Occultic tradition between Himmler, Wiligut, and Wolff
◎ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900-1945)
ハ
インリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(ドイツ語: ドイツ語: [ˈhaɪç ˈluːɪɔɪtplt ˈɪ ˘ɐ; 1900年10月7日 -
1945年5月23日)は、ドイツの政治家であり、シュッツシュタッフェル(保護隊)第4代帝国総統であった;
ナチス・ドイツ党の主要メンバーであり、ナチス・ドイツで最も権力を持った人物の一人で、主にホロコーストの立役者として知られる。
ヒムラーは第一次世界大戦中、予備大隊に所属していたため、現役兵として戦闘に参加することはなかった。1923年にナチ党に、1925年にSSに入党
し、1929年にアドルフ・ヒトラーからSS総統に任命された。それから16年間、ヒムラーは親衛隊を290人の大隊から100万人規模の準軍事組織へと
発展させた。ヒムラーは組織作りに長け、1931年にはラインハルト・ハイドリヒのような有能な部下を選んだことで知られる。1943年以降、彼は刑事警
察長官と内務大臣を兼任し、ゲシュタポ(秘密国家警察)を含む内外のすべての警察・治安部隊を監督した。また、親衛隊の軍事部門であるヴァッフェンSSも
統括した。
ヒムラーのオカルティズムとヴェルキッシュの話題への関心は、ナチス・ドイツの人種政策の展開に影響を与え、SSにも秘教的象徴主義と儀式を取り入れた。
彼はナチス・ドイツの大量虐殺計画の主要な監督者であり、アインザッツグルッペンを結成し、絶滅収容所を管理した。ヒムラーはこの立場で、約600万人の
ユダヤ人、20万人から50万人のロマ人、その他の犠牲者の殺害を指揮した。この計画は1942年5月にヒトラーによって承認され、ナチス政権によって実
行され、ポーランド人とソ連人を中心に約1400万人が殺害された。
第二次世界大戦後期、ヒトラーはヒムラーを一時的に軍司令官に任命し、のちに補充(本国)軍司令官兼第三帝国全体の管理総指揮官
(Generalbevollmächtigter für die
Verwaltung)に任命した。具体的には、ライン上流軍集団とヴィスワ軍集団の指揮を任された。ヒムラーが与えられた目標を達成できなかったため、
ヒトラーはヒムラーに代わってこれらの役職に就いた。敗戦を悟ったヒムラーは、終戦直前、ヒトラーの目を盗んで西側連合国との和平交渉を開始しようとし
た。これを知ったヒトラーは1945年4月、ヒムラーをすべての役職から解任し、逮捕を命じた。ヒムラーは潜伏を試みたが、イギリス軍に拘束・逮捕され、
1945年5月23日にイギリス軍の拘束下で自殺した(→より詳しくは「ハインリヒ・ヒムラー」を参照してください)。
◎カール・マリア・ヴィリグート(Karl Maria Wiligut, 1866-1946)
カール・マリア・ヴィリグート(Karl Maria Wiligut、1866年12月10日 ‐
1946年1月3日)は、ナチス・ドイツの親衛隊員。独特な神秘主義とオカルトを信仰し、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから絶大な信任を得て、彼
および親衛隊の宗教思想に大きな影響を与えたとされる。「ヒムラーのラスプーチン」の異名をとる。オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれ
る。ローマ・カトリック教会の洗礼を受けた[1]
。17歳の時にオーストリア軍に徴兵された。歩兵部隊に配属され、1888年に中尉に昇進した。1889年に準フリーメイソン団体
「Schlaraffia-Loge」に参加。1903年には「Lobesam」のペンネームで最初の自著「Seyfrieds
Runen」を出版した。1906年に結婚して三人の子供(男女の双子と娘)を授かったが、このうち男児は早世している。1908年には「Neun
Gebote
Gots」を出版。ここで初めて自分が「イルミン教(英語版)」(イルミネンシャフト)なる古代宗教の継承者であることを主張しだした。第一次世界大戦中
には南部や東部戦線に従軍。1917年8月1日には大佐に昇進。まもなく前線勤務を離れてレンベルク近くの療養収容所の司令官となった。第一次世界大戦敗
戦後の1919年1月1日に軍を退職した。40年にも及ぶ軍隊生活であった。その後はザルツブルク近くのモルツクに移り、ここでオカルト研究に没頭した。
また新聞「Der Eiserne
Besen」を発行した。「暗黒の力の陰謀」が世界中にあると確信して、反ユダヤ主義・反フリーメーソン・反カトリック教会の思想をばらまくようになった
[2]。妻は彼の奇妙な思想にはついていけず、精神病院への入院を勧めた。1924年11月29日に警察に逮捕されたのを機に、ヴィリグートは実際に数年
間精神病院で過ごすこととなった。ヴィリグートの医療記録には、妻に「殺す」と言って脅迫することを含む家庭内暴力の傾向、変人行動、オカルトへの興味な
どが特筆されている。病院から統合失調症と誇大妄想を診断された。ザルツブルクの法廷からも責任能力なしと断定され、1927年から1932年までザルツ
ブルクの精神病院で過ごした。妻とは離婚し、家族とも縁を切ってドイツのミュンヘンへと移住していった。ヒトラー政権成立後の1933年9月に親衛隊全国
指導者ハインリヒ・ヒムラーと知り合い、彼に気にいられて北方人種文化政治協会(Nordische
Gesellschaft)のメンバーに招かれた。さらに親衛隊にも入隊。この際になぜか「カール・マリア・ヴァイストール(Karl Maria
Weisthor)」という偽名で入隊している。親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)の先史学部長に任じられた。1934年4月には親衛隊大佐の階級が
与えられた。1934年10月にRuSHA
VIII部(公文書保存部)の部長となった。11月には親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)に昇進。1935年春にベルリンへ移動し、カール・
ヴォルフが長官をつとめる親衛隊全国指導者個人幕僚部(Persönlicher Stab Reichsführer
SS)に配属されてヒムラーの個人スタッフの一人となった。1936年9月に親衛隊少将に昇進。1934年には「世界の中心」という寓話のある古城ヴェヴェルスブルク城
(Wewelsburg)を親衛隊で購入して立て直すようヒムラーに薦めた。以降親衛隊はこの城でヴィリグートのイルミン教の宗教観念に基づく怪しげな魔
術の儀式を執り行うようになった。親衛隊員の結婚式もこの城で頻繁に行われるようになり、ヴィリグートは司祭のような役割を果たしていた。1937年1月
4日にはヴィリグートの上司のカール・ヴォルフの長男もここで洗礼を受けている。一方グイド・フォン・リストの起こした民族主義的なゲルマ
ン異教思想「ヴォータニズム(Wotanismus)」とは、似た思想でありながら敵視していた。ヴィリグートはヒムラーに求めてヴォータニズムの信者た
ちを次々とナチス強制収容所へ送らせている。またヴォータニズムが提唱する「アルマネン・ルーン(Armanen
runes)」に対抗して「ヴィリグート・ルーン(Wiligut
runes)」を創出した。ヴィリグートのヴォータニズム敵視の理由については下記のイルミン教の項目を参照のこと。アーネンエルベの初代長官ヘルマン・ヴィルト(Herman
Wirth)は、ヴィリグートにいい印象を持っていなかった。彼のことを「もうろくしたアルコー
ル中毒者」「グイド・フォン・リストの泥棒」と酷評して敵対した。しかしヒムラーのヴィリグートへの信任は厚く、1937年にヒムラーはヴィルトを長官の
地位から降ろした。しかし、オーストリア併合後の1938年10月、オーストリアでのヴィリグートの経歴、すなわち精神病院入院の過去がカール・ヴォルフ(Karl Friedrich Otto Wolff,
1900-1984)に漏れ、彼はただちにヒムラーにこれを報告した。しかもちょうどこの頃、ヴィリグートはヒムラーの側近の女性に「親衛隊全国指導者は
私の子供が欲しいそうだ。つまり私と貴女の子供だ。貴女は大変に名誉
あるご指名を受けたのだ」などと言って関係を迫っていた。彼女からの抗議を受けたヒムラーは怒り、これによりヴィリグートは完全に彼の信任を失った。
1939年8月28日にヴィリグートは高齢や病を理由に親衛隊から除隊させられた。彼と完全に手を切りたがっていたヒムラーは、髑髏リングや長剣、短剣な
どの親衛隊員の装飾品の返却を求めたが、ヴィリグートは「最後の連帯の証しだ」として拒否し、自分の物にしてしまった。この後勃発した第二
次世界大戦中にはアウフキルヒェン(Aufkirchen)、1940年からゴスラー(Goslar)、1943年からヴェルター湖
(Wörthersee)で暮らした。戦後はヴァルター湖近くの聖ヨハンの難民キャンプで生活したが、脳出血に苦しんだ。この後ザルツブルクへ戻る許可を
得た。しかしすぐにヘッセン州のアロルゼンへと移住した。1946年1月3日にここで死去している。彼の墓石には「私たちの人生は無駄なおしゃべりのよう
に過ぎ去る(UNSER LEBEN GEHT DAHIN WIE EIN
GESCHWÄTZ)」と刻まれている。【イルミン教】ヴィリグートは自分が霊的な力を持っていて、自分の先祖の記憶にアクセスできると主張していたが、
その記憶によるとイルミン教こそがドイツ民族の本来の民族宗教であるという。そしてその神は「Krist」であり、後にキリスト教がそれを盗用して
「Christ(キリスト)」を作り出したのだという。さらにドイツ民族の歴史は紀元前22万8000年にさかのぼるという。この時代太陽は3つあり、地
球には巨人と小人、その他神話の生物が暮らしていたという。そして紀元前1万2500年前まではドイツ民族はKristのイルミン教の宗教を奉じていたと
いう。しかしその後ヴォタニズムの分離主義者たちが現れて優勢になり、紀元前1200年にゴスターでヴォタニズムによってイルミン教の信仰が破壊されてし
まったのだという。イルミン教はエクステルンシュタイネ(Externsteine)に新たな神殿を建てたが、紀元前460年にヴォタニズムがここも盗ん
でいったという。ヴィリグートの祖先はアース神族とヴァン神族が結合した氷の王(Ueiskunings)であり、ドイツ帝国の中心としてビリニュスの町
を作ったのだという。ここにはイルミン教の信仰が常に残っていたという。[3]このイルミン教はヴィリグートの被害妄想にも使われた。彼と彼の家族は現在
も続くイルミン教迫害の犠牲者であるのだという。イルミン教迫害は現在ローマ・カトリック教会、ユダヤ人、フリーメイソンによって行われているという。第
一次世界大戦の敗戦やハプスブルク家の没落もすべてはこれらの者たちの陰謀であったという。【写真】ハインリヒ・ヒムラー(左)とカール・ヴォルフ(右)、1933年12月12日:Bundesarchiv,
Bild 183-H0226-501-003 / CC-BY-SA 3.0
◎カール・ヴォルフ
カール・フリードリヒ・オットー・ヴォルフ
(Karl Friedrich Otto Wolff、1900年5月13日 -
1984年7月17日)は、ドイツの陸軍軍人。ナチス親衛隊(SS)の将軍。親衛隊の12ある本部の1つ親衛隊全国指導者個人幕僚部の長官。親衛隊全国指
導者ハインリヒ・ヒムラーの最大の副
官として知られる。最終階級は親衛隊大将及び武装親衛隊大将[1]。ドイツ帝国領邦ヘッセン大公国のダルムシュタットの生まれ。父は地方裁判所の裁判官
だった。ローマ・カトリック教会付属のギムナジウムで学ぶ。アビトゥーアに合格したあと、1917年4月に16歳でヘッセン大公国軍に入隊した。少年士官
学校で研修を受け、1917年9月には第一次世界大戦の西部戦線で戦った。ここで二級鉄十字章を受章している。1918年には17歳でヘッセン大公近衛連
隊の少尉となる[2]。休戦協定の後、ヘッセンの歩兵連隊に配属された。ヘッセンの義勇軍(フライコール)にも参加している[3]。この際に戦争での戦功
が改めて認められて一級鉄十字章の叙勲を受けた。しかしヴェルサイユ条約で人数を大幅に制限されたヴァイマル共和国軍に残れず、1920年5月に軍を離れ
た。その後、フランクフルトのベスマン・ファミリー銀行に入社。1922年にフリーダ・フォン・ロームヘルトと結婚した。1923年に妻とともにミュンヘ
ンへ引っ越し、ドイツ銀行に勤めるようになった。激しいインフレの影響で1924年6月に失業した。その後は広告会社に勤め、1925年7月からは自身で
広告会社を起こして独立開業した。【写真】 Karl Wolff, SS-Gruppenführer, Bundesarchiv, Bild
146-1969-171-29 / Friedrich Franz Bauer / CC-BY-SA 3.0
世界大恐慌の最中の1931年10月7日に国家社会 主義ドイツ労働者党(ナチス党)に入党(党員番号695,131)、さらに親衛隊にも入隊した(隊員番号14.235)。ミュンヘンで広告の仕事を続けな がらミュンヘンの親衛隊部隊の活動に参加した。1932年2月には親衛隊少尉に昇進。1933年のナチ党の権力掌握の後は党務に専念するようになった。同 年、親衛隊大尉に昇進し、短期間だがナチ党幹部フランツ・フォン・エップの副官となり[3]、ドイツ国防軍との間の連絡将校の役割を果たした。まもなく親 衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの目にとまり、1933年6月からヒムラーの副官部署である親衛隊全国指導者個人幕僚部の長官となった。1937年に は親衛隊中将となっている。1939年8月からはヒトラー付親衛隊連絡将校の役割を果たした。やがてヴォルフは、ヒムラー、ラインハルト・ハイドリヒに次 ぐ親衛隊第三の権力者と見なされるようになっていった。ヴォルフの親衛隊全国指導者個人幕僚部には親衛隊の全ての書類のコピーが集められていた。その中に は戦時中にラインハルト作戦を執行したオディロ・グロボクニクの事務所からのものもあった。ヴォルフは後にホロコーストなどナチ体制の残虐行為について知 らなかったと述べているが、知らなかったとは考えにくい。
1942年5月のハイドリヒ暗殺事件の頃からヒム ラーとヴォルフの仲が悪くなった。同年にヒムラーはヴォルフを親衛隊大将に昇進させる一方でイタリアへ派遣させて遠ざけるようになった(ただし親衛隊全国 指導者個人幕僚部長官の地位は敗戦まで保持している)。
ヴォルフは1943年2月からイタリア地域の親衛隊 及び警察高級指導者に任命され、イタリアで任務にあたることとなった。さらに1943年7月から親衛隊及び警察最高級指導者に昇格する[4]。1943年 9月のイタリア降伏後にはイタリア北部のベニート・ムッソリーニのイタリア社会共和国で勤務。この頃に妻と離婚している。ローマカトリック教会傘下のイタ リア紙「Avvenire」によるとアドルフ・ヒトラーは、ローマ教皇ピウス12世の拉致をヴォルフに命じたが、ヴォルフはこれを拒否したという。 1945年に連合軍が北部イタリアへ進軍してくるとヴォルフはイタリア防衛の実質的な最高司令官となり、ドイツ軍とイタリア軍の総力をあげてこれを迎え討 とうとしたが、やがてドイツ軍もイタリア軍もすべての戦力を消失した。1945年5月になってヴォルフもイタリアにおけるドイツ軍の降伏を連合軍との間で 取り決めざるをえなくなった。この直後にヴォルフはアメリカ軍により逮捕された。
戦後、ヴォルフはニュルンベルク裁判で証拠となる情
報を連合国に提供したため、彼自身の起訴は見送られて釈放された。しかしその後、親衛隊の指導者として西ドイツ政府から起訴され、1948年11月に懲役
5年の判決を受けた。7か月後、懲役4年に変更されるとともに、釈放された。戦後の1949年から再び広告会社を始めるが、一方でアメリカ合衆国の諜報機
関CIAに協力していたともいわれる[5]
。しかし、1962年にイスラエルでアドルフ・アイヒマン裁判があり、この法廷でヴォルフのイタリアのユダヤ人移送の組織化のことが取り上げられ、これを
受けて同年に西ドイツ政府が30万人のユダヤ人をトレブリンカ強制収容所へ移送した容疑、イタリアのユダヤ人をアウシュヴィッツ強制収容所へ移送した容
疑、イタリアのパルチザンをベラルーシで殺害した容疑などで再度ヴォルフを起訴した。西ドイツ裁判所はヴォルフに懲役15年の刑を宣告したが、1969年
になって健康状態を理由に釈放されている。1984年にローゼンハイムで死去。【写真】Himmler, Franz Ziereis and
Wolff at Mauthausen-Gusen concentration camp (April 1941),
Bundesarchiv, Bild 192-139 / CC-BY-SA 3.0
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