構築主義について
On Costructivism
Russian
Constructionism and the Japanese railway station's constructive
scenery, an experiment by the author
構築主義の元祖は、ネルソン・グッドマンによると、イマヌエル・カントにまで遡れる。カントは、その議論をディビッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776) の発見にもとめている。ヒュームは、実在世界の事物のあいだの関係(=因果関係)は、出来事に依存するのではなく、客観的世界の上に投影されている心的構築物であると考えた。
【構築主義/構成主義の経験的予備知識】
1. 構築されるものが「知識」とみなされてきた。つまり、構成されるものが行為者における認識である。
2. 「知識」の構築は社会的および歴史的プロセスによるものとされてきた。
3. 医学上の知識は未知のものが「発見」されるのではなく、社会的な作用によって「構築」されてきたと考える。
4. そのような「知識」が患者の現実味(reality)を形成すると考える。なぜなら知識が原因と結果、予防と治療などの体系を 生み出すのであり、それらは具体的な身体(および感情)への介入を引き起こすからである。
5. 研究の性格上、社会的な分析と歴史的な分析が多い。というのは「構築」を分析する視点のひとつは社会的な相対化であり、他のひ とつは歴史な相対化にあるからだ。(→構築主義の学問的実践はプチブル道徳観を反映する?)
6. 社会的な相対化の視点にたてば、「構築」の過程や社会的認知がつぎに問題になり、研究者の関心は合法化 (legitimation)の議論に展開する。また合法化の問題は社会統制(social control)へと関連づけられて考察される。つまり社会的な構築とは医療化や身体の権力問題に他ならないという視点をとるよう になる。(Foucault, Illich, Zola, Conrad and Schneider.)
7. 「医療的知識の社会的構築」というパラダイムは、(スペクターとキツセを嚆矢とする)社会問題論の構築主義とは、直接的な影響関係はなく、ま た相互に文献を引用し、認識を共有するということも見られない。
【リンク集】
【文献】
【疑問】
・社会的に否定的なものとして構築される「逸脱カテゴリー」のみならず、肯定的な価値として称揚される「健康カテゴリー」を創出する、あたかも H・ベッカー(1978)が述べたような「道徳事業家」(moral entrepreneur)はいないのだろうか?
・日常生活の中に医療の領域が占める部分が増大すること(医療化)はどのように知ることができるのか。たとえば医療関連費の支出割合なのか、日 常生活におけるイデオロギー的な影響力なのか、などなど。また医療費が増大するから医療化のイデオロギーを人々がより認識するとは限らない。また、そのよ うな日常生活における医療の増大(医療化)を見抜く洞察力は、我々の研究対象の人々にあるのか?、それとも我々がある種の特権的な洞察力を もっているのだろうか?
・日常生活の中で健康の問題を感じることが多い(デトロイトでの研究では6週のうちの16日、つまり一日あたりにすると1/3の部分が: Vebrugge and Ascione,1987)。しかし実際に医療にかかるのはそのうちの数パーセント(同調査では5%)。このことからさまざまな<行動>が導き出せる:信 頼性の高い医療にするために受診率を高める、健康相談が中心とする中間施設を創設するあるいはそれに相当する施設の増強、医療は我々の日常の生活を統制す るほど大きな勢力にはなっていないという結論を導く(医療化は現代の神話であるとみ、る)、医療が取り扱う疾病に比べて素人が個人的あるいは家庭内で処方 する病気や不健康の領域の大きさを強調してそれらの知識の習得が<健康>問題への処方箋と認識すること、等々。これらの行為実践を生み出す社会的効果とい うものが健康の構築主義が取り扱う分析対象なのである(のか?)。
【枠組】
・健康を管理し運営する主体は誰かに注目すると:健康の構築はその歴史的な変遷を意味するのだろうか。例えば、1970年までは、健康を 管理する主体が<個人>にあった。だから健康の問題は私的な領域に属しており、社会問題化することはなかった。しかし70年以降の健康ブームは、 健康が人々の関心事となり、健康の問題が公共的な空間の中で論じられるようになった(ではなぜ健康がブームになったのか?:因果論的機能論的説明の他に、 偶然もまた?)。しかし、それを管理する主体は依然として<個人>であり、医療セクターは個人の健康の問題を個別に助言するに終わっていた。他方、公 共の問題としての健康は、公害や将来の医療費の国庫負担、保険会社の利率計算など公共性と共に効用計算の問題として浮上してきた。つまり健 康を管理する主体は<個人>であると同時に公共のエージェントである<国家>の問題であると見なされるようになってきたである。健康の達成が効用 計算の範囲にとどまるならば、国家や企業が人々にプロモートする健康の概念の強度は、一定以上の大きさにならないだろう。また、国家や企業は人々の健康の 増進よりも、疾病問題での医療の経済的問題を解決するほうにより力点を置くだろう。医療の高度化とそれに伴う医療費の負担は増加する一方だからである。つ まり健康の増進のプロモートの重要性は二義的なものにすぎないからである。これは1970年代後半の「先端医療革命の日常化」(新藤、1990:43、時 代?)によって医療が倫理問題を孕むようになり経済と政治を巻き込むことと連動している。
・「同じ時期の、同じひとつのことばにとんでもない異質の概念がひそんでいることがある。われわれの目があざむかれるのは、同じ ことばが、なにかを指示し、また同時に説明を加えている場合である。」(G・バシュラール『科学的精神の形成』及川ほか訳、p.24、国文社、1975 年)
【矛盾】
・構築主義をクレームの申し立てという活動に焦点をあて、社会問題を認識論的な相対主義で眺めることは一定の限界がある。例えば水俣病がクレー ムの申し立てがなければ存在しなかったかという論は受け入れることが難しい。社会にとって脅威となる事象が一定の臨界に達するとさまざまな局面からクレー ムが申し立てられるだろうし、その必然性を相対化することにはほとんど意味がないからである。
【発展】
・社会問題の構築主義の誕生とは何を意味するのか?:直接的には社会問題という問題の立て方の批判である。しかし批判される問題の立て方の前提 にある伝統的な社会有機体説を問題するという<戦線>の拡大が方法論あるいは視座の転換への直接の契機になる。つまり伝統的な社会有機体説は社会が道徳的 なまとまりであることを証明しきれないということが<発見>される。それは前提が最終的な目的になってしまったという論理的な手続き上の誤りであると同時 に、従来の社会学説の批判へと展開する。
・問題の立て方がおかしいという論理的な誤謬の指摘と、その前提となっている社会観がおかしいと指摘することは別物である。その社会観を前提に 問題をたてて、その解答を求めることは論理的な手続きとしてなりたつことだからだ。だからここで問題としなければならないのは、それがなぜ別の社会観を生 み出す原動力になったかということだ。(最初から別の社会観をもって批判的に状況を観察していたので、自ずからその自己の社会像が姿を現すようになったと か?、しかし、この場合はそれがなぜ批判から代替的な生産性のある議論に成長していったのか、この疑問を明らかにしておく必要がある。)
社会的カテゴリーは構成される
「病院生活をめぐるさまざまなカテゴリー、すなわち「生」「病気」「患者」「死につつあること」などあらゆるカテゴリーは・・病院スタッフが一 つの組織された環境の中で日々習慣化された相互行為に携わる中で、構成されるものとみなさなければならない」。 Sadnow, David 1992[1967] Passing On: The Social Organization of Dying Englewood, NJ: Prentice-Hall p.18(翻訳)
知識を介した現実の社会構成
バーガーとルックマンが、<現実>の把握において、身体や言語を含んだ広い意味の<知識>が主たる媒介作用をもつと主張していると思われる。 これはこの書の3部構成からなり、それぞれ「日常生活における知識の基礎」「客観的現実としての社会」「主観的現実としての社会」からなることからも明 らかである。
彼らの<現実>と<知識>の定義は以下のとおり。 It will be enough...."to define 'reality' as a quality appertaining to phenomena that we recognize as having a being independent of our own volition ( we cannot 'wish them away'), and to define 'knowledge' as the certainty that phenomena are real and that they possess specific characteristics.(p.13)".
<現実>は、われわれ自身の意志から独立した一つの存在をもつと認められる現象(われわれはそれらの勝手に退けてしまうことはできない)に関 連する属性として定義し、<知識>は、現象が真実味をおび、かつ現象が特殊な性質をもつという確実性として定義しておけば十分である。 この書の目的は、自明的な世界に生きる人間が構築する社会を経験的に分析するための認識論的な基礎づけをおこなうことにあった。 Berger, Peter L. and Thomas Luckmann 1967[1966] The Social Construction of Reality: A Treatise in the Sociology of Knowledge. Penguin [Doubleday] p.13
構成の事実の強調は記述のためにある
「さまざまな出来事が社会的に組織された行為や手続きによって構成されるということを強調するのは、特にここで問題となっている死の現象の文化 的要素を記述するためである」。 Sadnow, David 1992[1967] Passing On: The Social Organization of Dying Englewood, NJ: Prentice-Hall p.19(翻訳)
健康と病気の補完関係
フランス革命前後に、医療のなかで2つの神話ができるあがる。ひとつは国家化された医療であり、他のひとつは健全な社会の建設が病いを放逐す るというという考え方である。ここにおいて医療が病気に関する学問のみならず、健康な人間と社会の科学として人間に対して規範的な影響力を行使するように なるというのである。医学はそれまでの生物学にとってかわり、人間科学のモデルになると同時に、健康を規範として提示するとともに、他方でそれまでの病気 の科学を放棄できないという矛盾を背負うことになるというのである。(フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳、みずず書房、1969年、第2章政治意 識) Foucault, Michel 1963 Naissance de la Clinique: Une arch仔ologie du regard medical. Presses Universitaires de France. 第2章
【疑問】
・社会的に否定的なものとして構築される「逸脱カテゴリー」のみならず、肯定的な価値として称揚される「健康カテゴリー」を創出する、あたかも H・ベッカー(1978)が述べたような「道徳事業家」(moral entrepreneur)はいないのだろうか? Becker, Howard S. 1963 Outsiders: Studies in the Sociology of Deviance New York: The Free Press p.214(翻訳)
近代医療の必然としての医療化
「メディカリゼーションの概念が、本来病気でないものをまちがって病気とみなすことだという含意をもって受けとられるとしたら、それは誤解であ る。・・近代の医療の成立そのものがメディカリゼーションの過程として考察されなければならない・・」(黒田、1989:204)。 >>この文章は預言あるいは研究戦略の要綱としては興味深い指摘だが、すくなくとも実証的ではないな。 黒田浩一郎 1989 「医療社会学序説(3)」『病いの視座』中川米造編 メディカ出版 p.204
逸脱行動の医療化がもたらす社会的効果
黒田(1989)は逸脱行動の医療化についてP・コンラッドの議論(1976)を展開して次の四点を指摘する。
(1)逸脱行動の問題が医療専門職にのみ解決可能なものとされ、素人がそこから排除される。
(2)投薬や手術のように行動の統制が技術的手段に還元される。
(3)逸脱行動がもたらす社会問題が個人の治療というかたちで個人化(individualization)されてしまう。
(4)問題の疑問視されることなく現状を肯定することになりやすい。 この四点を要約すると、問題が公共的な空間から排除され、一部の専門家が取り扱う領域としてルーティン化してしまうということなのであろう。
【文献】
Conrad, P., 1976. "The Discovery of Hyper-Kinesis", Socoial Problems 23:12-21. 黒田浩一郎 1989 「医療社会学序説(3)」『病いの視座』中川米造編 メディカ出版 pp.203-4
科学は他の手段による政治である
→ 戦争論のパロディ/ metaphorical understanding
・「ラトゥールは科学論文が取らねばならない多様な戦略に注意を向ける。問題は「何が真実なのか」では必ずしもない。「何が真実なのかと いう問が立てられたとき、自分が発する言表をいかにして他の言表群よりも真理に近いものとして見せるか」、それこそが問題である。……ラトゥール は何度も、あのクラウゼビィッツの古典的定式を念頭におきながら、科学とは他の手段による政治のなのだと主張する」(p.296)金森 修 1996 科学の人類学——ブルーノ・ラトゥール試論 現代思想、Vol.24(6) pp.288-307。
・「専門雑誌に掲載される大部分の論文はほとんど読者をもたない。ただ他の無数の論文から頻繁に引用され、賞賛され、重視されるいくつかの論文 のみが盛んに読まれる。そしていかなる場合でも、類似領域の他の多くの論文への準拠をまるでもたない論文はありえない。論文は不平等に、かつネット ワークとして総体的に存在している。」(p.297)金森 修 1996 科学の人類学——ブルーノ・ラトゥール試論 現代思想、Vol.24(6) pp.288-307
・「科学は社会経済的単位とより複雑に関わり合えばあうほど、より基礎的な研究ができる(そもそも基礎研究と応用研究の区別は無意味である)。 それと同様に、資金収集能力は老科学者の科学外退却戦法であるどころか、科学活動の本質的一部なのだ。大きな資金を集め、多くの経済人に関心をもたせると いうことは、実験室でデータを読みとり論文を執筆するのに優るとも劣らない科学的活動である」(p.297)。 金森 修 1996 科学の人類学——ブルーノ・ラトゥール試論 現代思想、Vol.24(6) pp.288-307
社会的構築物としてのホルモン
TRFというホルモンの実証とその構造決定をめぐる科学者の研究は、ある問題に対する論文の生産、実験方法、科学者の議論をとおして科学者の観 念と行動の中に実体化されてゆくことを追いかけたものである。それはTRFというものが存在するのかという問いかけからはじまり、構造決定という事態にま で展開する。このような過程を経て科学者の前に提示されるTRFは科学的な物質ではなく「完全に社会的構築物である」(p.152)。 Latour, Bruno, and Steve Woolgar 1979 Laboratory Life: The Social Construction of Scientific Fact Baltimore: Johns Hopkins University Press p.152 Bury, Michael .R. 1986 Social Constructionism and the Development of Medical Sociology. Sociology of Health and Illness, vol.8 pp.137-179 Turner, Bryan S. 1987 Medical Power and Social Knowledge London: Sage p. Wright, P. and Treacher, A. 1982 The Problem of medical Knowledge: Examining the Social Construction of Medicine. Edinburgh: Edinburgh University Press p.
健康に関する医療の未知の部分
The health in Detroit Study found, on the basis of health diaries, that persons over 18 experocenced an average of 23 health problems in 16days within a six-week period. This means that people experienced discomfort sufficient to be considered a health problem more than one-third of the days of the study (which itself was scheduled to avoid the height of hay fever and winter colds seasons, so this figure is probably conservative). [Freund and McGuire, 1995:171] Verbrugge, Lois M. and Frank J. Ascione 1987 Exploreing the iceberg: Common symptoms and how people care for them Medical Care 25(6) pp.539-569 The Social Construction of Medical Knowledge(Chapter 9),pp.191-217. 1.
医療思想と社会的要因
疾病の「発見」:歴史的実例 社会的産物としての科学 医療的「問題」の創造:閉経の事例 医療的「問題」の拒否:遅発性ジスキネジー(錐体外路性終末欠陥症候群) 2.思想とイデオロギー 医療化 会社の利益 縛られた専門職 誰の利益に奉仕するのか? 物象化:客体としての疾病と身体 3.近代生物医療の発 専門職支配 医療の科学化と医学訓練(Medical Training) 専門職の自律と統制 近代化と医療実践 生物医学モデルの仮定:心身二元論、物理的還元主義、特定病因論、機械メタファー、養生と統制
Freund, Peter E.S. and Meredith B. McGuire 1995 Health , Illness, and the Social Body: A Critical Sociology (2nd. ed.) Englewood Cliffs,NJ.: Prentice Hall p.
黒田本の分析
内容は文化を通しての医療社会学入門という性格の章である。構成は以下のとおり。
1.医療と文化 病気への対応の民族差、風邪とインフルエンザ/文化としての病気と医療
2.しろうとの世界/専門職の世界——既存研究の概観 しろうと参照システム、社会階層と病気観。熱い病気/冷たい病気、報いとしての病、現代医療における非科学的要素、医学的コスモロジー、医療と社会統制
3.現代医療の文化 ヘルシズム、早期発見・早期治療、犠牲者非難イデオロギー
4.文化と社会 正当化の語彙、我々の社会は死を否認する社会か?、
黒田浩一郎 1993 文化としての現代医療 井上俊編『現代文化を学ぶ人のために』 pp.279-299
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Copyright 1997-2017, Mitsuho Ikeda