かならずよんで ね!

ハインリヒ・ヒムラー

Heinrich Luitpold Himmler, 1900-1945


池田光穂

1900 10月7日、ドイツ帝国領邦バイエルン王 国の首都ミュンヘンのヒルデガルト通りのアパートで生まれる(ハインリッヒ・ヒムラー 1900-1945)

1915 兄ゲプハルトとともにランツフートの「青 少年軍」(Jugendwehr) の活動に参加。17歳になった兄ゲプハルトが予備軍 (Landsturm) に入隊し、1918年4月に西部戦線へ送られた

1917 バイエルン王国の第11歩兵連隊「フォ ン・デア・タン」に入隊

1918 6月15日から9月15日までフライジン グで士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日までバイロイトのバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた。11月11日にはドイ ツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。

1919 4月には反革命義勇軍(フライコール)の 一部隊であるラウターバッハ義勇軍 (Freikorps Lauterbach) に加わって社会主義者が立ち上げたバイエルン・レーテ共和国打倒の軍に従軍

1921 ナチ党は主要な行政官庁から女性は排除されるべきとアナウンスする(Charu Gupta, Politics of Gender: Women in Nazi Germany. Economic and Political Weekly. Vol. 26, No. 17 (Apr. 27, 1991), pp. WS40-WS48 (9 pages))

1923 8月、党員番号14303で国家社会主義 ドイツ労働者党に入党

1925 1924年末にヒトラーが釈放され、 1925年2月にナチ党が再建されると、シュトラッサーとともにナチ党へと戻った。8月8日に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号168)

1926 1月A・トムセン『諸民族の消長』を読む

1928 ブロンベルクの地主の娘で看護婦のマルガ レーテ・ボーデン(ドイツ語版)と結婚

1929 第3代親衛隊全国指導者に任命される

1932 

1月25日にはヒムラーは党本部建物であ る褐色の家の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた。

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、1932年12月に親衛隊の様々な事務をこなす部局として「親衛隊部」(SS-Amt)を創設した。

1933 

3月17日にヒムラーはヒトラーをボ ディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭117名を選抜して「SS司令部衛兵班ベルリン」(SS-Stabswache Berlin) を創設させた。指揮官にはヨーゼフ・ディートリヒを任じた。

7月結婚奨励法の可決。ベビー・ボーナス。中絶手術の実質的禁止。ナチの政権掌握の直前には、10万人の女性教師と3,000人の女性医師がいたが、最終的に解雇か辞任に追いやられる。(1936年以降は禁止。大学は10%まで)

1934 

ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年 4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」 (Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し[85]、後任にハイドリ ヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes) の座に留任したがすでに形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されてい た。

6月30日に行われた粛清事件「長いナイフの夜」に おいて親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突 撃隊から独立した党内組織として認められた。国軍 (Reichswehr) と争っていた突撃隊幹部は長いナイフの夜事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高 い評価を得ることとなった。ヒトラーは親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは親衛隊が三連隊の軍 隊を保有することを承認した[123]。これを承けてヒトラーは、1934年9月24日に三軍司令官に対して、国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ、武 装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき設置されたのが親衛隊特務部隊であった[123]。特務部隊は戦時には陸軍の 司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊と同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳 (Soldbuch) と軍歴手帳 (Wehrpaß) の所持を認められて軍人扱いを受けた。

「長いナイフの夜」の後、すべての強制収容所は親衛 隊の管轄となり、ヒムラーは、ダッハウ強制収容所の所長だったテオドール・アイケを全強制収容所監督官、親衛隊髑髏部隊(強制収容所看守部隊)総監に任命 した.

ヒトラー「わが国家では、母親はもっとも重要な公民である」(Know about the role of women in Hitler's Reich, that of a child-bearers changed to workers in anti-aircraft service and emergency workers for the German army)。また、女性労働者は、マルクス主義の陰謀と、それを嫌悪した。

1935

1月30日、親衛隊の機構に本部(Hauptamt)制度が導入されることになった後、真っ先に親衛隊部(SS-Amt)が親衛隊本部(SS-Hauptamt)に昇格した。当初は、まさに親衛隊の「本部」であり、親衛隊の隊員の人事、親衛隊裁判所、強制収容所、一般親衛隊、政治予備隊(後に親衛隊特務部隊、武装親衛隊となる組織)、国境警備隊、親衛隊士官学校、隊員の訓練、隊員の福祉、など幅広く所管する部署だった

1935年12月12日レーベンスボルン協会の発足。ハインリッヒ・ヒムラー(このページ)は同年「アーネンエアベ協会(アーネンエルベ協会)」も設立している。は、レーベンスボルン協会は女性による健全な北方人種の出産と母子保護をめざして設立され、アーネンエアベ協会は、北方人種あるいはアーリア人の優秀さを、優生学と人類学の理論で証明し、かつ、探検隊を組織して実証による証明をおこなおうとした。レーベンスボルン協会は、「主に未婚の母親に福祉を提供 し、未婚女性による産院での匿名出産を奨励し、同じく「人種的に純粋」で「健康な」親、特にSS隊員とその家族がこれらの子供を養子にする仲介を行った」。しばしば、人種検査に合格した、北方人種の親衛隊員と未婚の女性と性交し、その後に、女性の出産と子供の養育を目的としたために「交尾の家」と揶揄されることもあった(クレイとリープマン1997)。





1936 

6月17日、ヒムラーは全ドイツ警察長官 (Chef der Deutschen Polizei) に任じられた。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として秩序警察を発足させ、親衛隊大将ダリューゲを長官に任じた [105]。一方政治警察のゲシュタポと刑事警察は保安警察として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた。

1936年9月にザクセンハウゼン強制収容所 [109]、1937年7月末にブーヘンヴァルト強制収容所[110]、1938年8月にマウトハウゼン強制収容所、1938年11月にフロッセンビュル ク強制収容所、1939年5月にラーフェンスブリュック強制収容所が創設された[111]。

1936年9月13日に、ヒムラーは、レーベンスボルン協会をSSの直接管理のもとにおく。

ヒトラー内閣発足以降、親衛隊はノルトラント出版社 (ドイツ語版)、ドイツ土石製造有限会社 (DEST)、ドイツ装備製造有限会社 (DAW)など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校であったオスヴァルト・ポールを親衛隊本部の経済部門の部長に任じ、彼にこれらの企業の経営 を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊 企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の 勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた[116]。

Himmler visiting the Dachau concentration camp in 1936, Bundesarchiv, Bild 152-11-12 / CC-BY-SA 3.0

10月1日、ヒムラーは親衛隊特務部隊の管理のた め、パウル・ハウサーを長とする親衛隊特務部隊総監部を創設させた

1938-1939

開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユ ダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になったSDユダヤ人課のアドルフ・アイヒマンが注目され、1939 年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒムラーはドイツ民族性 強化国家委員 (Reichskommissar für die Festigung des deutschen Volkstums) に任命された[134][135]。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「ドイツ民族性強化国家委員本部」(RKFDV) を設置し、親衛隊大将ウルリヒ・グライフェルトを本部長に任じた。アーリア人の支配民族思想に基づいてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策 を推し進めた。1939年9月のポーランド侵攻後、国家保安本部は占領下ポーランドやソ連占領地域にアインザッツグルッペン(特別行動部隊)を派遣してユ ダヤ人を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも 1940年5月に「ユダヤ人根絶のボルシェヴィキ的方法は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている[136]。ユダヤ人絶滅政策(ホ ロコースト)の決定はヒムラーではなくアドルフ・ヒトラーによるものと考えられている。

ユダヤ人女性への中絶は合法との判決。

1939 

8月、ヒトラーからポーランド侵攻の口実を作るよう 命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのがグライヴィッツ事件であっ た。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員アルフレート・ナウヨックスがポーランド軍人に成りすましてポーランドのグライヴィッツ放送 局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣 言したのであった[126]。

9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安 警察を統合させて、国家保安本部 (RSHA) を親衛隊内に設置させた

11月8日、ヒトラーはビュルガーブロイケラーで ミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にス イスへ不法越境しようとしたゲオルク・エルザーが容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命 じた。彼はヒトラーの期待に応えるべく、自らがエルザーのところへ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めた が、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった[127]。

1941

6月にバルバロッサ作戦(独ソ戦)が発動された後、 国家保安本部はアインザッツグルッペンをソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ、占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグ ルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーは、オーバーシュレージエン州(ドイツ語 版)にあるアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスをベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウ シュヴィッツを絶滅収容所に改築することを命じた。これを承けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた

[138][139]。さらにこの後、ポーラ ンドにユダヤ人の殺戮だけを目的としたベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が建設された。ユダヤ人はヨー ロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人 課課長となっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。

Himmler, Ernst Kaltenbrunner, and other SS officials visiting Mauthausen concentration camp in 1941/ Himmler inspects a prisoner of war camp in Russia, c. 1941

ヒムラーやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄衛 団」を支持していたが、「鉄衛団」は1941年1月に統治者イオン・アントネスクに対して反乱を起こす。ヒトラーや外相ヨアヒム・フォン・リッベントロッ プはアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄衛団」を擁護し、ホリア・シマ以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD 将校は処分された。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大を止める好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の 通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続 々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれて外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった [129]。

ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏 であったと言われる[137][136]。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊であった。

1942

正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは 1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンのヴァンゼー湖畔の高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行ったヴァンゼー会議で あるとされる。この会議でユダヤ人問題の最終的解決について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺 は1941年にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問 題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある[140]。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分 の権限を誇示するための意味があったことを主張している[141]。

一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺 していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。親衛隊経済管理本部長官であり、強制収容所運営の責任者であるオズヴァルト・ポール は一貫して強制収容所に移送したユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強 制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであっ たが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者を選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いてい る[142]。総力戦体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要となっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げるこ とを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた[143]。

一方、「労働不能」とされたユダヤ人は、ナチスに とって全く役に立たないばかりか、既に悪かったドイツの食糧事情をさらに悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象とされた。戦時中に行われ たユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった[144]。ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツやマイ ダネク強制収容所でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、ヨー ゼフ・メンゲレはその典型として悪名高い[145]。

ヒムラーはヒトラーのユダヤ人絶滅指令について、ふ つうでは耐え難い命令であった、と述べているが[146]、あくまでこれを完遂するつもりであった。し たがって労働に従事させる者もいずれは殺害するつもりであった。1942年秋にはヒムラーが法相オットー・ゲオルク・ティーラックとの会談で「労働を介し た絶滅」という言葉を口にしたことはそれを端的に表していると言えよう[147]。

6月4日、国家保安本部長官兼ベーメン・メーレン保 護領副総督を務めていたハイドリヒは、イギリスが送りこんできたチェコ人暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保 安本部I局(人事局)局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊少将を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からは ヒトラーの同意も得て親衛隊大将エルンスト・カルテンブルンナーを後任に任じた[130]。

駐日ドイツ大使館付警察武官として東京に赴任した ヨーゼフ・マイジンガー親衛隊大佐は、1942年6月にヒムラーの命を帯びて上海に赴いた。マイジンガー大佐は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処 理」を迫り、以下の3案を提示した。「黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する」、「ユダヤ人を岩塩鉱で強制労働に従事させ る」、「長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする」。しかし日本政府は、悪質なうえに人道にもとるドイツ側の提案を完全に拒絶 した。

Himmler with Indian nationalist Subhas Chandra Bose in 1942

1942年8月、フェリックス・ケルテンの仲介により、ヒムラーはフィンランド訪問し、フィンランド大統領リスト・リチと会見。ケルテンは、リスト・リチに事前にナチのユダヤ人虐殺について報告し、自国のユダヤ人の移送を防いだと言われる(→「1938年から1939年のナチスドイツによるチベット探検」)。

1943

8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就 任、名実ともにドイツ警察の支配者となった

1944

ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒト ラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が失脚。ヒ トラーはアプヴェーアの機能を国家保安本部第6局(国外諜報 (Ausland-SD) 局長ヴァルター・シェレンベルク)の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた[148]。7月20日午後0時40分過ぎ、東プロイセン・ラステ ンブルクにあった総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中にクラウス・フォン・シュタウフェンベルク参謀大佐 (国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者が出たが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった(7月20日事件)。この 時ヒムラーは25キロメートル離れたマウルゼー湖畔のSS本部にいたが、午後1時頃に事件を知るとただちにラステンブルクの総統大本営へ急行し、わずか 30分で到着した[149]。ヒムラーは総統大本営に到着後、SS隊員とともに捜査を開始した。会議室から一人姿を消したシュタウフェンベルク大佐が犯人 であると確信し、ベルリンにいたフンベルト・アーハマー=ピフラーダー(ドイツ語版)SS上級大佐にシュタウフェンベルクの逮捕を命令した(しかし、ベン ドラー街へ逮捕に向かったピフラーダーの方が、逆にシュタウフェンベルクらによって身柄を確保されてしまっている)。ヒトラーはシュタウフェンベルクの上 官である国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将も何らかの形で謀反に関わっていると考え、ヒムラーを新たな国内予備軍司令官に任命し、ベルリンへ 行くよう命じた。予備軍とはいえ、ヒムラーは念願の軍司令官の地位を手に入れたことになる[150]。午後5時頃にヒトラーと別れる際に「総統、後のこと は私にお任せください」と述べている[151]。ヒムラーがベルリンに到着した7月21日明け方にはすでにシュタウフェンベルク大佐ら首謀者はベンドラー 街(ドイツ語版)(国防省)においてフロムの命令で銃殺されており、その遺体は彼の指示で勲章や階級章や軍服などを身に着けたまま軍人として埋葬されてい た。ヒムラーはただちに武装SSを動員してベンドラー街を占拠、シュタウフェンベルク大佐らの遺体を掘り起こさせて勲章などを剥奪すると、火葬のうえ遺灰 は野原にばら撒かせた。ヒムラーは国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーに大々的な捜査・逮捕を命じた。彼の指揮の下に捜査が進められ、最終的 に5,000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった[152]。ヒムラーは一連の 謀反の最大の鎮圧者となったが、実際は事前に暗殺計画を把握していながら、事件の発生を黙認した可能性も指摘されている[153]。事件直前の7月17 日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その容疑者としてカール・ゲルデラーとルートヴィヒ・ベック上級大将の逮捕状を発給するようヒムラーに 求めているが、彼はなぜか拒否している。戦後にSDのある将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。彼が一旦実行に移させて から一網打尽にしたほうがよいと判断したのか、それともヒトラー暗殺を期待していたのかは不明だが、いずれにせよこの暗殺計画は失敗に終わり、その後のヒ ムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった[153]。

国防軍の将校たちが暗殺事件に関与していたことは軍 の地位低下につながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを国内予備軍司令官に任じたこ とも、このことのだめ押しとなった[154]。予備軍の実務は親衛隊大将ハンス・ユットナーが代行した。また陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用も陸軍から親衛隊経済管理本部の手に 移っている

1944年12月2日にヒムラーはオーバーライン軍 集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執ることとなった。ヒムラーのオーバーライン軍集団はシュトラースブルクまで数キロまで迫ったが、結局アメリカ軍の 反撃にあってライン川の向こうへ撃退された。

1945

ヒトラーはオーバーライン軍集団でのヒムラーの指揮 を評価し、1945年1月23日にヒムラーを東部戦線のヴァイクセル軍集団司令官に任じた。参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将はこの人事に反対した が、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうと張り切り、予備軍や武装親衛隊の残存兵力をかき集め、また、フェリックス・ シュタイナーをはじめとする有能な武装親衛隊将校を招集した。ドイツ本土に迫るソ連軍を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経 験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮ができなかったため、ソ連軍にオーデル川を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒト ラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は陸軍大将ゴットハルト・ハインリツィに替えられた。この件でヒム ラーの権威は大きく傷ついた[155]。

シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独したスウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドッテ伯爵とヒムラーは、入院していたホーエンリューヒェ ン療養所(ドイツ語版)において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放がよいと薦め、まずスカンディナヴィア系の 強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くで しょうね。"戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策"とね。」と述べて拒否した[157]。しかしその後さらに戦況が悪化し、ヒムラーは ついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至り、米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日 にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは西部戦線における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテは「ヒムラーがヒト ラーの後継者を名乗ること。ナチスを解体させて党員を配置換えすること。スカンディナヴィア系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求め、 ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた[158] [159]。

1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラー はベルリンの総統地下壕に入り、ヒトラーと面会した。しかし憔悴したヒトラーにはすでに期待しておらず、早々に地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再 開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともにアメリカ政財界に強い影響力を持つ世界ユダヤ人会議の特使ノルベルト・マズーア (ドイツ語版)と極秘に面会し、アメリカ政府への執り成しを求めた。ヒムラーはマズーアに「君たちユダヤ人と我々国家社会主義者は共に争いの斧を降ろす時 である」などと述べた。マズーアは親衛隊の側が一方的にユダヤ人に斧を振り降ろしていたにも関わらず何という言い草だと思いつつ、それでもいくらかの同胞 の命を救うことができるかもしれないと考えてヒムラーとの交渉を続けた。マズーアはスイスかスウェーデンに向かうことができる場所の強制収容所に収容され ているユダヤ人については速やかに解放すること、それ以外の場所の強制収容所に入れられているユダヤ人についてはその強制収容所を無抵抗で連合軍に明け渡 すまで人間的な待遇を与えることを条件として提示した。ヒムラーはそれを了承した[160]。

ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降 伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカの大統領トルーマンは「部分降伏はありえず」として、正式に提案の拒絶を発表し[161]、ヒムラーは落胆し た。しかもこの彼の活動は1945年4月28日、BBCのラジオ放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、やがてヒトラーの知るところと なる[162]。

ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降 伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカの大統領トルーマンは「部分降伏はありえず」として、正式に提案の拒絶を発表し[161]、ヒムラーは落胆し た。しかもこの彼の活動は1945年4月28日、BBCのラジオ放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、やがてヒトラーの知るところと なる[162]。

ヒムラーは、イギリス軍の一兵卒の捕虜への粗末な扱 いに耐えられなくなり、収容所所長に対して「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗った。さらに連合軍上層部との政治的交渉を求めた。所長は上層部に取り計 らってみると回答したが、結局交渉は拒否された。翌5月23日、ヒムラーの身体検査が行われた。イギリス軍のエドウィン・オースティン曹長がヒムラーに長 椅子を指して「これがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と全裸になることを要求したが、これに対してヒムラーは「君は私が誰だか分かっているのかね」など と述べた。オースティンは「あなたはハインリヒ・ヒムラーだ。そしてこれがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と再度全裸になることを要求した。ヒムラーと オースティンはしばらくじっと睨みあっていたが、先に目を逸らしたのはヒムラーの方だった。彼はおとなしく服を脱ぎはじめた[166]。軍医がヒムラーの 身体を調べ、口の中を調べようと指を入れた時、ヒムラーは軍医の指にかみついた。そして奥歯に隠し持っていたシアン化カリウムのカプセルを噛み砕き倒れ た。その場にいたイギリス軍兵士たちはすぐにヒムラーの身体を逆さにして毒を吐き出させようとした。ついで糸と針で舌を固定して催吐剤を使用して胃液を吐 きださせようとしたが、約12分間苦しんだ後に死亡した[167]。自殺を防げなかった軍医は直後に「やられた」と口にしたという[166]。イギリス軍 はヒムラーの遺体の写真を撮り、さらにデスマスクを作った後、彼の頭を切開して脳の一片を切り取って保存した[168]。遺体は1日放置され、イギリス軍 の報告を受けて到着したアメリカ軍とソ連軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた[169][167]。埋葬後に墓石等は与えられな かったため、森のどこに埋められているのかは不明である[167]。

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