はじめに よんでください

1871年から1945年までの日本文化人類学史


A Short History of Japanese Cultural Anthropology

(今後の更新はこちらでおこなっています→日本文化人類学史[history_anthropology_japan.html]

池田光穂

現在 (2017年)日本において文化人類学を学ぶということは、文化人類学という学問を 含めて、考古学、人類学(自然人類学)、民族学、言語学、民俗学、歴史 学、社会学、地域科学を学ぶということを意味します。日本文化人類学会を含め て、それらに関連する多くの学問が日本の文化人類学の歴史を形づくっています。また、世界にはこれらの広義の文化人類学を含めた連合連絡組織(the International Union of Anthropological and Ethnological Sciences, IUAES, 1948- )があります。

世界の文 化人類学・人類学も同様ですが、それぞれの各国・各地域の歴史的文化的事情により複数で多様性に満ちた発展の歴史を持っています。それらを統一的にまとめ ようとすることは、まるで「プロクルステスの寝台」のように、記憶すべき必要な事や都合の 悪いことを切り捨てたり、とても重要なことを歴史の中の一コマのように小さな物語であるかのように取り扱うように扱うことにも繋がります。というわけで、 このページの情報はあくまでも、文化人類学を研究する一人の研究者の個人的備忘として作成したものです。このページの作者が日本文化人類学会理事(第25 期[2013-2014年度]・第26期[2015-2016])の学会歴史委員会委員長を務めたこともこのページの増強の原因になりました。

この記事 を参照されて、またここで収載されていな いさまざまな資料をつかって、各人各人が、《文化人類学の多様なイメージ》を学 んでいただくようにお願いします。

(今後の更新はこちらでおこなっています→日本文化人類学史[history_anthropology_japan.html]

1856 デュセルドルフ(ドイツ)近郊でネアンデルタール人骨が 「化石」かどうかに関する論争

1859 ワシントン(アメリカ合衆国)で人類学協会設立

1859 ブローカー(Pierre Paul Broca, 1824-1880)を中心にフランス人類学会( l'École d'Anthropologie de Paris)が創設

1861 ロンドンで人類学協会設立

1865 マドリードで人類学協会設立。英国人アイヌ墳墓発掘事件(蝦夷地)

1866 モスクワで人類学協会設立

1868 南西フランス・ドルドーニュ地方レゼジークロマニョン洞窟 におけるクロマニオン(クロマニョン=Cro -Magnon)人の「発見」

1869 (1870?)  ベルリンで人類学・民族学・歴史学協会が結成。開拓使を設置、北海道と命名。場所請負制度を 廃止。

1871 ダーウィン『人間の由来と、性的関連における淘汰』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex, 1871。開拓使庁を開設。アイヌの平民化と和人式姓名を強要し、旧土人と公文書で指示。アイヌ習俗の禁止(→「アイヌ・コロニアリズム」)。

1871 Tylor,E.B.,"Primitive culture(1871)",Harper & Row,1958

1872 ダーウィン『種の起源』第6版(最後の版)。琉球処分(=明治政府が強制的に沖縄 (琉球)に対しておこなった廃藩置県政策):明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とする。

1872 Darwin,C.R.,1872, "On the expression of the emotion in man and animals",濱中濱太郎訳)「人及び動物の表情について」、岩波文庫、1931

1875 ブローカ、パリに人類学研究所を設置。日本政府、内務官僚松田道之を処 分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求する。

1875 柳田國男、松岡操・たけの六男として飾磨郡神東郡田原村辻川で生まれる。

1876 フランスで民族学、先史学、言語学などをカリキュラムに含む人類学校。アイヌ戸籍制度

1877 明治10 エドワード・ モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925)による大森貝塚の発見。「(Nature, 1877年12月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿。Heinrich von Siebold, 1852-1908が、同誌に1878年1月31日号に寄稿し発見の先行を主張し、モースの激怒を買う」

1877 Morgan,L.H.,"Ancient society or researches in the lines of human progress from savave through barbarism to civilization",1877,(青山道夫訳)「古代社会」、岩波文庫、1958

東京都品川区大森貝塚遺跡庭園内にあるエドワード・モース (1838-1925)の胸像

京浜東北線・大森駅(東京都大田区)構内にある「日本考古学発 祥地」のモニュメント:2012年7月 14日撮影

From left of front row, Kyōsuke Kindaichi(1882-1971), Nikolai Aleksandrovich Nevsky(1892-1937), Kunio Yanagita(1875-1962), at his house of of Shinobu Orikuchi(1887-1953), in left end at standing. Picture was taken in March, 1921(TAISHO jyu-nen) .source: http://1000ya.isis.ne.jp/1510.html

1922  小山内通敏、今和次郎が朝鮮総督府の嘱託で「朝鮮部落調査」をおこなう。

クラ イナー 1912:20
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。

つづきは、こちらで「日本文化人類学史:A History of Japanese Cultural Anthropology, from 1832 to present