かならずよんで ね!

情け容赦のない科学

Science in No Mercy

池田光穂

古代ギリシャの自然哲学者やアリストテレス、そして 一気に暗黒の中世をすっ飛ばして、ガリレオ・ガリレイ、ニュートン、そしてまたずっとすっ飛ばして、アインシュタイン、さらに中略をして山中伸弥教授に至 るまで、これまで数多の科学者が存在してきた。その科学者たちが、彼らが生きた時代や社会を超えて共通した類似のメンタリティ——エートス(ēthos) と言う——を持っていたということを無邪気に想定するわけにはいかない。それが仮にすべて人類にとっての「真理の探究者」であったとしても、である。

だが、科学社会学研究の先駆者、ロバート・キング・マートンは、一七世紀の科学革命以降の歴史的資料を渉猟して、科学者集団の心の持ち様(エートス [ēthos])には4つの共通点があるという主張をおこなった。これがマートンのクードスという原理(the CUDOS principles)である。クードスとは英語の5つの頭文字C-U-D-O-Sからとった次の4つのメンタリティの特色である。すなわち、(一)科学 的真理を共有性することの優先性(共同占有性:Communalism)。(二)科学的真理は、人種、ジェンダー(性別)、民族性、国籍や特定文化の影響 を受けないのだという普遍性(Universalism)への信念。(三)科学の利益は、人類のためにあり、私利私欲のためにあるのではないという無私性 すなわち利害への無関心 (Disinterestedness)。そして(四)検証や証明がされるまでには、どんな真理と言われるものに対しても疑問をぶつける組織的懐疑主義 (Organized Skepticism)である。

マートンの依拠した資料は文献によるものが多く、当時はまた、科学者集団が少数エリートであり、実験事実の捏造などは、あったとしても例外中の例外とみな され重要視されず、メインストリームの「真理の探究者」がもつメンタリティには何の影響もないと思われてきた。しかしながら、時代が現在に近づくにつれ て、科学者集団の数は増し、専門家として、以前よりも増して社会に有機的に組み込まれるようになってくれば状況は異なる。科学の現場が「仕事(work) の現場」から「労働(labor)の現場」になりつつあることも要因かもしれない。そうすると、クードスの原理というのは、あくまでも科学者が求める理念 であり、現実は、それと乖離しており、そこに向かう途上にすぎないとも理解されるようになる。科学の探究においては、そのような理想が語られること——つ まりイデオロギーとして機能すること——はあっても、経験的事実はそれと真逆であるという批判がうまれる。

すなわち(一)科学者たちはお互いにライバル心をもやして競争するし、共同協力による真理探究のよりも自分たちの学派を依怙贔屓する。(二)科学者集団に は、他の市井の人と同様、人種差別、ジェンダー差別、民族差別、露骨な身分差別意識を持っており、研究の現場もまた差別が再演される現場でもある。(三) 科学は企業研究と開発に結びつき、公的な研究費の取得競争が熾烈であり、さまざまな私利私欲が交錯する。またノーベル賞受賞者をみても、科学者の名誉付与 をめぐるゲームには露骨な競争があり、その結果に対しては激しい嫉妬や劣等心があることもまた周知の事実である。(四)熾烈な競争においては学派や研究グ ループ内では、その仮説の検証に良心的な懐疑心が維持されるが、他の学派やグループに対しては、その懐疑心は組織的な不信感に変わってしまう。科学者集団 のバトルは、正々堂々の勝負ではなく、宣伝戦(=敵に対する罵倒や中傷)と肉弾戦(=研究室内での昼夜を問わない熾烈な実験競争)と言えるのだ。

イギリス生まれのニュージーランド人ジョン・ザイマンは、彼自身の物理学者としてのキャリアそして晩年の科学哲学や科学政策への関与を通して、クードス原 理とは異なるプレース(PLACE)という頭文字による語法(アクロニム)で、そのことを表現した。プレースは明らかにマートンに対する皮肉を込めた批判 が含まれるので、それらには真逆の対応関係がある。すなわち(一)[知識資源を中心とした]資産階級でかつ研究を独占する所有化 (Proprietary)傾向(⇔マートンのCommunalismに対する、以下同様に表現する)。(二)真理の通用範囲は、普遍的ではなく局所的 (Local)(⇔Universalism)。(三)知に対して謙虚ではなく権威主義(Authoritarian)そのものであり、かつ専門家として [政府や権力あるいは資本家から]委託(Commissioned)されている(⇔Disinterestedness)。そして、最後に(四)専門家と しての振る舞い(Expert work)が期待されているし、また実際に振る舞っている(⇔Organized Skepticism)。

こういう科学者がおかれた社会的な緊張状況が、科学における不正の温床になっていると言われる。一般的に研究不正(scientific misconduct)と言われているものは、実験データの改竄(falsify)、捏造(fabrication)、剽窃(plagiarism)、他 の研究からの窃盗(data theft)、そして論文共著者としての名義貸し(gift authorship)などからなる。そのために、現在では、実験事実の不正を現場で防止するために、日々の実験ノートを詳細に記録し、また、その日の実 験のセッションの終了後には、本人以外の証人のサインを求めていることも通常のルーティン(手順)になっている。一七世紀のロバート・ボイルによる空気ポ ンプの実験の時代には、科学的証明の手続きはデモンストレーションにおける「良識ある紳士の立ち会い」だけで済んだものが、いまは実験ノートの日誌ごとに 「証明」が必要となっているのである。

大学の教室での教師の発語、現代マスメディアによる報道、そこで映し出される市井の人たちのコメントには、マートン流のクードス原理が相変わらず見られる ことが多い。しかし、私の経験では、分野を問わず、多くの専門家との話から、多く聞かれる科学者のエートスは、ザイマンのプレースの意見そのものである。 この背反する意見の共存の理由はなんだろうか。私は、ちょうど科学者の建て前と本音のように、それらが二重化しているのではないかと思うのだ。現代の科学 者が、彼/彼女らが抱く理念とその現場の間には明らかにギャップがあり矛盾に満ちている。したがって私はこれを「情け容赦のない科学(draconian science)」の現場と呼ぶことができると思う。

★バーナード・ディクソン『何のための科学か』増田幸夫, 塩川久男共訳, 紀伊國屋書店 , 1977年/ What is Science For?, Bernard Dixon. Harper & Row , 1973

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