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大日本帝国における医療と衛生:1931-1945

Medicine and Hygiene in the Japanese Empire: 1931-1945

1931 1934 1937 1940 1943
1932 1935 1938 1941 1944
1933 1936 1939 1942 1945

Both maps were appropriated from A Child’s Guide to Japanese Empire, by Frog in a Well.

衛生は、文字通り「生命」を「衛る」こ と。Hygiene の翻訳であるが、長与専斎(長與專齋)が荘子の庚桑楚篇(23)(「」) からあてたものと言われている。『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎 三・酒井シヅ校注、平凡社〈東洋文庫386〉、1980年; 長與の自伝『松香私志』に「荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれども字面高雅にして呼聲もあしからずとて、遂にこれ を健康保護の事務に適用したりければ、こたひ改めて本局の名に充てられん事を申出て衛生局の称は茲に始めて定まりぬ」と記している(出典:こちら)。


1931  [→はじめにもどる


日本人の人種學

京城医学専門学校紀要

満洲醫科大學藏中國醫學書目

西洋醫學の沒落

社會ト醫療機關

ソヴエトロシアに於ける醫療制度の實際


1932  [→はじめにもどる


社會医学雑誌

臺灣齒科醫學會々誌

東西医学大観

醫學ニ關スル學校名ノ英,獨,佛語ニ依ル 譯名

醫界之鐵椎


1933  [→はじめにもどる


皇漢醫學及導引の史的考察

鍼灸醫學雜誌

南洋群島地方病調査医学論文集

日本民間藥集覽

農村の衞生と醫療

醫療社會化の根本方策

醫療社會化事業の過去及其將來


1934  [→はじめにもどる


沖繩醫學會雜誌

漢洋医学闘争史

社會醫學の諸問題

南方圏の生活医学

京城醫學專門學校紀要

醫学煙草考

醫療利用組合ノ概観

醫療組合の手ほどき

昭和十年度以降の醫療救護に國の直營を排 す

農村ニ於ケル醫療状況


1935  [→はじめにもどる


日本科學の特質 : 醫學

朝鮮醫籍考


1936  [→はじめにもどる


社会医学

南支南洋の醫療施設

医療と社会

東京帝国大学医学部脳研究所


1937  [→はじめにもどる


西洋醫學の新傾向

醫學の勝利 : 死と闘ふ人々

皇漢醫學

醫療大衆化の鍵國民健康保險

醫道革新論 : 醫療制度と醫療費を中心に

醫療と國民生活 : 現代醫師道の大堕落

醫療組合による農村診療所の經營

山東省東部地方巡廻診療報告

臺灣の衞生

特別衛生地區保健館年報


1938  [→はじめにもどる


戰時に於ける保健・醫療問題

時局匡救醫療救護實施概況

疾病及醫療に關する調査資料

支那事變救護員美談

實驗醫學序説

民族衛生資料

朝鮮都市の衛生事情に関する若干研究


1939  [→はじめにもどる


健康報国

大邱医学専門学校雑誌

國策醫療の指針

南洋群島地方病調査医学論文集

日本醫学映畫目録

我邦に於ける醫療報酬及び醫藥品統制

海南島の民族と衛生の概況

支那沿岸及揚子江流域ニ於ケル一般衛生状 況

滿洲衞生の實態調査

沖繩縣衛生状態概要

開拓地衞生關係資料

民族優生とは何か


1940  [→はじめにもどる


社会医学の原理

優生學の理論と實際 : 特に精神醫學との關係に於て

醫療宣撫行

醫療制度改善論

日本的なる醫療之本質 : 医薬分業の當否

北支那衛生諸事情

事變前ニ於ケル中國衛生行政機構並ニ衛生 教育機關

衛生部隊前進

朝鮮の農村衞生 : 慶尚南道達理の社會衞生學的調査

樺太衛生概況


1941  [→はじめにもどる


戰 爭と醫學

毒 ガス醫學

続中國醫學書目

大陸医学

滿洲醫科大學開拓醫學研究所々報

日本科學史への反省 : 日本醫學の樹立

妻の從軍

戦地から得た大陸の醫學

支那と近代醫學 : 支那醫療傳道史

日本醫道と醫療制度

印度支那に於ける佛國の醫療事業の沿革 (飜譯)

農村醫療事業の經營

支那農村厚生問題

南方拓殖衛生指針

満洲開拓衛生の基礎

■1941年頃の大阪帝国大学の軍陣医学 への転換に関するカリキュラム構想(画像のクリックで出典情報にリンクします)

1941年頃の大阪帝国大学の軍陣医学



1942  [→はじめにもどる]  このセクションには 1942 (衛生編)があります


南方建設の基本問題

南方生活必携 : 医学と衛生

熱帯医学

熱帯醫學とフィリッピンの全貌

訪泰醫學親善團報告

近代戰と醫學

泰国の疾病と其の診療 : 附.最近の衞生状況

中支方面に於ける日本醫学の進出

南方圈の生活醫學

南方醫學論叢

日獨医学の提携

熱帯医学

農村の母性と乳幼兒 : 秋田縣下に於ける社會衛生學的調査

國民醫療法解説

健康への道 : 完全正食の医学


1942 [衛生] [→は じめにもどる


セイロン島ニユージーランド衞生事情 / 日本公衆保健協會調査室編輯. -- 日 本公衆保健協會, 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査 室編 ; 第8輯)

土幕民の生活・衛生 / 京城帝国大学衛生調査部編. -- 岩波書店, 1942

南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協會南方調査室 [編輯]. -- 1輯 (昭17.1)-

南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編. -- 日本公衆保健協会南 方調査室, 1942

南方生活必携 : 医学と衛生 / 南崎雄七著. -- 教材社, 1942

日本人と熱帯衛生 / 小倉清太郎,加藤道雄共著. -- 畝傍書房, 1942

熱帶衞生 / 岡部庸三郎著. -- 河出書房, 1942

ヒリッピン衞生事情 : 續編 / 日本公衆保健協會調査室編輯. -- 日本公衆保 健協會, 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編 ; 第 10輯)

ビルマ・ソロモン・トンガ・フィジー・ ニューヘブライヅ衞生事情 / 日本公 衆保健協會調査室編. -- 日本公衆保健協會, 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編 ; 第6輯)

北海道樺太衛生. -- 4巻9号 (昭13)-8巻8号 (昭17)

マレー及フイリツピン衞生事情 / 日本公衆保健協會南方調査室編. -- 日本公 衆保健協會, 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編 ; 第1輯)

満洲衛生事情通報. -- -7 (3) (昭17)

蘭印衛生事情 / 日本公衆保健協会南方調査室編. -- 日本公衆保健協会南方調 査室, 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編 ; 第2 輯)

蘭印政廳の衛生工作 / [J.L. Hydrick著] ; 蘭印政廳編 ; 山岡節男譯. -- 大 澤築地書店, 1942

開拓地の保健衞生心得 / 宇留野勝彌著. -- 滿洲移住協會, 1942. -- (滿洲開 拓叢書 ; 4)

泰国の疾病と其の診療 : 附.最近の衞生状況 / 岩井誠四郎,北村精一編. -- 金原商店, 1942

泰國及ボルネオ衞生事情 / 日本公衆保健協會調査室編. -- 日本公衆保健協會 , 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編 ; 第3輯)

東亞に於ける熱帯地の一般衛生状況 / [宮尾積] ; 第1篇 : 比律賓. -- 東亞 研究所, 1942. -- (資料 / 東亞研究所[編] ; 丁第24號C)

南方共榮圏内に於ける宗教及言語別人口竝 に衞生事情 / 神戸商工會議所外事 課編輯. -- 神戸商工會議所, 1942

佛印衞生事情 / 日本公衆保健協會調査室編. -- 日本公衆保健協會, 1942. -- (南方衛生調査資料 / 日本公衆保健協会南方調査室編 ; 第4輯)

滿洲開拓青年義勇隊勃利訓練所に於ける衛 生調査報告. -- 京城帝國大学大陸 文化研究會, 1942. -- (大陸文化研究會報告 ; 第7冊)


1943  [→はじめにもどる


郷土の生んだ軍陣醫學の先覺者大槻俊齋先 生小傳

軍陣醫學

航空医学

航空醫學ノ理論ト實際

京城医学専門学校紀要

大邱医学専門学校雑誌

齒科醫師に必要なる國防醫學講座

戰陣醫學

ナチスの人口醫學 : 特に母性保護の醫學的基礎に就て

支那事變救護員美談

独逸の植民地保健政策

独逸の保健制度改革五ケ年間の業績

南方醫學讀本

近代醫療保護事業發達史

舊蘭領ニウギニア衞生状況

東亜諸民族の死亡に關する衞生統計的調査 : 特に日本人の死亡統計を中心と して


1944[→はじめにもどる


切支丹の社會活動及南蠻醫學

近代醫學の建設者 : パストゥール・リスター・コッホ

現代醫學の主要問題

少數例の纒め方と實驗計畫の立て方 : 特に臨床醫學に携はる人達の爲に

心理と醫學

戰時醫學

熱帶環境醫學

熱帶の醫學

農村醫學序説

航空醫學の黎明 : 航空病,其の起源と處置

航空醫學解説

航空医学

太平洋医学論叢

独逸の医師補修教育


1945  [→はじめにもどる


航空医学綜説

滿洲醫學雜誌

現行醫學研究題目集

日本学術会議編<ゲンコウ イガク ケンキュウ ダイモ クシュウ>. -- (BA39699222) 東京 : 日本学術会議, 1945 7,146,2p ; 26cm -- 昭和19年 ISBN: (昭和19年) 別タイトル: 現行医学研究題目集 著者標目: 日本学術会議<ニホン ガクジュツ カイギ> 分類: NDC6 : 490.31 件名: 医学 -- 書目


 Mitsuho IKEDA (oxlajuuj tijaax)


長與專齋(長与 専斎)とは?——日本語ウィキペディアによる(Baron Nagayo Sensai, 1838-1902)

長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の医師、医学者、官僚。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。

大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854 年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医 学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。明治維新により1868年11月30日同館は長崎 府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。長与は学頭に任命 された[1]。 明治4年(1871年)に岩倉使節団の一員として欧米に渡るが、途中から独立して行動し、一行に先行してヨーロッパに渡り医療制度や医学の実情調査を行っ た[2]。パリでは欧州留学中の長井長義、松本圭太郎、池田謙斎らと日本の医療制度のあり方について議論し、医制のもとになる76条の素案を起案したとさ れる[2]。 明治6年(1873年)に岩倉使節団とともに帰国[2]。帰国後に「医制」の制定作業に着手したが、相良知安の「医制略則」という草稿を踏襲したともいわ れている[2]。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立 医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。 明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また 衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣 有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持っ た。石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政 の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった[3]。 1886年(明治19年)4月27日、元老院議官、1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する[4]。明治24年(1891年)に衛 生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生 協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。 1902年9月8日死去し、12月に「松香私志」が私本として百日忌に配布され、1904年6月普及版として刊行された。墓所は青山霊園(1イ2-2- 6)

衛生は、文字通り「生命」を「衛る」こ と。Hygiene の翻訳であるが、長与専斎(長與專齋)が荘子の庚桑楚篇(23)(「」) からあてたものと言われている。『松本順自伝・長与専斎自伝』小川鼎 三・酒井シヅ校注、平凡社〈東洋文庫386〉、1980年; 長與の自伝『松香私志』に「荘子の庚桑楚篇に衛生といへる言あるを憶ひつき、本書の意味とは較々異なれども字面高雅にして呼聲もあしからずとて、遂にこれ を健康保護の事務に適用したりければ、こたひ改めて本局の名に充てられん事を申出て衛生局の称は茲に始めて定まりぬ」と記している(出典:こちら)。

★『荘子』庚桑楚篇 https://x.gd/zzrrp

南榮趎曰:「里人有病,里人問之,病者能言其病,病者猶未病也。若趎之聞大道,譬猶飲藥以加病也,趎願聞衞生之經而已矣。」

老子曰:「衞生之經,能抱一乎?能勿失 乎?能无卜筮而知吉凶乎?能止乎?能已乎?能舍諸人而求諸己乎?能翛然乎?能侗然乎?能兒子乎?兒子終日嗥而嗌不嗄,和之至也;終日握而手不掜,共其德 也;終日視而目不瞚,偏不在外也。行不知所之,居不知所為,與物委蛇而同其波。是衞生之經已。」

南榮趎「田舎の人が病気で、そのことを尋ねると、病人は自分の病気について話すことができ、病人はまだ病気でないかのようになる。 もし私が大道のことを聞くとしたら、それは薬を飲んでさらに病人を増やすようなもので、私は『健康の書』のことを聞きたい」。

老子「同じ衛生原則を持ち続けることがで きるだろうか? 道に迷うことはないのだろうか? 占いなしで、幸運と不運を知ることができるだろうか? 立ち止まることができるか? 立ち止まることができるか? 他人の代わりに自分のものを求めることができるか? 性急さ? 性急さ? 息子は持てるだろうか? 一日中吠えていても喧嘩をしない息子は、調和において最高である。一日中手を握っていても握らない息子は、その徳を分かち合っている。一日中見ていても目 をパチパチさせない息子は、外面がよくない。 自分が何をしているのかわからず、世間とその波に同調する。 これが守護神の道である」

リンク

  • 日本語で書かれた医療人類学文献
  • 日本文化人類学史
  • 文献

    その情報



    朝鮮総督府医院 満洲医科大学

    1899 官立廣済院、東西医学 を両立さ せる方式を採用
    1905 第二次日韓協約締結。廣済院より朝鮮人漢医たちを追放し、朝鮮の保健医療体制や医学教育を西洋近代医学に一元化
    1907 総監伊藤博文の計画により、大韓医院が設立、廣済院は統合
    1907 第三次日韓協約により、日本人の官僚登用はじまる
    1908 軍医総監佐藤進が院長として着任
    1910 韓国併合条約公布。治療目的と、附属医学講習所における医師、産婆、看護婦の養成のために朝鮮総督府医院が開院
    1920 志賀潔が第3代総督府医院院長に着任。微生物、薬理学、衛生学、病理学に拡大
    1928 京城帝国大学医学部附属医院に編入 
    1911 南満医学堂が、南満州 鉄道株式 会社の大連医院奉天分院内に専門学校として設置
       初代満鉄総裁・後藤新平の発案で、日中医学生に教育し満蒙で活躍できる医師養成を目的とす。
    1922 南満医学堂は、大学令により満洲医科大学に昇格。

    1937 薬学専門部設置

    1945 閉学(医師2,700名、薬剤師300名、看護婦1,000名を養成)
    1946 国立瀋陽医学院(中華民国)






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