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道徳企業家

moral entrepreneur


池田光穂

道徳事業家、道徳企業家、道徳起業家、モラル・アントゥルプルヌール(moral entrepreneur)、モラル・アントレプレナーとも言う。アントゥルプルヌールは、フランス語の語源で企業家のこと。

道徳企業家とは、世の中の「よき」道徳や規範を代弁するふりを通して、そのような規範を世の中の多くの人たちに吹聴する人たち、あるいは、そのような社会的「役割」を自らかってでる人たちのこと

この場合一般に、規則やそれがもつ意味=道徳は、誰かによる人為的な作用の結果うまれた産物である。このような道徳をわざわざつくりあげるために篤志があり、それを整備確立するために活動する人を、資本家の事業に類推して、起業(entreprise[仏]アントゥルプリーズ→エンタープライズ)、すなわち「道徳の起業をする人」(moral entrepreneur)という。ハワード・ベッカーが、この用語を学術用語として最初に使った人だと言われる。

道徳企業家のことを考えるためには、例えば今日にお ける「嫌煙運動家」や「おせっかいやき系のエコロジスト」を想定してみよう。まず、彼らには「たばこを吸う事はけしからん」「地球の環境を破壊することは 許せない」という、彼らの心をかき乱す邪悪なものがあると考えている。そのために、この邪悪なものが解消されない限りは、文字通り地球に平和はないと考え てしまう。このような使命感——ベッカーは多少なりとも皮肉を込めて「十字軍=クルセイダー」のそれと表現している——が、実際に煙草を吸っている人に面 とむかって忠告したり、投書をしたり、あるいは路上禁煙の条例制定のための運動や、自然保護活動などの、具体的な実践活動に従事するようになる。

そのため、道徳企業家の性質(性格・エートス [ēthos])は、規則から逸脱している人をパターナリズムの原則にしたがって、善導することにある。

道徳企業家の活動は主に、(1)規則を作ること、と (2)でき上がった規則を守らせること、の2つに大別できるが、それらは別個に行われたり、また分業されることもあるが、他方で、それらが相互に深く関わ る混合のタイプのものもある。

このような道徳企業家の活動に根拠を与えるのが、規 則(〜すべき、〜すべきでない)の制定とその公的認定と、そして人々の遵守である。さらに、規則を逸脱していた人が、後に改悛して、当の道徳企業家に感謝 などすれば、その十字軍的活動の熱意はさらにあがる。このように表現すると、まるで熱狂的な宗教的布教者のように思われるが、近代社会における道徳企業家 は以下の点で、熱狂的布教者と異なる。(1)彼らが考える善きことは、社会の中で概ね了承されている事柄で、かつ体制や公的権威によっても容認されている 事柄でもある。(2)道徳企業家は、規則を作る(=これは広義の言説生産の活動に入る)ことと、その規則を守らせること(=言説を弄することで取り締ま る)の間を日々の実践の中で往還するので、手強い相手に遭遇するたびに、一般に道徳企業家は、その説得の技法を洗練させていったり、より高度な社会集団を 形成してゆく可能性があることである。

道徳企業家を、ある社会的役割と考えるだけでなく、 社会的機能と考えると次のような例も、立派な道徳企業家である。つまり、まだ治療法どころか原因究明さえおぼつかない難病患者が、医学の研究のために、自 分の身体をつかってくださいと、社会に訴える時、それは立派な道徳企業家の機能を果たしている。なぜならこのことで、医学研究者に対しては、医学研究の本 当の使命は研究論文を作成することではなく、病気で苦しむ病人を救うことに研究を通して関わることを、思い起こさせ、社会に対しては、その研究に対してモ ラルならびに財政的支援を怠らないように「圧力」をかけているからである。

その意味では、我々は多かれ少なかれ、日常生活の中 で道徳企業家の役割を担うこともあり、また機能を果たすことがある。また、時には、周囲にいる道徳起業家のお陰で、しぶしぶ、その規則を遵守したり、また 表面的には、その起業家の活動を容認することで、彼らに協力しているかもしれないのだ。

関連リンク(パート01)

問題点

以下の出典は:http: //www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/991118construc.html

【疑問】

・社会的に否定的なものとして構築される「逸脱カテ ゴリー」のみならず、肯定的な価値として称揚される「健康カテゴリー」を創出する、あたかもH・ベッ カー(1978)が述べたような「道徳事業家」(moral entrepreneur)はいないのだろうか?

近代医療の必然としての医療化

「メディカリゼーションの概念が、本来病気でないも のをまちがって病気とみなすことだという含意をもって受けとられるとしたら、それは誤解である。・・近 代の医療の成立そのものがメディカリゼーションの過程として考察されなければならない・・」(黒田、1989:204)。 >>この文章は預言あるいは研究戦略の要綱としては興味深い指摘だが、すくなくとも実証的ではないな。 黒田浩一郎 1989 「医療社会学序説(3)」『病いの視座』中川米造編 メディカ出版 p.204

逸脱行動の医療化がもたらす社会的効果

「メディカリゼーションの概念が、本来病気でないも のをまちがって病気とみなすことだという含意をもって受けとられるとしたら、それは誤解である。・・近 代の医療の成立そのものがメディカリゼーションの過程として考察されなければならない・・」(黒田、1989:204)。 >>この文章は預言あるいは研究戦略の要綱としては興味深い指摘だが、すくなくとも実証的ではないな。 黒田浩一郎 1989 「医療社会学序説(3)」『病いの視座』中川米造編 メディカ出版 p.204

黒田(1989)は逸脱行動の医療化についてP・コ ンラッドの議論(1976)を展開して次の四点を指摘する。

■リンク(パート02)

■文献




Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

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