Rassenhygiene
「人種衛生学(Rassenhygiene)」用語の起源と定義(→「各国別比較:優生学の年表」「第三帝国における人種衛生学/優生学」」)
ナチあるいはナチスとは、国民社会主義ドイツ労働者党(あるいは国家社会主義ドイツ労働者 党、ナチス:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP, 1920-1945)のことで、ナチあるいはナチス時代とは、ヒトラーが政権を掌握した1933年2月28日の緊急大統領令を布告によるワイマール共和国 憲法の停止から1945年6月5日のベルリン宣言までの時期をさす(→「ナチ 年表」参照)。次に人種衛生学はドイツ語の"Rassenhygiene"のことであるが、これは、つねに、ナチスのという形容詞がついて、"die nationalsozialistische Rassenhygiene"あるいは"NS-Rassenhygiene," すなわち「国民社会主義 人種衛生学/国家社会主義人種衛生学/ナチ人種衛生学」と呼ばれるものである。"Rassenhygiene"という用語はアルフレッド・プレッツ (Alfred Ploetz, 196-1940)の1895年の著作、『人種の効率化と弱者の保護(Die Tüchtigkeit unserer Rasse und der Schutz der Schwachen)』のなかにはじめて登場する。Weiss, Sheila (1987), Race Hygiene and National Efficiency: The Eugenics of Wilhelm Schallmayer. University of California Press. によると、アルフレッド(またはアルフレート)・プレッツとヴィルヘルム・シャ ルマイヤーの両者の命名だという主張がある。また、1905年にはベルリン人種衛生学協会、あるいはベルリン人種衛生学会が、 アルフレッド・プレッツによってに設立された。この協会(学会)は、1916年には、「ドイツ人種衛生学会」と改称した。1925年には、「優生学を誰も が理解できるよう な非常に一般的な形で育成・普及する」ことを目的と した「ドイツ民族教育・遺伝連盟(Deutsche Bund für Volksaufartung und Erbkunde)」が登場し、関連する諸科学と競争を繰り広げることになった(→「ベルリン人種衛生学協会」)。
ナチ優生学の誕生に、アメリカの動物学者マディソン・グラント (Madison Grant, 1865年11月19日 - 1937年5月30日)による『偉大なる人種の通過(The Passing of the Great Race)』1916年の出版は欠かせない。グラントの著作に、ヒトラー自らが「私 のバイブルである」と手紙をしたためのも、よく知られる話である(キュール 1999:152/ライバック 2010:163)。しか し、他方で、グラントによる貢献を大にしてもなお、18世紀末の、人種主義とりわけ、科学的 人種主義の思想の欧米知識人への膾炙と、白人優等人種である、 北方人種理論の流行である。(北方人種「理論」は仮説とも呼ばれるが実際には仮説以上の確固たる地位を閉めたので、これは結果的に疑似科学であったが「北 方人種理論」という名声を当時は勝ち得ていたと言っても過言ではない)。以下では、「白人の人種的衰退陰謀論/白人虐殺陰謀論」(White genocide conspiracy theory)の源流としての「ナチの優生学」があるが、それがどのように発達してきたのかを、ウィキ ペディア「ナチスの優生学(Nazi eugenics, 英語版)」をもとに概観する。※関連するページ「各国別比較:優生学の年表」を参照のこと。
あるいは、ヒトラーはミュンヘン一揆の失敗後に収監 されたランツベルク刑務所で、バウアー・フィッシャー・レンツに よる共著『人 類の遺伝と人種衛生学(Grundriß der menschlichen Erblichkeitslehre und Rassenhygiene)』(1923)を読んで、遺伝の概念や遺伝の有害因子の排除について興味をもったという。ヒトラーはランツベ ルク刑務所で、『我が闘争』 の口述筆記をはじめたので、『我が闘争』の中にある人種差別思想がどのようなものであるか検討する必要がある。
『我が闘争』の中で人種について触れている部分は第一分冊第11章「フォルクと人種 (Volk und Rasse)」と第二分冊第2章「国家」である。とりわけ第一分冊第11章「フォルクと人種(Volk und Rasse)」は、当時のヒトラーの人種主義や反ユダヤ主義さらには、アーリア人種優越の考え方が主張されていて興味ふかい。
ナチス政権下の科学史を研究する学者たちは、一般 に、ナチスによる科学の破壊や知的・自由主義的価値の堕落に集中している。Proctor, Robert. Racial hygiene : medicine under the Nazis. Harvard University Press, 1988年は、科学者自身がナチスの人種政策の構築にどのように参加したかに焦点を当てたものである。つまり、ナチスの政治的イニシアチブの多くが科 学界から生まれ、医学者が国家社会主義政策の重要な要素を積極的に設計し、運営していたということである。本書は、不妊手術や去勢手術、ユダヤ人と非ユダ ヤ人の結婚を禁止する法律、そして「生きる価値のない命」を破壊する大規模な計画へのドイツの医学界の関与について、これまでで最も包括的な説明を試みて いる。この研究は、医師たちが「ユダヤ人問題」を「医学的問題」として考えようとし たこと、医学雑誌がドイツのユダヤ人とシンティ・ロマ(かつてはジプシーと呼ばれた)の「問題」に対する「最終解決策」を見つける必要性について公然と議 論したことを 追跡している。プロクターは、このような考え方がドイツに限ったことではないことを私たちに気づかせてくれる。19世紀後半、アメリカやヨーロッパで起 こった社会ダーウィニズムは、人種衛生学の理論を生み出し、より優れた、より健康な、より強い人種を育成するために、さまざまな国籍の愛好家たちによって 受け入れられました。また、ナチス政権下で盛んになった「オーガニック」健康運動についても、喫煙や飲酒を減らす運動、パン屋に全粒粉パンの製造を義務付 ける運動などが紹介されている。また、別章では、社会主義医師協会における医師の抵 抗運動の出現を 紹介している。本書は、ドイツ国家文書やこの時期に発行された200以上の医学雑誌など、当時の資料の綿密な分析に基づいている。プロクターは、単に物語 を語るだけではなく、「科学の政治哲学」とでも呼ぶべきもの、すなわち、国家の政策を形成する運動が、科学の構造や優先順位をも形成しうるということにつ いて、考察を促すことを意図しているのである。本書は、歴史家、医師、科学史・科学哲学関係者だけでなく、科学政策や医療倫理に関心を持つ人々にとって も、幅広い示唆を与えてくれるものである」https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA06532436.。
アルフレート・プレッツ(Alfred Ploetz, 1860-1940) |
アフル
レート・ブレッツ(Alfred Ploetz;
1860年8月22日 - 1940年3月20日)は、ドイツの医師、生物学者、社会ダーウィン主義者、優生学者であり、優生学の一形態である人種衛生
(Rassenhygiene)という言葉を作り[1]、ドイツでこの概念を広めたことで知られている[2]:
28。 プレッツは1895年に『人種衛生の基礎』(Grundlinien
einer
Rassenhygiene)で初めて人種衛生(人種に基づく優生学)理論を提唱した。1904
年、プレッツはフリッツ・レンツを編集長として定期刊行物『Archiv für Rassen-und
Gesellschaftsbiologie』を創刊し、これは世界で初めて優生学の話題を扱う雑誌となった[5]。1905年には31人のメンバーでド
イツ人種衛生学会 (De Berliner Gesellschaft fur Rassenhygiene) [6] ページ [7]
1907年に学会は「国際人種衛生学会」[8] となる。 1930 年にはミュンヘン大学の名誉博士となり、1933年に政権を獲得したナチス党の支持者となった。プレッツは同年4月、「ヒトラーが人種衛生をそれまでの マージナルなものからメインストリームなものにしてくれると信じている」と書いている。1933年、帝国内務大臣ヴィルヘルム・フリックは、プレッツ、フ リッツ・レンツ、エルンスト・ルーディン、ハンス・F・K・ギュンターを含む「人口・人 種政策専門顧問委員会」を設置した。専門家諮問委員会は、人種問 題や優生学的問題に関する法律の実施や施行についてナチスに助言する任務を負っていた[9]。 1936年、ヒトラーはプレッツを教授に任命した。1937年、77歳の時にナチス党に入党した[10]。1940年に79歳で死去し、バイエルン州アン マーゼーのヘルシングの自宅に埋葬されている。彼の死後、オトマール・フライヘア・フォン・ ヴェルシュアーは彼の「国家社会主義運動への内なる共感と熱意」を賞賛した[11]。同じく熱心なナチスであるエルンスト・ルーディンは2年前にプレッツ を「彼の功績によって、我々のナチス思想の確立を助けた」人物と賞賛している[12] プレッツは著書 『わが民族の卓越性と弱者の保護』(1895年)の中で、「人種衛生」(ドイツ語:Rassenhygiene)という言葉を生み出し、優生学の考えが適 用されるであろう社会について述べている[5]。 この出版物は人種に関する社会ダーウィン主義者の解釈を支持し、「ドイツ民族の進化的優越」についての遺伝子決定論者の考えを確固たるものにした[2]: 28 結婚や許される子供の数について決定できる市民の倫理や知的能力が検討されていたであろう。その中には、「不適格者」による生殖の禁止が含まれるかもしれ ない。障害児は出生時に安楽死させ、すべての若者は思春期に結婚と出産が許されるかどうかの検査を受けることになる。 |
ヴィルヘルム・シャルマイヤー(Wilhelm
Schallmayer, 1857-1919) |
ヴィルヘルム・シャルマイヤーは、
1857年2月10日にミンデルハイムで生まれ、1919年10月4日にクライリングで亡くなった、ドイツ初の優生学の提唱者で、アフルレート・ブレッツ
とともにドイツの優生学運動を創設した[1][2]。
シャルマイヤーが優生学運動に与えた影響は絶え間なく続いている[3]。ヴィルヘルム・シャルマイヤーはしばしば、ブレッツ
とならんで、人種衛生学の命名者と言われるが、
シャルマイヤーはようやく1905年になって、それを受け入れたにすぎない。「1905年にはすでにRassenhygieneという用語がほとんどの優
生学者に採用されていたが(プロッツの最初の論文とArchivの影響が大きい)、シャルマイヤーはRasseという言葉の複数形には頑強に反対し続け
た」(Weiss 1987:103)。 |
エルンスト・
ルーディン(Ernst
Rüdin; 1874年4月19日ザンクトガレン生まれ〜
1952年10月22日ミュンヘン)は、スイス・ドイツの精神科医、人類遺伝学者、人種衛生学者である。※ルーディン(Rüdin)は、しばしばリュー
ディンと表記されることもあるが、ここではルーディンと表記する。1917年にクレペリンがミュンヘンにドイツ精神医学研究所を設立すると、ルーディンは
「系図・人口統計学部門」の責任者となり、この研究所はすぐに精神
医学・遺伝学研究の国際的な中心地となったのである。第一次世界大戦末期とミュンヘンソビエト共和国崩壊後、彼は何人かの革命家を診察し、精神病の基準に
従って評価を下げた。一方、1919年にバイエルンの首相を狙撃したアルコ=ヴァレー伯爵には「精神疾患の兆候はない」とした。1925年、ルーディンは
バーゼル大学の精神医学講座を引き継ぎ、フリードマット療養所と老人ホームの経営と結びついたが、ミュンヘンでの自分の講座の経営は継続された。バーゼル
での精神医学・遺伝学の研究が思うように進まなかったため、クレペリンの死から2年後の1928年、ドイツ精神医学研究所に戻った。1931年には研究所
の専務理事に就任した。同研究所は、1924年に「カイザー・ヴィルヘルム精神医学研究所」としてカイザー・ヴィルヘルム協会に編入されていた。 |
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オトマー
ル・フライヘア・フォン・ヴェルシュアー(あ
るいは、フォン・フェアシューアー)オトマール・フライヘア・フォン・ヴェルシュアー(Otmar Freiherr von Verschuer
1896年7月16日 -
1969年8月8日)は、ドイツの人類生物学者、ナチス、遺伝学者であり、1965年に引退するまでミュンスター大学の人類遺伝学教授であった。オランダ
の貴族フェルシュア家の一員であり、称号のフライヘル(Freiherr)はしばしば男爵と訳されている。かれは、ヨーゼフ・メンゲレ(Josef
Mengele, 1911-1979)の研究上のメンターとしても有名である。 |
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ヨー
ゼフ・メンゲレ([ˈjozˈˈɛ, 1911年3月16日 -
1979年2月7日)は、死の天使(ドイツ語:Todesengel)として知られる、第二次世界大戦中のドイツのシューツスタッフ(SS)将校、医師で
あった。アウシュビッツ強制収容所において、ガス室[a]での殺害対象者を選別する医師チームの一員として、またガスを投与する医師の一人として、捕虜に
致命的な実験を行ったことが主な記録として残っている。赤軍がドイツ占領下のポーランドを席巻する中、メンゲレはソ連軍がアウシュビッツに到着する10日
前の1945年1月17日にアウシュビッツから280km離れたグロス・ローゼン強制収容所に移送された。戦後、メンゲレは元SS隊員のネットワークに助
けられ、1949年7月にアルゼンチンに逃亡した。彼は当初ブエノスアイレス周辺に住み、1959年にパラ
グアイ、1960年にブラジルに逃亡したが、その間、西ドイツ、イスラエル、そして彼を裁判にかけようとするサイモン・ヴィーゼンタールのようなナチ・ハ
ンターによって探され続けた。西ドイツ政府からの引き渡し要請や、イスラエルの諜報機関モサドによる秘密工作にもかかわらず、メンゲレは捕縛されずに済ん
だ。1979年、ベルティオガ海岸で遊泳中に脳卒中で溺死し、ヴォルフガング・ゲルハルトという偽名で埋葬された]。 |
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オイゲ
ン・フィッシャー(Eugen
Fischer、* 1874年6月5日カールスルーエ生まれ、†
1967年7月9日フライブルク・イム・ブライスガウ死亡)は、ドイツの医師、人類学者、遺伝生物学者、優生学者、国家社会主義の人種衛生学者である。生
涯のあいだに、カイザーヴィルヘルム人類学・人間遺伝学・優生学研 究所(Kaiser-Wilhelm-Institut für
Anthropologie, menschliche Erblehre und Eugenik,
KWI-A)の所長を務め、ベルリン自由大学の学長も務 めた。 |
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フリッツ・ゴッ
トリーブ・カール・レンツ(1887 年3月9日ポメラニア州プフルグラード -
1976年7月6日ニーダーザクセン州ゲッティンゲン)は、ドイツの遺伝学者、ナチ党員[1]、ナチスドイツにおける優生学の有力な専門家である。 |
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エルヴィン・バ
ウアー(1875
年4月16日、バー デン大公国イッヘンハイム市 -
1933年12月2日)は、ドイツの遺伝学者、植物学者である。バウアーは主に植物の遺伝学を研究していた。カイザー・ヴィルヘルム育種研究所(1938
年からはエルヴィン・バウアー研究所)の所長を務めた。バウアーは植物ウイルス学の父と言われている。プラスティド(色素体)の遺伝を発見した。彼は基礎
研究者であり、ヒトラー政権が授権法(全権委任法,
1933.3.23)を通して権力を掌握した年の暮れになくなっているので、ナチの人種衛生学者とは言い難い。しかし、ヒトラーが1923年に刑務所に収
監されている時代に、レンツ、フィッシャー、バウアーの共著"Menschliche
Erblichkeitslehre," 1921年を読んでいる。関連する科学者として挙げている。 |
★この続きは、国民社会主義時代の人種衛生学につづく.
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