アイヌ研究に関する日本民族学会研究倫理委員会の見解
(1989年の資料引用と研究倫理上の審問)
Announcement of the
Ethical Committee of the Japanese Ethnological Society, June 1st, 1989
ご注意:これは日本民族学会(現:日本文化人類学会)からの情報の引用であって、学
会の正式のものではありません。
少数民族の調査研究に際して民族学者, 文化人類学者が直面する倫理的諸問題を検討するため, 日本民族学会理事会は1988年11月, 研究倫理委員会を発足させたが, この委員会は数度にわたる慎重な審議をふまえて, このほどまずアイヌ研究についての見解を次のようにまとめた。
1. 民族学, 文化人類学の分野における,
基本的な概念のひとつは「民族」である。この「民族」の規定にあたっては, 言語, 習俗,慣習その他の文化的伝統に加えて,
人びとの主体的な帰属意識の存在が重要な要件であり, この意識が人びとの間に存在するとき,この人びとは独立した民族とみなされる。アイヌの人びとの場合も, 主体的な帰属意識がある限りにおいて,
独自の民族として認識されなければならない。
アイヌ民族がこれまでに形成発展させてきた民族文化
も, この観点から十分に尊重されなければならない。また一般的に, 民族文化は常に変化するという基本的特質を持つが,
特に明治以降大きな変貌を強いられたアイヌ民族文化が,
あたかも滅びゆく文化であるかのようにしばしば誤解されてきたことは,民族文化への基本認識の誤りにもとづくものであった。
2. 民族学者,
文化人類学者によって行われてきたアイヌ民族文化の研究も,その例外ではなかった。こ
れまでの研究はアイヌ民族の意志や希望の反映という点においても, アイヌ民族への研究成果の還元においても,極めて不十分であったと言わねばならない。
こうした反省の上に立てば, 今後のアイヌ研究の発展のために不可欠なのは, アイヌ民族とその文化に対する正しい理解の確立と,
相互の十分な意志疎通を実現し得る研究体制の確立である。そのためには, まずアイヌ民族出身の専門研究者の育成と,
その参加による共同研究が必要であり, またこれを実現するための公的研究・教育機関の設立が急務である。
3. こうして得られた研究の成果は,教育・啓蒙の側面においても積極的に活用されるべきである。 すなわち, 抑圧を強いられてきたアイヌ民族の歴史とその文化について,学校教育, 社会教育等を通じて正しい理解をたかめ, 日本社会に今なお根強く残るアイヌ民族に対する誤解や偏見を一掃するため, あらゆる努力がはらわれなければならない。この目的のためには, 初等・中等教育における教科書の内容についても十分に検討する必要がある。一方, アイヌ民族の幼いメンバーや若い世代に対して, アイヌの伝統文化とアイヌ語を学習する機会が制度的に保証されなければならないとわれわれは考える。
4. アイヌ民族に対するこうした正しい理解の促進
は, 現在さかんに強調されている国際理解教育の第一歩でもある。独自の文化と独自の帰属意識を持つアイヌ民族が日本のなかに存在することを正しく理解すること
なしに, 国際化時代の異文化理解は到底達成し得ないことを認識する必要がある。アイヌ民族に対する正しい理解を出発点としてこそ,
他の少数民族や差別の問題についても公正な認識を持ち, 他の文化や社会についての理解を深めることができるのである。
5. 以上の見解は,
文化や社会の研究と教育に携わっているわれわれ民族学者, 文化人類学者の研究倫理から発したものである。今日, 日本のみならず,世界のいずれの地においても,一方的な研究至上主義は通用しない。
われわれの研究活動も,ひとつの社会的行為であることを肝に銘ずべきである。今回のアイヌ民族に関するわれわれの見解の表明は,
こうした社会的責任の自覚にもとづくものに他ならない。
1989年 6月1日 (木)
日本民族学会研究倫理委員会
委員長 祖父江孝男 (放送大学)
委 員 伊藤 亜人 (東京大学)
上野 和男 (国立歴史民俗博物館)
大塚 和義 (国立民族学博物館)
岡田 宏明 (北海道大学)
小谷 凱宣 (名古屋大学)
小西 正捷 (立教大学)
スチュアート ヘンリ (目白女子短期大学)
田中真砂子 (お茶の水女子大学)
丸山 孝一 (九州大学)
山下 晋司 (東京大学)
クレジット:「アイヌ研究に関する日本民族学会研究 倫理委員会の見解」『民族學研究』, 54(1), 1989.
ご注意:これは日本民族学会(現:日本文化人類学会)からの情報の引用であって、学会の正式の
ものではありません。
引用元:http://m- ac.jp/ainu/academic/opinion/index_j.phtml (引用元の「民俗 學研究」は「民族學研究」の誤記である)
《研究倫理上の審問》
それぞれの項目において、現在の文化人類学上の課題と審問をあげておく。これは学会員ならびにすべての研究者に問われるべき審問と課題である。
1. 民族を主体的な帰属概念としてあげているが、民族境界論のように、他者集団(ここでは和人=シャモあるいはシサム)との帰属意識の差異によりアイヌが規定されるときに、独自の帰属マイノリティとしての分類されることをオプト・アウト/オプト・インする権利として保証されうるのか?また文化人類学者の見識は、そのことにより法的承認を含めた、権威ある見解たりえるのか?
2. 「こ れまでの研究はアイヌ民族の意志や希望の反映という点においても, アイヌ民族への研究成果の還元においても,極めて不十分であった」という反省にもとづくならば「還元」をまず優先すべきだと考えることができるが、この見 解は「アイヌ民族とその文化に対する正しい理解の確立と, 相互の十分な意志疎通を実現し得る研究体制の確立」という、やはり実践(=還元)ではなく、まずは研究に回帰するという見解で、それ(=実践)を回避したりごまかしていないか?
3.前項の実践よりも研究を優先する姿勢をみせて、「研究の成果は,教育・啓蒙の側面においても積極的に活用されるべき」と、依然として研究を優先してはいまいか? 非ウタリによる調査に対して、インフォームド・コンセント抜きにアイヌ(ウタリ)による調査対象になることを否定したり、アイヌを研究する主体として巻き込まないかぎり調査を容認しない権利をアイヌに認めようとしているのかについて、この見解は明確に示しているのか?
4.アイヌ問題は、明快に国際問題ではなく、国内における人権差別と先住民権への毀損であったにも関わらず、なぜアイヌ問題の解消が「国際理解教育」に結びつくのか?
5.人間を研究対象とする研究において、研究至上主義(Research supremacy)はもはや「通用しない」のではなく、研究倫理上の禁忌である。研究活動は「ひとつの」社会的行為でなく、「徹頭徹尾」社会的行為である。研究至上主義は「社会的責任の自覚」が全く存在していないことを、「肝に命じる」だけでなく、研究至上主義が社会的責任の欠如であることを論証すべき段階にきている。
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●参考「日本人類学会・人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針」2006年11月
日本人類学会・人類学の研究倫理に関する基本姿勢と基本指針 平成18年11月4日(土)第60回日本人類学会大会総会にて承認 ■ 目的と範囲 本指針は、人類学の研究に携わる者の倫理意識を高めると同時に、人類学の研究および関連活動の全般において、十分な倫理的配慮の実現に資することを目的 とする。以下に、人類学において広く必要と考えられる倫理的配慮を明記する。その一方で、人類学の各専門領域で、より詳細な指針もしくは規定の制定が望ま しい場合は、以下に記された基本姿勢と基本指針をもとに、それらを作成するものとする。 ■ 人類学の目的 人類学という学問は、人間自身について科学的な認識を得ることを目的としている。そのため、人間という生物の進化の過程と、その結果としての多様な展開 を知り、現生人類の持つさまざまな生物学的性質を科学的に探求することを目指している。それは、私たち自身の来た道を知ることによって、これから私たちは どこへ行くのかに関して英知を得る試みでもある。 人間性の理解は、哲学的思索によってのみ得られるわけではない。人間も生物界の一員であり、長い生命の進化の中で出現した存在である。したがって人間性 には、生物としての人間がもつ特性としての側面、すなわち自然科学的研究の対象となる側面が存在し、その研究が生み出す成果は、人間性の理解をより豊かな ものにする。人間がどのような生物であり、どのような環境のもとで、どのように適応してきたのかを理解すること、すなわち、自然界における人間の位置に関 する科学的理解は、他の生命体と人間との関係と共通性についてのより深い認識を提供し、地球環境と人類の存続のために有益な洞察を与えるものである。すな わち、人類学の研究は、人間自身の科学的理解を深めることにより、私たちの社会に有用な示唆をもたらすことをも目指している。 人類学では、その一環として、現生や過去の人類の集団間や個体間の変異に関する研究が行なわれるが、これも生物としての人間の共通性と多様性およびその 生物学的意味を明らかにすることを目指しているからである。その結果、差異と差別との違いを明確にし、社会的差別の不合理さを明らかにすることが期待され る。そして、現代社会における人間の幸福と福祉のために何ができるか、これからよりよい社会を築いていくためにどのような選択を取るべきかについて、有効 な提言をする必要がある。 ■ 人類学における研究方法の特性 人類学の研究分野には、人類の系統進化と文化発展の歴史に関する研究、現生人類集団の生物学的性質の研究、諸文化における人々の生業活動や行動および心 理の研究、人間の理解につながる霊長類の研究などが含まれ、世界各地における人類化石、古人骨、祖先の残した遺物や行動跡の発掘と分析、現生人類集団の身 体特徴や身体能力に関する調査、遺伝子もしくはゲノム特徴に関する情報の収集、さらには日常の生業や行動の観察など、多岐にわたる野外調査や博物館資料の 分析などがその主な研究方法となっている。 実際の研究に際しては、現在生活している人間の身体データや試料の収集と分析、家系調査、行動観察など、個人や集団の生活に踏み込むことが少なくない。 そのため、調査の対象となる個人あるいは集団と研究者との間には、研究の客体と主体という関係とは別に、対等な人間関係のもとで研究が実施され、その成果 を共有し得る関係が成立していなければならない。これらのことは人類学における研究方法の特性であるとともに宿命であり、それゆえ人類学の研究者は研究の 計画、実施、報告の各段階において、対象となる人々の理解を得、信頼をまっとうするよう、十分な倫理的配慮を払う責任がある。 ■ 人類学研究における倫理と責務 人間社会では、同一個人が複数の異なる集団に所属し、他の動物にはみられない重層的で高度な統合性を持つ複雑な社会を実現している。また人類学の研究で は、研究者は一般社会と学術的共同体の両方に所属しているだけでなく、さらに研究対象の人々やその共同体とも深い関わりを持つ。それゆえ、研究者は少なく ともこれら三種類の集団から異なった規範の適用を迫られる。また人類学の研究は、その方法の特性のため、個人や特定集団と密接な関わりを持ち、それ以外の 人々にも大きな影響を及ぼす可能性がある。その研究成果は個人や特定集団に直接関わる場合が少なくない。したがって、人類学の研究に携わるにあたっては、 研究対象となる人々やその周辺で影響される人々に対する配慮を何よりも優先する必要がある。 本指針は、先ずは人類学の研究者が十分な研究倫理を持つことの必要性と重要性を明言するものであり、人類学の研究に携わる者一人一人が改めてそれを認識 するよう促すものである。さらには、個々の研究者が直面するかもしれない倫理上の問題について判断の枠組みを提供することを目指し、以下の基本的な指針を 提示する。ただし、倫理上の判断は、状況に応じて最善を尽くすべきものであり、特定の判断に必要な全ての情報をここに提供することはできない。したがって 研究者は、倫理上の問題について十分に配慮し、適切に判断できるよう、下記の基本指針を熟慮するとともに、絶えず研究倫理に関する新たな情報や考え方を知 り、自らを教育するよう努めなければならない。そのためには米国自然人類学会( American Association of Physical Anthropologists)の「倫理綱領」、米国人類学会(American Anthropological Association)の「倫理綱領」、世界医師会(World Medical Association)の「ヘルシンキ宣言」、文部科学省・厚生労働省・経済産業省の「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」、文部科学省・厚 生労働省の「疫学研究に関する倫理指針」等の倫理規範やそれに関する声明などを参照することが有用と思われる。 ■ 研究の目的に関する倫理的配慮 1. 人類学の研究者は、人類の過去と現在のありように関する科学的探索を通じ、人間自身および他の生命体と人間との関係についての理解を深めることにより、社会に有用な示唆をもたらすよう努めなければならない。 2. 人類学の研究者は、不適切もしくは不十分な科学的根拠に基づく社会的差別に反対し、それをなくすよう努めなければならない。 3. 人類学の研究者は、自分たちの研究結果によって、社会的差別が正当化されたり助長されたりしないよう、十分に配慮しなければならない。特に、研究によって 明らかにされる個人あるいは集団の間の差異が社会的差別の根拠として利用される危険を十分に認識し、差異と差別との違いを明確にし、社会的差別の不合理さ を明らかにするよう努めなければならない。 ■ 研究の対象に関する倫理的配慮 4. 人類学の研究者は、対象となる人々および研究の実施により影響を受ける人々に、研究の目的、実施方法、生じ得る影響、その他の関係する事項について説明し、理解と合意、すなわちインフォームド・コンセントを得て、研究を開始しなければならない。 1) 対象となる人々や影響を受ける人々との合意は、自由で対等な関係においてなされなければならず、明示的か否かを問わず、いかなる強制もあってはならない。 2) 研究者は、研究によって対象者やその他の人々に生じる可能性がある不利益を事前に特定するよう最善の努力をし、それらについて、研究対象者や影響を受ける人々に包み隠さず説明しなければならない。 3) 研究者は、研究によって生じる可能性がある悪影響を回避または縮小するために、最善の努力を払わなければならない。 5. 人類学の研究者は、直接の対話や交渉ができない研究対象に対しても十分な敬意を払い、恩義を認識して倫理的配慮を行わなければならない。 1) 人間を対象とする研究は、人権と人間の尊厳を尊重しなければならない。祖先の遺物や遺骨等を対象とする研究もこれに含まれる。 2) 人間以外の動物を対象とする研究は動物福祉の理念に則って行わなければならない。 6. 人類学の研究者は、他の研究者や人々が将来利用あるいは再検討できるように、資料や成果の保全に可能な限り努めなければならない。 ■ 研究の計画と実施における倫理的配慮 7. 人類学の研究者は、研究の計画、実施、報告の各段階において、対象となる人々との約束や信頼を裏切らぬよう、絶えず配慮しなければならない。 1) 研究計画は、対象となる人々の文化、宗教、慣習、その他生活にとって重要な事項を十分理解し、尊重して立案されなければならない。 2) 研究を実施するにあたっては、対象となる個人もしくは集団のインフォームド・コンセントを得なければならない。 3) 研究対象者の個人情報を保護し、プライバシーを守ることができるよう、前もって対策を立案し、対象となる個人や集団と相談しなければならない。 8. 人類学の研究者は、研究の継続が倫理に反することが判明した場合には、いつでも研究を中止する用意がなければならない。 9. 研究の遂行にあたっては、自身および周囲の者が、捏造、改ざん、盗用などの不正行為に関わらないよう細心の注意をはらわなければならない。 ■ 研究成果の公表に関する倫理的配慮 10. 人類学の研究を行った者は、時期を失することなく研究成果を社会に還元しなければならない。 11. 研究成果の公表にあたっては、個人情報を保護しなければならない。 12. 研究成果の公表にあたっては、自身とその周囲において、捏造、改ざん、盗用、引用の不正、不適切な著者構成、重複発表などの不正行為がないよう細心の注意をはらわなければならない。 13. 研究成果の公表にあたっては、得られた知識がその意味を歪められたり誇張されたりすることなく一般に広まるよう配慮し、努めなければならない。 ■ 研究者の育成に関する倫理的配慮 14. 人類学研究者は、あらゆる機会をとらえて、人類学の研究を担うことができる人材の育成に努力しなければならない。 1) 研究指導にあたる者は、後進に敬意をもって接し、倫理的な指導および評価の方法をとらなければならない。 2) 研究指導にあたっては、後進が研究倫理に関する知識や考え方を習得し、実際に適用できるように図らなければならない。 ■ 倫理上の判断とその責任 15. 研究者が倫理上の問題について判断を下す際には、次のことを考慮しなければならない。 1) 当事者である対象者や研究者の各個人あるいはグループは、同時に複数の異なる社会集団に属する。 2) 各社会集団の価値観や利害は一般に相互に異なり、判断のために優先順位を検討する必要が生じることがある。 3) 研究者は、学術的共同体の一員であると同時に、社会の一員である。 4) 研究者が個々の倫理判断において払う努力の質と量は、人々の科学や学問に対する信頼を左右し得る。 16. 倫理上の判断を行う者は、最善の努力をもって判断に関わる要素を特定し、その判断の根拠を明らかにしなければならない。 17. 状況の複雑さや判断の困難さは、倫理上の問題に本来的なものであり、安易な妥協の口実にしてはならない。 ■ 人類学研究の進展と倫理指針 18. 人類学の研究の進展や社会情勢の変化に伴い、人類学の特定分野において倫理的に研究を実施するためにさらに詳細な倫理指針が必要と認められ、それを作成する場合には、本文に示した基本指針の精神に則ったものでなければならない。 謝辞 本文の作成に際し、一部、米国自然人類学会の倫理規程を参考にした。ここに記して謝意を表する。 |
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