I.G. ファルベン
Interessen-Gemeinschaft Farbenindustrie AG, I.G. Farben
「I.G・ファルベンインドゥスト リー(IG Farben; イーゲー・ファルベンインドゥストリー、Interessen-Gemeinschaft Farbenindustrie AG)は、戦間期から戦後[1938-1952]ドイツの化学産業トラストである。略称はIGファルベン (I.G. Farben)。ブナ[Buna, 合成ゴム(Buna rubber, a synthetic rubber)]を大量生産したヒュルス社[Hüls AG]を設立し、デュポン(DuPont)やインペリアル・ケミカル・インダ ストリーズ(Imperial Chemical Industries) と協定する関係にあった。IGファルベンは第二次世界大戦後、独占解消のため解体された。ヒュルスは1998年デグサと合併した[Degussa-Hüls AG]。IGファルベンの清算は 1952年に始まり、2012年10月31日までかかった。スイスのIGケミー (IG Chemie) とアメリカンIG (American IG) が敵性資産として疑われた。これが母体の清算にあたり長きにわたり争点であった。カー ル・ボッシュ(Carl Bosch, 1874-1940)はIGファルベンとアメリカンIGの重役を兼ねていた」(「I.G・ファルベンインドゥストリー」ウィ キペディア日本語だが加筆している)
インペリア ル・ケミカル・インダストリーズは、「1925年のIG・ファルベン社の発足に危機感を持ったイギリス化学業界が対抗のため、1926年12月 に、「Brunner Mond,」「Nobel Enterprises」「United Alkali Company」「British Dyestuffs Corporation」の4つのメーカーが合併してICIを設立した。」
■Degussa-Hüls AGの歴史(http://www.company-histories.com/Degussa-Huls-AG-Company-History.html)
1873 Founding of Deutsche Gold-und Silber-Scheideanstalt vormals
Roessler (Degussa) in Frankfurt am Main.
1898 Degussa establishes a chemicals production plant in
Rheinfelden.
1919 Degussa acquires Scheideanstalt Dr. Richter & Co. and enters the dental business.
1931 "Carl
Bosch
was awarded the Nobel Prize in Chemistry together with Friedrich
Bergius for the introduction of high pressure chemistry. Today the Haber–Bosch process produces 100
million tons of nitrogen fertilizer every year." - Carl Bosch.
1932 Purchase of carbon blacks plant makes Degussa the second
largest producer of carbon blacks in the world.
1938 IG Farbenindustrie, along
with partner Bergwerksgesellschaft Hibernia AG, form Chemische Werke
Hüls GmbH to produce Buna.
1952 Degussa expands its chemicals operations in Wesseling, and IG Farbenindustrie is forced to disband by the Allies.
1953 Hüls is released from Allied control and allowed to
incorporate as Chemische Werke Hüls AG; shareholders include Bayer AG,
Kohleverwerungsgesellschaft, and Hibernia.
1970: Degussa builds a chemical plant in Belgium.
1973 Degussa founds a plant in the United States.
1979 Hüls becomes a wholly owned subsidiary of Veba AG.
1980 Degussa becomes known as Degussa AG.
1985 Hüls changes its name to Hüls Aktiengesellschaft, and Hüls America begins operations.
1998 Degussa AG and Hüls AG merge to form Degussa-Hüls AG.
■IG Farben- Auschwitz III-Monowitz.
アウシュビッツの3つの収容所のうちの、第3収容所IG(イー・ゲー)
ファルベン[Auschwitz III-Monowitz]。囚人のいたバラックはモノヴィッツ(Monowitz)と言うが、彼らは「ブナ(Buna, 人造ゴム)」と呼んでいた。
●日本の「陸軍習志野学校, 1933-1945」(ウィキペディアの項目より作成)
概要「陸軍習志野学校(りくぐんならしのがっこう)は、1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)まで、現千葉県習志野市泉町に あった帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究・教育を行った軍学校である。第一次世界大戦では、数々の新兵器が使用され、その非人間性について非難し 軍縮を求める声が広がった。 その一方で、列強各国はこの新兵器を開発又は防禦する研究を奨励し、次々に新兵器の開発を進めた。これら新兵器の中には生物兵器・化学兵器も含まれてい た。 学校設置の目的は「陸軍習志野学校令」によると、「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」とあり、毒ガスの知識を普及・使用法・防禦法を調査研究 する機関としている。 習志野学校は「毒ガス学校」とも呼ばれ、毒ガス兵器の開発や実戦を行う機関と思われているが、実際には、兵科の化学兵種(化兵)である瓦斯兵に毒ガス防禦 法を訓練[注釈 1]する学校であり、動物実験は行われていたようだが生体実験が行われたことはないといわれている。 陸軍の毒ガス研究および生産の編成を記載する。 研究 陸軍科学研究所 大正8年(1919年) [1] 製造 陸軍造兵廠忠海製造所 昭和4年(1929年) [2] 教育訓練 陸軍習志野学校 昭和8年(1933年) [3] 充填 陸軍造兵廠曽根製造所 昭和12年(1937年) [4] 一般的な説明として、習志野で運用訓練し、大久野島で化学物質が作られ、曽根まで輸送しそこで兵器として詰め替えられ、大陸(日中戦争)で用いた、として いる。」
沿革「
【沿革】
1918年(大正7年)5月31日:陸軍省兵器局に22名の臨時毒ガス調査委員会を設置(生産・応用・訓練の研究を開始)。
1919年(大正8年)4月:陸軍技術本部-陸軍科学研究所新設。
1922年(大正11年)
欧米で毒ガスの調査をした久村種樹砲兵中佐(陸士14期)が帰国。
戸山ヶ原に創設された陸軍科学研究所第2課 化学兵器班で研究開始(久村種樹砲兵中佐をトップにして、毒ガス実験・製造施設を建造)。
1924年(大正13年):毒ガス研究は陸軍科学研究所第3部に移行。
1925年(大正14年)5月:陸軍科学研究所新築落成(調査・防護・運用・整備の4班編成となり総勢100人余り、40の実験室・20の作業場有するま
で拡張)。
1926年(大正15年):参謀本部内に毒ガス研究会を設置。
1929年(昭和4年):大久野島忠海製造所が稼動。
1932年(昭和7年)2月:陸軍省は兵備改善案を発表し、この中で毒ガス防護教育の充実をうたった。
1933年(昭和8年)
永田鉄山参謀本部第2部長と小泉親彦陸軍医学校校長は、毒ガスを習志野学校で、細菌戦は731部隊で行うことを決定。
新聞で、化学戦学校が千葉県習志野に設置されることが報じられ、まもなく正式に「陸軍習志野学校」
と命名。
1933年(昭和8年)8月1日:陸軍習志野学校開校[注釈 2]。
1934年(昭和9年)5月18日:相馬原演習中に事故発生(1934年(昭和9年)5月18日:群馬県群馬郡桃井村(現・榛東村)の相馬原で陸軍習志野
学校幹事である今村均大佐の計画・実施で日本初の毒ガスを用いた演習を行った祭、不備が生じ、誤って毒を吸った者が続出して上等兵が亡くなる事故が発生し
た。これにより、真崎甚三郎教育総監は今村を退役処分にするつもりであったが、中島今朝吾校長が、真崎教育総監の他、林銑十郎陸軍大臣と参謀総長閑院宮載
仁親王に直訴し、身を挺して今村を守ったため、今村は不問に付された)。
1935年(昭和10年):
北・東一帯に敷地が拡張された[注釈 3]。
材料厰 増設。
1936年(昭和11年)2月28日 :二・二六事件に出動(後述)。
1940年(昭和15年)9月15日:『兵科廃止』[注釈 4][注釈 5][注釈 6][注釈 7]。
1941年(昭和16年)7月 :「関特演」一部要員を派遣(在満・在鮮各師団に師団制毒隊 設置)。
1945年(昭和20年)
8月15日:終戦を迎え『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝。
8月27日:閉校」
●陸軍科学研究所(1919年〜1941年)
「陸軍科学研究所(りくぐんかがくけんきゅうじょ)は、兵
器・兵器材料の基礎科学研究を行う日本陸軍の機関である。第一次世界大戦に伴う兵器発達に対処するため、「陸軍科学研究所令」(大正8年4月14日勅令第
110号)により、1919年(大正8年)4月15日、陸軍火薬研究所を改編し陸軍技術本部隷下の機関として陸軍科学研究所を設置した。内部組織として第
1課、第2課を置いた。事務所は同年4月19日、東京市小石川区小石川町東京砲兵工廠内(元東京衛戍総督部仮庁舎跡)に設置した[1]。第2課は当分の
間、板橋旧陸軍火薬研究所内に置かれた[2]。1923年(大正12年)5月、組織を拡充し第1部、第2部、第3部が設置された。1933年(昭和8年)
8月、第2部の火薬・爆薬研究が陸軍造兵廠へ移管となり同部を廃止し、第3部を第2部とした。1939年(昭和14年)9月、特殊電波・特殊科学材料など
秘密戦の研究部門として登戸出張所(登戸研究所)が設置された。研究機関の整理統合が図られ、1941年(昭和16年)6月14日勅令第696号により
「陸軍科学研究所令」が廃止され、第1部は陸軍技術本部第7研究所に、第2部は陸軍技術本部第6研究所に、登戸出張所は陸軍技術本部第9研究所に改編され
た」陸軍科学研究所)。
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文献
その他
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