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ナチス:結党期(1920)から政権掌握(1933)までの年譜

From foundation of Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (National Socialist German Workers' Party) to the End of the Nazi,: From 24 February 1920 to 10 October 1945.

池田光穂

ナチスあるいはナチ(Nazi)は、「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei, NSDAP)」の呼称である。ナチスは1933年から1945年まで政 権を掌握していたおり、ユダヤ人やロマなどの少数民族や、精神障害者への逆説や安楽死をおこなつたり、(先行するワイマール共和国などの政治運用形式で あった)民主主義的な権利を制限したナチズムと呼ばれる全体主義的体制の運営に特徴づけられる。ナチス・ドイツは、とりわけ、それまでに軍国領土拡張政策 をつづけていたが、1941年以降のソビエト侵攻という第二次大戦以降の戦争遂行による軍事国家化、「ユダヤ人の最終解決」で表現される大規模なユダヤ 人・少数民族絶滅政策にむすびつく、20世紀近代政治の「暗黒の歴史」を現代社会に我々に教えた点で、1945年以降、じつにさまざまな研究者、政治家、 市民が、この政治体制とその歴史について議論してきた。

前史——※ウィキペディア「国民社会主義ドイツ労働者党」からの引用

●反ユダヤ主義と汎ドイツ主義

ゲオルグ・リッター・フォン・シェーネラー(Georg Ritter von Schönerer, 1842年7月17日 - 1921年8月14日)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて活動したオーストリア=ハンガリー帝国の地主で政治家。オーストリアにおける主要な(汎スラブ主義と対抗する)汎ゲルマン主義とドイツ民族主義の提唱者で、政治的なカトリシズムの急進的な反 対者、そして過激な反ユダヤ主義者でもあり、彼の煽動は若きアドルフ・ヒトラーに多大な影響を与えた。シェーネラーはオーストリアにおける最も急進的な汎 ゲルマン主義者の世代として知られている。」

1918 戦局は悪化の一途を辿り、ブルガリア、オ スマン帝国、オーストリア=ハンガリーの同盟諸国が相次いで降伏。11月のキール軍港での水兵の反乱を引き金にして、皇帝ヴィルヘルム2世は退位を発表、 オランダに亡命した。

1918 11月11日に、コンピエーニュの休戦協 定により、第一次世界大戦は休戦。帝政最後の宰相、バーデン公子マックスPrince Maximilian of Baden)はドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands, SPD)のフリードリヒ・エーベルト(Friedrich Ebert, 1871-1925)に首相位を委ねた。ドイツ社会民主党などの政党は人民委員会会議を形成したが、スパルタクス団等を中心とする左派は、さらなる革命の進展を求めていた。

1919 初頭、スパルタクス団蜂起によって左派が壊滅すると、ヴァイマル共和国軍と強調した ヴァイマル連合(Weimarer Koalition; Weimar Coalition)(ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ民主党)が政権を握り、7月末には当時世界で最も民主主義的とされたヴァイマル憲法を制定した。君主制から共和制へと移行したドイツ最初の首相エー ベルトが大統領となり、ドイツの統治に従事することとなった。

●反ユダヤ主義の政治団体

「第一次世界大戦中の1918年初頭 に「ドイツ労働 者の平和に関する自由委員会 (Freier Ausschuss für einen deutschen Arbeiterfrieden)」という労働者グループがブレーメンで結成された。国有鉄道ミュンヘン本工場に勤務する鉄道金具工[59]のアントン・ ドレクスラー(Anton Drexler, 1884-1942)はその地方組織を1918年3月7日にミュンヘンで結成した。この団体はマルクス主義、ボルシェヴィズム、平和主義、ユダヤ人、フ リーメーソ ン、戦時不当利得者、ヤミ商人と闘争することを目的としていた[60]。 この委員会に参加したのはドレクスラーの同僚であるミュンヘン鉄道工場の熟練工たちが中心だったが、委員会の好戦的ナショナリズムは、厭戦気分が高まって いた大戦末の人民の感情とかみ合っておらず、支持者は一向に増えず、会員40人を超えることができないでいた[60]。 そこでドレクスラーは1918年10月2日にトゥーレ協会会員でジャーナリストのカール・ハラー(Karl Harrer, 1890-1926)とともに「政治的労働者サークル」を結成し、トゥーレ協会(Thule-Gesellschaft; Thule Society)の後 援を受 けてドイツ労働者党の結成準備を行った。トゥーレ協会は右翼民族主義団体「ゲルマン 騎士団Germanenorden)1912 by Theodor Fritsch (1852-1933)」——スワスティカをシンボルとする——のバイエルン地方支部を基礎として1918年1月に結成された 反ユダヤ主義的な右翼団体であり、当時バイエルンにおいて220人ほどの会員をもち、バイエルンにおける様々な右翼団体・反ユダヤ主義団体に影響力を持っ ていた[61]。

●ドイツ労働者党

「1919年1月5日、ドレクスラー の同僚の鉄道員 25人が集まったミュンヘンの酒場「フュルステンフェルダー・ホーフ(Fürstenfelder Hof)」での集会においてドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei 略称DAP)の結党が行われた。党首にあたる第一議長にはハラーが就任した。結党時の党員は40人ほどであり、社会主 義と反ユダヤ 主義の色彩を帯びたナ ショナリズムを標榜した[59]。 この際にドレクスラーもトゥーレ協会へ加入し、ディートリヒ・エッカートやゴットフリート・フェーダーといったトゥーレ協会員たちがドイツ労働者党に協力 し、ドレクスラーの活動にも影響を与えるようになった[62]。「政治的労働者サークル」はもっぱらトゥーレ協会の指揮下にあったが、ドイツ労働者党は本 質的にドレクスラーが作った党であり、彼の起草による方針を定めた。その方針には次のようなものがあった。「党は精神的および肉体的な意味での創造的な民 族同胞をすべて糾合した社会主義的組織であって、ただドイツ人指導者によってのみ指導される。」「党はドイツ労働者の高尚化を欲する。熟練 の定住労働者は 中産階級としての評価を受ける権利を持つ。労働者とプロレタリアとの間には厳重な区別が設けられなければならない」「大資本はパン及び労働者の供給者であ るから保護しなければならない。彼らが労働者を無遠慮に搾取して、労働者の人間らしい存在を不可能にしない限りは」「党はドイツ経済生活の社会化はドイツ 国民経済を破滅させると考える。ゆえに社会化なしで労働者に対する利益の分配が必要である」「党は全力を挙げて不当利得者、物価つり上げに反対する。何ら の価値も創造しない者、いかなる精神的・肉体的労働も行わない者が高い利得を得ることには反対する」「党の主要目標の一つは手工業の奨励で ある。最も有能 な手工業者はもっと多くの利得を得るべきであり、熟練労働者は中産階級と同等の国家公民であるべきである。大資本主義者の犠牲となっている中産階級の増大 と安定が必要である」[63] バイエルンに社会主義政権が君臨している間は反ユダヤ主義に反対する空気がこの地方に強かったので、ドイツ労働党も公然たるユダヤ人攻撃は控 えていたが、 政府軍のミュンヘン進攻を受けてバイエルン・レーテ共和国(Bayerische Räterepublik)が崩壊した後には反ユダヤ主義言論を強めるようになった[63]。」

●ヒトラーの入党からドレクスラーの党首就任まで

「ヒトラーの入党 ヒトラーのドイツ労働者党党員証とされるもの。7番目の党員と記載されているが、後年に偽造されたものであると考えられている。 レーテ共和国崩壊後のアドルフ・ヒトラーは、ミュンヘンを占領したアルノルト・フォン・メール(ドイツ語版)歩兵大将を司令官とする政府軍(ドイツ国軍第 4軍集団を名乗っていた)が非合法に行っていた政治情勢を調査する仕事をしており、元々ドイツ労働者党に接近したのは、上官であるカール・マイヤー大尉に スパイを命じられたためであった。同党が1919年9月12日にミュンヘン中心部タール街(ドイツ語版)54番地にある酒場「シュテルンエッカー・ブロイ (ドイツ語版)」で開いた集会に参加したヒトラーは、ドイツ統一主義者として、バイエルン独立論者アダルベルト・バウマン(ドイツ語版)教授と激論した。 これをきっかけにドレクスラーから注目され、彼のパンフレット『我が政治的目覚め あるドイツの社会主義的労働者の日記より (Mein politisches Erwachen aus dem Tagebuch eines deutschen sozialistischen Arbeiters)』を贈られるとともに再来を懇願された[64][65]。 その後ヒトラーの下に「入党許可状」付きのはがきが送られてきて、9月16日にヘーレン通り(Herrnstraße)にある「アルテス・ローゼンバート (Altes Rosenbad)」で開催される党委員会に出席してほしいと要請があった[66][65]。『我が闘争』の中でのヒトラーの主張によれば、この党委員会 に出席した後にヒトラーはこの党のために活動することを決心したという[67]。マイヤー大尉の許可を得て、10月19日にドイツ労働者党へ入党した [68]。 ヒトラーは自分が7番目の党創設メンバーであると主張していたが、彼の党員番号は(党員を多く見せかけるため、501番から始まる)555番であり、この 番号も1920年にアルファベット順で作成された名簿に基づくものであった。ヒトラーが7番目の幹部であったという説もあるが、入会証や名簿作成以前の正 式な記録が無いため明確にはなっていない[69]。 ヒトラーの台頭とドレクスラーの党首就任 ヒトラーは自身が党を指導するようになってから党員や聴衆が急増したことを印象付けようとして初期の党を実際以上に小政党に描こうとする傾向があり [70]、『我が闘争』の中では1919年10月16日の「ホフブロイハウス」での集会の聴衆を111人、11月13日の「エーベルブロイケラー」での集 会を130人、12月20日の「ドイチェス・ビアホール」での集会を140人だったとしているが[71][72]、ミュンヘン警察情報部や軍情報部の記録 によればどの集会も300人程度の聴衆があったようである。党はトゥーレ協会の後援もあって、300人程度の聴衆をコンスタントに集める組織力 は結党時か ら持っていたとみられる。とはいえヒトラーが党の存在を一般民衆に広めようと精力的に活動し、彼の巧みな演説が人気を博して党勢の拡大につながったことは 事実である[73]。ヒトラーは演説のうまさに加え、党最初の有給幹部でヒトラーの軍隊仲間だったルドルフ・シュスラー(Rudolf Schüßler)らの支持を受けていたため、ヒトラーの党内における地位は無視できないものとなった[74]。 10月16日の「ホフブロイハウス」での集会から党は入場料の徴収と会場内での寄付金募集を行うようになった。入場料徴収と寄付金募集というのは右翼運動 としては新しい形態だったが、これにより党財政は安定した[74][68]。 初期の党委員会の会議はヘーレン通りの酒場「アルテス・ローゼンバート」の一室で行われることが多かった。党に送られてきた市民や党員からの手紙を読んだ り、返信を書いたり、集会の打ち合わせをしたり、政治問題の議論をしていた。しかしヒトラーはこうした委員会の在り方を「おしゃべりクラブ」と呼んで、そ の不活発さにいら立っていた[75]。 12月11日、ヒトラーはドイツ労働者党の党改革案を提出し、党委員会は公開の党員集会で選出されること、また党委員会は党綱領にのみ従い、トゥーレ協会 から完全独立した委員会になることを要求した。トゥーレ協会員で党を特殊意識を育てる秘密政治サークルに留めようとしていたハラー議長はこれに怒ってヒト ラーと対立したが、結局ハラーが敗れ、翌1920年1月にハラーは党を出ていくことになった[75][70]。 ミュンヘン・タール街(ドイツ語版)54番地「シュテルンエッカー・ブロイ(ドイツ語版)」の党本部事務所 12月22日にはこれまでも党集会場の一つとして使ってきた酒場「シュテルンエッカーブロイ」内の一室を賃貸して小さな党本部事務所を設けた。この賃貸契 約書に党を代表して署名しているのはヒトラーである[74][70]。 1920年1月5日にドレクスラーとヒトラーは議長であったハラーを解任し、ドレクスラーが新議長に就任した[76]。ハラーはトゥーレ協会員として党を 後援する立場にあったため、彼の追放により党とトゥーレ協会の直接の関係は切れることとなった[77]。ドレクスラー新党首の下でヒトラーは第一宣伝部長 に就任した[78][76]。」

1920
1920年1月5日以来ドレクスラーによって 「国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)」への党名変更が提案されていた。「ドイツ労働者党」では、マルクス主義的国際主義政党と間違われるというのがその理由 だった[76]。「国民社会主義」というのは、ドレクスラーが影響を受けていたオーストリアのドイツ国民社会主義労働者党( Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei; DNSAP)に倣ったものである[75]。こ の党名変更は2月20日に行われた[79]。ヒトラーは当初「社会革命党」を提案したが、ルドルフ・ユングに説得され、ドレクスラーの案を承諾した [80]。

1921
・3月からロンドン会議

1922
・7月、ヴィルト政府は連合国と賠償金の支払いに関して協議し、マルク の暴落を理由にして向こう3か年を含む再度の支払い猶予を求めたが、強硬な態度のフランスによって再度交渉は決裂
・6月24日、ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867-1922)はエアハルト海兵旅団配下の手によって暗殺

1923
・1923年1月11日のルール占領.
ミュンヘン一揆:11月8日から9日に、ドイツのミュンヘンでエーリヒ・ルーデンドルフ、アドルフ・ヒトラーらナチ党などの州右派勢力によって結成され たドイツ闘争連盟(Kampfbund) が起こしたクーデター未遂事件。4月1日の判決で、ルーデンドルフは無罪で、ヒトラーを含む4人が実刑となった。
・1921年ごろから始まるインフレーションはハイパーインフレーションを 引き起こした。
・11月23日にシュトレーゼマン内閣は崩壊
ニュルンベルク党大会がこの年から毎年開催される(〜1938年)
・【ミュンヘン一揆裁判判決後】 ヒトラーは5年の城塞禁固刑となり、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室に収監される。獄中は快適で待遇は極めて良く、独房は日当たりのよい清 潔な部屋、食事も上質で、差し入れや面会も自由であり、ナチス党員が身の回りの世話をした。主に面倒を見たのが、判決後に自首したヘスと運転手エミール・ モーリスである。当初落ち込んで食事を取らなかったヒトラーは落ち着きを取り戻し、ハンフシュテングルらが差し入れたチェンバレン、ニーチェ、マルクス、 ランケなどの大量の本を読み、自らのナチズム思想を固めていく。後年、ヒトラーは側近に「ランツベルクは国費による我が大学であった。」と評している。ま た、ヒトラーの著書『我が闘争』はこの時期に口述で執筆されたものである。この時期にヒトラーを励ましたのはエルナやスポンサーのヘレーネ・ベヒシュタイ ン夫人(ピアノメーカーベヒシュタインの創業者一族)、チェコスロバキアのドイツ国民社会主義労働者党創設者ハンス・クニルシュ、ヒトラーが失脚させたナ チスの前議長アントン・ドレクスラーなどがいる。州政府の中にはこの際ヒトラーを国外追放にせよとの意見もあったが、追放先と目されたオーストリア政府の 拒否に会い、立ち消えになった。判決から半年後、ヒトラーは保護観察処分に減刑され、12月20日に仮出獄した。
1924
・4月に「ドーズ案」が作成され、ドイツも了承。

1925
・2月28日にフリードリヒ・エーベルトは死去し、大統領選挙が行われる
・4月26日の2回目の決選投票で、パウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg, 1847-1934)が大統領に選出される。
・10月にはロカルノ条約が締結され、ヨーロッパにおける安全保障体制、 「ロカルノ体制」が成立。

1926
・4月24日には独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締 結

1927


1928
・1928年度の予算編成で紛糾し、5月の選挙で社会民主党は「軍艦よ り子供の給食を」をスローガンとする選挙キャンペーンを行う。
・このころ、ようやく景気が回復し「黄金の20年代(Goldene Zwanziger)」とよばれる

1929
・9月4日頃から始まり10月24日に発生したアメリカの株価の大暴落 の世界恐慌により、アメリカ資本の引き揚げが始まる。
・「ドイツ国民奴隷化に反対する法案」が9月に同委員会によって完成[117]、フーゲンベルクらは400万筆の署名を集めて人民投票の実施(1929年 12月29日)にまでこぎつけたが、580万票(選挙人数の13.8%)の賛成しか得られず失敗に終わった。

1930
・3月30日、ブリューニング内閣(大統領内閣; Präsidialkabinette)——ヴァイマル憲法第48条は、ドイツ国大統領に国会の支持がなくとも内閣の承認の もとで大統領緊急令により緊急措置を講ずる権限を与えていた。

1931


1932
・7月ドイツ国会選挙でナチ党が大躍進し第一党

1933
・1月30日にヒトラーが首相に就任
・3月23日全権委任法(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)制定。(→「ナチスの政権掌握 から敗戦まで」)
・第五回ニュルンベルク党大会「勝利の大会」

1934
・1934年には党創設者としてヒトラーからアントン・ドレクスラーに対して1923年11月9日記念メダルを授与した
・ドイツ=ポーランド不可侵条約調印
・8月ヒンデンブルク大統領死去、ヒトラー、総統と首相を兼務
・第六回ニュルンベルク党大会「統一と力の大会」

1935
・1月ザール人民投票(ドイツへの帰属決定)
・3月ヒトラー再軍備宣言。イギリス=ドイツ海軍協定
・第七回ニュルンベルク党大会「統一と力の大会」

1936
・3月ロカルノ条約破棄宣言、ラインランド進駐
・8月ベルリンでオリッピック大会。
・8月10日ベルリン=ローマ枢軸協定
・8月11日日独防共協定締結
・第八回ニュルンベルク党大会「名誉の大会」
・この年、オスヴァルト・シュペングラー死亡(1880-1936)

1937
・第九回ニュルンベルク党大会「労働の大会」
・11月ヒトラーの歴史的会議。日独伊三国防共協定(原署名国として追加加盟)

1938
・ヒトラー、ヴィルヘルム・カイテルを総長とする国防軍最高司令部を設 け、国防軍を掌握することに成功する。
・3月オーストリアを併合(独墺合邦=アンシュルス)。
・9月ミュンヘン会談(ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定。ズデーテン 地方はオーストリア=ハンガリー帝国の一部であったが、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約によってチェコスロバキアの一部となっ た。しかしこの地域をめぐってナチス・ドイツとチェコスロバキアが対立し、ミュンヘン協定によってドイツへの編入が認められた。)
・第10回ニュルンベルク党大会「大ドイツの大会」(最後のナチ党大会)
・11月水晶の夜事件(組織的ユダヤ人排斥の本格化)
ミュンヘン会談(Munich Agreement, 30 September 1938

From left to right: Neville Chamberlain, Édouard Daladier, Adolf Hitler, and Benito Mussolini pictured before signing the Munich Agreement
1939
防 共協定(原署名国としてさらにハンガリー、満州国、スペインが追加加盟し6カ国協定となる)
・3月ドイツ軍、プラハ占領
・8月独ソ不可侵条約調印。8月9日ポーランド侵攻し、イギリスとフランスは、ドイ ツに対して宣戦布告、第二次大戦始まる

1940
・4月ドイツ軍、デンマークとノルウェー占領。
・5月ベルギーとオランダに侵入。マジノ線突破。
・6月ドイツ軍、パリに無血入城
・9月日独伊三国軍事同盟

1941
・4月ドイツ軍、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻。
・6月独ソ戦はじまる。
防共協定(原署名国としてさらにブルガリア王国、ルーマニア王国、デンマーク、ス ロバキア、クロアチア独立国、フィンランド、中華民国南京政府(汪兆銘政権)が追加加盟し13カ国協定となる)
・12月7/8日真珠湾攻撃、日本は米英に対して宣戦布告。アメリカが第 二次大戦に参戦。連合国と枢軸側の戦闘が本格化する。

1942
・1月20日ヴァンゼー会議
・アウシュヴィッツ等でユダヤ人虐殺が本格化

1943
・1月スターリングラードでドイツ降伏。
・2月アフリカ戦線で敗北
・8月シチリア島撤退

1944
・1月、ドイツ軍、東部戦線で全面的後退。
・6月、連合軍ノルマンディー上陸。
・7月ヒトラー暗殺未遂事件。

1945
・4月ヤルタ会談。
・4月、ソ連軍、ウィーンとベルリンに進軍。ヒトラー自殺(4月30日)
・7月26日ポツダム宣言
・9月2日日本の降伏文書調印
・1945年10月10日連合国管理理事会指令第2号によるナチス党の禁止
・11月ニュルンベルク軍事裁判はじまる。


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