ミッシェル・セールのおセンチな感覚論
Naive and Sentimental Michel
Seeres' Fable
Anthropomorphic cat guarding geese, Egypt, ca. 1120 BCE
★体をうごかすこと(=体操すること)は形而上学のはじまりであり、その条件付けるものだ(セール1991:13)
僕じしんが、ウルトラ鈍感でバカなのかもしれないが、ミッシェル・セール『五感』米山親能訳、法
政大学出版会、1991年がほとんど理解不能である。そのことを具体例をあげて、コメンタリーをするのがこのHPの目的である。以下の文章の引用箇所は、
訳文「入墨」(「ヴェール」のセクション)からである。段落は恣意的に、節合したり分離したりしている。
■魂はほとんど点的な場所に宿っており、そこ
で《われ》が決定される。 |
9ページの最初の文言 |
■
体操の選手は自分の魂を鍛錬して、その魂のまわりで身体を動かしたり身体を丸めたりする。陸上競技の選手は魂をもっていない。彼らは走ったり投榔したりす
るだけだからである。しかし跳躍の選手は魂をもっていて、それをバーの上にあるいはバーの向こうに投げる。彼らは魂が自らを投ずる場所のまわりにそっと身
体を丸めるのだ。ジャンプ競技を除けば、陸上競技と体操競技との相違は魂の鍛錬の有無に由来する。鉄棒、空中回転、吊り輪、床運動、トランポリン、高飛び
込みなどは、舷窓の通り抜けと同じように、実験形而上学の実践としての価値をもつ。そこでは肉体が自らの魂を探し求め、両者、恋人同士のように、危険や歓
喜のなかで、互いを見失い、再ぴ見出し、時には別れ、また一緒になったりして戯れる。いくつかの集団競技においては、競技者たちは魂を失ってしまい、たと
えばボールのような共通の客体に魂をすっかり委ねている。彼らは集団となってボールのまわりに寄り集まり、均衡をとり、組織される。そこでは、形而上学の
実践は応用社会学の実習に形を変えている。 |
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■君は、自分の魂を救うためには自分の魂を失わなくてはならず、後で魂
を見出すために、魂を与えなくてはならない。 |
|
■ほとんど点としての魂は、量体のなかで、まさしく船のなかで、莫大な
排水量の空間を介して見出されたのだった。それは単純な方法によっても見出されうるが、もう少し困難な研究に取り組もう。私が自分の爪を切るとしよう。 |
10ページ. |
■
主体はどこで決定されるのだろうか。左利きの私は左手で爪切りを取り、開いた刃を右手の人指し指の爪の先に当てる。私は「私」を爪切りの握りの部分に位置
させる。《われ》は今やそこに身を置いていて、右手の指先にではないからだ。右手の爪は不器用に鋼の間にはさまれ、一方の左手は爪を切り取るため繊細で巧
妙な動きを示す。主体である左手は客体である右手の指に働きかける。左の手は主体性に満ちており、「私」を分有している。右手の指は世界の一部となる。も
し爪切を右手に持ちかえればすべては変わる、あるいは何も変わらないとも言える。《われ》は左手の人差し指に居座ったままであり、左手の人差し差し指の爪
は鋭い刃のすぐ近くを巧みにまた大胆に愛撫するかのように動く。右の手に握られた爪切りの握りの部分は「私」からは放棄される。あたかも他人の力で動くか
のように道具が作動し手の人差し指は身を差し出して、肉を切らない限界線を正確にたどってゆく。前者の場合は「切るのであり、後者の場合は私の爪の方が自
ら切られるのである。刃の所へ指を差し出す動作、ときの動きのしなやかさ、あるいはぎこちなさ、取り扱いの正確度などが、外部の観察者にとって状態、魂が
今どこで均衡を保っているのかを確定するのに充分である。左利きは魂を左手にも右手は闇に満ちた肉体である。むりやり右利告に矯正すれば、どっちつかずの
あいの子になっ ところで、これは場合によって異なり変化する。足の爪を切る際にはこのような逆転は起こらないとはいえそこはまだ身体であり、あるいは相
変わらず世界の一部である。非常に遠いので魂は不在る。足のどの指も、私の左手にある魂が刃に触れるような具合に、刃に触れることはない。爪切てはここま
でにしておこう。 |
・よくある現
象学的な記述のスタイル。 |
■
中指で私が自分の片方の唇に触るとしよう。この接触のなかに意識が横たわっているわけだが、私はこの問題の検討を始めようと思う。意識はしばしば感覚のひ
だのなかに身を潜めている。重ねられた唇と唇の間、舌を押しつけたときの口蓋、噛み合わせた歯と歯の間、閉じられた瞼、収縮した括約筋、拳をにぎりしめた
ときの手、押しつけ合った指、組み合わされた腿と腿の間、一方の足の上に置かれた足といった場合がそれである。私は確信するのだが、一寸法師は、小さいと
きにせよ大きくなったときにせよ、そのそれぞれの部分の大きさはその部位の感覚作用の大きさに比例していて、それらの部位の自己発展によって大きくなった
り膨らんだりするのであり、その場合、皮膚の組織は自らの上に折り畳まれているのだと思う。皮膚は己自身の上に意識をもっており、また粘膜も自分自身の上
に意識をもっている。折り畳まれたひだもなく、自分自身の上に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉体もないだろうし、体感(セネステジー)も
感じなくなり、真の意味での身体図式もなくなり、静止したような失神状態のなかで意識もなく生きることとなろう。クラインの壺やダブルの縁なし帽を思い描
いてみれば、われわれの自己同一性(イダンティテ)を理解する助けとなろう。われわれは不器用な表面部位をもっており、それらの部位は裏のない準平面もし
くは荒原であり、そこでは束の間の意識が記憶も残さずに過ぎ去ってゆく。意識は接触(コンタンジャンス)による特異な場のなかにとどまっており、そうした
場で肉体は自分自身に接している。 ■私 が指で自分の両唇に触るとしよう。この場合、接している両唇はすでに自分自身の意識をもっていることになる。それゆえ私は自分の指に口づけすることができ るし、またほとんど区別のつかないしぐさになるが、指で自分の唇に触ることもできる。この場合、《われ》は接触面の両側へ交互に移動して、突然一方の接触 面を世界の側へ追いやっているわけだ。あるいはまた、《われ》は突然すぐ隣へ移動して、自分の立ち去った後に単なる客体を残してゆくわけだ。「シー」と いって人を黙らせる類のしぐさにおいては、肉体は局部的にではあるが魂のキャッチボールをしていることになる。自分の魂がどこにあるのかを知らない者たち は、自分の唇に指で触っても、そのとき魂の在処を学ぶことはない。唇は自分自身に接触しているので魂を生みだすのだが、その魂を手に伝える術を心得てお り、手はこぶしをにぎりしめることによって自分のかすかな魂を形づくり、すでに魂をそなえている唇に自分の魂をそっと移し与えることができる。これはまっ たく純粋な接触(コンタンジャンス)である。 ■ 肉体は、いっでもあらゆる場所で、魂のキャッチボールをすることができるわけではない。今の例のような接触が作用しない場所がある。自分の手で自分の肩に 触ることはできても、自分の肩で自分の手に触ることはできない。手や口に比べれば肩は世界の側、客体の側にとどまっている。主体の資格を取り戻すために は、肩にとっては自然のままの客体、岩とか、木の幹とか、滝とかいったものが必要である。身体の外にあるものとの関係において肩は魂をもつにすぎない。さ あ、膝の上に頬づえをついて、あるいは身体の一部分で他の部分を触って、どこに魂があるかを決定してみよう。 ■この試みには限りがない。別な言い方をすれば、あなたがしなやかさを保つかぎり、この試みに限界はない。 ■身体を動かすこと〔体操=ジムナスティック〕は抽象的思考〔形而上学=メタフイジック〕の始まりであり、その条件付けである。(13ページ.) |
■11ページ. ・現象学的な記述のスタイルから転調して、自分の主体と身体をどのようにモニターするのかという議論に展開する。 ・「アイデンティティを理解」という文言が出てくる。現象学では、アイデンティティというのは、社会経験のなかで「自然化」されているので、このあたり は、実存主義的な記述に近づく。 I touch one of my lips with my middle finger. Consciousness resides in this contact. I begin to examine it. It is often hidden in a fold of tissue, lip against lip, tongue against palate, teeth touching teeth, closed eyelids, contracted sphincters, a hand clenched into a fist, fingers pressed against each other, the back of one thigh crossed over the front of the other, or one foot resting on the other. I wager that the small, monstrous homunculus, each part of which is proportional to the magnitude of the sensations it feels, increases in size and swells at these automorphic points, when the skin tissue folds in on itself. Skin on skin becomes conscious, as does skin on mucus membrane and mucus membrane on itself. Without this folding, without the contact of the self on itself, there would truly be no in ternal sense, no body proper ly speaking, ccenesthesia even less so, no real image of the body; we would live without consciousness; slippery smooth and on the point of fading away. Klein bottles are a model of identity. We are the bearers of skewed, not quite flat, unreplicated surfaces, deserts over which consciousness passes fleetingly, leaving no memory. Consciousness belongs to those singular moments when the body is tangential to itself. (Continuum 版, p,22) ■12ページ. ・現象学的な記述と実存主義的な記述のハイブリッド。 I touch my lips, which are already conscious of themse lves, with my finger. I can then kiss my finger and, what amounts to almost the same thing, touch my lips with it. The I vibrates alternately on both sides of the contact, and all of a sudden presents its other face to the world, or, suddenly passing over the immediate vicinity, leaves behind nothing but an object. In the local gesture of calling for silence, the body plays ball with the soul. Those who do not know where their s.o ul is to be found touch their mouths, and they do not find it there. The mouth touching itself creates its soul and contrives to pass it on to the hand which, clenching itself involuntarily, forms its own faint soul and then can pass it on, when it wishes, to the mouth, which already has it Pure chance, each time.(Continuum 版, pp,22-23) ■ The body cannot play ball, at all times or in all places. There are zones where this contingency does not come into play. I touch my shoulder with my hand. In relation to my hand or mouth my shoulder remains an object in the world. It needs a natural object, a rock, tree trunk or waterfall in order to become a subject again. The shoulder has no soul, save in relation to what takes place outside the body. Now determine where the soul is, by putting your elbows on your knees, by placing one part of your body on another.(Continuum 版, p,23) ■There is no end to it, the only limit is your own suppleness.(Continuum 版, p,23) ■Metaphysics begins with, and is conditioned by, gymnastics.(Continuum 版, p,23) |
■さて今度は図を描いたり色で塗り分けたりしてみよう。可能であれぱ、
魂がいっでも明らかに住まっているひそやかでごく小さな区城、接触し合っている隅、あるいはひだを区分してみよう。また可能ならば、ボール遊びをするかの
ように身体の部分同士が魂遊びをしうるような、うつろいやすい場所を区分してみよう。外界の客体と相対したときにしか主体となれないような肉の塊もしくは
肉の分厚い部分、単独に置かれているときや自分を客体化するものと相対しているときは、つねに客体としてとどまっている濃密で稠密な区域、魂をもたず闇に
満ちた砂漠をなしている区域を線でなぞってみよう。線によって囲まれてしまう区域はほとんどなく、多くの区域は急に広がり、溶け合い、狭い回廊となって逃
げ去り、コルやチム二ーやコース状をなし、細道や火炎やジグザグや迷路を形づくる。うつろい揺れ動く束の間の魂はここに皮膚の上に、身体の表面にあるの
だ。線条紋や、ぼかしや、虎斑や、縞模様のある魂、色とりどりで、斑模様をなし、混沌として、きらびやかに飾りたてられた玉虫色の魂、急流のようにほとば
しり、渦を巻き燃え立っょうな魂はそこにある。意識が生まれたすぐ後の最初の原始的観念は、まるで地図を描くように、こうした区域や通路をなぞって精妙に
線を描き、色を塗ることに始まるのではないだろうか。 |
13ページ. |
■これこそ入墨である。魂がつねに存在している場所は、白く輝いたり、
炎のように燃え立ったり、赤い色をなして広がったり、不安定に別な赤と入れ替わったりする。魂をもたない砂漠のような場所は黒ずんでいる。稀ではあるがし
かし時折魂がとどまる場所は草原のような緑をなし、黄土色、藍色、冷たい青カルト・デイダンテイチオレンジ色、トルコ石色などに変化する。このように、わ
れわれの自己同一性の地図〔身分証明書〕さか怒るべき複雑なものとして姿を現わす。この地図は指紋や歯形と同じように各個人に固有で独特なのであり、いか
なる地図も別の地図と似ていることはなく、それぞれの地図は時とともに変化する。な青春時代以来多くの進歩を遂げた私は、散逸した魂を見出す助けとなった
多くの地図が刻んだ痕筋を、自分の皮膚の上にとどめている。 |
14ページ. |
■この地図を目で見て知り、確かめようと思う者は、目圭模様をなし様々
に変化する液状の皮膚を線でなぞり色で塗り分けて固定化し、そうした色彩と形状とによって、純然たる触覚を目に見えるものにしなくてはならない。しかしそ
れぞれの皮膚はそれぞれ別の入墨を必要とし、それは時とともに変化発展するだろうし、またそれぞれの顔は独自の触覚マスクを要求するだろう。このような模
様で飾られた皮膚は歴史をもち歴史を示している。あるものは目に見える形で、たとえば、それは摩耗であり、傷の痕跡であり、労働によって硬化したタコであ
り、失望によって刻まれたしわやひだであり、しみ、にきび、湿疹、乾癬、ささくれなどでもあろう。記憶はそこに刻印されているので、記憶を探し求めて他の
場所に行く必要はない。あるいはまた目に見えない形で、たとえばそれは波うつ愛撫の名残りでもあろうし、絹やウールやビロードや毛皮や岩肌の感触の思い出
でもあろうし、ごつごつした樹皮や、ざらざらした表面や、水晶などの肌触り、おずおずとした微かな感触、攻撃的で大胆な接触などの記憶でもあろう。描きだ
された抽象画的な色彩や図柄は、感覚の作用による入墨と忠実に照応しているはずである。もしそれが商標の装飾図案や図像や文字を模しているとすれば、すべ
ては社会的問題に堕してしまう。皮膚はそれぞれ固有の刻印を受けたものなのに、それが社会運動の旗印(ポルト・ドラポー)となってしまうからだ。様々に変
化する図柄が、愛撫のなかで生まれる。虎か、ビューマか、アルマジロか、私の脇に裸で寝そベって身体を丸めた君は、波形模様や図柄で飾りたてられた私の液
状の皮膚を、解き明かそうとしている。われわれの魂はあちこちに散在している。したがって、われわれは単一体をなしていない。身体全体を司る魂、それは感
情の生まれる場から遠からぬところにある小さくて奥深い場所である。部分的な魂、あるいは表面にある魂、それは粘性があって今にも凝固しそうな湖であり、
そこでは無数の光が戯れ、虹色に輝き、ゆっくりと変化し、また嵐の荒れ狂うこともある。それはまた固い先端でもあり、孔雀の羽根でもあって、われわれに斑
痕をつけたり、孔雀のように気取って尾を広げたりする。 |
14-15ページ. |
■(略) |
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■魂がある器官の上にやってきたとき、その器官は意識化されかつ意識を
失う。指が唇に触り、指が《われ》を主張すれば、唇は客体となるが、しかし実のところは指の方が自らを失うのだ。魂が指の上に置かれるやいなや、魂は指を
掠め取ってしまうからだ。煉瓦や石やコンクリートブロックをもち上げるとき《われ》は全面的に私の手や腕の中にある。魂はそこに濃密な状態の自分を見出
す。しかしそれゆえに私の手は、ざらざらとした石の集合体のなかで自らを失う。客体は闇に満ちた物体に帰せられ、魂は白い空虚に帰せられる。天使のように
透明な魂がたまたまある場所に来れば、魂は自分の降り立った場所を白く輝かせる。他の場所では様々な色や図柄で飾られている皮膚は、ここではきわめて明る
くなり、ますます生き生きとして、白熱するまでに光り輝く。ほらごらんなさい、彼の顔面の皮膚が輝いているではないか。ごらんなさい、彼は皆の前に出て顔
色が変わり、まるで雪のように白くなった。魂は斑紋をなして入墨を形づくり、その錯雑した線の全体は力の場、すなわち魂による巨大な圧力の空間を形成し
て、この圧力に抗する闇に満ちた肉体の部分やその主要防御陣地を徐々に消し去ってゆく。皮膚の上では魂と客体(オブジェ)が隣接していて、前進したり後退
したり、地城を獲得したり失ったりしているのだが、それは《われ》と闇に満ちた肉体の部分との入り乱れた長い乱戦であり、そこからある瞬間に、孔雀の尾の
ように入り混じった色彩が生じる。この戦闘は雪花石膏のような純白の神郡的肉体をもって終息する。私はもはや何ものでもない。あるいはまたサイバネティッ
クス的組織体、ブラック・ボックスをもって終息する。つまりもう―つの無(ネアン)になる。 |
16ページ. |
■洸惚によって表情が変貌したり、魂のなかへ肉体が消失したりすること
によって入墨が描きだされる。見事な人体皮下標本や、完璧な自動システム(オートマトン)なども、全面的なブラック・ボックスに対して描きだされた入墨で
あると言える。このようにして肉体は、混ざり合って、中間に、地獄と天界の間の日常的空間に存在するのだ。 |
17ページ. |
■(略) |
|
■多くの哲学が視覚に重きを置いており、聴覚に重きを置く哲学は数少な
い。しかし嗅覚および触覚に重きを置く哲学はさらに少ない。抽象観念は感覚的肉体を切り離し、味覚、嗅覚、触覚を削除し、視覚と聴覚、直観と悟性のみを保
持している。抽象化するとは、肉体を離れるということではなくて、肉体をばらばらに切り裂くこと、すなわち分解〔分析〕することを意味するわけだ。 |
18ページ. |
■抽象観念の宮殿を建立することによって、《われ》は困難性の前から退
却する。かくも多くの者が他者とその皮膚を恐れているので、《われ》はその障害を前にして尻込みするのだ。多くの者が自分たちの感覚を恐れているので、あ
たかも食べられないものがテーブルから一掃されるかのように、味覚は無に帰せられてしまう。味覚は、折り畳まれた孔雀の尾のように、華麗で潜在的なものな
のだ。こうして経験論者は雑多な色の塗りたくりのなかに身を潜めるわけだが、これは多大な忍耐と並み外れた抽象力とを必要とする。自我の誕生とその認知と
いう出来事が過ぎてしまえば、その後は何を期待すればよいのだろうか。魂と肉体は決して分離しているのではなく、解きほぐせないほどに混ざり合っている。
皮膚の上においてすらそうである。それゆえ、交じり合う二つの肉体は、―つの主体と―つの客体に分かたれているのではない。 |
19ページ. |
■私は君を愛撫し君の唇に接吻する。私とは誰なのか。君とは誰なのか。
私が唇で自分の指に触るとき、まるでボールをパスするように魂が接触点のこちら側からあちら側へと移動するのが感じられるが、魂は接触にともなって微細な
動きをするわけだ。魂の。ハスゲームをしながら自己接触の細かい網の目を数限りなく増やし、その上をあらゆる方向に魂を。ハスすることによって、おそらく
私は自分が誰であるかを知ることができるのだ。私は君を抱擁する。如町や、二声叡や、性的倒錯といった残酷で性急な馬鹿げた愛憎関係についてしか、われわ
れはまったく教えられてこなかった。私は君を抱擁する。いや、二人の接触のまわり一帯に広がる微細な網の目のまわりを飛びまわるのは、私の魂ではない。い
や、それは私の魂でも君の魂でもない。いや、それはそれほど単純でも、それほど残酷でもない。いや、私は君を客体化するのでもないし、凍結させるのでもな
いし、罠にかけるのでも、犯すのでも、退屈な伊達者として扱うのでもない。君が誰かに交代してくれるのを待っているのでもない。そうするためには私が幽霊
となり、君がロボットにならなくてはならないことだろう。あるいは君が亡霊か死霊となり、私がブラック・ボックスとならなくてはならないことだろう。実
際、病気や疲労によってそうした極限的状況が生じる。それ以外の場合はすべて、ほとんどかならず、私は自分の褐色の回廊地帯を君のオパール色の圏域にもた
せかけ、あるいは白く輝く区域を紫色の部位に押し当てる。すべては場所や、時間や、状況による。そこから忍耐が始まり、そして果てしない探検が始まる。盲
人が点字を解読するように、あるいは夜の闇のなかで羊毛をより分けるように、われわれは状況のジャングルのなかを手探りで進んでゆく。不安感と注意力と
が、新たに研ぎすまされて、身を震わせる。暗闇の上に暗闇が重なり、混乱と明瞭さが重なり、ぼかしと暗がりが重なり、あらゆる色彩を広げるスペクトルの上
に虹が重なる。触覚をもたない者たちにはこうしたイメージで示さなくてはならないが、平野の上に峠が重なり、谷間と山が重なる。入江や海峡の上に岬が重な
り、様々な形状が描かれ、青白い魂は逃げ去り、隠れ、引き下がり、仮面をかぶり、外面を繕い、遠くに姿を見せ、避難し、自分の航跡のなかにわずかなィンク
の痕や豊かな香りを残し、植込や泉水や大理石散歩道を形づくり、大胆に前進し、じりじりと攻撃し、ほほえみ、再び姿を見せ、待ち、折り枝を手がかりに進
み、尊大に振舞い、消滅し、叫び、あるいは黙り、長々とつぶやき、そして突然、森の片隅で、回廊やチムニーに沿って、円いカーブの上で、あるいはジグザグ
の先端で、解読不能の迷路の道筋の上で、まったく思いもよらなかったアリアドネー、白き肌のアリアドネーが現われる。山の上で変容し、無垢なるあけぼのの
光に包まれて、白く光り輝く君の魂が今やここにやって来た。 |
19ページ. |
■死者の上に漂う死相もまた、平坦なものではあるが、この種の記憶痕跡
を生じさせる。 |
20ページ. |
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