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ヒトラーユーゲント

Hitlerjugend, HJ., Hitler Youth

Dōmei Kokusai Shashin Shimbun international news photo newspaper September 5, 1938 published by Dōmei Tsushin Shashin, 1938年9月5日

池田光穂

ヒトラーユーゲント(ド イツ語: Hitlerjugend、略称 HJ、英: Hitler Youth)は、1926年に設立されたドイツの国民社会主義ドイツ労働者党党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織 で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳され る。」

概要
ヒトラーユーゲントにおいては、同世代の指導者から肉体の鍛 練、準軍事訓練、祖国愛が、民族共同体の一員である青少年に集団活動を通じて教え込まれた。1936年ヒトラーユーゲント法により青少年(女も10歳〜 21歳、女子グループは「ドイツ少女団」と呼ばれた)の参加が義務づけられ、1939年には、800万人を擁する集団へと成長した(1940年のドイツの 人口は約7000万人)。戦局の悪化とともに1944年に国民突撃隊に併合された。制服は茶色の開襟シャツであったが、支給はされず自弁しなければならな かった。

ヒトラーユーゲントに所属する青少年らは、ナチス・ドイツの未来を保証するものとみなされ、人種差別を含むナチスのイデオロギーを教え込まれた。当初は キャンプやハイキングといった、1935年に禁止されたボーイスカウト運動と同様の活動であった。しかし、時間の経過に伴い、その内容と意図は変化した。 たとえば、武器の訓練、基本的な戦術の学習など、多くの活動は青年教育よりも軍事教練に重点が置かれた。これは、ナチス・ドイツのために兵士として忠実に 戦うという意識を刷り込む目的で実施され、ナチスの掲げる理想のための犠牲を惜しまないという思想も含まれていた。

結成と経過
ヒトラーユーゲントの前身は、1922年3月に設立された「Jugendbund der NSDAP」(JdN、国家社会主義ドイツ労働者党青年同盟)である。「JdN」の入隊資格は14歳から18歳までの男子で、そのうち14歳から16歳ま では「Jungmannschaften」(青年チーム、意訳)としてグループ化され、年長になると「Jungsturm Adolf Hitler」(アドルフ・ヒトラー青年前衛隊、意訳)とされた。組織は突撃隊 (SA) によって管理され、アドルフ・レンク (de:Adolf Lenk) によって率いられた。JdNは1923年のミュンヘン一揆の首謀者だったヒトラーが逮捕、収監されると崩壊した。

その後、JdN の空白を埋めるために多くの地方青年組織がオーストリアおよびドイツで組織され、レンクおよびクルト・グルーバー (de:Kurt Gruber (NSDAP)) の「Großdeutsche Jugendbewegung」(大ドイツ青年運動)や「Schilljugend」(シル青年団)といった組織が結成された。

1926年に大ドイツ青年運動がヒトラーユーゲントに改名され、これが後ヒトラーユーゲントの基礎となる。当時のヒトラーユーゲント指導者が党機関内を占 めていた地位は明確でなかったが、やがて他の指導者(フランケン・グウゲルなど)の下に多数のヒトラーユーゲント群が結成された。 1928年以降は、アルフレート・ローゼンベルクがナチス青少年運動に助力し、各地の指導者が率いた青少年団体を統一に導いた。同年にヒトラーユーゲント は10歳から14歳の男子部門、 Deutsche Knabenschaft(ドイツ少年団)を結成、1931年には Deutsches Jungvolk in der Hitler-Jugend(ヒトラーユーゲント内ドイツ少国民団、意訳)と改名した。茶色の開襟シャツが制服であった。

1929年の党大会には、初めて2千人のヒトラーユーゲントが行進した。また、Schwesternschaft der Hitler-Jugend と呼ばれた14歳から18歳の女子部門も同年に結成された。それは1930年に Bund Deutscher Mädel(BDM、ドイツ少女団)と改名され、より若い女子部門の Jungmädelgruppe(ドイツ幼女団)は1931年に付け加えられた。

1931年からはバルドゥール・フォン・シーラッハが党の青少年全国指導者となり、ヒトラーユーゲントの育成にあたった。総選挙では高齢者の有権者を介助 し、投票所でナチスの候補に投票するよう誘導もしていた(当時は合法だった)。1933年のヒトラー内閣成立以降、ヒトラーユーゲントはなかば公的な組織 となり、1934年6月以降は各種青少年団体を吸収して拡大された。1936年12月に「ヒトラーユーゲント法」が成立すると、ヒトラーユーゲントは国家 の公式な青少年団体となり、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられるとともに、他の青少年団体は禁止された。宗教団体については、1933年 以降に数十万人の青少年がカトリック教諸団体からヒトラーユーゲントに移ったが、青年団そのものは暫く宗教指導者の下で活動していた。

1940年、アルトゥール・アクスマンがヒトラーユーゲントの指導者に就任した。アクスマンは戦争の激化で枯渇していた人的資源の代替としてヒトラーユー ゲントを利用した。消防・郵便・ラジオなどの分野にユーゲントの隊員が投入された。1943年以降、戦局が悪化するとユーゲント隊員は兵として動員された が、十分な装備や訓練を受けない彼らは多くの死傷者を出した。ヒトラーユーゲントはベルリンの戦いにおいても戦闘に参加し、多くの戦死者を出した。その 後、ドイツの降伏により解体消滅した。

1936 年(昭和11年)11月25日の日独防共協定の締結によりヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハが日独の青少年相互訪問を提案。日本 政府がこれを受け入れた結果、1938年(昭和13年)8月から11月にかけてヒトラーユーゲントの訪日が行われた[1]。

滞在中は、明治神宮及び靖国神社を参拝した他、東京陸軍幼年学校も訪問した。

朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、 1938年(昭和13年)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなど日本国民を挙げての大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく寄与した。

同時期に日本からは各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議会)の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見して同盟国のドイツの見聞を広めた[2]。

★日本側とドイツ側の訪日の目的
ヒトラーユーゲントが、他国との交流に熱心な理由は次の3点にあった[3]。

ナチ党に対する国際批判を逸らし、他国の青年にナチ・ドイツを理解させる
共産主義青年を中心とした反ファシズム運動に対抗する
他国の文化と接することで自国への理解をより深める
これらが、日本の青少年指導者の支持を得てドイツと日本の青少年の交流が実現された。

また、こうした全般的な交流の理由のほかに、訪日には独自の目的が存在した。第一に、日本滞在中のドイツ人教師にドイツ本国の教育状況を伝えることであ る。第二に、1940年に予定されていた東京オリンピックの下準備のために日本の状況とスポーツ交流の可能性をさぐることである。第三に、外交官養成の実 習の場としても使用された。

日本側の背景および目的としては、以下の4点が挙げられる。

日独防共協定を前提
東洋文化の推進力・アジアの中心勢力としての日本への理解の促進。これは、中国と外交関係を維持していたドイツから日中戦争に対する理解を得ようとする目的があった。
日本国内の諸青少年団の連携を促すこと
国体の歴史と民族の伝統を示し国民的精神が形成されていることをドイツに顕示すること

第12SS 装甲師団“ヒトラーユーゲント” (12. SS-Panzer-Division Hitlerjugend) は、上記のヒトラーユーゲント団員から選抜された少年兵(ほとんどが16、17歳であった)及び第1SS装甲師団“SSアドルフ・ヒトラー連隊”(1. SS-Panzer-Division “Leibstandarte SS Adolf Hitler”)から抽出された士官、下士官を中心に編制された武装親衛隊の部隊。士官の数が足りず、国防軍の士官を出向させた他、下士官は成績優秀で急 進的なユーゲント兵士からも選抜して昇格させた。未成年兵士には成年兵士に支給されるタバコの代わりにチョコレートなどが支給された。

当初1943年に装甲擲弾兵師団として編制を開始、間もなく戦車部隊をより強力にした装甲師団に格上げされた。実戦経験豊かな士官が多かったので、実戦に 即した猛訓練を積む。連合軍は、同師団を「ベイビー師団」「ミルク師団」と揶揄する宣伝を行ったが、1944年のノルマンディーにおける戦闘では、連合国 上陸翌日にカーン攻略を目指すイギリス軍に損害を与え、フリッツ・ヴィット (de:Fritz Witt) 師団長と彼の戦死後に師団長を引き継いだクルト・マイヤーが率いる同師団が2カ月近くも勇猛に交戦するのを目の当たりにすることとなった。

しかし、カーン攻防戦で重装備のほとんどを失い、マイヤー師団長が撤退途中、捕虜となる。その後の再編・補充も充分でないままアルデンヌ攻勢に投入され る。1945年、東部戦線に転じてハンガリーにおける武装親衛隊を主力とする最後の大攻勢(春の目覚め作戦)に参加し、壊滅的な打撃を受けた。その後、数 少ない残部はオーストリアで終戦を迎えた。

9 March 1945: Goebbels awards 16-year-old Hitler Youth Willi Hübner the Iron Cross for the defence of Lubań in Poland



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