中川米造の著作と我々
Yonezo NAKAGAWA, 1926-1997: a personal memoir
中川米造の著作と我々:文献に関するエッセー
池田光穂
私は1981年の夏頃から、中之島(当時)にあった大阪大学医学部環境医学教室の中川米造先生の研究室を訪問し、医学研究科修士課程の院生と して受け入れていただいた。それ以来1984年の早春から3年間の休学(ホンジュラス共和国保健省でマラリア対策と公衆衛生活動のボランティアやってい た)を挟んで、平成の御代がはじまったばかりの1989年3月まで9年近くの「中川軍団」——これは冗談ではなく仲間内での符牒であるがこのニュアンスは 正規軍というよりもゲリラ部隊あるいは軍閥のそれである——のメンバーとして、特に佐藤純一、村岡潔ならびに藤崎和彦先生という博士課程の院生たち、と いってもお三方は社会経験のある臨床医たちだが、といつも一緒に行動していた。
これらのお三方は『医療的認識の探究』と『医療的行為の倫理』という1970年代の中川先生のきわめてストレートでハードな二大著作を通して 大阪から遠く離れたところで心酔されて先生の門下になった経緯がある。他方私のほうは、大学院に入ってから先生の著作に触れたので『笑い泣く性』 (1979)や『医とからだの文化誌』(1983)など名著『医学をみる眼』(1970)の系譜にあたる医療の文化史や生理現象の社会的起源などを論じた もの、どちらかというとソフトな著作に親しんだ。そのため先生のお導きにより当時日本に紹介されたばかりの医療人類学という分野の研究をずっと続け、今日 に至っている。
外科医の佐藤先生は、その体育会系あるいは渡世人的世界を渡ってきたために、中川ゼミでは塾の学頭の貫禄をもって、海外の疾病論、生命倫理な らびに医療人類学の文献などを読み進めていた。また自主ゼミでは毎週一冊の和書を課題書としてマラソンセッションのごとく昼過ぎから深夜まで議論を延々と おこなっていた。後者の読書会では中川先生は2、3回に一度は様子をのぞかれ、議論に参加されていた。いま振り返れば、この中川軍団での読書——もちろん 中川先生の著作はしばしば課題書として登場した——と議論が、現在では専門分野も研究のスタイルも異なる我々メンバーの知的形成の源泉になりえたと思って いる。
私は現在の職場に移動してきて過去4年間大学院生に対して対話型授業をおこなっているが、今思い起こせば、中川先生はその授業スタイルをほと んど日本ではじめて大阪大学の修士課程の授業や医学教育のセミナーで導入しようとしていた。その慧眼に驚くばかりである。哲人としての中川先生の偉大なる 対話の技について今更ながら感慨を深くする。
しかし当時は、学生に巧みに話させる先生のすばらしい能力に気づけば気づくほど、当時の浅薄な弟子たちをして先生にはそれほど知識はないので はないか、あるいは最先端のことについて知らないのではないか——つまり過去の人——ということばかりが気になって仕方がなかった。しかしいま、中川先生 と私たち軍団の弟子どもの当時の対話について断片的記憶をたどれば、先生の対話技法の妙は、発話者の自らの無知を知らしめることにあり、無能を装うことで 対話の相手の自惚れをまんまと引き出し、本人をして語らしめるという「ソクラテスの皮肉」の技そのものの中にあった。
中川先生は亡くなる直前まで旺盛な執筆活動を維持されコンスタントに著作を発表され続けていたが同時に、中川軍団の形成以降は、その活動に加 えて対話型授業の先達として、あるいは講演活動に熱心に取り組まれた。学生や聴衆の心の中に書き込まれ続けたこちらのほうの「目に見えない著作」について は、実体としてのリストは作成不可能であろうが、もし中川先生が我々にもたらした対話や声の図書館というものがあるとすれば、その蔵書数は莫大なものであ り、現在も弟子たちに受け継がれて収書数も年々増えているはずだ。中川米造著作リスト我々が眼にすることができる論文や書籍は(いかに豊富に見えようと も)そのわずかな片鱗かもしれない。
中川米造先生に関する著作リストや私のメモワールなどは下記のURLでお読みいただけます。
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