ハインリヒ・ヒムラーとナチス親衛隊
Heinrich L. Himmler and Schutzstaffel (SS)
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ハインリヒ・ヒムラーとその最期(ウィ
キペディアに
よる):「フレンスブルク政府を放逐されたヒムラーは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、ルドルフ・
ブラント、カール・ゲプハルトなどの側近たちとともにホルシュタインからエルベ川を超えて逃亡した。5月22日、ブレーマーフェルデとハンブルクの間にあ
るバルンシュテット(Barnstedt)
村のはずれでイギリス軍に拘束され、捕虜としてリューネブルクの捕虜収容所に送られた。
ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかをよく知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為ゆえに戦後連合軍から糾弾されること
を覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に、親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠
こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最後の命令となった。
ヒムラーは、イギリス軍の一兵卒の捕虜への粗末な扱いに耐えられなくなり、収容所所
長に対して「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗った。さらに連合軍上層部との政治的交渉を求めた。所長は上層部に取り計らってみると回答
したが、結局交渉は拒否された。翌5月23日、ヒムラーの身体検査が行われた。イギ
リス軍のエドウィン・オースティン曹長がヒムラーに長椅子を指して「これがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と全裸になることを要求したが、これに対して
ヒムラーは「君は私が誰だか分かっているのかね」などと述べた。オースティンは「あなたはハインリヒ・ヒムラーだ。そしてこれがあなたの寝台だ。服を脱ぎ
なさい」と再度全裸になることを要求した。ヒムラーとオースティンはしばらくじっと睨みあっていたが、先に目を逸らしたのはヒムラーの方だった。彼はおと
なしく服を脱ぎはじめた。軍医がヒムラーの身体を調べ、口の中を調べようと指を入れた時、ヒムラーは軍医の指にかみついた。そして奥歯に隠し持っていたシ
アン化カリウムのカプセルを噛み砕き倒れた。その場にいたイギリス軍兵士たちはすぐにヒムラーの身体を逆さにして毒を吐き出させようとし
た。ついで糸と針で舌を固定して催吐剤を使用して胃液を吐きださせようとしたが、約12分間苦しんだ後に死亡した。自殺を防げなかった軍医は直後に「やら
れた」と口にしたという。イギリス軍はヒムラーの遺体の写真を撮り、さらにデスマス
クを作った後、彼の頭を切開して脳の一片を切り取って保存した[グイド・クノップ『ヒトラーの共犯者
12人の側近たち』上、高木玲訳、原書房、2001年]。
遺体は1日放置され、イギリス軍の報告を受けて到着したアメリカ軍とソ連軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた。埋葬後に墓石等は与
えられなかったため、森のどこに埋められているのかは不明」逃亡と死.
●Schutzstaffel (SS)の歴史(ウィキペディアに よる)
1920-1933 政権獲得まで闘争時代は、反対 政党に対する武闘組織として突撃隊 (SA) があった
1923 3月にヒトラー個人のボディガードとして の「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設された。1923年5月に「アドルフ・ヒトラー特攻隊 (Stoßtrupp Adolf Hitler)」に改組
1924 2月25日にナチ党に対する非常事態宣言 の解除。2日後に再結党宣言。
1925 4月中旬にユリウス・シュレックに自らの 警護部隊を再建するようヒトラーは命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊 (Schutzstaffel)」の名前を与えられた。
1926
4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国 してシュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ。11月1日にフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は 突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsführer-SS)の肩書を得た
1927 3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハ イデンが代わって親衛隊全国指導者に就任。
1929
1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒム ラーが第4代親衛隊全国指導者に任じられた。ヴァルター・ダレの『血と大地』のイデオロギーに強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組 織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった
1930
11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織 と規定した。7月にクルト・ダリューゲが親衛隊に参加した。ダリューゲは親衛隊に入る前からベルリン親衛隊をヒムラーから独立して指揮することをヒトラー から認められていた人物で、親衛隊移籍後にもベルリン親衛隊をヒムラーから事実上独立して指揮していた
1931
6月には海軍を追放され失業中だったラインハルト・
ハイドリヒが親衛隊に参加した。ヒムラーはこのハイドリヒに親衛隊の諜報部「IC課」を任せた。1932年7月にこの組織はSDに改組された。SDは後に
全ヨーロッパに監視の目を張り巡らせる巨大諜報機関に成長するが、設立当初はハイドリヒの妻リナが秘書を務め、彼の部下は3人だけという状態であった
1932
1月25日にはミュンヘンの党本部「褐色館」の警備
の全権がヒムラーに任せられた。7月7日にはこれまでの突撃隊と同型の制服を改めて親衛隊独自の制服が制定された。これが親衛隊の制服として有名な「黒
服」
1933
1月30日にヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブ ルク大統領からドイツ国首相に任命されてドイツの政権を掌握。党幹部が次々と政府や州政府の要職に就任したが、ヒムラーとハイドリヒには何のポストも与え られず、彼らはミュンヘンにとどまっていた。3月9日にハインリヒ・ヘルトが首相を務めるバイエルン州政府がフランツ・フォン・エップ率いる党部隊に制圧 されるとようやくヒムラーがミュンヘン警察長官、ハイドリヒがミュンヘン警察政治局長に任命された[60][61]。さらに4月にはヒムラーがバイエルン 州警察長官、ハイドリヒがバイエルン州政治警察部長となった
1933-1934 強制的同一化(Gleichschaltung) と併せて各州の政治警察がヒムラーに任せられていったが、ドイツの国土の大半を占めるプロイセン州の警察は相変わらず、ゲーリングやディールス、ダリュー ゲらによって支配され続けた。
1934
ゲーリングは、4月20日、ディールスが務めるゲ シュタポ局長の上位職として「ゲシュタポ総監兼長官代理(Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)」を新設し、ヒムラーをこれに任じた。ヒムラーはハイドリヒをゲシュタポ局長に任じた。7月20日に親衛隊は突撃 隊から分離、独立を果たした。1933年の政権獲得後ドイツ各地に建てられた敵性分子を収容する強制収容所(KZ)の監督権もすべて親衛隊に移された。ヒ ムラーはダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケを強制収容所総監に任じた。アイケは1933年末にダッハウ強制収容所の監視部隊を親衛隊髑髏部隊とし て組織しており、長いナイフの夜事件の際にも粛清の実行部隊として活躍し、事件後には五個大隊に再編されて各強制収容所に警備部隊として配置されるように なった。
1936 6月17日にはフリックはヒムラーを全ド イツ警察長官に任じる。
1937
11月13日にヒムラーは「親衛隊及び警察高級指導 者(Höherer SS- und Polizeiführer、略称HSSPF)」の職を新設した。彼らはヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位を代行する者としてドイツ国 内や占領地の各地に配置されていく。
1939
9月、ハイドリヒは政治警察活動の重複を避けるため に党機関であるSDと国家機関である保安警察を一つの傘の下に束ねた。それが親衛隊の国家保安本部である。SDは第III局(SD国内諜報)とVI局 (SD国外諜報)に、秘密警察(ゲシュタポ)は第IV局に、刑事警察は第V局に配置された。III局はオットー・オーレンドルフ親衛隊中将、IV局は「ゲ シュタポ・ミュラー」と呼ばれたハインリヒ・ミュラー親衛隊中将、V局はアルトゥール・ネーベ親衛隊中将、VI局は30歳で親衛隊少将兼警察少将となった ヴァルター・シェレンベルクが指揮した。第二次世界大戦後期には国防軍の諜報部であったはずのアプヴェーアが国家保安本部VI局に組み込まれ、ドイツの対 外諜報活動はすべて国家保安本部が管轄するところとなった。
1942
1月にはハ イドリヒがヴァンゼー会議を開催し、ラインハルト作戦を策定してベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所などの絶滅収容所を建 設し、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅を目指す。東部戦線ではアインザッツグルッペンを組織して、ゲリラ掃討の名目でユダヤ人や一般市民の虐殺を行う。
6月にエンスラポイド作戦でハイドリヒが暗殺される とヒムラーが国家保安本部長官を兼務するようになったが(この間はI局局長ブルーノ・シュトレッケンバッハが長官代理として実務を取り仕切る)
1943 1月からはエルンスト・カルテンブルン ナーが後任に任じられて国家保安本部長官
1944
7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の際にも親衛隊と 国家保安本部は最大の鎮圧者として活躍した。戦況が悪化していくにつれて親衛隊や国家保安本部の秘密警察権力は肥大化し、ゲシュタポの暴走を止めるにはヒ トラーさえも苦労を要するようになった
SSの組織図はすべて、ヘーネ、ハインツ『SSの歴史(上)』森亮一訳、Pp.504-507 、講談社、2001年による
1945
4月30日にナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー は総統地下壕で自殺。5月4日は「西部戦線降伏の日」となり、ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍大将がオランダ・デンマーク・北ドイツの全艦 艇が無条件降伏し、5月5日午前8時(英国夏時間)に停戦する文書に調印。5月7日0時15分、ヨードルの連絡を受けたデーニッツはドイツ軍全軍の降伏を 決意し、ドイツ国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥名でヨードルに降伏文書調印の権限を与えた。また同時に西方総軍とその指揮下にある中部軍 集団、南部軍集団、E軍集団に対して西への脱出を命令した。6月5日には連合国軍によってベルリン宣言が発令され、ドイツの中央政府消滅と米英仏ソ四国に よる主権掌握が発表された。しかし1948年に西側連合国占領区域ではドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域ではドイツ民主共和国(東ドイツ)が発 足した。
ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Bodewin Johann Gustav Keitel, 1882-1946)
●SSと経済活動
「ヒムラーは党の政権獲得前から親衛隊の後援会員
(FM)の拡大を目指していた。後援会員は親衛隊に資金を提供するが加入はしないシンパのメンバーである。親衛隊の各連隊はそれぞれの後援会を所持してお
り、隊員には少なくとも一人の後援会員を確保することが命じられていた。1932年の時点では後援会員数は1万3000人にとどまっているが、政権獲得後
に一気に後援会員数が増大し、1933年には16万7000人まで伸ばし、さらに1934年には34万2000人に達した[76]。1932年夏にヒト
ラーの経済顧問ヴィルヘルム・ケプラー(Wilhelm
Keppler)が創設した「経済問題研究委員会」は、1934年半ばに親衛隊に取り込まれて「親衛隊全国指導者友の会(Freundeskreis
Reichsführer SS)」となったが、これは親衛隊の後援会の中でも頂点に位置するものであった。ここにはIGファルベンの
幹部ハインリヒ・ビューテフィシュ(Heinrich Bütefisch)、大財閥フリックのフリードリヒ・フリック(Friedrich
Flick)、大手食品会社ドクター・エトカーのリヒャルト・カゼロウスキー(Richard
Kaselowsky)、ドレスナー銀行のエミール・ハインリヒ・マイヤー(Emil Heinrich
Meyer)、ドイツ銀行のカール・リッター・フォン・ハルト(Karl Ritter von
Halt)、ジーメンス・シュケルトのルドルフ・ビンゲル (Rudolf Bingel)、J.H.シュタイン銀行(J. H. Stein
Bank)のクルト・フォン・シュレーダー男爵(Kurt Freiherr von
Schröder)、国営企業ヘルマン・ゲーリング(Reichswerke Hermann Göring)のヴィルヘルム・フォス(Wilhelm
Voss)などそうそうたる財界重鎮が集まった。後援会員はヒトラーへの宣誓も義務付けられず、親衛隊から命令を受けることも制服の着用義務もなく、金銭
面のみで親衛隊とつながった人々だった。しかし親衛隊の間違いのない財源であり、重要な存在であった[77]。ヒムラーは後援会員にもしばしば親衛隊名誉
指導者として親衛隊の階級を与えるようになった。これにより親衛隊に「親衛隊の魂」を持たぬ者が大量に流れ込むこととなり、旧来からの隊員たちを戸惑わせ
たという。
しかし後援会の存在により資金を大量に獲得できた親衛隊はドイツの「企業体」のひとつともなっていった。親衛隊は500にも及ぶ企業の経営を行っていた。
中でも「ドイツ土石工業社(Deutsche Erde und
Steinwerke:略称DEST)」が親衛隊企業としてはもっとも成功した企業である。DESTの主な仕事は3つあり、1つに採石場の開発および天然
石の産出、1つに煉瓦やクリンカーの生産、1つに道路工事の請負であった。作業員には強制収容所の囚人が駆り出されていた。「ドイツ装備工業社
(Deutsche
Ausrüstungswerke:略称DAW)」も有名である。各地の強制収容所に生産集中化のために設置され、収容所の囚人を使って弾薬箱、弾倉箱、
火砲、その他軍用品の生産にあたっていた。1940年6月に設置された「繊維皮革事業団(Gesellschaft fur Textil und
Lederverwertung)」も高い収益を上げた。武装親衛隊の軍服を生産する会社で、主に女囚を働かせていた。いずれの会社も囚人たちを労働条件
などまともに考えることもなく、文字通り倒れるまで酷使した[78]。
これら親衛隊企業は親衛隊経済部門の長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将の下でまとめられていた。このなかでヒムラーは磁器製造会社の経営に強く関心を示
した。彼がちょくちょく経営に口を出していたこの会社は常に赤字であったが、ヒムラーは最後まで経営をやめなかった[79]。他の親衛隊企業も戦前期には
赤字かあまり利益を上げず、戦時中になってようやく利益を上げるようになるところが多かった。
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