1871年から1945年までの日本文化人類学史
A Short History of Japanese Cultural Anthropology
(今後の更新はこちらでおこなっています→日本文化人類学史[history_anthropology_japan.html])
現在 (2017年)日本において文化人類学を学ぶということは、文化人類学という学問を 含めて、考古学、人類学(自然人類学)、民族学(狭義の文化人類学)、言語人類学、民俗学(日本民俗学は日本固有のローカルサイエンス)、歴史 学、社会学、地域科学を学ぶということを意味します。日本文化人類学会を含め て、それらに関連する多くの学問が日本の文化人類学の歴史を形づくっています。また、世界にはこれらの広義の文化人類学を含めた連合連絡組織(the International Union of Anthropological and Ethnological Sciences, IUAES, 1948- )があります。
世界の文 化人類学・人類学も同様ですが、それぞれの各国・各地域の歴史的文化的事情により複数で多様性に満ちた発展の歴史を持っています。それらを統一的にまとめ ようとすることは、まるで「プロクルステスの寝台」のように、記憶すべき必要な事や都合の 悪いことを切り捨てたり、とても重要なことを歴史の中の一コマのように小さな物語であるかのように取り扱うように扱うことにも繋がります。というわけで、 このページの情報はあくまでも、文化人類学を研究する一人の研究者の個人的備忘として作成したものです。このページの作者が日本文化人類学会理事(第25 期[2013-2014年度]・第26期[2015-2016])の学会歴史委員会委員長を務めたこともこのページの増強の原因になりました。
この記事 を参照されて、またここで収載されていな いさまざまな資料をつかって、各人各人が、《文化人類学の多様なイメージ》を学 んでいただくようにお願いします。
(今後の更新はこちらでおこなっています→日本文化人類学史[history_anthropology_japan.html])
1871 ダーウィン『人間の由来と、性的関連における淘汰』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex, 1871。開拓使庁を開設。アイヌの平民化と和人式姓名を強要し、旧土人と公文書で指示。アイヌ習俗の禁止(→「アイヌ・コロニアリズム」)。
1871 Tylor,E.B.,"Primitive
culture(1871)",Harper & Row,1958
1872 ダーウィン『種の起源』第6版(最後の版)。琉球処分(=明治政府が強制的に沖縄 (琉球)に対しておこなった廃藩置県政策):明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とする。
1872 Darwin,C.R.,1872, "On the expression
of the emotion in man and animals",濱中濱太郎訳)「人及び動物の表情について」、岩波文庫、1931
1875 ブローカ、パリに人類学研究所を設置。日本政府、内務官僚松田道之を処 分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求する。
1875 柳田國男、松岡操・たけの六男として飾磨郡神東郡田原村辻川で生まれる。
1876 フランスで民族学、先史学、言語学などをカリキュラムに含む人類学校。アイヌ戸籍制度
1877 明治10 エドワード・ モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925)による大森貝塚の発見。「(Nature, 1877年12月19日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿。Heinrich von Siebold, 1852-1908が、同誌に1878年1月31日号に寄稿し発見の先行を主張し、モースの激怒を買う」
1877 Morgan,L.H.,"Ancient society or
researches in the lines of human progress from savave through barbarism
to civilization",1877,(青山道夫訳)「古代社会」、岩波文庫、1958
東京都品川区大森貝塚遺跡庭園内にあるエドワード・モース (1838-1925)の胸像
京浜東北線・大森駅(東京都大田区)構内にある「日本考古学発 祥地」のモニュメント:2012年7月 14日撮影
1878 イザベラ・バード、アイヌコタンを訪問。
1879 バチェラー、アイヌ伝道開始。3月政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置する通告と
実施を実行する。
1883 The bear-worshippers of Yezo and the
Island of Karafuto (Saghalin), or, The adventures of the Jewett family
and their friend Oto Nambo / by Edward Greey ; one hundred and eighty
illustrations by Rinzo and by Ichiske Hamada, Boston : Lee &
Shepard , 1883.
1884 明治17
坪井正五郎(1863-1913)、東京大学理学部生物学科に入学し、「じんるいがくの とも」研究会を組織する。(それ以降、この会の名称は、〈人類学研究会〉→〈人類学会〉→〈東京人類学会〉と変遷:1886年の項を参照)
高橋義雄『日本人種改造論』(西洋人との雑婚を説く)
1886 明治19
2月坪井『人類学会報告』の第1号刊行し、会を「東京人類学会」と改称する。
(東京人類学会はのち[1935]に、この時を 『人類学雑誌』の創刊期としている)。同年(1886)6月には『東京人類学報告』と巻名が変わる。翌年すなわち1887年8月神田孝平・初代会長のもと で、この雑誌は『東京人類学雑誌』とされて、このタイトルは1910年の『人類学雑誌』への改称期まで続く。
藤井乾助「穢多は他国人なる可し」『東京人類学雑誌』10号(→金子「エッタハ越人ニシ テ・・」『東人雑誌』13号)
廃県置庁により北海道庁設置。
1888 明治21 4月、志賀重昴(しげたか)、三宅雪嶺、杉浦重剛、井上円了らと政教社をつくり雑 誌『日本人』を創刊[→関連頁]
1888 明治21 7月8日〜9月3日小金井良精、アイヌ人墳墓の発掘による人骨収集旅行[→詳報、シサム通信
2000年7月よりの資料]
これは同年7月8 日〜9月3日の調査紀行で、アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる(小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』1935)
1889 小金井良精、平取においてイムの記載(『人類学研究』)
1889-92 坪井、イギリス・フランスに留学
1891
坪井正五郎、トッコニバッコを人類学講義のなかで言及。
12月田中正造、足尾鉱山の鉱毒について帝国議会第二議会本会議で質問。
1892 明治 25
坪井、理科大学教授(現・東大理学部)。バチェラー札幌に転居し、ア イヌ施療病室をつくる。関場不 二彦が診療に参加。
橋口文蔵(1853-1903)のアイヌ共有財産を別会社の株券に替えた売却スキャンダ ルに対する抗議の「アイヌ講演会」札幌、東京、大阪で開催。橋口文蔵は、前年1891年に北 海道庁第二部長ならびに札幌農学校校長ともに「非職(諭旨免職)」となる。同年、十勝アイヌの請願(井上 2015:172-176)。
1893 明治26
坪井、理科大学・人類学講座初代教授。鳥居龍蔵(1870-1953)・標本整理係に就 職。
初代解剖学教授・小金井良精(こがねい・よしきよ、1858-1944)日本解剖学会を 創設
Alone with the hairy Ainu : 3800 miles on a pack saddle in Yeso and a cruise to the Kurile Islands / A.H.Savage Landor, London : John Murray , 1893
加藤政之助「北海道土人保護法」を帝国議会で議員提案。 (→優勝劣敗の理勢に言及)
1894
7月23日日本軍朝鮮王宮武力占拠事件より日清戦争始まる。
1895 明治28
日本、台湾領有/日本に留学していた大朝鮮人留学生親睦会発足し『会報』に人類学の研究 の嚆矢の論文「事物変遷の研究に対する人類学的方法」を高羲駿が寄稿する(全京秀「韓国人類学の黎明」『韓国人類学の百年』風響社、48ページ、2004 年)。
橋口文蔵(1891年に札幌農学校校長ほかを非職[諭旨免職]された)台湾総督府初代殖
産部長に就任。台湾先住民居住区にて、樟脳専売に着手。
1896 関場不二彦『あいぬ醫事談』
1897 大韓帝国成立。
1896-99 明治29-32 鳥居、台湾に調査(→伊能嘉矩を参照)
1899
対雁アイヌ民族組合長・上野正(和人)『北海道毎日新聞』に保護法案を批判する談話を発
表(井上 2005:176-177)。
北海道旧土人保護
法の公布
1900 明治33 伊能『台 湾蕃人事情』、新渡戸稲造『武士道』
1901 明治34
臨時台湾旧慣調査会、先住民への調査(→『蕃族調査報告書』全8巻、1913- 1921、『蕃族慣習調査報告書』全8巻、1915-1922)
榊保三郎、室蘭と日高 でのアイヌの精神病的調査をおこな い、イムバッコについて記載(→クレペリン、オッペンハイムの教科書に、ラターと共に記載)
田中正造、足尾鉱毒事件につき天皇に直訴。
1902 明治35
坪井正五郎『人類談』開成館、鳥居龍蔵『千島アイヌ』(→「鳥 居龍蔵の千島調査」)
1903 第五回内国勧業博覧会(大阪)坪井正五郎による人類館に伏 根安太郎ら17人のアイヌが参加。
1904-1905 日露戦争(→「植民地・帝国主義時代の2つの時相」)
1905
坪井『人類学講義』東京高等師範学校地理歴史会編、国光社
An Ainu-English-Japanese dictionary : including a grammar of the Ainu language / by John Batchelor, 2nd ed. - Tokyo : Methodist Pub. House , 1905
日韓保護条約(乙巳保護条約)
1906
朝鮮に総監府が設置される(韓国統監・寺内正毅)。
1907
日韓協約(丁未条約)
東北帝国大学が新設され、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に昇格(創設費用は古河鉱業会社が 出資)。
柳田國男(1875-1962)、東北を旅 行し、初めて遠野を訪れる。
「新渡戸(稲造:1862
-1933)の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場
から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博
士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤(1884-1960)、牧口常三郎(1871-1944)、中山太郎(本名「太郎治」1876-1947民俗学者)、前田多門(1884-1962:長女は神谷美恵子[1914-1979])らが加入」
1910 『東京人類学会雑誌』はこの年に終刊、翌1911(明治44)年『人類学雑誌』と して公刊(〜1992)。
九州帝国大学設置(創設費用は古河鉱業会社が出資)。
海野幸徳『日本人種改造論』(優生学にもとづく淘汰論を展開)
朝鮮で土地調査事業がはじまる。日韓併合。朝鮮総督府が設置、統監の寺内がそのまま初代総督として就任。
1911 鳥居龍蔵、朝鮮半島調査をはじめる。
1912 今村鞆『朝
鮮社会考』
1913 大正2 坪井、ペテルブルグでの国際学会中に客死。
高木敏雄「郷土研究の本領」『郷土研究』創刊号(柳田國男)
北海道庁『白老、敷生、元室蘭旧土人結核病トラホーム調査 復命書』
1914 今村鞆(いまむら・とも、1870-1943)『朝鮮風俗集』。柳田國男、貴族院 書記官長に就任。
氏原左蔵『民族衛生学』Rassenhygieneを公刊。
1915
永井潜『生命論(増補第三版)』において人種改善学(eugenics)を紹介。
朝鮮総督府、旧慣および制度の調査、朝鮮総統府博物館を創立。
1916 北海道庁『余市郡余市町旧土人衛生状態調査復命書』『旭川 区近文部落旧土人衛生状態調査復命書』『沙流郡ノ一部室蘭郡ノ一部旧土人衛生状態調査復命書』
1919 村山智順、朝鮮総督府の嘱託になる。
1920 平取、静内、浦河、白老に旧土人病院を設置(〜1922)。柳田國男、東京朝日新聞客員となり論説を執筆。全国を調査旅行。
1921 渋沢敬三(1896 -1963)、自宅にアチック・ミュージアム(屋根裏博物館)を開設。澁澤は同年横浜正金銀行に入行。柳田國男、 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりに する。
クライナー 2012:19
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から
40年代までの展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
From left of front row, Kyōsuke Kindaichi(1882-1971), Nikolai Aleksandrovich Nevsky(1892-1937), Kunio Yanagita(1875-1962), at his house of of Shinobu Orikuchi(1887-1953), in left end at standing. Picture was taken in March, 1921(TAISHO jyu-nen) .source: http://1000ya.isis.ne.jp/1510.html
1922
小山内通敏、今和次郎が朝鮮総督府の嘱託で「朝鮮部落調査」をおこなう。
1922 柳田國男、
新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリ
ヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習する。翌1923年、
国際連盟委任統治委員、突如、辞任してを帰国(これを契機に新渡戸との交流が途絶える。
1923 関東大震災。満岡伸一「あいぬノ足跡」。道内の市町村に旧土人救療所を 開設。土人保導員を設置。(→「保健普及員」)。善生永助が、朝鮮総督府嘱託に。
「善生永助(1885〜1971)は、朝鮮総督府嘱託として同府刊行の調査資料の編纂に
携わった人物である。明治43年(1910)に早稲田大学専門部を卒業したのち、雑誌記者などを経て大正12年(1923)7月より朝鮮総督府官房調査課
嘱託となり、昭和10年(1935)まで調査活動に従事した。彼が調査および執筆を担当した資料の多くは、「調査資料」シリーズに収録されている。代表的
なものに『朝鮮の市場』(大正13年〔1924〕)、『朝鮮人の商業』(大正14年〔1925〕)、『朝鮮の物産』(昭和2年〔1927〕)、『朝鮮の市
場経済』(昭和4〔1929〕)、『朝鮮の生活状態調査1〜3』(昭和4〔1929〕ー昭和9年〔1934〕)、『朝鮮の聚落 前・中・後篇』(昭和8
〔1933〕ー昭和10〔1935〕)などがあり、現在でも植民地期朝鮮の社会経済状況を知るうえで大変貴重な資料とされている」(出典:「学
習院大学東洋文化研究所」)
1923-1941
朝鮮総督府調査資料(1923-1941)に、総督府嘱託として村山智順、善生永助が関 与
1925 内村祐之、ミュンヘンのドイツ精神医学研究所に留学(〜
1927)。アメリカ合衆国で『ウラキ』(北米朝鮮人留学生雑誌)発刊。
1925-1929 柳田国男・岡正雄ら『民族』刊行。岡は創刊号の巻頭論文「民族學の目 的」(1924年の記載あり)で、民族学をWHR.リヴァーズの用語としてい る(→当時の状況「人種概念としての「ミンゾク」」)。
1926 大正15→昭和元
京城帝国大学創設(宗教学教室:赤松智城、社会学教室:秋葉隆、が翌年に就任)
小金井良精『人類学研究』
1927
長谷部言人[1882-1969]『自然人類学概論』(人類学叢書第1篇、岡書 院)
内村祐之ロックフェラー研究所の野口英世を訪ねる。内村、 9月に渡道し 北海道帝国大学医学部精神科教室教授就任(1928〜1936)の準備をおこなう。
崔南善「薩満教箚記(さっき)」、李能和「朝鮮巫俗考」を『啓明』19号に寄稿。
1928 昭和3
台北帝国大学文政学部、土俗・人種学研究室・教授、移川子之蔵[1884-1947]
京城帝大に民俗参考品室設置(秋葉隆)。今村豊が京城帝国大学解剖学教室に赴任。
矢内原忠雄『人口問題』岩波書店。
1929
内村祐之、北海道帝国大学に正式に着任。村山智順『朝鮮の鬼神』発刊。
1929(昭和4)
北海道帝国大学医学部解剖学教室第二講座に児玉作左衛門(こだま・さくざえもん:1895-1970)教授が赴任。同教授 は、1959年まで30年間同講座の教授を務めアイヌの「医学的研究」ならびに文化史の研究に従事する[2018年に関 連記事]。
「昭和4年に平光教授は九州帝国大学に転任し、児玉作左衛門教授が第二講座を担当するこ
とになった。山崎教授のもとではおもにアイヌの人類学的研究とくにそ
の容貌の研究がすすめられ、児玉教授のもとではヒト大脳基底核を中心とした解剖学的研究に主力がそそがれた。これは児玉教授がチューリッヒのモナコフ教授
の所で行った研究の継続で
あった。顕微鏡切片標本は児玉教授に従って東北大学からきた大場利夫(後の北大文学部教授)が作成した。昭和8年に、アイヌの医学的総合研究のために日本
学術振興 会学術部第八小委員会が
永井潜東大教授を委員長として編成され、北大医学部の教授陣を主力として2年間にわたって調査が行われた。このとき山崎・児玉両教授が解剖学の部門を協同
で担当した。この総合研究がきっかけと
なって、その後、両講座の仕事の主力はアイヌ骨格の収集および人類学的研究に向けられた。この流れは昭和23年山崎教授の退官、同34年の児玉作左衛門教
授の退官 の後、伊藤昌一教授と松野正彦教授に引き継がれ、成果の多くは「北大解剖研究報告」に収録されている。
昭和7年7月26、27、28日の3日間、北海道で初めての日本解剖学会集会(第40回)が
会頭山崎教授、副会頭児玉教授のもとに北大で開かれた。演題数77、標本供覧7の計84題、参加者約100名であった。昭和15年には北大医学部に臨時附
属医学専門部が設置され、昭和18年には樺太医学専門学校が設立された。しかし、太平洋戦争が終了するとともに樺太医専は廃止になり、北大医専は昭和25
年に廃止になった。昭和33年には第63回日本解剖学会総会が、会頭児玉作左衛門北大教授、副会頭伊藤昌一北大教授・渡辺左武郎札幌医大教授のもとに
札幌医大を会場として7月4、5、6、の3日間開催された。演題は口演と紙上発表を合わせて277題であった」出典:https://aande.hokkaido.university/history.html(2018
年7月22日)
1929-1933 雑誌『民族』の廃刊。民俗學会編の雑誌『民俗學』刊行(柳田の脱退を受 けて。岡は1929〜1935年オーストリアに留学)
1930-1933 台湾、高砂族全島調査(移川子之蔵、宮本延人[1901-1988]、 馬淵東一[1909-1988]の参加)
1930
金関丈夫(1897-1983)「琉球人の人類学的研究」で京都帝国大学より医学 博士号を取得。金関は1928-1929年頃、沖縄県今帰仁(なきじん)村の百按司(むむじゃな)墓より少なくとも26体を持ち出し、京都大学などに保管 していたといわれる(琉球新報 2017年6月1日)。
小信小太郎「同族の喚起を促す」『蝦夷の光』
1930 昭和5
日本民族 衛生学会創設(→1935年・民族衛生協会へ改組)
1931
貝澤正(1912
-1992)、アイヌ旧土人保護法を批判(「土人保護施設改正について」『アイヌわが人生』岩波書店、1993年)
1932 満州国建国。朝 鮮民俗学会創設。宋錫夏が幹事に就任。
1933 『朝鮮民俗』創刊。京城帝大に満蒙文化研究会が設立される。赤松・秋葉による満蒙
調査が開始。
1934 昭和9
朝鮮農地令公布。震檀学会創設(宋錫夏が幹事)
「植民地下の朝鮮で1934年5月に設立された研究会。李丙ら歴史学者を中心に,
金台俊,崔鉉培,孫晋泰ら文学者,語学者,民俗学者も加わり,国学=朝鮮学研究の発展を目指した,朝鮮人自身による初めての組織である。史学史的には,植
民地期の歴史研究の三大潮流,すなわち民族史学,実証史学,社会経済史学のうち,前2者に属する人たちが合流した組織であること,のちに朝鮮民主主義人民
共和国の歴史学界において指導的地位を占めることになる金錫亨,朴時亨も,学界へのデビューはこの学会を通じてであったことなど,その幅広い研究者の連合
戦線的な性格が注目される」「震檀学会」より)
日本民族学会の設立(初代理事長:白鳥庫吉[しらとり・くらきち、1865- 1942]、理事:新村出、渋沢敬三、関屋貞三郎、桑田芳蔵、移川子之蔵)
平野義太郎(「すでに生活力を失ってゐるアイヌ族」→『思想』144号)
1934
日本学術振興会「アイヌの医学的、生物学的研究」(永井 潜・班長)。児玉作左衛門は解剖小委員会委員となる。
11月 大阪民俗談話会発足(→近畿民俗刊行会)
今村鞆『人
参史』の刊行がはじまる(→1940)
1935 昭和10 『民族學研究』(1巻1号)発刊
朝鮮総督府、心田開発運動がはじまる。秋葉隆がオロチョン調査。
J.エンブリー、熊本県球磨郡須恵村で調査[→リンク]。
『臺灣高砂族系統所屬の研究』※臺北帝國大学土俗・人種學研究室調査 ; 第1冊: 本篇, 第2冊:資料篇、刀江書院, 1935
「二つの「ミンゾク」学※が袂とを分かったのは、柳田[国男]が一国民俗学を提唱した翌 年の、1935年(昭和10)年ごろのことである」[伊藤 2006:5]。※2つのミンゾク学とは、民俗学と民族学(戦後の文化人類学)のことである。
小金井良精「アイノの人類学的調査の思ひ出」『ドルメン』(1888:明治21年7月8 日〜9月3日の調査紀行:アイヌ人墳墓の学術的「盗掘」記録の傍証となる)
高橋新吉『蝦夷痘黴史考』。北海道帝大医学部・児玉作左衛
門による森村・落部村の遺骨盗掘。
1936 昭和11 東京人類学会・日本民族学会の第一回連合大会が開催。/日本民族衛生学会が民族衛生協 会に改組される。
内村祐之・東京帝国大学医学部精神病学教授(〜1958)
5月 近畿民俗刊行会を改名し近畿民俗学会と改称。『近畿民俗』の刊行がはじまる。
1937 日本民族学会が主催した千島樺太調査(岡正雄はそれに随行)。泉靖一がオロチョン調査。
保谷に民族学博物館開設(渋沢のアチック・ミュージアム(1921-1937)資料を移 管)
Rassenkunde der Aino / von Y. Koya ;
unter Mitwirkung von Assistenten, T. Mukai ... [et al.], [Tokyo] :
Japanische Gesellschaft zur Förderung der wissenschaftlichen
Forschungen , 1937
クラ
イナー 1912:20
クライナー、ヨゼフ「日本民俗学・民族学:昭和10年代から40年代ま
での展開」『近代〈日本意識〉の成立』Pp.2-24、東京:東京堂、2012年。
1938 国家総動員法。
ウィーン大学が日本学研究所に岡正雄が所長として就任。太平洋協会設立(実質的な組織運営者は、鶴見祐輔[1885-1973])
内村祐之ほか「あいぬノいむ二就イテ」(あいぬノ精神病学 的研究第1報)、内村祐之ほか「あいぬノ潜伏黴毒ト神経黴毒」(あいぬノ精神病学的研究第2報)
京城帝大に大陸文化研究会が設立。
1939 昭和14 東京帝国大学理学部人類学科創設(長谷部言人[はせべ・ことんど] 1882-1969)
小山栄三[社会学者]『人種学概論』(1929,1931の改訂再版)
1940 11月ウィーンから帰国したばかりの岡正雄(1898-1982)は、古野清人と 連れ立って帝国学士院会員であった晩年の白鳥庫吉を訪問した。当時の近衛文麿首相に民族研究所の設置への働きかけをおこなおうとしていた
田村幸雄「満洲國に於ける邪病、鬼病、巫醫及び過陰者、並 びに蒙古のビロンチ、ライチャン及びボウに就いて」。国民優生法施行
『朝鮮民俗』3号が、今村鞆(とも)古希記念特集号。(→『鼻
を撫りて : 螺炎隨筆 : 古稀自祝記念出版』)
1941 昭和16 東京人類学会を日本人類学会(Anthropological Society of Nippon)に改称。
小山栄三『民族と人口の理論』(日本帝国における民族と人種の統一性を説き、民族の統一 概念が主張される)
内村祐之ほか「アイヌの内因性精神病と神経性疾患」(アイ ヌの精神醫學学的研究第3報)
京城帝大に秋葉隆ら陳列館を設置。
1942
北海道帝国大学助教授・高倉新一郎(1902-1990)『アイヌ政策史』日本評論社。
12月『民族學研究』8巻4号で巻号シリーズが終わる。「民族研究所」の設立に関 する閣議決定(?)
大蔵公望日記「昭
和17年5月25日 九時三〇分、企カク院に秋永第一部長を訪ねしも不在。よって石田調査課長を訪ねて、左の事を秋月[永]氏へ伝言頼む。/一、来月より
約一ヶ月半にて満支に旅行すること。(略)/三、今度文部省で新設の民族研究所と
東研【東亜研究所:引用者】との間に摩擦の出来ぬよう、企カク院にて仕事の配
分を考へること」
平野義太郎[1897-1980]・清野謙次『太平洋の民族=政治学』:長谷部言人「大 東亜建設二関シ人類学研究者トシテノ意見」をはじめとして、この当時の専門家は日本人の人種的純粋性を説く。
鈴木栄太郎(1894
-1966)、京城帝大社会学教室に赴任。
1943
昭和18年1月 民 族研究所、設立(〜1945年9月)。日本民族学会は、一 旦解散し、(財)民族学協会に改組される。『民族學研究』1月新1巻1号の創刊。1943 年11月から44年4月にかけて、民族研究所が主催した都合6回の連続講義のべ42演者におよぶ「民族研究講座」が開催される[→国際常民文化研究叢書11:「民族研究講座」講義録]。
内村祐之、北支における麻薬問題視察、およびラバウルにお ける航空隊員の精神医学的診断に従事。
7月『新
渡戸博士植民政策講義及論文集 』岩波書店。
1944
蒙古善隣協会・西北研究所(張家口)設立。民族研究所と民族學協会は戦災を受けて彦根に疎開。高田保馬を新理事長に、岡正雄が事業部長
に就任する。
澁澤敬三、日本銀行総裁に就任。
小山栄三『南方民族と民族人口政策』(大和民族の雑婚・混血を嫌う)。東亜経済懇 談会編『大東亜民族誌』(大川周明、長谷部言人、清野謙次、美濃口時次郎、平野義太郎、大久保幸次、福田省三)『民族研究所紀要』(国立国会図書館)409pp. 内容[創刊の辞(高田保馬) 民族政策の基調(高田保馬) 東亜に於ける民族原理の開顕(中野清一) 匈奴・フン同族論(河上波夫) 甘粛回民の二類型(岩波忍) 南洋群島原住民の土地制度(杉浦健一) ラーマクリシュナの生涯とその宗教運動(渡辺照宏) ]
田村幸雄「満洲に於ける民族と精神病に就いて」
京城帝大に大陸資源科学研究所設置され、泉靖一が嘱託。
1945 昭和20
敗戦。『民 族學研究』は新2巻6号まで刊行しその後停止。『民族研究彙報』(1945年8月30日)[民 族研究3(1-2)として発刊]
京城帝大が廃止され、京城大学に。法文学部に人類学科が設置。ソウルに国立民族博物館
(Museum of Anthropology)が設置される(館長;宋錫夏[ソン・ソクハ])。
1945 昭和20年9月、民 族研究所の廃止の決定(10月15日付で廃止)。ただし、その外郭団体(財)日本 民族學協会は、実質的に、民族学会の機能をもつ(→1964年まで続く)
R.ベネディクト「天皇はいかに処遇されるべきか」「日本人行動パターン」
つづきは、こちらで「日本文化人類学史:A History of
Japanese Cultural Anthropology, from 1832 to present」 |