本質主義
Essentialism
かいせつ 池田光穂
本質 主義(essentialism)とは、もののなりた ちを、決定的で、それ以外には考えられない、ひとつないしは複数の特性(=これを本質 essence という)からなりたつという見方をさします。
もうすこし込み入った説明をすると、ある事物や現象という
ものを、その中味(例:特定の唯一あるいは限られた複数の構成要素)や必然性(例:特定の原因に強い因果性を求める)という確固としたものに帰属させる考
え方や主義主張のことをさします。
本質主義の例をあげてみよう。「人間の心は、脳からなりた つ」という見解は、人間の心を脳という「本質」に求める点で、心=脳本質主義の立場を表明しています。
文化人類学を学ぶ我々の関心に引きつけて、もっと身近な例 をあげてみましょう。
人間の女らしさは、性染色体(XX)に由来する、という主 張は、性染色体(あるいは性決定遺伝子)本質主義です。女らしさを女性性器をもつという点に還元すると、この本質主義には疑いがないように思われます。
しかし、ここでの問題は「女らしさ」という言葉にありま す。我々はこの言葉を、我々の身の回りにいる女性や、あるいは我々のまわりの世界で「女らしい」と理想化されているイメージから、この言葉を使っていま す。つまり、ここでの女らしさは、身のこなし、声の調子、あるいは、そこから引き起こされるような「やさしさ」などが、意識/無意識のうちに込められてい るのです。
では、行動パターンとしての、女らしさは遺伝子によって決 定されるのでしょうか?
いいえ、R・ベネディクトやM・ミードの著作を読んできた ように、女らしさは、文化的に構成されるものです。もっとやさしく言うと、社会、文化、歴史が変われば、女らしさの定義も変わるのです。
女らしさの定義は、文化的社会的に決められるという見解 は、経験的真実のようです。行動パターンのように、後天的な要因で決められるという見解は、もののなりたちを、非決定的で、多様な成り方の経路をたどって できあがったものだという主張に通じます。これを、構成主義あ るいは構築主義(constructionism, constructivism)とよびます。
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通常、本質主義の反対は構築主義と考えることができます。長いヨーロッパの哲学的思潮には、 本質主義と構築主義の見解のせめぎ合いがありましたが、事物には何か本質があるという考え方は、ヨーロッパのみならず、世界のさまざまな人々の宇宙論にも みられ、魅了しつづけてきました。人間には、我々の身の回りのものは、うつろなもので構成されているという見方に、耐えるほどタフではないのかもしれませ んね。しかしながら、構成主義によって理解可能になるような出来事、事物は数多くあります。
よくしばしば、我々のまわりには本質主義は社会的事実が構成されている政治的力学を無視する 理想論であるという「強い反本質主義」的主張を展開する人がいます。他方、事物の本質を求めない構成主義は、論理の根拠を相対的にみているために、正邪の 判断ができないジレンマに陥るという批判を展開する「弱い構成主義批判」に走る人もいます。そのどれもが正しくありません。
構成主義と本質主義を正反対にみたり、あれかこれかという二元論——歴史的エピソードに由来 してマニ教的二元論と言います——に還元することは適切とは言えません。(もちろん中途半端がよいと言っているわけでもありません)。
構成主義と本質主義の議論が有効になる点とは、我々が議論をしている対象を考える際に、「社 会がつくりあげる現実」という視点をどうとらえるか、ということを自己反省的に教えてくれることにあります。
■精神という概念の本質化の例(Moi - psychanalyse)— フロイト(Sigmund Freud,
1856-1939)の自我概念
「自我という概念は「意識と前意識、それに無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として明確化 され……自我はエスからの要求と超自我からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する機能を持つ。無意識的防衛を行い、エスからの欲動を防衛・昇華した り、超自我の禁止や理想と葛藤したり従ったりする、調整的な存在である。全般的に言えば、自我はエス・超自我・外界に悩まされる存在として描かれる事も多 い。自我は意識とは異なるもので、飽くまでも心の機能や構造から定義された概念である。有名なフロイトの格言としては「自我はそれ自体、意識されない」と いう発言がある。自我の大部分は機能や構造によって把握されており、自我が最も頻繁に行う活動の一つとして防衛が挙げられるが、この防衛は人間にとってほ とんどが無意識的である」自我)
"Freud proposed that the human psyche could
be divided into three parts: Id, ego and super-ego. Freud discussed
this model in the 1920 essay Beyond the Pleasure Principle, and fully
elaborated upon it in The Ego and the Id (1923), in which he developed
it as an alternative to his previous topographic schema (i.e.,
conscious, unconscious and preconscious). The id is the completely
unconscious, impulsive, childlike portion of the psyche that operates
on the "pleasure principle" and is the source of basic impulses and
drives; it seeks immediate pleasure and gratification" - Id, ego and
super-ego.
フロイトの自我概念(このように観念の形態を実体化=マップにするという作業はひろく「物象化(reification)」
の過程とみなされています)
■ラディカル経験主義(ウィリアム・ジェームズ:William James, 1842-1910)
"Radical empiricism is a philosophical doctrine put forth by William James. It asserts that experience includes both particulars and relations between those particulars, and that therefore both deserve a place in our explanations. In concrete terms: any philosophical worldview is flawed if it stops at the physical level and fails to explain how meaning, values and intentionality can arise from that." - William James, Essays in Radical Empiricism, 1912, Essay II § 1.
■物象化(Versachlichung , Verdinglichung: reification)
「人と人との関係が物と物との関係として現れること」物象化)
●「誠実」と「ほんもの」
自我と文化のかかわり、文化のなかの自我のありようをテーマに、自己疎外の超克をめざす近代精神 の苦闘の道程をたどる。人間存在の稀薄化が進行する〈今〉、あらためて世に問うトリリングの代表作。
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