ドイツ優生学と優生思想の研究
Study on German Eugenics and
Eugenic Thought: A history
●命題集
命題01:フレクスナー改革以前の米国の医学研究はドイツの水準以下
だった。 |
命題02:ヒトラーの人種政策に対する主張には強力な反ユダヤ主義が
あったが、具体性に欠けていた。 |
命題03:ヒトラーの親衛隊員ならびに取り巻きの官僚たちは、それぞれ
の人種政策を提言して、承認されてきた——官僚間の調整や予算的裏付けについては? |
命
題04:収容所長のトップであったヒムラーには、複数の優生思想に裏付けられた政策があったが、すべて科学的合理主義というわけでなく、怪しいオカルト思
想や、彼の思いつきのアイディアなどが含まれていた(強制収容所、絶滅収容所、新しい人種政策、婦人政策、チベット探検事業、レーベンスボルン、強制収容
所内での人体実験や人骨収集など) |
命
題05:ナチ政権掌握以前から、優生学の国際ネットワークがあり、そのイニシアチブを1933年以降、ナチスは積極的に推し進めたが、かならずしも国際承
認が得られたわけでなく、また、ヘゲモニー奪取もうまくいかないところがあった。(もうひとつの分水嶺は1911年ドレスデン国際衛生展示会;1912年
第1回国際優生学会) |
命題06:ワイマール時代から続いていた、優生学にもとづく福祉政策
(貧困撲滅)や保健政策(肺がん撲滅)には、ナチ時代以降、継続性と断絶がある。 |
命題07:1933年は分水嶺である。その象徴は権力掌握後の「遺伝病
子孫予防法」であるが、これはワイマール時代から立法化の準備がなされていた(シュテファン・キュール p.18) |
命題08:1980年代の終わり米国では科学的人種主義が復活する
(キュール p.22)——また、これはスティーブン・グールドの著作の中で多く批判されている |
★標題(未定):「戦間期ナチス優生学と人種衛生学と人種民族学の関係(仮題)」
●時代区分
1)1883-1911:フランシス・ゴールトン 「優生学」からドレスデン「国際衛生博覧会(人種衛生学特別部会)」
2)1912-1920:ロンドン第1回国際優生学 会議からビンディングとボーへ「生きるに値しない生命の根絶の許容」まで
3)1921-1932:ニューヨーク第2回国際優 生学会議から第3回国際優生学会議まで
4)1933-1941:ナチ政権掌握からT-4計 画の中止まで
5)1942-1945:ヴァンゼー会議およびシン ティ・ロマに対するヒムラー絶滅命令以降ヒトラー自殺および敗戦まで
6)1945年以降:ナチスの優生学と医学的戦争犯
罪の審理と処罰
●命題集(再掲)
命題01:フレクスナー改革以前の米国の医学研究はドイツの水準以下
だった。 |
命題02:ヒトラーの人種政策に対する主張には強力な反ユダヤ主義が
あったが、具体性に欠けていた。 |
命題03:ヒトラーの親衛隊員ならびに取り巻きの官僚たちは、それぞれ
の人種政策を提言して、承認されてきた——官僚間の調整や予算的裏付けについては? |
命
題04:収容所長のトップであったヒムラーには、複数の優生思想に裏付けられた政策があったが、すべて科学的合理主義というわけでなく、怪しいオカルト思
想や、彼の思いつきのアイディアなどが含まれていた(強制収容所、絶滅収容所、新しい人種政策、婦人政策、チベット探検事業、レーベンスボルン、強制収容
所内での人体実験や人骨収集など) |
命
題05:ナチ政権掌握以前から、優生学の国際ネットワークがあり、そのイニシアチブを1933年以降、ナチスは積極的に推し進めたが、かならずしも国際承
認が得られたわけでなく、また、ヘゲモニー奪取もうまくいかないところがあった。(もうひとつの分水嶺は1911年ドレスデン国際衛生展示会;1912年
第1回国際優生学会) |
命題06:ワイマール時代から続いていた、優生学にもとづく福祉政策
(貧困撲滅)や保健政策(肺がん撲滅)には、ナチ時代以降、継続性と断絶がある。 |
命題07:1933年は分水嶺である。その象徴は権力掌握後の「遺伝病
子孫予防法」であるが、これはワイマール時代から立法化の準備がなされていた(シュテファン・キュール p.18) |
命題08:1980年代の終わり米国では科学的人種主義が復活する
(キュール p.22)——また、これはスティーブン・グールドの著作の中で多く批判されている |
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