かならずよんで ね!

真理は円形にあらず楕円形である(内村鑑三)

The Truth is not round but elliptical form (ellipse)

池田光穂

内村鑑三Uchimura Kanzō, 1861-1930)という男について

「万延2年(1861年)、高崎藩 士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言われる[注 1][3]。 慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。……明治 6年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。この時の同級生に後の日本銀行総裁の三島弥太郎がいる。有馬学校で1年学んだ後、東京外 国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、末松謙澄、天野為之、佐藤昌介らがいた。後の首相・加藤高明は一級に在籍していた。この学校で教師の M・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、杉田玄端から治療を受けた。一年遅れたこと により、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れ た。……明治10年(1877年)4月に東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、東京英語学校を修了すれば東京大学への進学が認められることになっ た。しかし、内村が入学して3年後の明治9年(1876年)、北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。内村は、北海道開拓使の 役人の演説と官費生の特典に心を動かされて、経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する[注 2]。 札幌へ旅立つ前に、東京の芝で1ヶ月の合宿をした。その時、東京大学予備門時代の同級・新渡戸稲造、宮部金吾、岩崎行親らと立行社というグループを結成し た。内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークら、いわゆるお雇い外国人の強い感化力によって第一 期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、つ いにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられる[5]。内村はヨナタンというクリスチャンネームを 自ら付けた。当時札幌には教会がなかったので、彼らは牧師の役を交代で務めた。そうして毎日曜日の礼拝を学内で開き、水曜日には祈祷会を開いていた。改宗 することによって、若い内村は神社を見るたびに頭を下げずに済むようになったことを喜んだ。明治11年(1878年)6月2日には、アメリカ・メソジスト 教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真 摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンド() という。在学中、内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業した[6]。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3 人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取 ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。勤務の傍ら、札幌に教会を立て、それを独立させることに奔走した。翌年に南2 条西6丁目の古い家屋を購入して、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。また、明治14年(1881年1)0月に結成された札幌YMCAの副 会長になった。……明治16年(1883年)夏に安中教会を訪問した時に知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って明治17年(1884年)3月28 日に結婚した。しかし、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている[8][9]。浅田タケとの結婚が破局した後、両親と友 人の勧めにしたがって、明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡り、11月24日にサンフランシスコに到着する。拝金主義、人種差別の流布したキリ スト教国の現実を知って幻滅する。渡米後に何のあても持っていなかった内村は、メリマン・ハリス夫人によりミデヤの叔父の家を紹介された。ペンシルベニア 州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い、そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務す ることになる。……1885年(明治18年)ころ、札幌農学校同期の新渡戸稲造また、佐伯理一郎とともにフィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒のウィスター・モリスと親交を持つ。……内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリン夫人はユニテリアンでハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマーストのアマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーJulius Hawley Seelye) の下で伝道者になる道を選んだ。在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20 年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州のハートフォード神学校(Hartford Seminary)に入学するが、神学教育に失望し、1888年(明治21年)1月まで学業を続けたが退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国。」

●内村の宇宙観

真理は円形にあらず、楕円形(だえんけい)であ る。  一個の中心の周囲に描かるべ きものにあらずして、  二個の中心の周囲に描かるべきものである。 あたかも地球その他の遊星の軌道のごとく、 一個の太陽の周囲に運転するにかかわらず、 中心は二個あ りて、その形は円形にあらずして楕円形である。 有名なるアインシュタインの説によ れば、 宇宙そのものが円体にあらずして楕円形であるという。 人は何事によらず円満と称して円形を要求するが、 天然は人の要求に応ぜずして楕円形を採るはふしぎである。 楕円形は普通にこれをいびつと言う。 曲がった円形である。 決してうるわしきものではない。 しかるに天然は人の理想に反して、 まる形よりも、いびつ形を選ぶという。  ふしぎでないか。 そして真理は曲がり形(なり)のいびつ、 すなわち楕円形であるとわれらは言うのである。 すなわち、その中心は二個であって、一個にあらずと言うのである。 哲学的に言えば、物と霊とがある。 エキステンションとソートである。 万物に二方面があって、一は全く他とその素質を異にする。 もし思想の上より言うならば、 万物ことごとく物なりと言い得るならば、 説明はいたって簡単になり、 円満なる哲学を組み立つることができるが、 しかしながら、事実としての霊の存在を拒むことあたわざるがゆえに、 ここに問題は複雑になるのである。 万物を霊と見るも同じである。 物の存在を否定するあたわざるがゆえに、 いわゆる霊的哲学を組み立つることができない。 デカルトをもって始まり、 スピノザ、ライプニツ、カントを経て今日に至るも、 この根本問題を円満に解決することができない。 古い禅宗の歌に、 「麻糸の長し短しむずかしや有無の二つをいかに判別(わか)たん」 というのがあるが、そのごとくに、 物と霊とを判別し、物をもって霊を説明せんとするは、 霊をもって物を説明せんとするがごとくに難(かた)くある。 しかり、不可能に見える。 しかし難くあればとて哲学者は問題を放棄しない。 そして哲学の進歩はここに原因する。  すなわち楕円形的の真理の内に 真理の深味と興味とがあるのである。 真理は単純であると言いて、 簡単に容易に説明することはできない。 円満なる哲学は常に疑わしい哲学である。 いわゆる「頭脳(あたま)の内によくはいる哲学」は、 はなはだ怪しい哲学である。 哲学も科学と同じく 思索的(スペキュレチーブ)であってはならぬ。 叙述的(デスクリプチーブ)であらねばならぬ。 真理は一個中心の円形にあらずして、 二個中心の楕円形であるからである。   宗教においても同じである。 宗教も円形にあらずして楕円形である。 その中心は一 個にあらずして二個である。 ただにその教義より見るも、 そのしかるを見る。 宗教は神と人とである。 神のみでない、また人である。 人のみでない、また神である。 宗教を単に神学と解し、 神を知ること、これ宗教であると言うならば、 問題はいたって簡単であるが、 事実はしからずである。 キリストは神であって、また人である。 ユニテリアン教のように、 キリストは神にあらずして人なりと言えば、 説明は簡単、明瞭であるが、 人は全体にその説明をもって満足しない。 キリストの人たるは疑わないが、 彼にまた神らしきところがある。 彼は同時に人であってまた神である。 説明は円満を欠く。 解するに、いたって難い。 しかし事実なるをいかんせん。 われらは不可解と承知しつつキリストの神人両性を信ずる。 頭脳に彼を受くるは難いが、 心は彼をもって満足する。 しかり、彼ならずば満足しない。   その実際的方面において、 宗教は慈愛と審判である。 愛と義である。 愛のみではない、また義である。 義のみではない、また愛である。 一中心ではない、二中心である。 円形ではない。楕円形である。 もし宗教が義のみであるならば、 これをおこのうはいたって容易である。 愛のみであるならばまたしかりである。 宗教を実行するの困難は、 それが愛であって同時にまた義であるからである。 忠ならんと欲すれば孝ならず、 孝ならんと欲すれば忠ならずというと同じジレンマにあると同じく、 愛と義とを同時に全うするは、 忠孝両道を同時に全うすると同様に困難である。 されども信仰的生活において、 このジレンマはまぬかるべからざるものである。 われら完全(まった)からんと欲せば、 このジレンマの内に完全からねばならぬ。 実につらいことである。 されども人生の事実であるがゆえに、やむを得ない。 今の教会信者のごとくに、 「神は愛なり」とのみ解して、 「神は義なり」との明白なる教えに耳を傾けざるならば、 事はいたって簡単であるが、 人生の事実はこれを裏切りて、 弊害百出して愛は愛ならざ るに至るは、 教会現在の状態が証し得て余りがある。(略)   真理は二中心である、 一中心にあらず、楕円形である、 円形にあらずと言うならば、 人は言うであろう、 「それは二元説であって、一元説でない。 そして二元説は哲学論としても常に不完全の証拠である。 人はおのずから一元説を必要とする。 思想的に二元説をもって満足することはできない」と。 余輩といえども、よくこの事を知る。 されども満足に二種類ある。 思想の満足と事実の満足と、これである。 そして思想の満足は必ずしも事実の満足でない。 そこに人生の困苦(くるしみ)がある。 そして困苦の内に進歩と発達と、 最後に永遠の平和とがあるのである。 これを義と愛との対照について見んか、 真剣に生涯を送らんと欲する者は何ぴとも、 その調和に苦しまざるを得ない。 これを思想の上に調和せんとするは不可能である。 されども人生の長き実験において調和点を発見する。 されども実験的に調和するのであって、 思想的にするのでない。 そしてキリスト信者の場合において、 彼は義と愛との調和を、 キリストの十字架において認むるのである。 「憐憫(あわれみ)と真実(まこと)と共に合い、義と平和と互いに口づけせり」 (詩篇85/10) との理想は、キリストの十字架において実現されたのである。  義の神がいかにして罪人を罰せずしてゆるさんかとは、 神御自身にとり至難の問題であった。 そして神はこの問題をキリストの十字架をもって美事に解決したもうた。 すなわちパウロが言えるごとし。 「イエスを信ずる者を義とし、なお自ら(御自身)義たらんためなり」 (ロマ書3/25-26) と。すなわちイエスにおいて、 神の憐憫(慈愛)と真実(公義に基づける審判の精神) とが合体したのである。 義と平和とが互いに口づけしたのである。 忠孝両道が全うせられしがごとくに、 義と愛とが完全に調和したのである。 されども調和は実験的であって思想的でない。 思想的にはキリストは依然として「つまずきの石」である。 信者は十字架の救いを実験するのであって、 解得したのではない。 彼は実験をもって理論を超越したのである。 真理は意地悪くも依然として楕円形であって円形でない。 われらは理解(わか)らざるに理解らんと欲し、 苦戦、奮闘して、ついに人生の実験に解決以上の解決を得るのである すなわち真理は実得すべきものであって、 理解し得べきものでない。それゆえに貴いのである。(略)   彼はただの「やさしいイエス様」でなかった。 彼はラザロの墓に涙を流したまえり といえども、また「悪魔よ、後ろに退け」と言いて、 弟子ペテロを叱咤したもうた。 (略)そして主がそうであったから弟子もまた、そうである。(略) 人は使徒ヨハネを特別に「愛の使徒」というが、 しかし12使徒のうちに実はヨハネほど、こわい人はなかった。(略) 愛することと、はなはだしく憎むこと、 はなはだしきがヨハネの特性であった。 彼がもし今日のキリスト教会に現われたならば、 彼は激烈に、監督、牧師、伝道師を初めとして 信者一同に排斥せらるるであろう。 使徒ヨハネはイエスのふところにあって、 最もよくイエスの心を知りし者であった。 ゆえに、よく愛して、よく憎んだ。 彼にありて、愛と義とは最もよく発達した。(略) 何事にも限らず円満を要求するが、 まちがいの始めである。 真理は円形にあらず、楕円形である。(略)   地球その他の遊星の軌道は楕円形である、 宇宙は楕円体であるという。 真理もまた二元的であって、 円満に解決し得るものでない。 患難の坩堝(るつぼ)の内に燃え尽くす火に 鍛えられて初めて実得し得るものである。 ここにおいて知る、教会も神学校も、 法王も監督も神学博士も、われに用なきことを。 まことにありがたいことである」 。

内村鑑三著 『聖書之研究』より:テキスト出典は、https://ameblo.jp/shalom1313/entry-11690021406.html です。

●ユニテリアン主義(Unitarianism)

「キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と 子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称をいう。ユニテリアンはイエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越 性は否定する。キリスト教正統派の中心教義を否定しているため、正統派キリスト教とは区別される。ユニテリアンの思想的先駆者はソッツィーニ派Socinianism)、およびその 一団でポーランド王国で1556年1月22日に活動を開始し、のちにポーランド・リトアニア共和国で広まったポーランド兄弟団(Polish Brethren) である。彼らはユニテリアンの思想を確立していたが、「ユニテリアン」という用語はしばらくの間使用しなかった。これとは別に、1567年にトランシル ヴァニア(当時はハンガリー王国で現在はルーマニア)で「ユニテリアン」を自称する教団が成立している。ポーランド兄弟団はこのあともしばらく「ユニテリ アン」の用語を使用しなかったが、これは世の中にトランシルヴァニアでの宗教運動と自分たちの運動とを内容的に混同されることを避けたものと推測されてい る」ユニタリアニズム

"Unitarianism (from Latin unitas "unity, oneness", from unus "one") is a Christian theological movement named for its belief that the God in Christianity is one person, as opposed to the Trinity (tri- from Latin tres "three") which in many other branches of Christianity defines God as three persons in one being: the Father, Son, and Holy Spirit. Unitarian Christians, therefore, believe that Jesus was inspired by God in his moral teachings, and he is a savior, but he was not a deity or God incarnate. As is typical of dissenters, Unitarianism does not constitute one single Christian denomination, but rather refers to a collection of both extant and extinct Christian groups, whether historically related to each other or not, which share a common theological concept of the oneness nature of God."- Unitarianism.

''To make my country as strong as Europe or America," was the prime aim of my life, and I welcomed Christianity as I thought it a great engine for carrying out this design. -Kanzo Uchimura, from his diary Jan. 25,1885

●三位一体のイデオロギーは381年の「ニカイア・ コンスタンティノポリス信条」から

"Πιστεύω εἰς ἕνα Θεόν, Πατέρα, Παντοκράτορα, ποιητὴν οὐρανοῦ καὶ γῆς, ὁρατῶν τε πάντων καὶ ἀοράτων. Καὶ εἰς ἕνα Κύριον Ἰησοῦν Χριστόν, τὸν Υἱὸν τοῦ Θεοῦ τὸν μονογενῆ, τὸν ἐκ τοῦ Πατρὸς γεννηθέντα πρὸ πάντων τῶν αἰώνων• φῶς ἐκ φωτός, Θεὸν ἀληθινὸν ἐκ Θεοῦ ἀληθινοῦ, γεννηθέντα οὐ ποιηθέντα, ὁμοούσιον τῷ Πατρί, δι' οὗ τὰ πάντα ἐγένετο. Τὸν δι' ἡμᾶς τοὺς ἀνθρώπους καὶ διὰ τὴν ἡμετέραν σωτηρίαν κατελθόντα ἐκ τῶν οὐρανῶν καὶ σαρκωθέντα ἐκ Πνεύματος Ἁγίου καὶ Μαρίας τῆς Παρθένου καὶ ἐνανθρωπήσαντα. Σταυρωθέντα τε ὑπὲρ ἡμῶν ἐπὶ Ποντίου Πιλάτου, καὶ παθόντα καὶ ταφέντα. Καὶ ἀναστάντα τῇ τρίτῃ ἡμέρα κατὰ τὰς Γραφάς. Καὶ ἀνελθόντα εἰς τοὺς οὐρανοὺς καὶ καθεζόμενον ἐκ δεξιῶν τοῦ Πατρός. Καὶ πάλιν ἐρχόμενον μετὰ δόξης κρῖναι ζῶντας καὶ νεκρούς, οὗ τῆς βασιλείας οὐκ ἔσται τέλος. Καὶ εἰς τὸ Πνεῦμα τὸ Ἅγιον, τὸ κύριον, τὸ ζωοποιόν, τὸ ἐκ τοῦ Πατρὸς ἐκπορευόμενον, τὸ σὺν Πατρὶ καὶ Υἱῷ συμπροσκυνούμενον καὶ συνδοξαζόμενον, τὸ λαλῆσαν διὰ τῶν προφητῶν. Εἰς μίαν, Ἁγίαν, Καθολικὴν καὶ Ἀποστολικὴν Ἐκκλησίαν. Ὁμολογῶ ἓν βάπτισμα εἰς ἄφεσιν ἁμαρτιῶν. Προσδοκῶ ἀνάστασιν νεκρῶν. Καὶ ζωὴν τοῦ μέλλοντος αἰῶνος. Ἀμήν"- πηγή  .

"Credo in unum Deum, Patrem omnipotentem, factorem caeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium. Et in unum Dominum Jesum Christum, Filium Dei unigenitum, et ex Patre natum ante omnia saecula. Deum de Deo, Lumen de Lumine, Deum verum de Deo vero, genitum non factum, consubstantialem Patri; per quem omnia facta sunt. Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis. Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine, et homo factus est. Crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato, passus et sepultus est, et resurrexit tertia die, secundum Scripturas, et ascendit in caelum, sedet ad dexteram Patris. Et iterum venturus est cum gloria, iudicare vivos et mortuos, cuius regni non erit finis. Et in Spiritum Sanctum, Dominum et vivificantem, qui ex Patre (Filioque) procedit. Qui cum Patre et Filio simul adoratur et conglorificatur: qui locutus est per prophetas. Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam. Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum. Et expecto resurrectionem mortuorum, et vitam venturi saeculi. Amen."

"We believe in one God, the Father, the Almighty, maker of heaven and earth, of all that is, seen and unseen. We believe in one Lord, Jesus Christ, the only Son of God, eternally begotten of the Father, God from God, Light from Light, true God from true God, begotten, not made, of one Being with the Father. Through him all things were made. For us and for our salvation he came down from heaven: by the power of the Holy Spirit he became incarnate from the Virgin Mary, and was made man. For our sake he was crucified under Pontius Pilate; he suffered death and was buried. On the third day he rose again in accordance with the Scriptures; he ascended into heaven and is seated at the right hand of the Father. He will come again in glory to judge the living and the dead, and his kingdom will have no end. We believe in the Holy Spirit, the Lord, the giver of life, who proceeds from the Father and the Son. With the Father and the Son he is worshiped and glorified. He has spoken through the Prophets. We believe in one holy catholic and apostolic Church. We acknowledge one baptism for the forgiveness of sins. We look for the resurrection of the dead, and the life of the world to come. Amen."

"わたしは信じます。唯一の神、 全能の父、 天と地、 見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。 わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。 主は神のひとり子、 すべてに先立って父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、 造られることなく生まれ、父と一体。 すべては主によって造られました。 主は、わたしたち人類のため、 わたしたちの救いのために天からくだり、 聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、 人となられました。 ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、 苦しみを受け、葬られ、 聖書にあるとおり三日目に復活し、 天に昇り、父の右の座に着いておられます。 主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。 その国は終わることがありません。 わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。 聖霊は、父と子から出て、 父と子とともに礼拝され、栄光を受け、 また預言者をとおして語られました。 わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。 罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、 死者の復活と 来世のいのちを待ち望みます。 アーメン。"-2004年2月18日 日本カトリック司教協議会.

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