Dos Jimenezes, Jiménez y Ximénez
Antonello da Messina - Annunciata, 1476
Francisco Jiménez de Cisneros(ゴンサーロ・ヒメネス・デ・シスネロス) フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス(1436-1517)は、スペインの枢機卿、宗教家、政治家である[注 1]。彼の知的業績の中で最もよく知られているのは、聖書全体を初めて印刷した多言語版である『コンプルテンシアン・ポリグロット・バイブル』に資金を提 供したことである。 |
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1436 |
カスティーリャのトレラグーナの貧しい一家に生まれる |
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勉学に励んでアルカラ・デ・エナーレスとサラマンカ大学で学ぶ |
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1459 |
スペイン枢機卿団の使節としてローマに派遣され、同地での活躍によって教皇シクストゥス4世の目にとまった |
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1465 |
教皇の引き立てによりスペインで聖職禄を受けられる旨を記した特別書簡を携えてスペインに戻ってきた |
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書簡にはシスネロスをウセーダの司教に取り
立てる旨が記されていたが、当時のスペインにおけるカトリック教会の実力者カリヨ司教はこれを拒絶。代わりにシスネロスに自分の聖職禄を与えると伝えた
が、シスネロスはそれを受け入れず、自らの権利を主張した。あまりに徹底的に主張し続けた為に投獄された。要求を撤回しさえすればすぐに解放するといわれ
ていたにもかかわらず、シスネロスは主張を変えずに6年にわたって獄にいつづけた。ここにいたってカリヨ司教もシスネロスの不屈の闘志に感銘を受け、彼が
求めていた聖職禄を与えた。シスネロスはようやく獄を出る事が出来たが、苦労の末に得た聖職禄にはそれほどこだわる事なく、すぐにそれを手放すとシグエン
サ司教メンドーサ枢機卿のもとでシグエンサの聖職禄を受けた |
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1484 |
シグエンサでもその働きぶりを賞賛された
シスネロスは、そのまま聖職者としての栄達の道を突き進むかのように見えたが、1484年に突然フランシスコ会に入会した。この時、財産を手放しただけで
なく名前をゴンサーロからフランシスコに変えるほどの強い決意を示し、トレドに出来たサン・フアン・デ・レージェス修道院に入った。フランシスコ会員とし
てシスネロスは通常の苦行や清貧では満足できず、他の会員よりも厳しい禁欲生活を自らに課した。後にシスネロスは世俗の権力の頂点を極める事になるが、私
生活では死ぬまで徹底した清貧と禁欲の生活を貫き通した。 |
1484 |
バルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolomé de las Casas)8月24日アンダルシア地方のセビリアに生まれた。父ペドロ・デ・ラス・カサス、母イサベル・デ・リサの長男.(→フランシスコ・デ・ビトリアは、1483年生まれ) |
後に隠修士として修道院に近い森の中の庵で黙想生活を送るようになったシスネロスであったが、かつての上司であったメンドーサ枢機卿は彼の事を忘れていなかった。トレド大司教としてスペイン聖職者会のトップに立ったメンドーサが、イサベル女王の
聴罪司祭としてシスネロスを推薦したのである。シスネロスはフランシスコ会員としての清貧の生活を続けさせてくれる事と、必要な時だけ王宮に赴く事を条件
にこれを受けた。王妃の聴罪司祭という地位は、宗教的な意味だけでなく王妃の私的顧問という面において政治的にも重要なポストであった。シスネロスの高潔
な人格と清貧の生活は王妃に強い印象を与え、すぐにその信頼を勝ち取った。 |
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1494 |
シスネロスはフランシスコ会のスペイン地区長に任命 |
(1493)「新大陸」に到達してスペインに戻ってきたクリストファー・コロンブス(クリストーバル・コロン)のセビリア到着を目撃、強い印象を受けた。さらに父ペドロが兄弟とともにコロンブス(以下コロン)の第二次航海に参加し、「新大陸」に渡った。 |
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1495 |
メンドーサ枢機卿が世を去ると、イサベル
は教皇アレクサンデル6世に対しシスネロスをトレド大司教に推薦した。トレド大司教の地位は当時のスペインにおいてどんな貴族も及ばないほどの影響力を
持った重要なポストであった。シスネロスはトレド大司教になった後も質素な清貧生活を続けていた為、ローマ教皇庁からはポストにふさわしい華美な生活をし
てほしいという苦情が出るほどであった。 |
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フランシスコ会員としても、カトリック教
会の聖職者としてもスペインにおける最高の地位についたシスネロスがまず取り組んだのは、スペインのフランシスコ会の改革であった。弛緩していた規律を正
す為、司祭会員に対して妻帯を禁じ任地の小教区への定住を求めた。当時の司祭達の間では任地がありながらそこへ赴かずに聖職禄だけを受ける不在聖職禄が大
きな問題になっていた為である。司祭が任地に定住する事で初めて司祭達は信徒に対し説教を行い、告解を聞くなどの司牧活動が行えるようになった |
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1498 |
フランシスコ会員のみならず全ての修道会
司祭に対して規律の粛正を求めたが、当然、反発が生じた。シスネロスの改革に反対し、400人にのぼる妻帯司祭と修道士が妻を連れてアフリカへ逃れ、イス
ラム教徒になったとされている。シスネロスの改革の徹底ぶりと既得権益を守ろうとした司祭達の反発を受けてローマ教皇庁の修道会管轄者がシスネロスに対
し、改革の緩和を求めたが、シスネロスは聞き入れなかった。なによりシスネロスを信頼し、聖職者の綱紀粛正を喜ぶ王妃の後押しがあった為、ローマとしても
それ以上口をはさむ事ができなかった。 |
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1499 |
シスネロスは異端審問所の官僚達と共にグ
ラナダに赴いた。グラナダではタラベラ大司教がイスラム教徒の改宗事業に取り組んでいた為、シスネロスもこれを支援しようとしたのである。タラベラ大司教
は教育によってゆるやかにイスラム教徒をキリスト教に改宗させようとしていたが、シスネロスはこれに満足できず早急な改宗を求めた。さらにグラナダに保管されていたイスラム由来の書物で医学書以外のものの焼却を決定した事から、不満を抱いたグラナダのイスラム教徒達(ムデハル)が決起した。これが第一次アルプハーラス反乱である。 |
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暴動はすぐに鎮圧され、イスラム教徒たち
は改宗するか、国を出るかの二者択一を迫られた。ほとんどのものが改宗を受け入れ、シスネロスは「イスラム教徒を一掃した」と報告しているが、表面的に改
宗した人々の問題は長きにわたってくすぶり続ける事になった(スペイン異端審問参照)。イスラム教徒から見ればシスネロスは暴君以外の何者でもなかった。 (1500)創立され、1508年に開学したアルカラ・デ・エナーレス大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)もシスネロスが中心となって財政援助を行った事で知られる (1502)多言語対訳聖書の編纂の事業に着手。それは聖書本文を6ヶ国語(アラム語、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語を含む)で同時に参照できるようにしたものであった。本文だけで5巻にもおよぶ大作で、第6巻としてヘブライ語語彙集が収められていた。 |
(1502)ラス・カサス自らもインディ
アスに渡ることになり、新総督に任命されたニコラス・デ・オバンドと共にエスパニョーラ島へ渡航、同地に滞在した。一帯はコロンブスの率いるスペイン軍に
よる略奪と虐殺から始まる、アラワク族やルカヤン族(英語版)、タイノ族などのインディオ部族とスペイン人入植者との激しい戦いのなかにあった。 |
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1504 |
11月26日、イサベル女王が死去。フェルナンド2世は義理の息子フェリペ1世にカスティーリャ王位が譲られる事に反対した為、シスネロスが間に立って仲介し、サラマンカ協定でフェリペをカスティーリャ王とする事で決着した。 |
3月イグエイ(Higüey)地方のインディオの「反乱」鎮圧軍に加わっている。イグエイから戻ったラス・カサスはコンセプシオン・デ・ラ・ベガの近くでインディアンを奴隷として所有使役しながら、農場を経営 |
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1505 |
シスネロスが私財を投じて派遣した先発隊は1505年に港湾都市メルス・エル・ケビールを占領 |
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1506 |
フェリペが1506年に亡くなった時、フェルナンド2世はナポリにいた為、シスネロスは摂政として国王不在のスペインをとりまとめ、高位貴族による反乱計画を未然に防いだ。 | セビリアに戻ったラス・カサスは司祭職を志して下級叙階を受けた |
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1507 | フェルナンド2世は、この功をたたえてシスネロスをカスティーリャとレオンの異端審問長官に任命し、枢機卿位が与えられるよう斡旋した。 | クリストーバル・コロンの息子ディエゴ・コロンのインディアスにおける特権回復の陳情のためローマへ赴き、そこで司祭に叙階された。ディエゴの陳情活動は成功し、ディエゴはインディアス総督の任命をうけることができた。 |
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次にシスネロスが取り組んだのは、北アフリカのイスラム都市オランの攻略であった。この計画はシスネロスの宗教的な情熱とフェルナンド2世の経済的野心が一体となって推し進められた。 | |||
1509 |
シスネロス自身も本隊と共にアフリカに向
かったが、メルス・エル・ケビールが自然災害の影響で壊滅的な打撃をうけた為、スペインに戻った。シスネロスはフェルナンド2世にさらなる軍資金の出資を
願ったが、オラン占領以上の戦闘拡大を望まなかった事とイタリア情勢が気がかりであったという2つの理由でフェルナンド2世は軍資金を出さなかった。 (1514)多言語対訳聖書の新約聖書分が完成 |
(1510)ディエゴ・コロンとラス・カサスは1510年にインディアスに戻り、ラス・カサスは同地で初ミサをささげた (1511)12月、ラス・カサスの運命を変えた最初の出来事が起こる。サント・ドミンゴで生活していたドミニコ会員アントニオ・デ・モンテシーノス(Antonio de Montesinos)が、スペイン人のインディオに対する不当な扱いを初めて非難したのである。この運動はやがてスペイン王室も動かし、フェルナンド2世のもとにインディアス政策を検討するブルゴス会議が開かれ、ブルゴス法(Leyes de Burgos)を制定した。 (1512)ディエゴ・コロンはキューバ島征服軍を出動させ、ディエゴの友人であったラス・カサスも従軍司祭としてこれに加わった。軍勢の中には後にコン キスタドールとして知られたエルナン・コルテスもいた。この軍事行動の中でおこなわれたインディアンに対する拷問と虐殺を目の当たりにしたラス・カサスは 激しい良心の呵責を感じるようになった。 (1514)従軍司祭の地位を捨て、農業に専念しながら聖書について観想する生活に入る。聖書のメッセージと現実に起こっているインディオの不当な扱いは 明らかに相容れないものであった。司祭としてラス・カサスの苦悩は頂点に達していた。1514年8月15日、ラス・カサスの人生における「第一の改心」と 呼ばれる出来事が起こる。ラス・カサスは熟考の末、所有していたインディオ奴隷を解放し、自らのエンコミエンダを放棄。サンクティ・スピリトゥスで行った 聖母被昇天祭のミサの中でエンコミエンダ制の矛盾を厳しく糾弾したのである。 (1515)インディアスでエンコミエンダ制の不当性を訴えていたドミニコ会員たちと相談の上、王室に状況の改善を訴えようとモンテシーノスと共にスペイ ンへ向かった。しかし、フェルナンド2世はまもなく逝去したため、摂政として実権を握っていたフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿およびアドリ アン枢機卿(後のハドリアヌス6世)に謁見して植民地の実情を訴えた。この時書かれたのが『14の改善策』といわれるもので、エンコミエンダの廃止とイン ディオ虐待の即時中止、平和的キリスト教布教などが提案されている。インディオは奴隷酷使され、また虐殺によって数を減らし、南米へ逃亡するものが後を絶 たず、奴隷労働力としてすでに役に立たなくなっていた。このため、このころのラス・カサスはインディオに代わる労働力として西アフリカから運ばれた黒人奴 隷の利用もやむなしと考えていた。しかし後に、これも不当であると考えるようになる。 |
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1516 |
1月28日、フェルナンド2世はシスネロ
スを16歳の若き王子カルロス(外孫、後の神聖ローマ皇帝カール5世)の後見役に指名して世を去った。カルロスは当時フランドル地方で生活していた。王国
内におけるシスネロスの地位は不動のものであったが、カルロス王子の側近であったフランドル出身の貴族たちがスペインにやってきてカスティーリャ貴族たち
との間に不穏な空気を生み出し始めたことがシスネロスを悩ませた。 |
(時期不詳)ラス・カサスの提案により、
シスネロス枢機卿の指示でインディアス審議会が発足。インディアスへの調査団の派遣を決定した。調査団はヒエロニムス会の修道士たちによって構成されてお
り、ラス・カサスはインディオ保護官という肩書きで現地に同行した。調査団は忠実に職務を遂行したが、ラス・カサスから見れば手ぬるいものであったため、
まもなく両者は対立することになった。調査団とラス・カサスがスペインに戻ると、死期が近づいていたシスネロス枢機卿はすでに権勢を失っており、まもなく
死去した。しかたなくラス・カサスは新王カルロス1世(カール5世)に謁見することにし、謁見許可を待つ間、ドミニコ会神学院において法学・神学の知識を
深めた。
やがて王の側近ジャン・ル・ソヴァージュの知遇を得ると、王から暴力的行動を禁止し、平和的植民のみを許可する勅令を得ることができた。これを実践しよう
としたラス・カサスは自ら植民団をひきいてクマナー地方で平和的植民活動を行ったが、うまくいかず植民者たちはラス・カサスのもとを去った。インディアス
のスペイン人たちの間でラス・カサスへの反感が強まり、命の危険を感じたラス・カサスは、ドミニコ会員たちのすすめに従ってドミニコ会に入会、修道院にか
くまわれる形で研究に専念した。これが「第二の改心」である。研究活動の中で、当時の著名な神学者カジェタヌス枢機卿が「征服戦争の正当性を立証する神学
的根拠は何もない」という意見を持っていることを知り、大いに励まされた。『布教論』とよばれる著作はこのころ書かれたが、現在では一部分しかのこってい
ない。 |
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1517 |
カルロスが海路スペインに到着、アストゥ
リアス近郊に上陸した。シスネロスは一刻も早くカルロスに謁見して善後策を協議しようと望んだ。しかし、カルロスの元へ向かう道中で病に倒れた(毒をもら
れた疑いも捨てきれない)。床についていたシスネロスの元に届いたカルロスからの親書はこれまでの働きに感謝し、摂政の職を解くというそっけないものだっ
た。この手紙を受け取って間もなく1517年11月8日、シスネロス枢機卿はロアでこの世を去った。 4月多言語対訳聖書の旧約聖書分も完成する(レオ10世に献辞『王の聖書』)。 |
(1524)インディアス評議会は枢機会
議に格上げされており、王の直属機関となっていた。これは当時スペイン国内でインディアスの扱いについての関心が高まっていたこと、植民者たちの目にあま
る行為とインディオへの虐待を問題視する意見が強かったことを示している。ラス・カサスはしきりに枢機会議に書簡を送っては現状を報告していた。その後は
インディアス各地ですすめられたインディオ征服を批判しながら、インディオへの平和的布教に取り組んだ。ラス・カサスの地道な啓蒙活動はヨーロッパにおい
て徐々に評価されるようになっていた。 |
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1526 |
9月、インディアス事情に精通しているということで、ラス・カサスはエスパニョーラ島に新しく出来たドミニコ会修道院の院長任命を受けた。このころ、『インディアス史』の執筆を始めている |
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1537 |
教皇パウルス3世がインディオの奴隷化を禁止する勅令『スブリムス・デウス』を出している。また、グァテマラからメキシコに赴いて活発な活動を続けた. On Bartolomé de las Casas' second visit to Guatemala, in 1537, friar Bartolome de las Casas, O.P. wanted to employ his new method of conversion based on two principles: 1) to preach the Gospel to all men and treat them as equals, and 2) to assert that conversion must be voluntary and based on knowledge and understanding of the Faith. It was important for Las Casas that this method be tested without meddling from secular colonists, so he chose a territory in the heart of Guatemala where there were no previous colonies and where the natives were considered fierce and war-like. Because the land had not been possible to conquer by military means, the governor of Guatemala, Alonso de Maldonado, agreed to sign a contract promising that if the venture was successful he would not establish any new encomiendas in the area. Las Casas's group of friars established a Dominican presence in Rabinal, Sacapulas and Cobán, reaching as far as Chahal. Through the efforts of Las Casas' missionaries the so-called "Land of War" came to be called "Verapaz", "True Peace". Las Casas's strategy was to teach Christian songs to merchant Indian Christians who then ventured into the area. In this way he was successful in converting several native chiefs, among them those of Atitlán and Chichicastenango, and in building several churches in the territory named Alta Verapaz. These congregated a group of Christian Indians in the location of what is now the town of Rabinal.[3] In 1538 Las Casas was recalled from his mission by Bishop Francisco Marroquin who wanted him to go to Mexico and then on to Spain in order to seek more Dominicans to assist in the mission.[4] 「バルトロメ・デ・ラス・カサス修道士は、1537年にグアテマラを2回目に訪れたとき、2つの原則に基づいた新しい改宗の方法を採用しようと考えまし た。1)すべての人に福音を宣べ伝え、対等に扱うこと、2)改宗は自発的で、信仰の知識と理解に基づくものでなければならないと主張すること、である。ラ ス・カサスにとって、この方法は世俗的な植民地主義者の干渉を受けずに試されることが重要であったため、彼はグアテマラの中心部にある、それまで植民地が なく、原住民が凶暴で戦争好きとされる領土を選んだ。グアテマラ総督のアロンソ・デ・マルドナドは、軍事的な征服が不可能な土地であったため、この事業が 成功したら、この地域に新しいエンコミエンダを設置しないことを約束する契約書にサインすることに同意してくれた。ラス・カサスの修道士たちは、ラビナ ル、サカプラス、コバンにドミニコ会を設立し、チャハルまで到達した。ラス・カサスの宣教師たちの努力により、いわゆる「戦争の地」は「ベラパス」、「真 の平和」と呼ばれるようになった。ラス・カサスの戦略は、商人であるインドのキリスト教徒にキリスト教の歌を教え、彼らがこの地域に進出することであっ た。こうして彼は、アティトランやチチカステナンゴの首長たちを改宗させ、アルタ・ベラパスと名付けられた領地にいくつかの教会を建てることに成功した。 1538年、ラス・カサスはフランシスコ・マロキン司教に呼び戻され、メキシコ、そしてスペインに渡り、宣教を助けるドミニコたちを探すよう命じられ た。」 |
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1540 |
インディアスでの宣教師を募るためと、宮廷において現状報告を行うため、ラス・カサスは20年ぶりにスペインの土を踏んだ。 |
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1542 |
国王カルロス1世(カール5世)はラス・
カサスの報告を聞き、これを受けて1542年にバリャドリードにおいてインディアス評議会を召集し、インディアス政策の抜本的見直しとインディオ保護の方
法を検討することを決めた。この評議会のために書かれた報告書が有名な『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』である。1542年11月、討議のすえに
インディアス評議会はインディオ保護とエンコミエンダ制の段階的廃止をうたった画期的な「インディアス新法」を公布した。このことは植民地当局と植民者の
ラス・カサスへのいっそうの憎悪をあおることになった。 |
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不詳 |
ラス・カサスを宮廷から引き離そうとする
反対者たちの画策と、インディアスにあって現状の報告者になってほしいと願う支持者たちの意思の不思議な一致の結果として、ラス・カサスはメキシコに設置
されたチアパス司教区の初代司教に任命された。チアパスについたラス・カサスは司教として植民地当局に「新法」の施行を厳しく求めたが、植民者たちの激し
い抵抗を受けた。結局、植民地全体のスペイン人の反発によって「新法」のうたったエンコミエンダ制廃止は先送りになり、不完全なものとなってしまった。ラ
ス・カサスと植民者たちの間で繰り返された対立は泥沼化し、なんとか打開策を見出そうとしたラス・カサスは再びスペイン行きを決意、メキシコを離れた。 |
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1547 |
6月、再びスペイン宮廷に戻ってロビー活動を始めたラス・カサスの前にインディオへの征服活動の正当性を主張する強力な論敵が出現する。アリストテレス研究の権威として知られた神学者フアン・ヒネス・デ・セプルベダである。 (→フランシスコ・デ・ビトリアは1546年に亡くなっている) |
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1550 |
バリャドリードで行われたインディアス会
議ではセプルベダとラス・カサスが交互に出頭して自説を述べ、自らの意見こそ正しいと盛んに論じた。これを「バリャドリード論戦」という。会議の中では植
民者たちからエンコミエンダの世襲制の許可が願われたが、ラス・カサスの反対により見送られた。 |
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1551 |
1551年以降、ラス・カサスはバリャド
リードのドミニコ会神学院に腰をすえて執筆活動と啓蒙活動に専念することを決意、チアパスの司教位を辞退した。神学院で執筆活動に専念していたこの時期、
インディアス史の資料としてコロンブスの第一次航海の日誌をまとめ、要約の形で書き写した。現在、コロンブスの第一次航海の資料は失われているため、ラ
ス・カサスによるこの要約のみが航海の様子を知る貴重な資料となっている。この後も継続的に執筆活動とインディアンの権利保護のロビー活動を続けた。この
頃の著作では自分が若き日にインディアスへの黒人奴隷の導入をやむなしとしたことへの悔恨と、奴隷制度自体の不当性を主張している。ラス・カサスはいまや
「全インディオの代弁者」であった。 |
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1561 |
体力の衰えを感じたラス・カサスはマドリードのアトチャ修道院に移り、自らの著作をまとめ始めた。 |
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1566 |
急速に体力が衰え、1566年6月20日、ラス・カサスはアトーチャ修道院で波乱に満ちた生涯を終えた。遺言によってラス・カサスは著作のすべてをドミニコ会神学院に寄贈したが、時が来るまでそれらを公にしないよう言い残している。 |
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1568 |
教皇ピウス5世が従来スペインのインディアス支配の根拠とされていたアレクサンデル6世の「贈与大勅書」がインディアス征服を正当化するものでないというローマ教皇庁の正式見解を示したのは、ラス・カサス死後2年目の1568年のことであった |
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1666 |
Francisco Ximénez は、アンダルシアのエーシハ(Écija)で生まれる ++ Fray Francisco Ximénez de Quesada o Francisco Jiménez de Quesada, OP (Écija, 1666 - Guatemala, 1722) fue un fraile dominico español reconocido por su conservación del narrativo Popol Vuh, un libro sagrado de los mayas. Su versión está conservada en columnas paralelas en quiché y en español; sin embargo, investigaciones posteriores han demostrado que el padre Ximénez modificó las traducciones de los textos para facilitar la introducción de la doctrina cristiana entre los indígenas guatemaltecos.12 |
フ
ランシスコ・ヒメネス・デ・ケサーダ(Francisco Ximénez de Quesada, OP、Écija, 1666 -
Guatemala,
1722)は、マヤの聖典「ポポル・ブフ」の物語を保存したことで知られるスペインのドミニコ会修道士であった。彼の版はキチェ語とスペイン語の並列欄で
保存されているが、その後の研究により、ヒメネス神父は先住民グアテマラ人にキリスト教の教義を導入しやすいように翻訳を修正したことが明らかにされてい
る12。 |
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1688 |
He enrolled in seminary in Spain and arrived in the New World in 1688, where he completed his novitiate. |
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1691 |
Father Ximénez's sacerdotal
service began in 1691 in San Juan Sacatepéquez and San Pedro de las
Huertas where he learned Cakchiquel. |
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1693 |
In December 1693, Ximénez began serving as the Doctrinero of San Pedro de las Huertas. |
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1701 |
He continued in this office for
at least ten years during which time he was transferred to Santo Tomás
Chichicastenango (also known as Chuilá) from 1701-1703. (1701-1703)Ximénez's time in Santo Tomás Chichicastennago from 1701 to 1703 is probably when he transcribed and translated the Popol Vuh (see image to right — Ximénez does not give it its modern title). |
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1703 |
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1704 |
Father Ximénez was also the curate of Rabinal from 1704 through 1714 and further served as the Vicario and Predicador-General of the same district as early as 1705. |
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1705 |
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1715 |
Later on in 1715, Ximénez
included a monolingual redaction in his commissioned Historia de la
provincia de San Vicente de Chiapa y Gvatemala. Father Ximénez has two
other known writings, Primera parte de el tesoro de las lengvas
3a3chiquel Qviche y 4,vtvhil and Historia natural del Reino de
Guatemala. |
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1729-30 |
Aside from the year, his birth
and baptismal records do not agree on the actual date of his birth, and
the year of his death is less certain, either in late 1729 or early
1730. |
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"[Here] begin the histories of the origin of the Indians of this province of Guatemala. Translated from the Quiché language into Castillian for the convenience of the ministers of the holy gospel by the R[everend] P[adre] F[riar] Francísco Ximénez, doctrinal priest of the royal council of Santo Tomás Chilá." |
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Biografía Primera página del manuscrito del Popol Vuh, guardado en la Biblioteca Newberry, Chicago, Colección Ayer. Ximénez llegó a Guatemala en el año de 1688 como acólito y empezó a aprender la lengua quiché. Habiendo cumplido su noviciado, en 1691 fue enviado a San Juan Sacatepéquez y más tarde a San Pedro de las Huertas, barrio indígena en Santiago de los Caballeros de Guatemala, donde aprendió kaqchikel. En diciembre de 1693, Ximénez fue elevado al puesto de Cura Doctrinero y quedó encargado del oficio por diez años. En 1701, sin embargo, fue transferido a Santo Tomás Chichicastenango (Chuilá) donde se cree que aprendió del narrativo indígena e hizo su transcripción/traducción. En 1704, el padre Ximénez fue nombrado cura de Rabinal, y en 1705 fue nombrado vicario y predicador general del mismo distrito hasta 1714. En 1717 la ermita de Candelaria en la ciudad de Santiago de los Caballeros fue destruida por el terremoto de San Miguel, y Ximénez fue el promotor de la reconstrucción de ese templo, localizado en el barrio en donde también estaba el Convento de Santo Domingo en esa ciudad.3 |
バイオグラフィー シメネスは1688年に従者としてグアテマラに到着し、キチェ語の習得を始めた。修道院を修了した後、1691年にサン・フアン・サカテペケスに送られ、 その後グアテマラ、サンティアゴ・デ・ロス・カバリェロスの先住民バリオ、サン・ペドロ・デ・ラス・フエルタスでカクチケルを学んだ。1693年12月、 ヒメネスはクーラ・ドクトリネーロに昇格し、10年間その職を担った。しかし、1701年にサント・トマス・チチカステナンゴ(チュイラ)に赴任し、先住 民の物語を学び、その転写・翻訳を行ったとされる。1704年、ヒメネス神父はラビナルの司祭に任命され、1705年には同地区の総督兼説教師に任命さ れ、1714年まで務めました。 1717年、サンティアゴ・デ・ロス・カバリェロス市のカンデラリア庵がサンミゲル地震で倒壊したが、ヒメネスは、同市のサント・ドミンゴ修道院の近所にある同庵の再建の推進者だった3。 |
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Se ha teorizado que la primera
versión del Popol Vuh fue una obra escrita alrededor del año 1550 por
un indígena que, luego de aprender a escribir con caracteres latinos,
capturó y escribió la recitación oral de un anciano. Pero este
hipotético autor «nunca revela la fuente de su obra escrita y en su
lugar invita al lector a creer lo que quiera del primer folio recto»,4
la cual utilizó Ximénez para hacer la traducción del libro. Si
existiera tal documento, dicha versión habría permanecido oculta hasta
el período 1701-1703, cuando Ximénez llegó a ser cura doctrinero de
Santo Tomás Chichicastenango (Chuilá). Ximénez transcribió y tradujo el texto en columnas paralelas de k'iche' y español y más tarde hizo una versión en prosa que ocupa los primeros cuarenta capítulos del primer tomo de su Historia de la provincia de Santo Vicente de Chiapa y Guatemala que empezó a escribir en 1715.Nota 1 Los trabajos de Ximénez permanecieron archivados en el Convento de Santo Domingo hasta 1830, cuando fueron trasladados a la Escuela de Ciencias de Guatemala tras la expulsión de los dominicos de los estados de la Federación Centroamericana. En 1854 fueron encontrados por el austríaco Karl Scherzer, quien en 1857 publicó el primer tallado de Ximénez en Viena bajo el título primitivo Las historias del origen de los indios de esta provincia de Guatemala. Por su parte, el abad Charles Étienne Brasseur de Bourbourg sustrajo el escrito original de la universidad, lo llevó a Europa y lo tradujo al francés. En 1861 publicó un volumen bajo el título Popol Vuh, le livre sacré et les mythes de l'antiquité américaine. Fue él, pues, quien acuñó el nombre Popol Vuh.4 En el xx la traducción de Ximénez fue revisada por varios estudiosos, quienes determinaron que Ximénez introdujo numerosas inexactitudes, cuyo número no se puede cuantificar; además, ante la imposibilidad de efectuar un examen pormenorizado de las traducciones que hizo Ximénez del Popol Vuh, concluyeron que las traducciones eran muy infieles y que el fraile omitió traducir un elevado porcentaje del texto. Las apreciaciones se basaron en el minucioso análisis comparativo que se realizó de las primeras 1180 líneas del Popol Vuh con las dos versiones españolas del fraile. El análisis puso de manifiesto que, con el escaso conocimiento de la lengua quiché que Ximénez poseía, no pudo evitar desfigurar la obra al copiarla.12 Los estudiosos también señalan que el Popol Vuh es un libro diseñado y ejecutado con conceptos occidentales porque su unidad de composición es tal que da pie para postular un solo recolector de las narraciones.5 Se debe tener en cuenta que el libro fue utilizado por Ximénez para evangelizar a los indígenas en su momento. Los críticos llegaron a la conclusión de que no está suficientemente establecida la medida de la interacción que Ximénez tiene con el texto y se pueden identificar algunas de las ideas contenidas en el primer folio recto como no totalmente indígenas.4 |
ポポル・ブフの初版は、1550年頃、先住民がラテン文字を習得した
後、長老の口誦をとらえて書き留めたものという説がある。しかし、この仮想の作者は、「自分の書いたものの出所を明かすことはなく、その代わりに、最初の
まっすぐなフォリオから何でも信じるように読者を誘う」4、ヒメネスはこの本を翻訳するのに使ったのだった。もしそのような文書があったとしても、
1701年から1703年にかけてヒメネスがサント・トマス・チチカステナンゴ(チュイラ)のクラ・ドクトリーネロになるまで、この版は隠されたままで
あったろう。 ヒメネスが1715年に書き始めた『チアパとグアテマラのサント・ビセンテ州史』第1巻の最初の40章を占める散文版は、キチェ語とスペイン語の並列で転 写・翻訳されている註1。ヒメネスの作品は、ドミニコ人が中米連邦の州から追放され、グアテマラの科学学院に移された1830年までサント・ドミンゴ修道 院で保存されていた。1854年にオーストリアのカール・シェルザーが発見し、1857年にウィーンで「グアテマラ州のインディオの起源」という原始的な タイトルで最初のヒメネス彫刻を出版した。一方、ブールブール修道院長シャルル・エチエンヌ・ブラッスールは、大学から原書を持ち帰り、ヨーロッパに持ち 込んでフランス語に翻訳した。1861年には『ポポル・ヴフ、聖なる書物と古代アメリカの神話』という本を出版した。ポポル・ブフという名前を作ったのも 彼である。 20世紀になって、何人かの学者がヒメネスの翻訳を検討した結果、ヒメネスは定量化できないほどの不正確な訳を導入しており、さらにヒメネスのポポル・ブ フの翻訳を詳細に検討することが不可能なことから、その翻訳は非常に不誠実で、修道士が高い割合で訳を省略していると結論づけた。この発見は、ポポル・ブ フの最初の1180行を、修道士が作成した2つのスペイン語版と徹底的に比較分析した結果である。また、『ポポル・ブフ』が西洋的な発想で書かれた書物であることは、その構成の統一性から、物語の収集者が一人であるとする根拠があることも指摘されている(5)。批評家は、ヒメネスがどの程度テキストと相互作用したかは十分に確立されておらず、最初のフォリオ・レクトに含まれるアイデアのいくつかは、完全に土着のものではないと確認できると結論づけた。 |
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Otras obras Existen otros dos manuscritos del fraile Ximénez: Tesoro de las lenguas Cakchiquel, Quiché y Tzutujil, en que las dichas lenguas se traducen en la nuestra española e Historia natural de la provincia de San Vicente de Chiapas y Guatemala.6 |
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Francisco Jiménez de
Cisneros, OFM (1436 – 8 November 1517), spelled Ximenes in his own
lifetime, and commonly referred to today as simply Cisneros, was a
Spanish cardinal, religious figure, and statesman.[Note 1] Starting
from humble beginnings he rose to the heights of power, becoming a
religious reformer, twice regent of Spain, Cardinal, Grand Inquisitor,
promoter of the Crusades in North Africa, and founder of the Alcalá
University. Among his intellectual accomplishments, he is best known
for funding the Complutensian Polyglot Bible, the first printed
polyglot version of the entire Bible. He also edited and published the
first printed editions of the missal (in 1500) and the breviary (in
1502) of the Mozarabic Rite, and established a chapel with a college of
thirteen priests to celebrate the Mozarabic Liturgy of the Hours and
Eucharist each day in the Toledo Cathedral. Cardinal Cisneros' life coincided with, and greatly influenced, a dynamic period in the history of Spain during the reign of Ferdinand II of Aragon and Isabella I of Castile. During this time Spain underwent many significant changes, leading it into its prominent role in the Spanish Golden Age (1500–1700). Modern historian John Elliott said as far as any particular policies that can be attributed to Spain's rise, they were those of King Ferdinand and Cardinal Cisneros.[1] |
フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス(1436-1517)は、ス
ペインの枢機卿、宗教家、政治家である[注
1]。彼の知的業績の中で最もよく知られているのは、聖書全体を初めて印刷した多言語版である『コンプルテンシアン・ポリグロット・バイブル』に資金を提
供したことである。また、モサラビ派のミサ典礼書(1500年)とブレビアリー(1502年)の最初の印刷版を編集・出版し、トレド大聖堂で毎日モサラビ
派の時課と聖体を祝うために、13人の司祭からなる聖堂を設立しました。 シスネロス枢機卿の人生は、アラゴン家のフェルディナンド2世とカスティーリャ家のイザベラ1世の治世という、スペイン史におけるダイナミックな時代と重 なり、大きな影響を及ぼした。この時代、スペインは多くの重要な変化を遂げ、スペイン黄金時代(1500年〜1700年)の重要な役割を担うようになっ た。近代史家のジョン・エリオットは、スペインの興隆に貢献した特定の政策といえば、フェルディナンド王とシスネロス枢機卿の政策であると述べている。 |
Rise to power He was born as Gonzalo Jiménez de Cisneros in Torrelaguna in Castile in 1436, the son of hidalgos Alfonso Jiménez de Cisneros and wife María de la Torre, from the villa of Cisneros, Palencia.[2] He studied in the Studium generale at Alcalá de Henares and also at Salamanca, where in 1456 he obtained a bachelor's degree in law. In 1459 he traveled to Rome to work as a consistorial advocate, where he attracted the notice of Pope Pius II. He returned to Spain in 1465 carrying an "executive" letter from the Pope giving him possession of the first vacant benefice. That turned out to be Uceda. However, Alfonso Carrillo de Acuña, the Archbishop of Toledo and Primate of Spain, refused to accept the letter, wishing instead to bestow the benefice upon one of his own followers. When Cisneros insisted, he was thrown in prison, first at Uceda and afterwards in the fortress of Santorcaz.[3] For six years, Cisneros held out for his claim, free to leave at any time if he would give it up, but at length in 1480 Carrillo relented at Cisneros' strength of conviction and gave him a benefice. Fearing further reprisals, Cisneros traded it almost at once for a chaplaincy at Sigüenza, under Cardinal Pedro González de Mendoza, the bishop of Sigüenza, who shortly after appointed him vicar general of his diocese.[4] At Sigüenza, Cisneros won praise for his work and he seemed to be on the sure road to success among the secular clergy, when in 1484 at the late age of forty-eight he abruptly decided to become a Franciscan friar. Giving up all his worldly belongings, and changing his baptismal name, Gonzalo, for that of Francisco, he entered the Franciscan friary of San Juan de los Reyes,[2] recently founded by Ferdinand II of Aragon and Isabella I of Castile at Toledo. Not content with the normal lack of comforts for a friar, he voluntarily slept on the bare ground, wore a cilice, doubled his fasts, and generally denied himself with enthusiasm; indeed throughout his whole life, even when at the height of power, his private life was rigorously ascetic.[4] He retired to the isolated friary of Our Lady of Castañar and built a rough hut in the neighboring woods, in which he lived at times as an anchorite, and later became guardian of a friary at Salzeda.[3] Meanwhile, Mendoza (now Archbishop of Toledo) had not forgotten him, and in 1492 recommended him to Isabella as her confessor. Jiménez accepted the position on condition that he might still live in his community and follow the religious life, only appearing at court when sent for. The post was politically important, for Isabella took counsel from her confessor not only in religious affairs but also matters of state. Isabella's Alhambra Decree, which expelled the Jews from Spain, followed almost immediately upon Cisneros' appointment as her confessor.[5] Cisneros' severe sanctity soon won him considerable influence over Isabella, and in 1494 he was appointed Minister Provincial of the order for Spain.[4] Cardinal Mendoza died in 1495, and Isabella had secretly procured a papal bull nominating Cisneros to Mendoza's Archdiocese of Toledo, the richest and most powerful in Spain.[4] With this office was also given the office of chancellor of Castile. Isabella tried to surprise him by presenting the bull as a gift in person, but Cisneros did not react as she had hoped. Instead, he fled her presence, and ran away, only to be overtaken by Isabella's messengers several miles outside of Madrid and convinced to return to court for further discussion. Cisneros resisted the appointment for six months and reluctantly agreed only after a second papal bull ordered him to accept.[6] Despite his lavish new position, Cisneros personally still maintained a simple life; although a message from Rome required him to live in a style befitting his rank, the outward pomp only concealed his private asceticism.[4] |
権力の獲得 1436年、カスティーリャのトレラグーナでゴンサロ・ヒメネス・デ・シスネロスとして、パレンシアのシスネロス荘のイダルゴス、アルフォンソ・ヒメネ ス・デ・シスネロスと妻マリア・デ・ラ・トーレの息子として生まれた[2]。 アルカラ・デ・エナーレスの一般教養学校とサラマンカで学び、1456年に法律の学士号を取得する。1459年、ローマに渡り、盟約者団の弁護人として働 き、教皇ピウス2世に注目される。1465年にスペインに戻った彼は、教皇からの「行政」書簡を携えて、空いた最初の聖職を手に入れる。それがウセダであ ることが判明した。しかし、トレド大司教でスペイン総督のアルフォンソ・カリーリョ・デ・アクーニャは、この手紙を受け取ることを拒否し、代わりに自分の 信奉者に恩寵を与えることを望んだ。シスネロスが主張すると、最初はウセダで、その後はサントルカスの要塞で牢獄に入れられた[3]。6年間、シスネロス は自分の主張を貫き、もしあきらめるならいつでも出て行けるようにしたが、1480年にカリージョはシスネロスの信念の強さに折れ、彼に恩賞を与えること になった。さらなる報復を恐れたシスネロスは、それをほぼ即座にシギュエンツァの司教ペドロ・ゴンサレス・デ・メンドーサ枢機卿の下での司祭職に交換し、 まもなく彼はその教区の総司令官に任命された[4]。 シグエンサでは、シスネロスの仕事は賞賛され、世俗の聖職者の間で成功への道を歩み始めたかに見えたが、1484年に48歳という遅い年齢で突然フランシ スコ会修道士になることを決意する。すべての財産を手放し、洗礼名ゴンサロをフランシスコに変え、アラゴン家のフェルディナンド2世とカスティーリャ家の イザベラ1世がトレドに設立したばかりのサン・フアン・デ・ロス・レイエス修道院[2]に入りました。修道士としての通常の快適さの欠如に満足することな く、彼は自ら裸で寝、繊毛をつけ、2倍の断食をし、概して熱心に自分を否定した。実際、彼の生涯を通じて、権力の絶頂期にあったときでさえ、彼の私生活は 厳格な禁欲的なものだった[4]。 一方、メンドーサ(現トレド大司教)はヒメネスのことを忘れておらず、1492年、イザベラに告解師として推薦した。ヒメネスは、その後も自分の共同体に 住み、修道生活を送り、宮廷に呼ばれた時だけ顔を出すという条件で、その地位を得た。イザベラは宗教上の問題だけでなく、国家的な問題についても告解者か ら助言を受けたため、この地位は政治的に重要なものであった。イサベラのアルハンブラ令は、スペインからユダヤ人を追放するもので、シスネロスが枢機卿に 任命されるとほぼ同時に行われた[5]。シスネロスの厳しい聖性はすぐにイサベラに大きな影響を与え、1494年にスペインにおける教団の地方大臣に任命 された[4]。 1495年にメンドーサ枢機卿が死去すると、イザベラは密かにシスネロスをメンドーサのトレド大司教区(スペインで最も裕福で権力のある)に指名する教皇 勅書を調達した[4]。 この役職にはカスティーリャ大司教の地位も与えられていた。イザベラは直接雄牛を贈って驚かせようとしたが、シスネロスは期待したような反応を示さなかっ た。しかし、シスネロスは期待したような反応を示さず、彼女の前から逃げ出し、マドリードから数マイル離れたところでイザベラの使者に追いつかれ、宮廷に 戻ってさらに議論するよう説得された。シスネロスは6ヶ月間この任命に抵抗し、2度目の教皇庁の勅令によってしぶしぶ承諾した[6]。 豪華な新しい地位にもかかわらず、シスネロス自身は依然として質素な生活を送っていた。ローマからのメッセージによって、地位に見合ったスタイルで暮らす よう求められたが、外見の華やかさによって彼の私的な禁欲主義が隠されただけであった[4]。 |
Reform, revolt, and crusade From his new position Cisneros set about reforming the Franciscan order in Spain. The ordained friars had to become celibate, giving up the practice of concubinage. They had to reside in the parish where they were supposed to work, attend confession, and preach every Sunday. There was intense opposition. By 1498 the reforms were expanded to include not only Franciscans but other mendicant orders as well.[2] The Minister General of the order himself came from Rome to attempt to temper the archbishop's strict reforms, but Cisneros, backed by the influence of a strong Queen, managed to impose them. In 1499 Cisneros accompanied the court of the Spanish Inquisition to Granada, and there interfered with Hernando de Talavera's efforts to peacefully convert its Muslim inhabitants to Christianity. Talavera favored slow conversion by explaining to the Moors, in their language, the truths of the Catholic religion, but Cisneros said that this was "giving pearls to pigs", and proceeded with forced mass conversion. He ordered the public burning of all Arabic manuscripts that could be found in Granada — 5,000 is the lowest figure the contemporary sources give — except those dealing with medicine.[5] The indignation of the unconverted Mudéjares (i.e., Iberian Muslims living in Christian territories) over this gross violation of the Alhambra treaty swelled into the open revolt known as the First Rebellion of the Alpujarras. The revolt was violently suppressed and they were given a choice — contrary to the terms of Granada's surrender — of baptism or exile. The majority accepted baptism and by 1500 Cisneros reported that "there is now no one in the city who is not a Christian, and all the mosques are churches".[7] However, he had created a problem that would only end with the expulsion from Spain of Moriscos in 1609. On 26 November 1504 Isabella died. Ferdinand claimed regency against his son-in-law Philip I of Castile, and Cisneros helped mediate the dispute in the Agreement of Villafafila which left Philip as king of Castile.[8] When Philip died in 1506, Ferdinand was in Naples and Cisneros set up a regent government in his absence, and stopped a plot by a group of high nobles to take over the throne. In return for his loyalty, Ferdinand made Cisneros Grand Inquisitor for Castile and León in 1507 and prevailed on the Pope to give him a Cardinal's hat. The next great event in the cardinal's life was the attack against the Moorish city of Oran in North Africa, in which his religious zeal coincided with Ferdinand's prospect for political and material gain. A preliminary expedition, equipped at Cisneros' expense, captured the port of Mers El Kébir in 1505. In 1509, a strong force accompanied by the cardinal in person set sail for Africa, and in one day the wealthy city was taken by storm.[9] Cisneros returned to Spain and attempted to recover from Ferdinand the expenses of the expedition, but Ferdinand was content with taking Oran and because of his greater interest in Italy he would not support Cisneros' plans for a larger North African crusade and conquest. |
改革、反乱、十字軍 シスネロスは、新しい立場から、スペインのフランシスコ会の改革に着手した。聖職に就いた修道士は独身になり、妾腹の習慣を捨てなければならなかった。ま た、毎週日曜日に説教をし、告解を受け、働くべき教区に住まなければならなかった。激しい反対運動があった。1498年には、改革はフランシスコ会だけで なく、他の托鉢修道会にも拡大された[2]。修道会の大臣が自らローマからやってきて、大司教の厳しい改革を緩和しようとしたが、シスネロスは強い女王の 影響を受けて、何とかそれを押し通すことができた。 1499年、シスネロスはスペイン異端審問の法廷に同行してグラナダを訪れ、そこでイスラム教徒の住民をキリスト教に平和的に改宗させようとするエルナン ド・デ・タラベーラの努力を邪魔した。タラベラはムーア人に彼らの言葉でカトリックの真理を説明し、ゆっくりと改宗させることを好んだが、シスネロスはこ れを「豚に真珠を与える」ことだと言い、強制的な集団改宗を進めた。彼はグラナダで見つけられたすべてのアラビア語の写本(同時代の資料では5000枚が 最低の数字である)を、医学に関するものを除いて公開焼却するよう命じた[5]。 このアルハンブラ条約に対する重大な違反に対して、改宗していないムデハレス(キリスト教領に住むイベリア半島のイスラム教徒)の憤りは、アルプハーラの 第一次反乱と呼ばれる公然の反乱に膨れ上がっていった。この反乱は激しく鎮圧され、彼らはグラナダの降伏条件に反して、洗礼か追放かの選択を迫られること になった。1500年、シスネロスは「今や市内にキリスト教徒でない者はおらず、すべてのモスクが教会になった」と報告した[7]。しかし、彼は1609 年のモリスコ人のスペインからの追放によってのみ終わる問題を作り出したのである。 1504年11月26日、イザベラが死去。フェルディナンドは義理の息子であるカスティーリャ王フィリップ1世に対して摂政を要求し、シスネロスはこの争 いを調停するためにビラファフィラ協定を結び、フィリップをカスティーリャ王として残した[8] 。 1506年にフィリップが死ぬとフェルディナンドはナポリにいたため、シスネロスは不在中に摂政を立ち上げ、貴族グループによる王位継承の計画を食い止め た。フェルディナンドはその忠誠の見返りとして、1507年にシスネロスをカスティーリャとレオンの大審問官に任命し、ローマ教皇を説き伏せて枢機卿の帽 子を授けさせた。 枢機卿の人生における次の大きな出来事は、北アフリカのムーア人の都市オランに対する攻撃であった。この攻撃では、彼の宗教的熱意とフェルディナンドの政 治的・物質的利益の見込みとが一致した。シスネロスの費用で装備された予備隊は、1505年にメルス・エル・ケビル港を占領した。1509年、枢機卿が自 ら率いる強力な部隊がアフリカに向けて出航し、1日で富裕な都市を嵐に巻き込んだ[9]。 シスネロスはスペインに戻り、フェルディナンドから遠征の費用を回収しようとしたが、フェルディナンドはオランを奪うことで満足し、イタリアへの関心が高 かったため、シスネロスの計画する北アフリカの十字軍と征服は支持されなかった。 |
Final years On 23 January 1516 Ferdinand died, leaving Cisneros as regent of Castile for Charles (afterward Charles V, Holy Roman Emperor), then a youth of sixteen in the Netherlands. Though Cisneros at once took firm hold of the reins of government, and ruled in a determined and even autocratic manner, the turbulent Castilian nobility and the jealous intriguing Flemish councilors for Charles combined to render Cisneros' position peculiarly difficult. Cisneros acceded to Charles' desire to be proclaimed king; he secured the person of Charles' younger brother Ferdinand (afterward Ferdinand I, Holy Roman Emperor); he fixed the seat of the courts at Madrid; and he established a standing army by drilling the citizens of the major towns.[9] During his regency, he dealt with the Spanish conquest of Navarre. He is remembered for ordering the demolition of most of the fortresses of Navarre (e.g., the Castle of Xavier, home to Francis Xavier's family) aimed at dampening any spirits of resistance and thwarting future rebellions against Spanish occupation. In September 1517, Charles landed in Laredo (Cantabria), and Cisneros hastened to meet him. On the way, however, Cisneros fell ill (it has been speculated[by whom?] he may have been poisoned). While thus enfeebled, he received a letter from Charles coldly thanking him for his services, and giving him leave to retire to his diocese. A few hours after this dismissal (which some[who?] say the cardinal did not have time to learn about), Cardinal Cisneros died at Roa, on 8 November 1517.[9] |
晩年 1516年1月23日、フェルディナンドは死去し、シスネロスは、当時16歳の若者だったオランダのカレル(後の神聖ローマ皇帝カレル5世)のためにカス ティーリャの摂政を務めることになった。シスネロスはすぐに政権の手綱をしっかりと握り、独裁的とさえ言えるような統治を行ったが、乱世のカスティーリャ 貴族と嫉妬深いフランドル人の枢機卿たちがシスネロスの立場を特別に難しくさせた。シスネロスは、シャルルが国王になることを望むのを受け入れ、シャルル の弟フェルディナンド(後の神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世)を確保し、法廷をマドリードに置き、主要都市の市民を訓練して常備軍を設立した[9] 。彼はナバラのほとんどの要塞(フランシスコ・ザビエルの一族が住んでいたザビエル城など)の取り壊しを命じ、抵抗の気運をそぎ、スペインの占領に対する 将来の反乱を阻止することを目的としていたことで知られている[9]。 1517年9月、シャルルがラレード(カンタブリア州)に上陸すると、シスネロスは急いでシャルルを出迎えに行った。しかし、その途中、シスネロスは病に 倒れた(毒を盛られたのではないかと[誰が]推測している)。このように衰弱していた彼のもとに、シャルルから冷たく礼を言い、自分の教区に引き揚げるよ うにとの手紙が届いた。この解任の数時間後(枢機卿がそれを知る暇もなかったとする[誰?])、1517年11月8日にロアにてシスネロス枢機卿は死去し た[9]。 |
Influences Cardinal Cisneros was a bold and determined statesman. Described as stern, fanatical and inflexible even by the harsh standards of his time, with a confidence that became at times overbearing, he carried through what he had decided to be right, with little regard for the convenience of others or for himself. He was seen as incorruptible, and founded and maintained numerous benevolent institutions in his diocese. His whole life was devoted either to the state or to religion; and his only recreation was in theological or scholastic discussion.[9] The university at Alcalá de Henares was founded in 1500 and opened in 1508. The university, raised at the sole expense of and fostered by Cardinal Cisneros, attained a great reputation. At one time 7,000 students met within its walls. All the religious orders in Spain, except the Benedictines and Hieronymites, established houses at Alcalá in connection with it.[3] In 1836 the university, with falling enrollments and in some disarray, was moved to Madrid, renamed the Universidad Complutense de Madrid ("Complutense" means "from Alcalá", whose Latin name is Complutum), and the buildings in Alcalá de Henares were left vacant until the creation of the modern University of Alcalá de Henares in 1977. Cisneros published religious treatises by himself and others. He also revived the Mozarabic liturgy, and endowed a chapel in Toledo where it was to be used.[9] He is well known for his sponsorship of the Complutensian Polyglot, the first printed polyglot translation of the Bible, in which three different versions of the Old Testament were put in parallel columns – Greek, Latin, and Hebrew – with the Aramaic text of Targum Onkelos and its own Latin translation added at the bottom, so that readers for the first time could check all the translations simultaneously. The New Testament consisted of parallel columns of Greek and the Latin Vulgate. The text occupies five volumes, and a sixth contains a Hebrew lexicon, etc. The work commenced in 1502. The New Testament was finished in January 1514, and the whole in April 1517. The book was dedicated to Pope Leo X. Cisneros died months after it was completed and did not live to see it published. In 1884, Spanish colonists commemorated Cisneros by founding Villa Cisneros, now Dakhla, Western Sahara. |
影響力 シスネロス枢機卿は、大胆で断固とした政治家であった。当時の厳しい基準から見ても、厳格で狂信的、融通が利かないと言われ、時には威圧的なまでの自信を 持ち、自分が正しいと判断したことは、他人の都合も自分の都合も顧みず、やり遂げた。潔癖症といわれ、教区内に多くの慈善団体を設立し、維持した。彼の全 生活は国家か宗教に捧げられ、唯一の娯楽は神学やスコラ学の議論であった[9]。 アルカラ・デ・エナレスの大学は1500年に設立され、1508年に開校した。この大学は、シスネロス枢機卿の費用負担で設立され、大きな評判を得た。一 時は7,000人もの学生が集まっていた。1836年に大学はマドリードに移転し、コンプルテンセ・デ・マドリード大学(「コンプルテンセ」は「アルカラ 出身」の意、ラテン語名はComplutum)と改名され、アルカラ・デ・エナーレスの建物は1977年に現代のアルカラ・デ・エナーレス大学が創設され るまで空き家のままであった。 シスネロスは、自身や他の人々による宗教的な論説を出版した。また、モサラビ派の典礼を復活させ、トレドにその典礼が使われる礼拝堂を寄贈した[9]。 旧約聖書は、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の3種類の翻訳を並列に並べ、その下にオンケロス語のアラム語とそのラテン語訳を付け、読者が初めてすべて の翻訳を同時に確認できるようにしたもので、初の多言語印刷聖書『コンプルテンシアン・ポリグロット』を主催したことで知られる[9]。新約聖書は、ギリ シア語とラテン語ヴルガートの並列列で構成されている。本文は5巻で構成され、6巻目にはヘブライ語の辞書などが収められている。作業は1502年に開始 された。新約聖書は1514年1月に完成し、全体は1517年4月に完成した。この本は教皇レオ10世に捧げられたが、シスネロスは完成後数ヶ月で亡くな り、出版されるのを見ることはなかった。 1884年、スペイン人入植者たちは、シスネロスを記念して、現在の西サハラ州ダクラにヴィラ・シスネロスを設立した。 |
University of Alcalá de Henares or Complutense University. | |
https://en.wikipedia.org/wiki/Francisco_Jim%C3%A9nez_de_Cisneros |
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