学した。……Wurmser 教授は熱力学とくに酸化還元電位を生物学に導入し、名著 Oxydations et Reductions (邦訳「生体酸化還元」)で当時すでに高名であった。久保はここで生体酸化還元電位の研究を行い、生涯の研究の基礎となった細胞内標準酸化還元電位の存在 を発見した。……/久保の在仏中哲学者澤瀉久敬(現(1978年当時)本学文学部長)[原文は沢瀉—引用者、以下同様]が偶然同じパリに留学していたことは本学の歴史にとっ て忘れることのできない事実である。学生時代からポアンカレやベルグソンに親しみ、つねづね医学に哲学が必要であると痛感していた久保は澤瀉と会い、医学 の哲学について幾度となく語りあい、これが機縁となって後に全国にさきがけて本学に医学概論の講義が開講され、澤瀉がその担当者となるのである」(百年 史、p.79)
「1941年(昭和16)4月久保のかねてからの尽力によって「医学概論」が全国に魁けて開 講され、京都大学文学部講師澤瀉久敬がこの講義の専任講師として招かれた。これが本学の医学概論の濫觴[らんしょう—引用者]である」(同、p.81)
「1941年(昭和16)4月から「医学概論」が開講され、1年次学生を対象として週1回澤 瀉によって講ぜられた。この開講にあたり久保がいかに尽力したかの経緯は澤瀉の論説[『医学概論』三部作と思われる—引用者]と医学概論研究史に詳述され ているとおりである。澤瀉の講義には久保以下各教室員がよく出席し、当時昼食時には澤瀉、久保を中心に古武や各教室員が加わって、当時の講義の批判や科学 論、哲学論に談論風発するのが常であった。このように澤瀉の存在は単に医学概論の講義を通じてのみならず、より直接的に第一生理学教室員に対して強い影響 を与えた」(同、p.83)。
澤瀉久敬により書かれたと推測され[cf. 澤瀉 1981]かつまた実際には中川米造の手も入ったものと思われる「医学概論研究室」史の記述は以下のとおりである[百年史 1978:234-235]。
「医学概論は、1966年(昭和41)から衛生学教室が「世話教室」になり、以来、教育、研 究に密接な関係をもつことになった。
本学(大阪大学——引用者)における医学概論の講義は、1941年(昭和16)佐谷医学部長 時代、久保秀雄(第一生理; 1902-1985)教授の努力によって創設されたもので、本学のみならず、日本の医学教育史上特筆されるべきものである。その趣旨は“科学の分 類、方法、論理および認識の意義を学生に理解せしめる科学概論と、医学の各領域における歴史を経とし、これに関連せる思想を緯として論述し、以って医学発 達の根底を把握せしめ、将来医学にたいする科学的精神を涵養せしめんとするもの”であった。
講師として招かれたのは、久保教授の友人澤瀉久敬(名誉教授、現南山大学文学部教授)で、 1966年(昭和41)定年退官[ママ—引用者]するまで非常勤講師をつとめた。その間の講義は、科学論、生命論、および医学論の三部作からなる「医学概 論」となって出版され、医学界のみならず、哲学界にも反響をおこした。
1954年(昭和29)澤瀉講師は、本学文学部創設[ママ—引用者]にともない教授となった ので、医学部(梶原三郎学部長)は、医学概論の充実をはかるため京都大学医学部助手(耳鼻咽喉科)のかたわら、医学概論の研究をすすめていた中川米造を専 任講師として採用した。医学概論の専任講師の誕生も本邦ではじめてである。研究室は、衛生学の部屋を割愛して、これにあてたが、「世話教室」は第一生理学 教室であった。
1955年(昭和30)には医学部に新制大学院が発足し、医学概論も主科目の一つになった。 主科目として受講するものは1971年(昭和47)まで現れなかったが、副科目または選択科目として受講するものは毎年数人あり、これらの学生に対し、中 川は特論として1962年(昭和37)まで毎年講義、演習をおこなった。その標題は神経学の理論的問題(1955)、形態学と機能論の論理(1956)、 病者論と医師論(1957)、社会医学の基礎論的問題(1958)、健康の科学としての医学理論(1959)、理論生物学(1960)、医学思想史 (1961)である。(1963年以降は大学院の講義がなくなった。)
中川の研究は上述の講義表題[ママ——引用者]からうかがわれる通りであるが、着任当初から 1957年(昭和32)ころまでは、主として医哲学と医学史に力点があり、ついで、医療社会学にも関心がむけられた。1964年(昭和39)の東パキスタ ン(現バングラデシ[ママ——引用者])、1966年(昭和41)の東アフリカの調査旅行は、原始的生活[ママ]における医療形態の研究のためであった。 このような医療社会学または社会医療への関心は、基本的には医学論の研究の展開にともなって生まれたものであるが、大学院での医学概論の受講者が、衛生 学、公衆衛生学などで、いわゆる社会系に属する学生の多かったことも大きく影響したものと考えられる。
1966年(昭和41)、医学概論の「世話教室」主任であった久保教授の退官にともない、 「世話教室」は衛生学教室が後をついだ。ここに医学概論研究室の活動と衛生学教室との関係は密接化することになり、衛生学、公衆衛生学の講義や実習の一部 を分担し、教室研究での共同作業をおこなうようになった。
それらの共同研究としては、医学史研究会の設立とその運営、医学史研究会をバックに丸山博、 中川米造の共編として刊行された「日本科学技術史体系・医学編」の編集、日本衛生学会史などであり、社会活動としては森永ヒ素[原文はヒソ——引用者]ミ ルク中毒症の追跡調査、対策のための運動などがある。
ただし医学概論と衛生学教室の関係はこのように密接であるとはいえ、完全に一体のものではな く、医学概論独自の任務もある。それを拡大発展させるためには、独立した講座になることが望ましい。これは澤瀉久敬教授がこの講義の主任をしているときか ら一貫した主張があり、1968年(昭和43)退官に際しての最終講義においても強く訴えたところである。衛生学の丸山 博教授が「世話教室」主任になっ てからも、その主張はうけつがれ、運動も展開されてきたが、いまだ実現に至っていない」。
文献
筆者不詳(澤瀉久敬と推量される)、1978「医学概論研究室」『大阪大学医学伝習百年史』 (基礎講座・研究施設 編)、Pp.234-235、大阪大学医学伝習史刊行会[大阪大学医学部学友会]。
映像[両名とも存命でないので写真で印象を知りたい方のために]