ファシズム時代の反ユダヤ主義入門
Introduction to Antisemitism between Nazi's German, Italy, and Japan
以下の情報は、ウィキペディア日本語「反ユダヤ主義」提供のテキストに多く(ほとんど完全に)依存しています。全体主義の起源の全テキスト:The Origins of Totalitarianism. by HANNAH ARENDT
世界恐慌とナチスの台頭(https://bit.ly/3IcqHwb) 1929年10月、米国市場が暴落し世界恐慌が起こった。ドイツ国家人民党は1929年、ユダヤ人の入党を取りやめる[926]。なお、党の院内総務 R.G.クヴァーツは半ユダヤ人だった[926]。 1929年12月のテューリンゲン州選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相に就任した[945] 1929年、エルンスト・ユンガーはドイツ民族に内在する形態と美という理想は、ユダヤ的形姿を排除するとした[900]。哲学者ルートヴィヒ・クラーゲ スは『魂の対抗者としての精神』(1929)で保守革命の立場から科学的合理性に対して精巧な攻撃をし。機械は生を破壊するが、生を創造することはできな いと機械文明やテクノロジーを批判した[917][946]。ドイツ社会民主党にいたエルンスト・ニーキッシュ (Ernst Niekisch)はナショナルボルシェヴィズムを主張し、生に敵対的なテクノロジーを批判した[917] 1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷 化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた[933]。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表する と、ドイツは現状固定化になると反発した[947]。9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった[948]。第一党の社 会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした[948]。選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3 人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では 「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった[948]。1930年10月5日のブリューニン グ首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った[948]。 1931年3月、ドイツはヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの関税同盟を発表した[947]。しかし、1931年5月にオーストリア最大の銀行 クレディートアンシュタルト(ロスチャイルド家創立)が破綻すると、金融危機がはじまった[947]。ドイツ=オーストリア関税同盟を非難していたフラン スはクレディートアンシュタルトへの借款を拒否し、同盟の成立を阻止した[949]。アメリカなど諸外国の資本はドイツから撤退し、続けて大手紡績会社が 倒産すると主力銀行の一つダナート銀行が破産したため、ドイツ政府は7月に金融機関に休業を命じた[947]。しかし、恐慌は加速し、1931年末には失 業者は600万人近くにのぼり、1932年にはホームレスが40万人、失業率は約30%となった[947]。労働組合の行動力は低下し、就業者と失業者の 溝が深まり、鉄兜団は国粋政府樹立をとなえた[947]。 ラインハルト・ヴレ『北方人の使命』(1931)で「罪の汚れのないドイツ人は貴族であり、その祖先は農民である」とした[556][950]。 1932年4月の大統領選挙に際して、ブリューニングとヒトラーはヒンデンブルク大統領の続投を目指して交渉し、ブリューニングはナチ党を弱めようとし、 ヒトラーはブリューニングの罷免を条件に支持すると交渉したが、ヒンデンブルクは拒否した[951]。ヒトラーは出馬しなければ支持者を失うとおそれ立候 補した[951]。ヒンデンブルクは社民党や中央党の支持を得て53%の票を獲得し、ヒトラーも37%の1300万以上の票を獲得した[951]。同時期 の1932年4月州議会選挙ではブリューニング首相と国防相グレーナーによってナチ突撃隊と親衛隊の活動が禁じられたが、左翼の準軍事組織が適用外であっ たのでナチスは当局は偏っていると批判した[951]。州議会選挙では、プロイセンとアンハルト州においてナチ党は第一党となった[951]。 ヒンデンブルク大統領側近のクルト・フォン・シュライヒャー将軍は軍とナチ党による政権を計画しており、ブリューニング倒閣運動を展開した[951]。 1932年5月、国防相グレーナーの国会演説中で騒ぎがおき、シュライヒャー将軍が軍の支持は失ったと告げるとグレーナーは辞任した[951]。5月29 日、ヒンデンブルクが辞任を求めると即座にブリューニングは辞任した[951]。同日午後、ヒンデンブルクはヒトラーと会談し、突撃隊禁令の撤回などが約 束された[951]。続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペンに打診し、パーペンを首相とした「男爵内閣」が6月1日に成立した [951]。ヒンデンブルク大統領は国会を解散し、総選挙が7月31日に行われることになった[951]。 5月から6月にかけてナチ党はオルデンブルク州、メクレンブルク=シュヴェリーン州、ヘッセン州で44〜49%の得票率を記録し、突撃隊と親衛隊の禁令も 解除された[951]。6月から7月にかけてドイツ各地でナチ党員と共産党員による衝突と殺人事件が多発し、相互に犠牲者を出していった[951]。7月 17日、プロイセン州アルトナでの血の日曜日事件では突撃隊のパレードに対して共産党員が発砲し、17人が死亡、64人が負傷した[951]。社会民主党 の牙城であるプロイセン州では、社民党のオットー・ブラウンが州首相を務めていたが、パーペン内閣は血の日曜日事件の責任などを理由に、ブラウン州首相を 解任し、パーペンがプロイセン総督となった[951]。社民党は抵抗できなかった[951]。 1932年7月ドイツ国会選挙では国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、議席数230となった。ヒトラーは自分を首相とする内閣改造案をシュライ ヒャー将軍に打診したが、ヒンデンブルク大統領は拒絶した[951]。またヒトラーも副首相としての入閣提案を拒絶した[951]。会談で、ヒンデンブル クは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には厳しく対応すると回答し、ヒトラーは怒りで爆発 寸前だった[951]。折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害 事件に対して死刑判決が出された[952]。ナチ党は「血の判決」だと非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた[952]。ナチ党は対テロ闘争 緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制 収容所に収容されると論じていた[952]。 9月12日の本会議で共産党議員トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出した[952]。賛成512、反対42の圧倒的多数で不信任案が可決され、パーペ ン内閣を信任したのはドイツ国家人民党とドイツ人民党だけだった[952]。次回選挙は11月6日に定められた[952]。前回の選挙で資金を使い果たし たナチ党にとっては厳しい選挙戦となり、大多数のメディアはナチ党に敵対的で、ナチ党はラジオの利用も許されなかった[952]。選挙期間中、ナチ党は保 守主義者パーペンを攻撃し、またベルリン交通労働省のストライキを共産党と一緒に支持したことなどから、ナチ党を共産主義・社会主義とみなすイメージが中 産階級の間で広まった[952]。 1932年、プロイセン保健局は経済悪化による福祉削減のため断種法案を提出した[426]。法案に先立って刑法学者ビンディングと精神科医ボーへは『生 きるに値しない生命の根絶の許容』(1920)で不治の者や不治の痴呆者の安楽死の合法化を主張し、また遺伝学者バウアー、フィッシャー、レンツは 1923年に民族衛生のために安楽死や断種によって劣等遺伝子を排除することを主張していた[426]。レンツは障害児を養育することは、古代スパルタで の障害児遺棄よりも非人道的とした。プロイセン断種法案はヒトラー内閣成立によって廃案となったが、ナチ政権下の1933年7月14日に遺伝病子孫予防法 が成立し、精神遅滞などの「遺伝病」者と重度のアルコール中毒者の断種が合法化された[426]。また、プロイセン司法大臣ハンス・ケルルは、ナチズム刑 法草案(1933)で安楽死の合法化を主張したが、1935年帝国司法大臣フランツ・ギュルトナーは、教会からの反発、民意の未熟、また「民族共同体」へ の攻撃と見なされること、すでに成立している遺伝病子孫予防法による断種政策などを理由に反対した[426]。 ナチスの時代(1933年 - 1945年) 1932年11月ドイツ国会選挙でナチ党は第一党は確保したが、前回比200万票を減らし議席数も230から196に減った[952]。支持を伸ばしたの は共産党とドイツ国家人民党だった[952]。ヒンデンブルク大統領は変わらずヒトラーを嫌っていた[952]。 1932年12月1日、ヒンデンブルク・シュライヒャー・パーペンの三者会談で、シュライヒャーは自分を中心とする内閣を提案し、一方のヒンデンブルクは お気に入りのパーペンに組閣を依頼したが、シュライヒャーは非常事態を宣言して憲法違反を犯す計画がなされてしまえば内戦になることは避けられないし、ス トライキと混乱が起きると軍は国境を防衛できないと大統領に忠告したため、大統領は不承不承ながらシュライヒャーを首相に任命した[952]。シュライ ヒャーはヒトラーに協力を求めたが拒絶されたため、ヒトラーの右腕で現実的穏健派だったグレゴール・シュトラッサーに副首相として入閣を打診した [953]。しかし、ヒトラーらがシュトラッサーを非難すると、シュトラッサーは党の全役職を辞任し、ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えた [953]。ヒトラー、ゲッベルス、レーム、ヒムラーらは、シュトラッサーの作った組織を廃止して、大管区指導者をヒトラーが直接指導する体制を作り上 げ、党内ではヒトラー支持のキャンペーンが実施された[953]。シュトラッサーは1934年の長いナイフの夜でレームと一緒に殺害された[953]。 12月初頭のテューリンゲン州の町村議会選挙でナチ党は壊滅的な結果に終わった[953]。 パーペンはシュライヒャーに政権を追われたことから、自分を副首相とすればヒトラーの首相就任に働きかけるとヒトラーに提案し合意した[954]。シュラ イヒャー首相は輸入関税に消極的であるとして農村同盟から闘争を宣言され、さらにドイツ国家人民党からも抵抗を宣言されたため、1933年1月28日に内 閣総辞職した[955]。パーペンによる閣僚リストでは外相ノイラート、財務相クロージク、運輸郵政相リューベナハはシュライヒャー内閣からの引き継ぎ で、プロイセン内相にゲーリング、経済相に国家人民党アルフレート・フーゲンベルクだった[955]。ヒトラーはパーペンを副首相とすることを認めたた め、ヒンデンブルクもヒトラー内閣を承認した[955]。懸念に対してパーペンは「われわれはヒトラーを雇ったのだ」と語り、またヒトラーの就任に反対し た鉄兜団に対してフーゲンベルクはヒトラーの封じ込めは可能だと反論した[955]。ヒトラーは選挙後に大統領の同意に頼らないようにするための全権委任 法を通すとパーペンに伝え、頻繁な国会選挙を望まないパーペンとヒンデンブルクも了承した[955]。 こうして1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、ドイツ国家人民党、鉄兜団の連立内閣ヒトラー内閣が誕生した。副首相にドイツ国家 人民党のパーペンが就任した。ヒンデンブルク大統領は国民的右翼勢力が遂に結束したことを歓迎した[955]。ヒトラーはその日の夕方、閣僚に対して、共 産党を禁止すればゼネストとなり軍の動員となるがそれは避けたい、最善の策は国会を解散し次の選挙で政府が過半数をとることだと主張した[956]。パー ペンとヒンデンブルクは国民による承認の必要性ということから選挙を承認した[956]。選挙にあたってヒトラーは、パーペン内閣が準備していた「ドイツ 国民を防衛するための大統領緊急令」を発効させ、メディアや集会を押さえ込むために活用された[956]。2月1日、ヒトラーはラジオ演説で、1919年 のドイツ革命以来14年間、共産主義によってドイツ国民は汚染され、このままではドイツは崩壊すると警告し、経済政策によって苦境を克服すると述べた [956]。 2月27日、元オランダ共産党のルッベが国会議事堂に放火するドイツ国会議事堂放火事件が発生した[957]。放火は単独犯だったが、ナチ党は共産党によ る組織的暴動とみなし大弾圧を開始、4月までにプロイセンだけで約2万5000人が拘禁された[957]。2月28日「国民と国家の保護のための大統領緊 急令」を出し言論と集会の自由を制限し、秩序回復のためには州自治権よりも政府の干渉権が優先するとされた[957]。こうしたヒトラー内閣の強硬策は各 地で「ドイツの天敵であるボリシェヴィズムへの対決」として歓迎され、1933年3月ドイツ国会選挙でナチ党は288議席を獲得した[957]。ただし、 一方で社民党と共産党も議席を伸ばしてもいる[957]。 大統領の意志に左右されることを忌避したヒトラーは1933年3月23日に授権法の一種である「国民および国家の苦境除去のための法(全権委任法)」を成 立させた[957]。この法案に対して社会民主党は批判したが、他の保守派は左翼を撲滅したいと願っていたため賛同した[956]。 ユダヤ人政策 ヒトラーは歴史上の偉大な人物としてルター、フリードリヒ大王、ワーグナーの三人をあげた[958]。 「ナチスの人種政策(英語版)」を参照 反ユダヤ主義はナチス・ドイツの国策の一つとなった。ヒトラーはドイツの戦いはパスツールやコッホによる細菌との戦いと同じ性質であるとした[408]。 また第三帝国では「アーリア性」や「ゲルマン性」よりも、金髪の長頭人種の「北方性」が人気になった[959]。 1933年3月、ユダヤ人が所有するデパートを敵視する「営業中間層闘争同盟」がドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃や強盗などの暴行を繰り返した [957]。これに対してユダヤ人知識層はアメリカなど海外から反ドイツ世論を喚起し、ドイツ商品ボイコット運動を始め、さらにこれに反発してドイツでユ ダヤ人商店やデパートへのボイコットが展開した[957]。ヒトラーは「外国による扇動」を企んだ者に対して対処するとして、3月28日には首相命による ユダヤ人企業、商店、医師、弁護士へのボイコットを実現するための党声明が出された[957]。イギリス、フランス、アメリカ政府とドイツ政府との交渉で ユダヤ人による反ドイツボイコット運動も抑えられ、4月5日のボイコットではナチ党員のプラカードを無視して買い物をする市民も多かった[957]。 1933年4月7日、ユダヤ人と政治的敵対者を官吏から排除する「職業官吏再建法」が制定された[960][961]。同じ頃、法曹界、病院、学校でユダ ヤ人を制限する反ユダヤ法が制定された[960]。1933年4月から5月にかけてドイツ学生協会(ドイツ学生会[960])がルターに因んだ12条論題 を出して、1817年のヴァルトブルク祭に合わせて非ドイツ的な書物が焚書された[962]。この5月10日の焚書はゲッベルスの発案とされてきたが、ラ イヴァルの国民社会主義ドイツ学生連盟を出し抜くためにドイツ学生会が発案したものである[960]。ゲッベルスは5月10日の焚書演説でユダヤ人が支配 してきた知性偏重の時代は終わり、ドイツの革命によってドイツの自由が獲得されるのだと述べた[860]。 5月1日は社会主義インターナショナルの祭典の日であったが、ゲッベルスはこれを「国民労働の日」というイベントにする計画を立て、ヒトラーは50万人の 聴衆を前に階級分断をやめて民族共同体として団結する必要性を訴え、ナチスに共感していない者でさえも感動した[960]。その翌日、突撃隊とナチ企業細 胞組織は労働組合の財産を接収して、幹部は逮捕された[960]。5月10日には新たな労組としてロベルト・ライ率いる「ドイツ労働戦線」が成立した [960]。5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。社会民主党の支持も急速に失われていき、3月から4月にかけて準軍事組織の国旗 団は解散し、党支部も閉鎖された[960]。一部の亡命者が6月18日にプラハで機関誌を発行すると、ドイツでの社会民主党の活動は禁止され、党の資金も 没収された[960]。6月26日、フーゲンベルクはロンドン会議において首相や閣僚への相談なしに、ドイツの植民地返還と東欧植民地獲得を主張した責任 をとって辞任した[960]。諸政党はナチ党に吸収されたり、解散していった。6月27日にドイツ国民戦線(ドイツ国家人民党)が、6月28日に国家党 (旧ドイツ民主党)が、6月29日にドイツ人民党が、7月4日にバイエルン人民党が解散し、鉄兜団も突撃隊に組み込まれた[960]。7月5日にナチ党以 外の最後の政党であった中央党も解散した[960]。一週間後の政党新設禁止法で、ナチ党による一党独裁体制が確立した[960]。 一方、1933年5月にユダヤ文化を守るためにユダヤ人文化同盟が創立し、会員は5万人以上となり、1938年に解散させられるまで美術展、コンサート、 演劇、オペラ、講演会を実行した[963]。 詩人ゴットフリート・ベンはヴァイマル共和国の自由とは「堕落の自由」であったとしてナチズムを支持し「わが民族の道が拓ける」と述べた[960]。ハイ デガーやカール・シュミット、ユリウス・ペーターゼンはナチスを支持し、エルンスト・ベルトラムは「生に敵対する合理性、破壊的な啓蒙主義」への闘争に敗 北すれば、白人世界は終焉し、害虫のはびこる世界となるとした[960]。ヒトラーを嫌った作家トーマス・マンも4月1日のボイコットの後の4月10日 「法曹界からのユダヤ人追放は不幸なできごととはいえない」と日記に書いた[960]。 ナチ党は文化創造力を持つアーリア人種も混血によって「劣等な血」が混じれば退化するので アーリアの「血」を守らねばならないとした[964][注 101]。 1934年7月、オーストリア・ナチス党員がクーデターを計画し、エンゲルベルト・ドルフース首相を暗殺したが、クーデターは未遂に終わった[965]。 当時のオーストリアでの経営者がユダヤ系である割合は、銀行、出版界、広告業、百貨店は75%、鉄鋼流通は100%、セルフサービス食堂は94%であった [965]。 1935年夏、ミュンヘンで反ユダヤデモ隊が暴徒化したことに市民が怒り、密かにデモを扇動していたバイエルン内相アドルフ・ヴァーグナーは「テロ」の責 任を厳しく非難せざるをえなくなった[966]。ベルリンではユダヤ人が反ユダヤ映画に抗議したことに反発したナチの暴徒がユダヤ人を襲撃したことに市民 が怒り、警察長官マグヌス・フォン・レヴェツォウは免職となった[966]ナチ党は反ユダヤ政策をとっていたが非合法な手段での襲撃を戒めており、8月8 日にヒトラーは「個別行動」の禁止を命じ、20日には反ユダヤ犯罪行為を行った者を厳罰に処すと明言した[966]。ナチ党内において暴行を行う急進派 と、法治主義を優先すべきとする保守派との間で対立があり「人種汚染」に対する厳しい反ユダヤ法の制定を保守派は望んでいた[966]。急進派のシュトラ イヒャーはユダヤ人と性交渉したアーリア人女性は二度と純粋アーリア人を産めなくなるので、ユダヤ人とアーリア人との通婚は人種汚染であるとして禁止する よう機関紙で主張していた[966]。 1936年の党大会でのアルベルト・シュペーアによる「光の大伽藍」では、人間を従属させる高さが演出された[941]。 1935年9月15日、国旗法、ドイツ人の血と名誉を守る法、公民法(帝国市民法)の三法案 (ニュルンベルク法)が可決した[967]。国会演説でヒトラーは首相就任以来初めて「ユダヤ人問題」に触れた[967]。ドイツで反ユダヤボイコットが 行われる責任は国外のユダヤ人にあるとし、ボルシエヴィキの扇動も、ニューヨークで港湾労働者が汽船ブレーメン号からドイツ国旗を引き下ろしたのも、すべ てユダヤ分子の責任である[967]。こうした国際的混乱が、ドイツ国内のユダヤ人を扇動して組織的な挑発行動をとっており、(突撃隊などのナチ急進派 の)「怒れる人々」による統御不能な「防衛行動」の問題なども解決させるには、法的に規制するしかない[967]。政府は一度にすべてを解決するためにド イツ国民とユダヤ人とが相互に許容できる関係を築き上げる基盤としてこの法を提案する[967]。しかし、それでもなお、国際的扇動が続くようであれば、 最終的解決の段階に移ると弁じた[967]。同時にヒトラーはユダヤ人への野蛮な攻撃である「個別行動」を抑制するよう命じた[967]。こうした外交上 の配慮からなる「妥協策」に対して、ナチ急進派は法案に不満だった[967]。ドイツ国公民法(帝国市民法)ではユダヤ人と「ドイツの血を宿すアーリア 人」との婚姻および性交渉が禁止された[962]。しかし、純粋なユダヤ人以外の混血に関する「ユダヤ人」の定義に時間がかかり、11月になって、祖父母 のうち2人がユダヤ人で2人がアーリア人の「2分の1ユダヤ人」については、ユダヤ教徒である場合、ユダヤ教徒と結婚している場合、ユダヤ教徒の配偶者と の子である場合、ユダヤ人とアーリア人の婚外子である場合に「ユダヤ人」とみなされるとされた[967]。また、1935年には親衛隊保安部(SD)のユ ダヤ人問題を専門とする第4部B4局長にアドルフ・アイヒマンが就任した[968]。ニュルンベルク法によってユダヤ人問題が「合法的に解決」したことに よってその後二年間は、ユダヤ人問題は政治の中心からは外れた[967]。たとえば1936年2月にスイスのナチ党幹部ヴィルヘルム・グストルフがユダヤ 人青年に暗殺された時も「個別行動」は禁じられたため、報復はなされなかった[967]。 1938年のウィーンの動画。「ユダヤ」と店先に目印がつけられている様子が撮影された。 1938年3月13日、ドイツによってオーストリアが併合された。併合をウィーン市民は熱狂的に歓迎し、カトリック教会会議はドイツ軍の実力行使を希望の 実現として祝い、プロテスタント教会は奇跡の到来と祝った[965]。ナチス統治下のオーストリアでもユダヤ人は弾圧され、3月28日にユダヤ教団体は公 法団体として取り消された[969]。1938年10月、親衛隊によってポーランド系ユダヤ人をポーランドとの国境地帯に移送した。 11月7日、パリでポーランド系ユダヤ人の男娼グリュンシュパンがドイツ人外交官ラートを暗殺した[962][注 102]。犯行動機はラートが同性愛の相手をする見返りとしてドイツ再入国を許可するという約束を守らなかったために起こったが、ナチスはこれを公表しな かった[941]。二日後の11月9日に反ユダヤ暴動「水晶の夜」がドイツ各地で発生し、数十箇所のシナゴーグが焼き打され、ユダヤ人商店数100軒が略 奪破壊された[962]。ナチス当局はユダヤ人共同体に外交官暗殺の賠償金として10億マルクを課した[962]。同時に2万以上のユダヤ人が強制収容所 へ送られた[962]。また経済界からのユダヤ人資本の排除、経営の解体も進行した[注 103](アーリア化)。 1939年1月30日、ヒトラー総統は国会で「国際的な金融資本のユダヤ人が、もう一度諸国民を新たな世界大戦に投げ込んだならば、地球のボリシェビキ化 とユダヤ人の勝利をもたらすのではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の絶滅という結果をもたらすことになるだろう」と演説した[962]。 1939年8月23日、オーバーザルツベルクの山荘でオーロラを目撃したヒトラーは流血の前兆だと語った[941]。9月1日にドイツ軍と同盟軍のスロバ キア軍がポーランド侵攻を開始した(第二次世界大戦)。ポーランドの制圧に成功したドイツは、現地のユダヤ人をゲットーに隔離し、強制労働を課した [962]。 大戦直後の1939年秋から、ナチスは「生きるに値しない生命の除去」を目的として精神障害者などの安楽死政策 (T4作戦)を実行した[962][注 104]。 パリで検挙されるユダヤ人、1941年 1940年6月にフランスがドイツに降伏した。ドイツ占領下のフランスにおいてドイツ当局はフランスが自発的に反ユダヤ主義政策を開始することを望んだ [962]。占領下フランスではユダヤ人の弁別作業が困難を極め「非アーリア人(ユダヤ人)」登録は自己申告として課された[968]。占領初期にはユダ ヤ人を狙って強請りや詐欺が頻発した[968]。1940年夏、外国籍ユダヤ人がギュルス強制収容所、リヴザルト、レセベドゥー収容所に連行された(フラ ンスの強制収容所)[962]。1941年5月から8月にかけて、SD第4部B4局指揮下のパリ警察はポーランド、チェコスロバキア国籍のユダヤ人を拘束 し、ロワレ県のフランス憲兵隊が収容所に連行した[968]。25000人の対象者のうち半数が数人の官吏やレジスタンスによって危機を逃れたが、 9000人が引き渡された[968]。1941年12月、パリSD第4部B4局はフランス籍ユダヤ人を拘束し、ロワイヤリュー収容所に移送した [968]。1943年春にスターリングラードでドイツ軍が敗退すると、フランス行政・警察は非協力的な態度が一般化した[968]。 ドイツ占領下のオランダでは、1941年2月に最初のユダヤ人検挙が行われたが、港湾労働者のストライキが抗議の意味で行われた[968]。しかし、オラ ンダのユダヤ人はその4分の3が殺害された[968]。 強制収容所 「ホロコースト」および「強制収容所」を参照 1941年3月、ヒトラーがユダヤ人と共産主義者の絶滅を命じた[972]。 6月、ドイツはバルバロッサ作戦によってソ連侵攻を開始した。SS長官ヒムラーは共産主義者とユダヤ人の除去を目的として、アインザッツグルッペンを編成 した[962]。アインザッツグルッペンは軍事制圧が完了すると、人種別の住民登録を行い、ユダヤ人は外縁部で銃殺された[962]。しかし、大量銃殺は 兵士に精神的重圧をもたらし、またレースラー少佐や帝国弁務官ローゼはユダヤ人の大量銃殺に抗議した[962]。やがてドイツ占領化のロシアやユーゴスラ ヴィアでは、トラックの排気口からの一酸化炭素を車内に送り込むガストラックが導入された[962]。 また、ヒムラーは同6月にSS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘスにアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の建設を命じた[973]。ヘスは陸軍の消 毒剤ツィクロンBの使用を考案し、死体焼却炉も建設した[973]。ヘスは「人道的な配慮」から、収容者に害虫駆除の処置を受けると思わせるよう、カポに 脱衣場で自分の衣服の番号を覚えておくように言い渡し、また砂石でできた石鹸を収容者に渡した[973]。フランス、ハンガリー、ポーランドのユダヤ人、 ジプシーが収容されたアウシュヴィッツでは、ユダヤ人医者、化学者、音楽家は保護され、オーケストラも組織された[973]。1944年10月6日、死体 焼却炉のユダヤ人作業部隊が、ウニオーン弾薬工場で働いていた女性ユダヤ人が持ち帰った爆薬を集めて作った小さなダイナマイトによって死体焼却炉三号機を 爆破し、4人のSS隊員を殺害した[973]。ジプシーは人種的には「アーリア人」だったが「非社会的存在」であったため、2万人が収容された [973]。ヘスはジプシーを気に入り「家族収容所」を特設したが、1944年夏にヒムラーがジプシー全員の処分を命じた[973]。 1941年10月-11月、ドイツのユダヤ人7万人が東方移送されるが輸送の故障で数ヶ月休止された[968]。ユダヤ人はウッチ、リガ、ベラルーシのミ ンスク・ゲットーに収容された[968]。ミンスクでは、ベラルーシ総弁務官のヴィルヘルム・クーべが収容者にはアーリア人が含まれていると友人ローゼに 憤慨しているが、1942年7月28・29日に約1万人のユダヤ人が殺害された[968]。 1941年12月、ポーランドで最初の絶滅収容所ヘウムノ強制収容所が作動した[973]。ヘウムノのガス室は可動式荷台で、一度に40人ずつガス殺害 し、死体は近隣の森に処分され、犠牲者は15万から25万とされる[973]。 ヴァンゼー会議 1942年1月20日のヴァンゼー会議でラインハルト・ハイドリヒ警察大将は「ヨーロッパのドイツ勢力圏におけるユダヤ人問題の全面的解決のために組織的 及び実務的及び物質的観点からみて必要なあらゆる準備を行う」こと、および「ユダヤ人問題の最終的解決を実行するための組織的・実際的・物質的準備措置に 関する全体的計画」を委任されたと宣言し、ボヘミアとモラヴィア保護領を含め帝国領からユダヤ人は一掃され、東方で労働奉仕を行うが自然淘汰されるだろ う、生き残りについてはしかるべき処理すると述べた[968]。また「アーリアの血」混入割合については、プロイセン貴族が富裕ユダヤ人と婚姻関係を結ん できた歴史もあり、ドイツ有力者のなかにもユダヤ人の祖父母を有する者が多数存在したため、会議に出席していたヴィルヘルム・シュトゥッカート内務省次官 はセム化50%以上の混血者も生かして、避妊処置を施すという案を出し、ヨーゼフ・ビューラーポーランド総督府代表はポーランドは「感染の中心源」なので 優先してほしいと提言した[968]。 1942年3月にベウジェツ強制収容所、同5月にソビボル強制収容所、同7月にトレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が作動開始した[973]。三大絶 滅収容所はポーランド地区親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボツニクが管轄し、ウクライナの補佐役集団の下、大量殺害が遂行された[973]。収容者は 建前上「労働収容所」また「ユダヤ自治領」に移送されることになっており、収容所には「自治区入り口」「シナゴーグ」といった標識が掲げられていた [973]。ユダヤ人の衣類は、ドイツ人の貧民層に配布されるために回収された[973]。ベウジェツではガス室が6つあり、一日に5千人を処理できた [973]。ソビボルではユダヤ人が反乱を起こして、数人の看守を殺害した[973]。ユダヤ人、ロシア人戦争捕虜を含めて犠牲者は25万人とされる [973]。トレブリンカにはガス室が10数個あり、ユダヤ人犠牲者は70万人とされる[973]。 マイダネク収容所のガス室 マイダネク収容所は労働キャンプだったが、1942年夏にガス室が設置され、ツィクロンBも使われ、犠牲者は12万5千人とされる[973]。テレージエ ンシュタット強制収容所には過去の功績が認められたユダヤ人が収容され、国際赤十字社の視察団に公開して、人道的な扱いをしていると印象づけるために用い られた[968]。ヒムラーは1943年10月にSS指導者を前に、諸君は死体の山積みを見てきたが、いくつかの弱い例外を除いて「皆、まともな人間であ り続けた」「これによってわれわれは屈強なる人間になった」と述べた[973]。 ドイツと同盟したブルガリアは総人口5万人の内2万人をドイツに引き渡したが、政治家や聖職者によって抗議され一部しか実行されなかった[968]。ドイ ツ占領下のギリシャでもユダヤ人は収容所に送られた[968]。ルーマニアには70万人のユダヤ人がいたが、旧ルーマニア王国領内のユダヤ人は保護された 一方で、1918年に併合されたベッサラビア州とブコビナ州のユダヤ人30万人は占領下ソヴィエト内のトランスニストリアに移動され、ポグロムの犠牲と なった[968]。ハンガリーでは1938年、厳格な反ユダヤ法が導入されたが、ホルティ提督はドイツの内政交渉を嫌った[968]。1944年3月、ド イツのハンガリー統治が始まり、アイヒマンが現地入りした[968]。1944年4月から6月にかけて45万人のユダヤ人が移送され、7月にはブダペスト のユダヤ人20万人が移送予定だったが、連合軍のノルマンディー上陸によって実現されなかった[968]。 オトマル・フォン・フェアシューアは1943年に「ドイツの人種帝国の最高指導者」のヒトラーについて「遺伝生物学および優生学のデータから国家の行動の 指導原理をつくった最初の政治家」と称賛した[424]。 神学者カール・バルトはナチスを批判したが、1944年7月に「われわれは概してユダヤ人が好きではない。それゆえに人類への普遍的な愛を彼らに傾けるこ とは容易ではない」と講演で述べた[974]。 計画されたが実現されなかったものとしては、スラブ人政策やユダヤ人をマダガスカル島に移送するマダガスカル計画などがある。スラブ人政策については、 ポーランド占領直後の1939年11月に東部占領担当官アルファート・ヴェッツェル博士は、ポーランドの非ドイツ人をゲルマン化するために、組合、クラ ブ、ポーランド料理店、カフェ、劇場、映画館を閉鎖し、ポーランド語新聞や書物、ラジオの禁止を計画し、さらに1942年4月にロシアには「原始的なヨー ロッパ亜種」しか受け入れないし、ドイツ人とは隔離して支配するとした[973]。司法相オットー・ティーラックは、ゲルマン的類型を示す人間以外のポー ランド人とロシア人は純粋単純に絶滅させると意図した[973]。また、17歳から45歳までのイギリス人男性を全員大陸に移住させる計画や、フランスに 対してはブルゴーニュとブルターニュを保護国として切り離し残りを「ガリア」として「15世紀の国境線」を再現すると計画した[973]。これはフランス 革命への憎悪のためとされる[973]。 こうしてナチスによる「ユダヤ人問題の最終的解決」を目的としたユダヤ人政策によって、ヨーロッパの各地のユダヤ人が絶滅収容所等で大量虐殺の被害にあっ た。これは「ホロコースト」と呼ばれている。 1945年3月19日、ヒトラーはドイツの軍事施設の破壊を命じ、シュペーアに「よきものは滅びる運命にある」と述べた[941]。 |
https://bit.ly/3IcqHwb 日本における反ユダヤ主義(にほんにおけるはんゆだやしゅぎ、英 Antisemitism in Japan)では、日本国内で起こったユダヤ人またはユダヤ教に対する迫害や偏見に基づく反ユダヤ主義、およびそれに関連する事象も取り上げる。 日本ではユダヤ人口が少なく、第二次世界大戦を前に民族主義的イデオロギーとプロパガンダが少数の日本人に影響を与えるまで、ヨーロッパにおけるような伝 統的な反ユダヤ主義はなかった[注 1]。 戦争直前から戦時中にかけて、日本の同盟国だった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権下のドイツ政府は、戦前に日本に反ユダヤ主義を採用するよう奨 励、 戦後も過激派のグループやイデオロギー信奉者がユダヤ陰謀論を喧伝してきたが、日本国内では反ユダヤ主義が日本国民に影響力を持つほどには拡大しなかっ た。イスラエル建国以後はキリスト教由来の反ユダヤ主義を持つ欧米諸国では、パレスチナへの同情由来の反イスラエル感情が起きていて、イスラム世界では激 しい反イスラエル感情で新たな反ユダヤ主義の中心地となっている。それに対して、日本はイスラエル・パレスチナ双方と交流する方針を取りながらも、国民に 目立った反発・派閥対立も起こっていない[1]。 戦後に来日したユダヤ系が一人の外国人として街でじろじろ見られても、「ユダヤ系外国人として差別」されるようなものではなかった[2]。イスラエル国内 でも、「(第二次世界大戦集結以前から)先進国の中で唯一ユダヤ人を差別しなかったのは日本だけ」と教えている[3]。 反ユダヤ主義との初邂逅:1910年代 1918年(大正7年)、日本軍はロシアの反革命運動(白色運動)に協力するためシベリア出兵を行った。この際に日本軍は白軍経由で『シオン賢者の議定 書』を入手した。『シオン賢者の議定書』は今日では偽造文書であるとされているが、当時は国際政治の重要な情報として扱われており、白軍兵士が同書のコ ピーを日本人将兵に配布した。これが日本人が「ユダヤ人による国際陰謀」という説が存在することを知るきっかけとなった[注 2]。 シベリアから帰った久保田栄吉は1919年(大正8年)に同書を紹介した。 また、『シオン賢者の議定書』が日本に持ち込まれる際に、『マッソン結社の陰謀』というわら半紙に謄写版刷りの50枚ばかりの小冊子が持ち込まれた。これ が日本ではフリーメイソン陰謀論がユダヤ陰謀論と同時に語られるきっかけになった。 『シオン賢者の議定書』の流布:1920年代 1923年(大正12年)、陸軍学校ロシア語教授樋口艶之助が北上梅石というペンネームで『猶太禍』(内外書房)を刊行し、同書の内容紹介を行った [5]。 同年、『マッソン結社の陰謀』は「中学教育の資料として適当なものと認む」という推薦文とともに全国の中学校校長会の会員に配布された[6]。 樋口の翻訳を読んだキリスト教伝道者酒井勝軍が1924年(大正13年)に『猶太人の世界征略運動』『猶太民族の大陰謀』『世界の正体と猶太人』など3冊 を連続発表した。しかし、のちに酒井は親ユダヤ的な見解をとるようになっていった。 同年、社会学者若宮卯之助が『猶太人問題』(財団法人奉公会)を刊行している。 同年、「日本民族会」が設立された。 1925年(大正14年)、後の大連特務機関長安江仙弘が議定書の初の日本語翻訳を出版した。ロシア語の専門家である安江は、ソ連・ボリシェヴィキの指導 者であるレーニンもユダヤの血が流れていて[7]、トロツキーやジノヴィエフなどユダヤ系ロシア人革命家がいたことから、反革命側・白軍はボリシェヴィキ による革命を「世界制覇をたくらむユダヤ人による陰謀」とみなしていた[8]。議定書コピーを全部隊に配布したほど猛烈な反ユダヤ主義者であった白軍指導 者のグレゴリイ・セメノフ(英語版)将軍のスタッフに任命された[7]。「数十人の日本人兵士とともに、安江は議定書の叙述を読んで受け入れ、包荒子とい うペンネームで『世界革命之裏面』を著し全文を紹介した。また、安江は『国際秘密力の研究』など様々な反ユダヤ主義の出版物のために時間を費やした [7]。」「ナチス・ドイツと日本の同盟を正式締結する1940年の日独伊三国同盟に日本が署名した時、自分の見解を(漸く)変えた」と主張されるが、安 江が反ユダヤ主義から翻意するのはもっと以前からというのが通説である。実際に安江はパレスチナやエジプトを視察して帰国した後の1934年の『猶太の人 々』で、「ユダヤ人一人ひとりみれば、全ユダヤ人が革命運動に参加しているのではなく、大財閥である訳でもない」「ユダヤ人だからといって、全員危険視す べきではない。」「我が国にとって、有害な人物もいれば、無害な人物も」いるというように、自身のユダヤ観を以下のように綴っている。 猶太人の一人々々を観れば、数千萬の猶太人が一人残らず、革命運動に参画して居るのでもなく、又皆一様に大財閥である訳でもない。…猶太人であるからとい ふて、誰も彼も危険視すべきではない。我が國に取つて有害な人物もあれば、無害な善良な人もある[9]。 デビッド・クランツラーは安江の新たな親ユダヤという立場は、日本軍からの解任につながったと主張している[10]。しかし、1935年2月に安江はハル ビンで、日本民族とユダヤ民族間の親善実行団体である「世界民族文化協会」の会長となっている。1940年12月に日本陸軍大佐・大連特務機関長から、規 定通り常備兵役を終えた者として予備役に編入されている[11]。 安江が親ユダヤの立場を取る前に独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んで、ユダヤの陰謀の発見などの具体的 成果を挙げられなかった「ユダヤの陰謀」の研究を行ったと主張されている[12]。 四王天延孝 1928年(昭和3年)9月に、誕生したばかりの思想検事の講習会が司法省主催で開催された。その中で四王天延孝陸軍中将により『ユダヤ人の世界赤化運 動』が正科目として講座が開かれた[13]。 ユダヤ陰謀論・フリーメイソン陰謀論への批判 満川亀太郎は1919年の『雄叫び』誌に載せた文章をはじめ、『ユダヤ禍の迷妄』(1929年)、『猶太禍問題の検討』(1932年)でユダヤ陰謀論を批 判した。満川は、自分の他にもユダヤ陰謀説を批判している人はいるが、妄説を相手にしているのは大人げなく黙殺するという態度を取る人が多く、結果的に陰 謀説の方が優勢を示したという[14]。 吉野作造は1921年に『所謂世界的秘密結社の正体』という文章を書き、フリーメイソン陰謀論を批判した[15]。 厨川白村は1923年5月に「個人主義傾向のユダヤ人に大きな団体的な破壊活動などが出来る筈がない」と主張した[16]。 広島文理大教授(西洋史専攻)となる新見吉次[17]は1927年5月の『猶太人問題』で、ユダヤ人の陰謀説が日本に相当根を張っている状況を憂い、歴史 的事実を通してその批判を行っている。 八太徳三は稼堂文庫 の『想と国と人[18]』に『猶太本国の建設』という文書を著し、ここで『シオン賢者の議定書』の捏造状況を記述した。 1930年代 河豚計画・ユダヤ人救助 詳細は「河豚計画」を参照 1934年(昭和9年)頃から、安江仙弘や犬塚惟重は、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチスによって迫害されているユダヤ人を助 けて移住させることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようとする河豚計画を立てた。安江や犬塚は日ユ同祖論を展開、書籍を出版する ことなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人の命が救助されたりと成果も残すこと となった[12][注 3]。 1936年には「国際政経学会」という組織が結成され、『国際秘密力の研究』や『月刊猶太(ゆだや)研究』という雑誌が発行された。これらの組織の主要メ ンバーであった赤池濃は貴族院議員であった。 同1936年、四王天延孝陸軍中将が『シオン賢者の議定書』を日本語に再翻訳した。 オトポール事件や河豚計画にも関わった樋口季一郎は、1937年の第1回極東ユダヤ人大会に招かれてナチスの反ユダヤ主義政策を批判する演説を行っている が、日本の新聞では大会の存在すら報道されなかった[19]。 日独協定後の日本政府による猶太人対策要綱 日本は1936年に日独防共協定、1937年に日独伊防共協定、1940年に日独伊三国同盟を締結し、ナチス・ドイツと同盟関係になった。1938年10 月7日、当初は外務省から在外公館長へ『猶太避難民ノ入國ニ關スル件』という極秘の訓令が近衛文麿外務大臣の名で発せられたものの、リトアニア在カウナス 領事館に副領事として務めていた杉原千畝がビザを発給し、多くのユダヤ難民を救った。杉原千畝のことはイスラエルでも教えられている[3]。更には 1938年12月6日、板垣征四郎陸相の主導のもと、日本政府は方針転換し、『猶太人対策要綱』を制定した。これは満州国で運用していた法律を日本と占領 下の中国でも適用したものである。ただし反ユダヤ主義とは逆にユダヤ人を公正に取り扱う方針で、条文の第一条が次のとおりである[20]。 「猶太人ニ対シテハ他国人ト同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ」-『猶太人対策要綱』 昭和十三年十二月六日附 1939年、貴族院議員赤池濃が『支那事変と猶太人』政経書房を刊行。 マスコミ 1933年にドイツでナチス政権が成立する以前の新聞報道では、反ユダヤ主義はほとんど積極に取り扱われていなかった[21]。ナチ党の権力掌握から間も ない頃には、東京朝日新聞などでもナチスのユダヤ人迫害に対して批判的な論調が見られた[21]。しかし、ナチスに対する支持が増幅するについて、反ユダ ヤ主義的な見解が広がり、黒正巌は大阪毎日新聞の紙上でナチスの経済政策を激賞し、労働精神を有しないユダヤ人はドイツ国民と断じて相容れず、「国民を利 子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ないのである」と論じている[21]。 1938年のナチス・ドイツによるオーストリア吸収であるアンシュルス後に大阪朝日新聞は「ユダヤ人を清掃すればよい程度」という表現が用いられ、大阪毎 日新聞も水晶の夜後にユダヤ人に対して課せられた賠償問題についても「ドイツ人がユダヤ人を煮て食はうが焼いて食はうが米国の口を出すべき問題ではない」 と論じている[21]。 宗教界 1937年には日蓮宗系宗教家の田中智學が反ユダヤ主義の喧伝を行った[22]。田中智學はこう述べている。 「現在、世界のお金の60%から70%は猶太人の手にあると言われている。多くの貧しい国や一文無しの国は、結局どうにかするために海外からの資本を受け 入れなければならず、必要なお金を借りるために猶太人に屈服しなくてはならない。概して猶太人は、輸送施設、電気プラント、鉄道、地下鉄に投資する…その 理由は、これが各国で常に革命を扇動するための議定書に記された計画に基づいており、最終的には国家崩壊につながるためである。その後で、猶太人が乗っ取 ることができるようにしている[23]」 ブライアン・ビクトリアによると田中智學の喧伝によって日本で反ユダヤ主義が急速に広がった[注 4]。 小説 東京朝日新聞の記者で、児童向けフィクション作家であった山中峯太郎は1930年代に猶太禍(Yudayaka)「ユダヤ人の危険性」に関する物語を書い た[24][注 5]。なお、山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。 山中は雑誌『少年倶楽部』に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載した。この物語の主人公は探偵(帝国陸軍の将校)の本郷義昭で、彼は大日 本帝国を密かに転覆させようとするユダヤ人の秘密組織、影のシオン同盟の総司令である、赤魔バザロフと戦う。『大東の鉄人』からの典型的な引用として、 「世界中に約1350万人のユダヤ人が散らばっている。何百年も前、彼らは世界の富を丸飲みにした。特に米国、英国、フランスで、そして他の西洋諸国で も、裕福なユダヤ人が沢山いて人々のお金で自分達の望むことを何でもしている…この富は、ヨーロッパとアメリカを通じて、目に見えぬユダヤ人の力を増やす ために使われている…これらの恐ろしいユダヤ人はシオン同盟と呼ばれる秘密結社を持っている。シオン同盟の目的は…全ての国をユダヤ人で支配すること…こ れは真実の世界的陰謀である。[24][注 6]」 1945年8月、日本の降伏と共に山中は執筆を中止したが、講談社は1970年代までこのシリーズの表現を一部修正した上で再版し続けた。戦後再版は、反 ユダヤの言及となる箇所(「日本を呪うシオン同盟」「待て四十九日!」)が小見出しごと全削除され、シオン同盟という名称も「マルキ同盟」に変更されてい る[5]。 また、海野十三の『浮かぶ飛行島』 や北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治も戦時中はユダヤ陰謀論的に自著が扱われたと戦後書いている[25]。 1956年産まれで上智大学非常任教師の松浦寛[26][27]は「戦前の日本では反ユダヤ主義的言説が日常的に流通していた」としている[6]。 第二次世界大戦開始以降 1941年、ナチス親衛隊のヨーゼフ・マイジンガー大佐は、オーストリアとドイツから逃れて日本占領下の上海に住んでいた約1万8千から2万人のユダヤ人 を撲滅するべく、日本に提案した[10][28]。彼の提案は、揚子江三角州にある崇明島での強制収容所の建設[29]、または中国沿岸の貨物船の(接岸 拒否による)飢餓を含むものだった[30]。上海統治を管轄する日本軍大将は、マイジンガーからの圧力に屈しなかった。しかし、日本人は虹口区の近隣に上 海ゲットーを建てた(これは1939年に東京で既に計画されていたものである)。人口密度がマンハッタンの約2倍のスラムだった。ゲットーは、日本の士官 カノ・ギョヤ(Kano Ghoya)の指揮下で、日本の兵士により厳重に隔離されており[31]、ユダヤ人は特別な許可がある場合だけそこから出ることが許された。戦時中に上海 ゲットーでは約2000人が死亡した[32]。日本では猶太人対策要綱もあり、上海ゲットーに押し込められたユダヤ人はヨーロッパ諸国で受けたような暴力 的迫害はされていない[20]。 1940年12月31日、松岡洋右外相はユダヤ人の実業家団体に「 私はどこにも、ヒトラーの反ユダヤ主義政策を日本で実行すると約束したことはない。これは私の個人的見解ではなく、日本の見解である」と伝えている。しか し、D.A.カプナーとS.レヴィンは1945年まで(同盟のナチスドイツがやっていた)ホロコーストは東京の大本営によって体系的に隠蔽されていたと主 張している[33]。 1941年(昭和16年)、鹿島健という人物が表紙・ 空白含めて54ページで構成される『英国を支配するユダヤ力』(政経書房、国際秘密力研究叢書)を 刊行した[34]。 ナチスのプロパガンダ担当グラーフ・フォン・デュルクハイム(英語版)の友人であり師匠でもあった三宝教団創設者で禅僧の安谷白雲は1943年の著書『道 元禅師と修証義』でこう述べた。 「私たちは、認知しうる世界において平等の「存在」らしきことを主張する猶太人の悪魔の教えの存在に気付かなければならない、それによって私たち国家社会 の秩序が歪められ、「政府の」統制が破壊されている。それだけでなく、これら悪魔の陰謀者たちは深遠な虚妄と盲目的な信念を持っている…彼らだけが神に よって選ばれ、「それゆえに」非常に優秀な者達である。このすべての結果は、全世界の「統制」と支配を乗っ取り、今日の大きな動乱を煽っている油断ならな い企みである。[35]」 ブライアン・ビクトリアは安谷を「戦争賛成のスタンスに悪意ある反ユダヤ主義を統合する少数の禅師の一人だった」とし、日本の反ユダヤ主義は「明治時代に 日本社会で制度化した仏教が果たした「自家製の」反動主義な社会的役割の中心 」から独立して進化したと主張する[22]。 1944年1月26日の第84回帝国議会で四王天延孝議員はユダヤ人問題について質問をするが、回答した安藤紀三郎内相、岡部長景文相、天羽英二(内閣情 報局総裁)いずれも四王天の意を迎え、反ユダヤ主義的回答を行った[36]。大阪毎日新聞は四王天を講師として迎えた企画展「国際思想戦とユダヤ問題講演 会」などの、類似の反ユダヤ主義勉強会やイベントをたびたび開催し、主筆の上原虎重も講師として加わっていた[21]。大阪毎日新聞はこのほか、連合軍に よるローマ空襲でバチカンが被害を受けたことも「ユダヤ人とユダヤ思想を基礎とするフリー・メーソンリの計画」であると社説に掲載したほか、連合国の指導 者を「ユダヤ民族の総帥」であるとしたり、白鳥敏夫、大串兎代夫、大場彌平、長谷川泰造などの執筆陣でたびたび反ユダヤ主義・陰謀論的な論説を掲載した [21]。 |
https://bit.ly/3NBgtGF ムッソリーニは1936年にはヒトラーのユダ ヤ政策を鼻であしらっていた[968]。しかし1938年になると、ナチスと連携を深めたイタリアでは科学者グループが、ユダヤ人はアーリア人種に属さな いと声明[975]。当時、ファシスト党の属したユダヤ人は約7000人いたが、この声明以降、入党も禁止され、公職追放、財産没収、外国籍ユダヤ人の国 外退去などの政策がとられた[975]。1939年の鋼鉄協約以降、反ユダヤ法制が導入されたが、ムッソリーニ政権下でユダヤ人が収容所に送られることは なかった[968]。また、ギリシア南部、クロアチア、フランス南東部をイタリアが占領した時には、ユダヤ人を組織的に救済した[968]。しかし、 1943年7月にイタリア敗戦が決定的となってムッソリーニは失脚、ピエトロ・バドリオがイタリア王国首相となった。ムッソリーニを救出したドイツ軍は9 月23日にイタリア社会共和国を宣言し、ムッソリーニを元首とした。イタリア社会共和国でSD第4部B4局はユダヤ人検挙を行った[968]。 |
https://bit.ly/3IcqHwb |
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︎ハンナ・アーレント『全体主義の起源』読解ノート▶︎村岡晋一『対話の哲学:ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』▶セーフティネットとナチズム︎︎▶︎ハンナ・アーレント▶︎︎ナチス医学関係者との戦争犯罪と戦後の科学研究の継続性と断続性▶ヘーゲルと現代社会︎▶天使の死とスープの味︎︎▶︎シンギュラリティ時代における宗教▶︎︎カイザー・ヴィルヘルム科学振興機構▶︎▶︎
●1935年以降にできた、反ユダヤ研究所(クーンズ『ナチと民族原理主義』滝川義人訳、Pp.276-279、青灯社、2006)
名称 | 場所 |
摘要 |
その他 |
物理研究所 |
ハイデルベルグ |
ハイデルベルグ大学と関係をもつ。自然科学研究所 |
|
帝国新ドイツ歴史研究所 | ベルリン | ||
国家社会主義法律協会(Nationalsozialistischer Rechtswahrerbund) |
ベルリン |
カール・シュミットが会長 | |
反ユダヤ歴史研究所・附属図書館(帝国ユダヤ問題研究所) | フランクフルト | アルフレート・ローゼンベルグが設置。ベルリンの研究所とライバル関係。 | |
ユダヤ影響力根絶研究所 |
公的援助なく、プロテスタントが運営 |
リンク
資料
http://www.vintag.es/2016/05/rare-wwii-color-photographs-taken-by.html
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