政権掌握後からのナチス年表
Timeline
of the Nazi Cultural History, 1932-1945
第三帝国(1942年)
「ナチス国家(国民社会主義国家の略)またはナチス・ドイツとは、国民社会主義の時代
(1933~1945年)のドイツ帝国またはいわゆる大ドイツ帝国のことで、国民社
会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に支持されたアドルフ・ヒトラーの独裁政権が、民主的に組織されたワイマール共和国に取って代わった。
この国家の特徴は、個人に対する絶対的な支配の主張、急進的な反ユダヤ主義、指導者に対する広範な崇拝、国家的恐怖の増大であった。ヒトラーが1933年
1月30日に帝国首相に任命された直後、独裁体制の確立が始まった。1933年2月28日の「国民と国家の保護に関する帝国大統領令」と1933年3月
24日の「実行法」は、三権分立、議会による政府の統制、基本的人権など、ワイマール憲法の主要部分を永久に停止した。非常事態はナチス国家が終わるまで
続いた。
ナチス政権は数ヶ月のうちに、政治と社会を一致させることで、国家社会主義のイデオロギーに基づく中央集権国家を作り上げた。労働組合とNSDAP以外の
すべての政党は禁止された。権力が明確に区分されたかつての国家体制は、国家とNSDAPの重複する権限による対立に取って代わられ、ヒトラーが常に最終
的な決定権を主張するポリクラシーとなった。秘密国家警察(ゲシュタポ)やSAやSSといった党組織の力を借りて、ヒトラーは立憲国家を強制収容所や後の
絶滅収容所を擁する警察国家へと変貌させた。ホロコーストとポラジュモス(ユダヤ人とシンティ・ロマの組織的大量虐殺)、反対者、反体制派、障害者、同性
愛者への迫害と殺害、ナチスによる病人殺害は数百万人の命を奪った。
1934年に帝国大統領に就任したヒトラーは、公務員の任命権も有していた。いわゆる権力掌握の直後から、政権はすでに、公益のためだけに献身する非政治
的な公務員という原則から目を背けていた。専門職としての資格に加え、国家社会主義の意味での政治的信頼性も証明しなければならなくなった。独裁者にとっ
て特に重要な分野では、独裁者はすべての政府・行政機関の上位に位置する国家委員を任命した。1938年に国防軍を指揮することで、ヒトラーは軍の直接的
な指導力も確保した。
ナチス国家は自ら引き起こした第二次世界大戦で滅亡した。反ヒトラー連合は1945年5月8日、ドイツ国防軍に無条件降伏を迫った。1945年6月5日、
アメリカ、イギリス、ソビエト連邦、フランスの戦勝国も正式にドイツの統治権を引き継いだ。
政治学や歴史研究の分野では、ナチス国家はファシスト、全体主義、ポリクラティック、絶対主義、近代化、カリスマ支配、便宜独裁などと形容されてきた」NS-Staat, からの翻訳.
この年表(左カラム)は「13-10.【年表・地図】ナチズムとジェンダー」 (掲載:2016-02-06 作成:三成美保氏)から全面的に流用したものである。
以下は1932年から1945年まで(つまりナチス
政権下)のナチスの年表を記している、それ以前の1920-1933のナチスの年譜はこちらで
す。
1932 | 3月~4月 大統領選挙にヒトラーが出馬したが次点となる。 7月31日 国会議員選挙。230議席を獲得し第1党となる。 11月6日 国会議員選挙。34議席を失ったが、196議席を確保し第1党の地位を保持する。 |
・それ以前の1920 -1933のナチスの年譜はこちらです |
1933 |
1月30日
ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを首相に任命。ナチ党、国家人民党など保守・右翼勢力の連立によるヒトラー内閣が成立(1920-1933のナチスの年譜はこちら)。 2月1日 新政府は大統領に要請して国会を解散。選挙戦に突入。 2月6日 大統領令により、プロイセン州内閣の権限が国家弁務官に譲渡されることとなる。この措置は2月中旬までにほとんどの州で行われ、地方行政が国家の監督を強 く受けることとなる。「強制的同質化」(Gleichschaltung)の開始。 ヘルマン・ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に就任。プロイセン州の警察権力をナチ党が掌握。 2月27日 国会議事堂放火事件発生。 2月28日 ヒトラーは緊急大統領令を布告させ、ワイマール共和国憲法によって成立した基本的人権のほとんどは停止され、ドイツ共産党員、ドイツ社会民主 党員らが大量に逮捕される。 3月5日 国会議員選挙執行。ナチ党は43.9%の票を獲得、288議席を得た。同日行われたプロイセン州議会選挙でもナチ党が躍進。 3月10日 バイエルン州の国家弁務官にフランツ・フォン・エップが就任し、州政府を解体。この時点ですべての州が国家弁務官の支配を受けることになる。 3月12日 大統領令により、新国旗を制定するまで黒・白・赤の旧ドイツ帝国国旗とナチ党旗であるハーケンクロイツ旗の両方を掲げる事を定めた。 3月20日 最初の強制収容所、 ダッハウ強制収容所が設立される。 3月21日 新国会の開会式。ヒトラーはヴァイマル共和国の伝統を否定し、ドイツ帝国からの権威継承を表明する。国民高揚の日と名付けられ祝日となる。(ポツダムの 日) 3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が憲法的にも確立された。 ※ナチスは大量の法令を作って「合法的」に統治したが、それらの法令はすべて政府・総統によって発布されたものである。ワイマール憲法が保障した議会制民 主主義は完全に否定された。 →*【史料】全権委任法(1933年) 3月31日 ラントとライヒの均制化(Gleichschaltung)に関する暫定法律公布。各州議会の議席が国会の議席配分に従って決められるようになり、地方自 治権はほぼ停止する。4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布。国家弁務官に代わってライヒ代官(または国家代理官、州 総督Reichsstatthalter)が中央政府から各州政府に派遣される。 4月26日 プロイセン州警察政治部門がプロイセン州秘密警察局(ゲシュタポ)と改名。 7月14日「政党新設禁止法」公布。ナチ党以外の政党の存続・結成が禁止される。 7月 「遺伝病の子孫の予防に関する法律(Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses)」を公布(1933年7月14日)、「遺伝病法廷」を設置. 9月13日 「人種科学」の履修が必須化される(バーリーとヴィッパーマン 2001:167)[→ハンス・ ギュンター] 10月21日 ジュネーブ軍縮会議の決裂を理由として国際連盟脱退。 12月1日「党と国家の統一を保障するための法律」公布。ナチ党と国家の一体化が定められる。 |
・1933年以降に大学を追われた研究者(Albert
Einstein;
Max Born;
Fritz Haber;
Otto Fritz Meyerhof;
Theodor W. Adorno;
Martin Buber;
Ernst Bloch;
Max Horkheimer; Ernst Cassirer;
Herbert Marcuse;
Louis Hamilton, 1879-1948) |
1934 |
1月30日
「ドイツ国再建に関する法」成立。各州の主権がドイツ国に移譲され、州議会が解散される。 5月「バルメン神学宣言」(ベンツ 2014:47) 6月30日 「長いナイフの夜」事件(レーム事件)。突撃隊幹部や前首相シュライヒャーなど百名ほどが処刑される。 8月1日 「国家元首に関する法律」が閣議で定められる。 8月2日 ヒンデンブルク大統領が死去。「国家元首に関する法律」が発効し、首相職に大統領職が統合されるとともに、「指導者およびドイツ国首相(Führer und Reichskanzler))アドルフ・ヒトラー」個人に大統領の権能が委譲される。以後、ドイツ国の最高指導者となったヒトラーの地位を日本では「総 統」と呼ぶ。 8月19日 国家元首に関する法律の措置に対する国民投票。投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。 |
・カール・
シュミットは、1934 年のいわゆるレーム事件における殺人を「総統命令」の法理によって正当化した。 ・この年、チュービンゲン大学(Eberhard Karls Universität Tübingen)に民俗学の独立講座がドイツではじめて設置された(2年後研究所) |
1935 |
1月13日 ザール地方が住民投票によりドイツ領に復帰。 5月16日 ドイツ再軍備宣言。 9月15日 「ニュルンベルク人種法」制定 ※ユダヤ人の家庭が45歳以下のドイツ人女性をメイドとして使うことを禁止する法案を可決。 |
・カール・ シュミットは、「ニュルンベルク人種法」を「自由の憲法」 と呼ぶ。 |
1936 |
3月7日 ラインラント進駐。 8月1日 ベルリンオリンピック開幕 10月「非ユダヤ化会議」開催(クーンズ 2006:284) |
・チュービンゲン大学に民俗学研究所が設置される |
1937 |
11月5日
ヒトラーが軍幹部と外相ノイラートを集めた会議で戦争計画を語る。(ホスバッハ覚書) |
|
1938 |
1月26日
ブロンベルク国防相を罷免。28日にはフリッチュ陸軍総司令官も罷免され、ナチ党による国防軍支配が強固になる(ブロンベルク罷免事件) 3月13日 オーストリアを併合(独墺合邦=アンシュルス)。 4月6日ウィーン大学医学部の学部長にナチス党員エドゥアルト・ペルンコツプ(Eduard Pernkopf, 1888-1955)が就任(1942年学長)。 9月29日 ミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方を獲得。 11月9日 水晶の夜事件(ユダヤ人商店への襲撃)→ユダヤ人商店 の営業停止・ユダヤ人セクシュアリティ表象?をドイツの学校から追放する。 記録映画『オリンピア(Olympia)』(『民族の祭典』と『美の祭典』の2部作):ベルリン・オリンピックの記録映画。監督はレニ・リーフェンシュ タール。 |
|
1939 |
1
月30日この時期以降、ヒトラーは、その演説による諸外国に対する敵意と反ユダヤ主義を明確に打ち出す。 3月14日 チェコスロバキア内のスロバキア民族派に働きかけ、スロバキア共和国をチェコスロバキアから独立させる。 3月15日 チェコスロバキアのボヘミア・モラビアをベーメン・メーレン保護領として保護領とする(チェコスロバキア併合)。 3月22日 リトアニアのメーメルを住民投票で併合。 4月20日ヒトラー50歳の誕生日 8月「ヒトラーは医師と助産婦に対する内務省令を発し、「障害者と障害新生児」を保健局 に届けることを義務化し、身体障害児の安楽死計画が開始する」 8月23日 独ソ不可侵条約締結。 9月1日 スロバキアと共同してポーランドに侵攻。 9月3日にイギリス、4日にフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発。 9月「ヒトラーは、カール・ブラントに「不治と判断される人間に対して、慎重な診察の上 に安楽死がもたらされるよう、特定の医者の権限を拡大する責任を与える」命令」 1939年9月〜1941年8月 T-4計画の実際の運用 10月1日までにポーランド全土を制圧。ポーランド総督府を設置。 |
・The first Reichsuniversität started to
work in Prague, November 4, 1939. ・The University of Poznań was closed by the German Occupation in 1939, and reopened 1941 as "Reichsuniversität Posen", a "Grenzlanduniversität" aligned with the German occupation forces' ideology. Its faculty included SS-Hauptsturmführer Reinhard Wittram and SS-Untersturmführer Ernst Petersen, who was a professor of the Department of Prehistory for one year, and anatomist Hermann Voss. It ceased operations in 1944. ・The University of Strasbourg (Reichsuniversität Straßburg) was transferred to Clermont-Ferrand in 1939 and Reichsuniversität Straßburg existed 1941–1944. As Dean of the Medical School, August Hirt (アウグスト・ヒルト) constituted, National Socialist politics, anatomical institutions, and anatomists. |
1940 |
4月9日
ノルウェー、デンマークに侵攻(ヴェーザー演習作戦・ノルウェーの戦い)。デンマークは降伏し、保護国下に置かれる。 5月にはほぼノルウェー全土を占領。ヴィドクン・クヴィスリングによる傀儡政権が設置される。 5月10日 フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始(ナチス・ドイツのフランス侵攻、オランダにおける戦い (1940年))。ルクセンブルクは占領、併合される。 5月17日 ヨーロッパのオランダ軍がドイツ軍に降伏。 5月28日 ベルギー降伏。 6月21日 フィリップ・ペタンを首相とするフランス政府、ドイツに休戦申し入れ、翌22日に独仏休戦協定締結。北部をドイツの占領下に置き、南部はヴィシー政権とし てドイツの強い影響下に置かれる。 9月20日 日独伊三国軍事同盟締結。 |
|
1941 |
4月6日 ユーゴスラビア侵攻開始。 4月17日 ユーゴスラビア制圧。セルビアを占領下に置き、クロアチアにはクロアチア独立国を建国し、保護国とする。 4月10日 ギリシャ・イタリア戦争にイタリア側として介入(バルカン半島の戦い)。 6月22日 バルバロッサ作戦を発動し、ソビエト連邦に侵攻(独ソ戦)。 8月3日にミュンスター大司教クレメンス・フォン・ガーレン(Clemens August Graf von Galen, 1878-1946)がT-4計画に反対表明する。このことがT-4計画のなし崩し的な表面的な終焉に結びつく。 8月以降「身 体に障害を持ったドイツ人を殺すのに使用されたガス発生装置や人員は(絶滅強制収容所での殺害実施のために)東欧のポーランド(ベウジェッツ、ソビボル、 トレブリンカ、など)に送られた。「反社会的分子」やシンティ・ロマなどのが、強制収容所での安楽死が実施されることになる(最終的な犠牲者総数20万 人)」 12月11日 12月7日に日本が真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリスに宣戦布告したことを受け、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告。 |
第三帝国(1941-1942) |
1942 |
1
月 ヴァンゼー会議「ユダヤ人問題の最終的解決」 10月 ドイツ国内の強制収容所の全ユダヤ人をアウシュヴィッツに移送。 11月10日 連合軍のトーチ作戦に対抗するため、ヴィシー政権統治下のフランス南部の占領を開始(アントン作戦) |
|
1943 |
2月2日
スターリングラードで、パウルス元帥率いる第6軍がソ連軍に降伏(スターリングラードの戦い) 2月22日 「白いバラ」グループ(ショル兄妹とプロープスト)の裁判(民族裁判所)・処刑 6月24日 公用文書で「大ドイツ国」(Großdeutsches Reich)の国号が用いられ始める。 7月25日 イタリア王国においてムッソリーニが首相を解任、逮捕される。 9月8日 イタリアが連合国に降伏。 9月15日 グラン・サッソ襲撃により救出したムッソリーニを首班としてイタリア社会共和国をイタリア北部に成立させる。 |
|
1944 |
3月8日 マルガレーテI作戦によりハンガリー王国を占領下に置く。 6月6日 ノルマンディー上陸作戦。連合国軍がフランス北部に上陸し、橋頭堡を築く。 7月20日 反ヒトラー派グループ(黒いオーケストラ)により、ヒトラー暗殺計画とクーデターが行われるが失敗に終わる。 8月25日 パリの解放。枢軸国であったルーマニアが連合国につき、ドイツに宣戦布告(ルーマニア革命 (1944年))。 9月 西部戦線において連合軍がドイツ国境を越えて侵攻。占領地に連合軍による地方政府が樹立されはじめる。 アンネ・フランク(『アンネの日記』で有名)(1929-1944)がベルゲン=ベルゼン収容所で死亡。 |
|
1945 |
4月16日 ベルリンの戦い始まる。 4月30日 ヒトラー自殺。後継大統領にカール・デーニッツ、首相にヨーゼフ・ゲッベルスを指名。 5月1日 ゲッベルスが地下壕において自殺し、政府機能が崩壊。デーニッツのフレンスブルク政府が活動を開始。 5月2日 ベルリンがソ連軍に占領される。 5月7日 アルフレート・ヨードル大将がランスにおいて連合国への降伏文書に署名。 6月5日 ベルリン宣言により、ドイツに中央政府が存在しないことが確認される。統合的な占領行政がスタート(連合軍軍政期)。 7月5日 ドイツの統治を担当する連合国管理理事会(Allied Control Council)設置。 |
+++
ナチス政権に反対した歴史家たち、ナチスに協力した
歴史家たち
Hermann Oncken,
1869-1945 |
Hermann Gerhardt Karl Oncken (16
November 1869 in Oldenburg, Germany – 28 December 1945 in Göttingen,
Germany) was a German historian and political writer. He was one of the
most notable historians of pre-Nazi Germany.He lectured at the
universities of Chicago (1905), Giessen (1906), Heidelberg (1907–1923),
Munich (1923–1928), and Berlin (1928–1935). In 1935 he was forced to
retire by the Nazi regime, which he opposed. He specialized in the 19th
century, history of historical thought, history of political thought. |
ヘ
ルマン・ゲルハルト・カール・オンケン(1869年11月16日、ドイツ・オルデンブルク -
1945年12月28日、ドイツ・ゲッティンゲン)は、ドイツの歴史家、政治家である。シカゴ大学(1905)、ギーセン大学(1906)、ハイデルベル
ク大学(1907-1923)、ミュンヘン大学(1923-1928)、ベルリン大学(1928-1935)で講義を行った。1935年、彼は反対してい
たナチス政権によって引退を余儀なくされた。専門は19世紀、歴史思想史、政治思想史。 |
Franz Schnabel,
1887-1966 |
Franz Schnabel (18 December
1887,
Mannheim – 25 February 1966, Munich) was a German historian. He wrote
about German history, particularly the "cultural crisis" of the 19th
century in Germany as well as humanism after the end of the Third
Reich. He opposed Nazism during the Second World War. |
フ
ランツ・シュナーベル(1887年12月18日マンハイム -
1966年2月25日ミュンヘン)は、ドイツの歴史家である。ドイツの歴史、特に19世紀のドイツの「文化的危機」、第三帝国崩壊後のヒューマニズムにつ
いて執筆した。第二次世界大戦中はナチズムに反対した。 |
Gerhard Ritter,
1888-1967 |
Gerhard Georg Bernhard Ritter (6
April 1888, in Bad Sooden-Allendorf – 1 July 1967, in Freiburg) was a
nationalist-conservative German historian, who served as a professor of
history at the University of Freiburg from 1925 to 1956. He studied
under Professor Hermann Oncken. A Lutheran, he first became well known
for his 1925 biography of Martin Luther and hagiographic portrayal of
Prussia.[1] A member of the German People's Party during the Weimar
Republic, he was a lifelong monarchist and remained sympathetic to the
political system of the defunct German Empire. A critic of both democracy and totalitarianism, he supported authoritarian rule and German supremacy in Europe. His vision of history was narrowed to German interests and of little sympathy to foreign nations but full of disdain for Catholicism.[2] He cooperated with Nazi historians on anti-Polish propaganda.[citation needed] Eventually, his conflict with the Nazi regime got him arrested by it in 1944. Following World War II, Professor Ritter worked to restore German nationalism by attempting to separate it from Nazi ideology, and favored pursuit of German national interests rather than reconciliation with victims of German aggression. At the end of his career, he argued against theories of the German historian Fritz Fischer. Ritter was an honorary member of the American Historical Association from 1959. |
ゲ
ルハルト・ゲオルグ・ベルンハルト・リッター(Gerhard Georg Bernhard Ritter、1888年4月6日 Bad
Sooden-Allendorf - 1967年7月1日
Freiburg)は、民族主義・保守主義のドイツの歴史家で、1925年から56年までフライブルク大学の歴史学の教授を勤めた。ヘルマン・オンケン教
授に師事した。ワイマール共和国時代のドイツ人民党員であったが、生涯君主主義者で、消滅したドイツ帝国の政治体制に同情的であった[1]。 民主主義と全体主義の双方を批判し、権威主義的な支配とヨーロッパにおけるドイツの優位を支持した。また、ナチスの歴史学者と協力して反ポリコールのプロ パガンダを行った[2]。 第二次世界大戦後、リッター教授はドイツのナショナリズムをナチスのイデオロギーから切り離し、ドイツの侵略の犠牲者との和解よりもドイツの国益を追求す ることを支持し、その回復に努めた。晩年は、ドイツの歴史家フリッツ・フィッシャー(Fritz Fischer)の学説に反論している。1959年からはアメリカ歴史学会の名誉会員となった。 |
Ernst Simon,
1900-1988 |
Ernst Akiba/Akiva Simon (Hebrew:
עקיבא ארְנְסְט סימון; March 15, 1900 in Berlin – August 18, 1988 in
Jerusalem) was a German-Jewish educator and religious philosopher. In
the 1920s, Ernst Simon co-founded one of the earliest Israeli peace
groups, Brit Shalom along with Martin Buber. From 1930 to 1933 he
taught at the Hebrew Reali School Haifa, headed by Arthur Biram. In
1942, he was one of the founders of the binationalist Ihud party. |
エ
ルンスト・アキバ・シモン(ヘブライ語:עקיבא ארימון、1900年3月15日ベルリン -
1988年8月18日エルサレム)は、ドイツ系ユダヤ人の教育者、宗教哲学者であった。1920年代、エルンスト・シモンはマルティン・ブーバーととも
に、イスラエルの初期の平和団体の一つであるブリット・シャロームを共同設立した。1930年から1933年にかけては、アーサー・ビラムが校長を務める
ヘブライ・リアリ・スクール・ハイファで教鞭をとった。1942年には、二元代表制政党イフードの創設者の一人となった。 |
George W.
F. Hallgarten, 1901-1975 |
George W. F. Hallgarten, or
Georg(e) Wolfgang Felix Hallgarten (January 3, 1901, München – May 22,
1975, Washington, DC), was a German-born American historian. Hallgarten was a student of Max Weber in the University of Munich for a short time. In 1925 he became Dr. phil. in Munich, taught by Hermann Oncken and Karl Alexander von Müller. In 1933, he moved to Paris to flee the Nazis, mainly due to his Marxist approach and his pacifist conviction, as his mother was the German pacifist Constanze Hallgarten. Hallgarten's grandfather Charles Hallgarten had U.S. citizenship already, but G. W. F. Hallgarten had to re-naturalize as an American in 1942. Afterwards, he took part in the U.S. war effort during World War II, working for the psychological warfare division (PWD). When World War II ended, Hallgarten returned to the US, working as a historian, initially for the U.S. Army. When the Cold War evolved, he refused to work for the Army and resigned. He was a guest professor several times: in the U.S., in Germany, Japan (1965), India (1965) and Italy (1967), without a tenured professorship until 1972. Then he became Robert Lee Bailey professor at the University of North Carolina in Charlotte. |
ジョージ・W・F・ホールガーテン(Georg(e)
Wolfgang Felix Hallgarten, 1901年1月3日、ミュンヘン -
1975年5月22日、ワシントンDC)は、ドイツ生まれのアメリカの歴史家である。 ミュンヘン大学で短期間、マックス・ウェーバーに師事した。1925年、ミュンヘンでヘルマン・オンケンやカール・アレクサンダー・フォン・ミュラーの教 えを受け、博士号となった。1933年、ナチスから逃れるためにパリに移るが、その主な理由は、彼のマルクス主義的アプローチと、母親がドイツの平和主義 者コンスタンツェ・ハルガルテンだったため、平和主義的信念を持っていたためである。 ホールガーテンの祖父チャールズ・ホールガーテンはすでにアメリカ国籍を持っていたが、G. W. F. ホールガーテンは1942年にアメリカ人として再帰化する必要があった。その後、第二次世界大戦中はアメリカの戦争活動に参加し、心理戦部門(PWD)に 勤務した。 第二次世界大戦が終わると、ホールガーテンはアメリカに戻り、最初はアメリカ陸軍で歴史家として働いていた。冷戦が進むと、彼は陸軍のために働くことを拒 否し、辞職した。米国、ドイツ、日本(1965年)、インド(1965年)、イタリア(1967年)と何度も客員教授を務めたが、1972年まで終身教授 の地位には就かなかった。その後、シャーロットにあるノースカロライナ大学のロバート・リー・ベイリー教授となる。 |
Walter Frank,
Werner Fiedler, 1905-1945 |
Walter Frank, also known by the
pseudonym Werner Fiedler (12 February 1905 in Fürth – 9 May 1945 in
Gross Brunsrode near Braunschweig) was a Nazi historian, notable for
his leading role in anti-Semitic research.[1][2][3] Frank was born in
Fürth, Kingdom of Bavaria. In his youth, he attended Julius Streicher
rallies; his politics were heavily influenced by the Bavarian Soviet
Republic and the Beer Hall Putsch. In 1923 Frank started to study
history at the University of Munich under Hermann Oncken, Karl
Haushofer, and Karl Alexander von Müller. He earned his Ph.D. in 1927
with a dissertation about Adolf Stoecker. His doctoral advisor was
Müller, who was anti-semitic and supportive of Adolf Hitler.[2] He was
increasingly active in the Nazi movement, and published many
anti-semitic works. He was director of the Reichsinstitut
für Geschichte des neuen Deutschlands ("Reich Institute for History of
the New Germany", sometimes referred to as "Frank's Institute") from
its opening in 1935. The institute's goal was to create a new, proper,
Nazi-based historiography and study the "Jewish question"; this area
had its own sub-institute from 1936.[1][2][4] Frank was a protegee of
Alfred Rosenberg, one of Nazism's chief ideologues.[4] Notable Nazi
historians working in the institute included Karl Alexander von Müller,
Erich Marks and Heinrich von Srbik. Frank committed suicide at
Brunsrode near Braunschweig in 1945, believing the world to be
senseless after the death of Hitler.[5] |
ヴァ
ルター・フランク(Werner Fiedler、1905年2月12日フュルト -
1945年5月9日ブラウンシュヴァイク近郊のグロス・ブルンスローデ)は、ナチの歴史学者で、反ユダヤ主義研究の主導的役割を果たしたことで知られてい
る[1][2][3]
フランクはババリア王国、フュルトに生まれた。青年期にはユリウス・シュトライヒャーの集会に参加し、彼の政治はバイエルン・ソビエト共和国とビアホール
一揆に大きく影響されていた。1923年、フランクはミュンヘン大学でヘルマン・オンケン、カール・ハウスホーファー、カール・アレクサンダー・フォン・
ミュラーに師事し、歴史学を学び始める。1927年、アドルフ・シュテッカーについての論文で博士号を取得した。博士課程の指導教官はミュラーで、彼は反
ユダヤ主義者でアドルフ・ヒトラーを支持していた[2]。
ナチス運動でますます活発になり、多くの反ユダヤ的な著作を出版した。1935年に開設された「新ドイツ帝国史研究所」(Reichsinstitut
für Geschichte des neuen
Deutschlands、「フランクの研究所」とも呼ばれる)の所長を務めた。フランクは、ナチズムの主要なイデオローグの一人であるアルフレッド・
ローゼンベルクの子飼いであった[4]。フランクは1945年にブラウンシュヴァイク近郊のブルンスローデで自殺し、ヒトラーの死後は世界が無意味になっ
たと考えた[5]。 |
Michael
Freund, 1902-1972 |
Michael Freund (1902-1972) was
German historian and Professor at the University of Kiel. Freund's view
was that Louis Napoleon was the only real revolutionist in 1848. Freund
wrote, "After the solemn republican respectablity of 1848 it seemed
that only with the Napoleonic experiment did a great revolutionary élan
appear on the stage of history".[1] "The state created by Napoleon was
anti-socialist, but it was not the laissez-faire state of capitalism.
The social ideals of the disciples of Saint-Simon were given by
Napoleon, for the first time, a military and authoritarian aspect."[2] |
ミ
ヒャエル・フロイント(1902-1972)はドイツの歴史学者で、キール大学の教授であった。フロイントは、1848年における真の革命家はルイ・ナポ
レオンだけであったと考えていた。フロイントは「1848年の厳粛な共和制の尊重の後、ナポレオンの実験によってのみ、偉大な革命的エランが歴史の舞台に
現れたように思われた」[1]、「ナポレオンが作った国家は反社会主義であるが、資本主義の放任主義国家ではなかった」[2]、「ナポレオンが作った国家
は、社会主義であるが、資本主義のレッセフェールのようではなかった。サン=シモンの弟子たちの社会的理想は、ナポレオンによって初めて軍事的・権威主義
的な様相を呈したのである」[2]。 |
Paul Kluke,
1908-1990 |
Professor Paul Otto Alfred Kluke
(31 July 1908, in Dabendorf near Zossen – 18 April 1990, in Wiesbaden)
was director of the German Historical Institute London from August 1975
to July 1977.[1] |
ポール・オットー・アルフレッド・クルーク教授(1908年7月31
日、ゾッセン近郊のダーベンドルフ生まれ、1990年4月18日、ヴィースバーデン生まれ)は、1975年8月から1977年7月までロンドン・ドイツ歴
史研究所の所長であった[1]。 |
Margret Boveri, 1900-1975 |
Margret Antonie Boveri (14
August
1900 – 6 July 1975)[1] was one of the best-known German journalists and
writers of the post-World War II period. She was a recipient of the
German Critics' Prize and the Bundesverdienstkreuz. She studied history
and political science in Munich and Berlin. From 1934 she worked in the
Foreign Affairs section of the Berliner Tageblatt newspaper, where she
was promoted by the editor, Paul Scheffer.[2] From 1939 until 1943 (when the newspaper was banned) she worked as foreign correspondent for the Frankfurter Zeitung newspaper in Stockholm and New York City. She was awarded the War Merit Medal by the Nazi Government in 1941; she herself was never a member of the Nationalist Socialist Party. After the USA entered the war she was interned for a time in New York, before being returned, at her own request, to Europe. In May 1942 she arrived in Lisbon, where she continued her work as correspondent for the Frankfurter Zeitung. While in Lisbon she became acquainted with the Swiss journalist Annemarie Schwarzenbach, who was to die shortly afterwards in an accident in Switzerland.[3] After the Frankfurter Zeitung was banned by the German government in 1943, Boveri returned to Berlin, where her apartment was destroyed in an air strike. She then took up work as a report writer in the German embassy in Madrid before returning to Berlin in 1944 to work as a freelance writer with the National Socialist weekly Das Reich.[2] |
マ
ルグレット・アントニー・ボベリ(Margret Antonie Boveri、1900年8月14日 -
1975年7月6日)[1]は、第二次世界大戦後のドイツで最も有名なジャーナリスト・作家の一人である。ドイツ批評家賞やブンデスベルディエンストクロ
イツを受賞している。ミュンヘンとベルリンで歴史と政治学を学ぶ。1934年からベルリン・ターゲブラット紙の外交部門に勤務し、編集長のパウル・シェ
ファーに推された[2]。 1939年から1943年(新聞が禁止される)まで、フランクフルター・ツァイトゥング紙の外国特派員としてストックホルムとニューヨークで働く。 1941年にナチス政府から戦功勲章を授与されたが、彼女自身は国家社会党の党員では無かった。アメリカが参戦した後、彼女はニューヨークで一時期抑留さ れたが、本人の希望でヨーロッパに戻された。1942年5月、彼女はリスボンに到着し、『フランクフルター・ツァイトゥング』の特派員として仕事を続け た。リスボン滞在中にスイス人ジャーナリストのアンネマリー・シュヴァルツェンバッハと知り合うが、彼女はその後まもなくスイスで事故死することになる [3]。 1943年にフランクフルター・ツァイトゥングがドイツ政府によって発禁処分を受けると、ボヴェリはベルリンに戻り、空爆でアパートを破壊された。その 後、マドリードのドイツ大使館でルポライターとして働き、1944年にベルリンに戻り、国家社会主義の週刊誌『Das Reich』でフリーランスのライターとして働くようになった[2]。 |
Felix Hirsch,
1902-1982 |
Felix Eduard Hirsch (Berlin, 7
February 1902 – 12 December 1982 Newtown, Pennsylvania[1]) was a
journalist for the Berliner Tageblatt[2] and latterly; historian,
librarian and professor at Bard College in New York.[3] As a journalist
in Berlin, Hirsch was involved in the infamous libel case of Kurt
Soelling.[4]On 18 May 1932, Judge Kurt Soelling (born Seligsohn), the
chairman of the Berlin District Court, brought a libel action against
Hirsch for an article he wrote in the Achtuhr Abendblatt that revealed
Soelling's Jewish identity. Soelling was born into a Jewish family, but
baptised a Protestant in later life. He had been a member of the Social
Democratic Party of Germany but in 1931, declared himself a monarchist
and became a prominent supporter of the burgeoning Nazi Party and Adolf
Hitler. Hirsch's article not only revealed the judge's Jewish identity,
but alleged that he had converted to Protestantism to further his
judicial career. Hirsch denounced Soelling as a "dishonest
politician".[4] The case concluded on 19 May 1932, with Soelling admitting that he was of Jewish descent, but that he had converted out of conviction. He explained his activities within the Nazi Party as an attempt to understand the organisation, and justified his use of the Nazi salute by the fact that everyone else at the rallies he attended had used it. Hirsch lost the libel case, and was ordered to pay damages of 500 Reichsmark.[6] According to a dispatch issued by the Jewish Telegraphic Agency regarding the intriguing proceedings: There was something of a sensation in court when it came out in the course of the proceedings that Judge Soelling is the son of the lay head of the Romberg Jewish Community, and that he had held over his baptism until after the death of a rich uncle who was a strictly observant Jew, so that he should not be cut out of his will, and that he had been baptised only after he had received the legacy.[6] Justice Soelling was eventually disbarred and forbidden to practice law in Germany as a result of the Nazis' anti-Semitic reforms of 1933.[7] |
1932
年5月18日、ベルリン地方裁判所長のクルト・ゾーリン(Seligsohn)判事は、ハーシュが『Achtuhtuht』誌に書いた記事に対して名誉毀
損で訴えた。 [1932年5月18日、ベルリン地方裁判所長のクルト・ゾーリン(Seligsohn出身)判事は、ハーシュが『Achtuhr
Abendblatt』に書いた記事でゾーリンがユダヤ人であることを明らかにしたとして名誉毀損の訴えを起こした。ソールディングは、ユダヤ人の家庭に
生まれたが、後にプロテスタントの洗礼を受けた。ドイツ社会民主党に所属していたが、1931年に君主論者を宣言し、急成長するナチス党とアドルフ・ヒト
ラーの有力な支持者となった。ハーシュの記事は、判事がユダヤ人であることを明らかにしただけでなく、判事のキャリアを積むためにプロテスタントに改宗し
たことを主張した。ハーシュはソエリングを「不正直な政治家」と糾弾した[4]。 1932年5月19日に裁判は終結し、ゼーリングは自分がユダヤ人の血を引いていることを認めたが、確信犯的に改宗したのだと述べた。彼は、ナチ党内での 自分の活動を、組織を理解するための試みであると説明し、ナチスの敬礼を使ったことを、彼が参加した集会で他の皆が使っていたことから正当化した。ハー シュは名誉毀損の裁判で敗訴し、500ライヒスマルクの損害賠償を命じられた[6]。 この興味深い訴訟についてユダヤ通信社が発行した通信によれば、次のようになる。 訴訟の過程で、ゼーリング判事はロンバーグのユダヤ人コミュニティの信徒の長の息子であり、厳格な遵守者である金持ちの叔父の死後まで洗礼を保留し、彼の 遺言から切り離されないようにし、遺産を受け取った後に洗礼を受けたことが明らかになり、法廷では何かセンセーションが起こった[6]。 ソエリング判事は、1933年のナチスの反ユダヤ主義改革の結果、最終的に資格を剥奪され、ドイツで弁護士をすることを禁じられた[7]。 |
+++
+++
●ナチス研究資料アーカイブなど(Kooz
2003:276)
BAB |
Bundesarchiv Berlin-Lichterfelde:ベルリン・リヒターフェルデ連邦公文書館(ブンデスアーカイブ) | |
BDL |
Berlin Document Center:ベ ルリン資料センター | |
DBFP |
Documents on British Foreign Policy:英外交政策資料 | |
DPF |
Documents diplomatique français:仏外交政策資料 | |
FRUS |
Foreign Relations of the United States:アメリカ合衆国外交資料 | |
Houghton |
Houghton Library, Harvard University:ホートンライブラリー(ハーバード大学) | |
IMT |
Trial of the Major War
Criminals before the International Military Tribunal:国際軍事法廷裁判 |
|
NV |
Neues Volk: Blätter des
Aufklärungsamtes für Bevölkerungspolitik und
Rassenpflege:「ノイエス・フォルク(新しい民族)」誌 |
|
RBMSCL |
Rare Book, Manuscripts, and Special Collection Library, Duke University:デューク大学稀覯書館 | |
REM |
Ministerium für Wissenschaft, Kunst und Volksbildung:科学文化国民教育省 | |
RMdI |
Reichsministerium des Inneren:内務省 | |
SK |
Das Schwarze Korps:「ダス・シュバル ツェ・コール(黒い軍隊)」誌 | |
Sopade |
Deutschland-Bericht der Sozialdemokratischen Partei Deutschlands/Sopade:ドイツ社会民主党ドイツ報告 | |
StAM | Staatsarchiv Munich:ミュンヘン国立公文書館 | |
VB | Der Völkischer Beobachter:デア・フェル キッシャー・ベオバハター紙 | |
ZuW | Ziel und Weg:ツィール・ウント・ヴェーク |
+++
Links
リンク
文献
その他の情報