芸術の終わり
End of art, End of Fine Art
Memories by Bouke de Vries
★アーサー・ダントーは 「芸術作品とは 具現化された意味である」と述べている。スタンフォード哲学百科事典(https://plato.stanford.edu/) によれば、ダントーの(芸術)定義は次のように説明されている。
「何かが芸術作品であ るのは、(i)それが主題を持ち(ii)それについて何らかの態度や観 点を投影する(スタイルを持つ)(iii)修辞的省略(通常は比喩)を用いて、省略が足りないものを埋めるために観客を参加させ、 (iv)問題の作品とその解釈には美術史的文脈が必要になる場合だけ」である。その延長上に、ダントーは「芸術」という言葉の基本的な意味 は、何世紀にも わたって何度も変化し、20世紀にも進化を続けてきた。ダントーは、ヘーゲルの弁証法的芸術史の現代版として、芸術の歴史を描いている。「誰もアートを作 らなくなったとか、良いアートが作られなくなったとか言っているわけではない」。
しかし彼[ダントー]は、
「ヘーゲルが示唆したような方法で、西洋美術のある歴史が終 焉を迎えたと考えている」ようである。「芸術の終焉」とは、芸術がもはや模倣理論の制約に従わず、新しい目的を果たす現代の芸術の時代の始まりを指してい る。芸術は「模倣の時代から始まり、イ デオロギーの時代、そして資格さえあれば何でもありの我々のポスト歴史的時代へと続く...」【Cloweny, David W. (December 21, 2009). "Arthur Danto". Rowan university. 】。私たちの物語では、最初はミメーシス(模 倣)だけが芸術で あり、次にいくつかのものが芸術であったが、それぞれが競争相手を消滅させようとし、そして最後に、様式や哲学的な制約がないことが明らかになったのであ る。芸術作品がそうでなければならない特別な方法はない。そして、それが現在であり、マスターシナリオの最後の瞬間であると言うだろう。つまり(芸術とい う)物語の終わりなのである」
【Danto, Arthur Coleman (1998). After the end of art: contemporary art and the pale of history. Princeton University Press. p. 47./ 『芸術の終焉のあと』】(→「アーサー・ダントーの芸術システム」※ クレジット「芸術の終わり、あるいはアートの終焉」)。
ダントーのレトリックはこう。芸術が終わったのではなく芸術を語る物語が(なにかをもって正当な芸術だとする)「物語」が終わったという。芸術がそうなければならないという時代は過ぎ去ったということ。
だから、バロックも、ロマン派も、ケージも、グールド流バッハも、全部、残って芸術概念の多
様性の存続(つまり時間的継続性)が担保されている。だから、アーカイブとその再現と、それについての社会的文脈に関する知識が残っていれば、これまで人
類が芸術だと考えてきたものについての自由な議論が可能になる(→「美的コミュニケーションとは?」)。
0 | アートの終焉(附論)1984年版による |
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1 |
【1】 ・アートの未来がある、アートの今後も永遠に続くだろうという、いかなる予測も空疎か? ・すくなくとも、過去の芸術評論は、未来の予測するのに失敗してきた。 ・(ちなみに「時代の未来を予言していた」という言挙げは、現時点から過去の事象を自分の都合のよいポイントを恣意的に指摘したにすぎない) ・「あらゆる画家は自らを描く」(ダビンチ) ・こういうペダンチックな言い方はアレですけど→「1910年においてわずか5年後の将来に、デュシャンの「折れた腕に備えて』のような作品が生み出され ることを予期できたかを考えてほしい」(175) |
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2 |
・予測は虚しいが、考える(思考実験であれば)のであれば、ま、いいだ
ろうという立場 ・ヘーゲルの芸術の終焉論、歴史が終わるから、芸術はおわる。 ・あるいは、芸術は歴史の後追いだから、歴史がおわれば芸術はおわる。 ・フィオーレのヨアキムの神学的レトリック——ユダヤ人は歴史的使命を終えたが、ユダヤ人がなくなることはない。 |
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3 |
・「一定の期間にわたって、歴史のエネルギーはアートのエネルギーと符
合してきた。しかし、歴史とアートはもはや別々の方向に進行しなければならない。そしてアートは、わたしが称するところの脱=歴史的な流儀で存続するであ
ろうが、その存在は、いかなる歴史的な意義もまったく持たない。さて、そうした―つのテーゼは、歴史哲学の枠組みの外では、ほとんど熟考されえない。真剣
な検討が困難となるのは、アートの未来の切迫性であろう」(175)。 ・いまは、批評家の時代ではなく、ディーラーの時代だ(彫刻家ウィリアム・タッカーの証言) |
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4-176 |
・20世紀の7,80年のアートの熱気が今後ともつづくのか?を
1984年にダントーは言うが、これは冒頭の未来不可能性のテーゼと矛盾する。 ・アートと、アートワールド |
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5 |
【2】 ・トマス・クーンの説:絵画は19世紀に抜群に進歩した。 ・進歩モデルの提唱者は、ヴァザーリ ・ゴンブリッジも継承『イメージと眼』 |
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6 |
・絵画は、視覚的なものの複製なのか?——これは模倣仮説に照応する ・チマブーエよりも、アングルのほうが進歩しているという見方 ・進歩史観は楽観主義(あはは!) |
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7 |
・ダントーの美的講釈がつづく |
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8 |
・ひきつづき進歩史観の話がすすむ |
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9-181 |
・遠近法は感覚を欺いているのか?というか?ダントーの答えは「ノー
(少しの疑問が残る)」 ・ゴンブリッジの引用が続く |
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10 |
・画像写法が2度だけ存在した(ヴァザーリ) ・1)古代ギリシャ、2)ルネサンス期のヨーロッパ ・遠近法の受容の洋の東西の違い |
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11 |
・推測を直接知覚に置き換えよ(183) ・動画メディアの問題 |
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12 |
・視点を固定化した遠近法の問題(185) |
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13 |
・彫刻(187) |
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14 |
・作曲技法のなかに、演奏家に高度な技法を要求する方法があるが、それ
は絵画において可能か?(トマス・マーク)——私(池田)にとっては瑣末な比較のように思えるが? |
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15 |
・「いずれにせよ、再現表象の進歩という観点から解釈されるアートの未
来について、少なくとも大まかに想像することはつねに可能であった。指針が何であるか、それゆえ、進歩がありうるとして、それがいかなる進歩となるべきか
については、原則的に誰もが知っていた。先見の明ある人びとは、「いつか画像は動く」という種の発言を、それがいかにして実現されるのかを知らぬままなし
えたろう」(190) ・この時点で、ここまで引っ張るか?というのが私の意見。くどすぎる。 |
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16 |
・芸術=模倣(ミメーシス)の議論をアリストテレスは拡張した。それゆ
え、ミメシスは、芸術=知覚的等価物の観念とは異なる——この説明はよくわからない。 |
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17 |
・芸術は言語を通して過不足なく説明できるのか?できないのか?という
議論は、いったい、何によって証明できるのか?ダントーは明確に言わない。 |
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18 |
・「言語には限界がないという含みを持たせたいのではなく、言いたいの
は、その限界が何であれ、その克服に向けられた進歩に数えられそうなものは皆無であるということにすぎない。なぜなら、その進歩とはひとつの表象体系とし
ての言語の内部にとどまるものとなろうから。それゆえ、進歩の概念の論理的な余地はない」(192) |
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19 |
・総括としての、アートの進歩の単線的モデル批判——そこかい?! |
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20 |
【3】 ・「わたしの歴史テーゼの裏づけについて、こう推測したい。すなわち、知覚経験の等価物を生み出すというアートの使命は、19世紀後期と20世紀初期、物 語映画の基本手法のすべてが整備されるのとまさに同時に、かの目標を画家と彫刻家が著しく放棄し始めたという事実において、絵画と彫刻の営為から映画撮影 技術のそれへと移行された」(193)——あまりにも凡庸。 |
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21-194 |
・野獣派 ・陰影をどのように「文化的に了解」するのか?(194) |
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22 |
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23 |
・情感(フィーリング)(196) ・ベネデット・クローチェは、アートが一種の言語になる、言語がコミュニケーションの一形式になると主張する(後者は常識だが)——要するに、クローチェ は、アートはコミュニケーションのひとつになる。 |
・「アー
トとコミュニケーション : 芸術人類学へのもうひとつの入り口」(OUKA) |
24 |
・再現(リプリゼンテーション)としてのアートの議論 ・模倣説よりもまだ息が長い? ・再現説の逆説は、再現をしない(現代の?)アートの登場により、再現性がアートの定義から消滅したことである(198)。 |
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25 |
・「そうなるのは、進歩する歴史がアートに備わっていると考えるいかな
る理由も、もはや存在しないからである。模倣的な再現表象の概念の場合のように、表現の概念を引っ提げて、発展的な一局面が到来する可能性は決してない。
その理由は、表現の技術に関する熟慮が欠けていることにある」(198) |
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26 |
・「さらなる要点がある。ひとたびアートが表現として理解されるや、
アート作品は究極的に、それをわたしたちが解釈しようとすれば、その制作者の精神状態へとわたしたちを派遣するものとなる。現実に所定の時代のアーティス
トたちは、ある種の表現的な語彙を共有している。良かれ悪しかれ、わたしの漫然たるデ・クーニング、エル・グレコ、そしてジャコメッティの解釈が、少なく
とも自然に思われる理由もそこにある」(199) |
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27 |
・科学史の通約不可能性の隠喩を使う |
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28 |
・おなじく、通約不可能性(201) ・われらがアートは老いさらばえて、未来がない(202) |
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29 |
・ここで、アートに未来があるか、ないかというのは、アートを単線的な
歴史としてとらえていたからだと、ダントーはここでようやく白状する——おいおい、もっと早く言えよ!!!(202) |
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30 |
・以上の出来事は、すべてヘーゲルの理論に符合する——論証ではなく
て、預言者なのか?ヘーゲルさんは?(203) ・アートはある種の知識が到来するまでのひとつの過渡的段階だ(203) ・アートと知とは、やはり、前者が後者を追いかける存在なのか? ・おなじみの、ヘーゲリアンの予言:「歴史は自己=意識(self consciousness) の、よりうまく言えば、自己=知(self-knowledge) の到来をもって終焉する。ある点でわたしは、わたしたち個人の歴史なくともわたしたちの教育の歴史には、そうした構造があると想定している」(203) |
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31 |
【4】 ・「アートの表現説(the Expression Theory)の成功は、アートの表現説の失敗でもある。その成功は、それがあらゆるアートを一様な方法で、すなわち情感(フィーリング)の表出として、 説明することができたという事実に由来している。その失敗は、それがあらゆるアートを説明する―つの方法しか持たなかったという事実に由来している」 (204) |
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32 |
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33 |
・表現説は、いまやぼろぼろだが、まだ取り柄がある。 |
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34 |
・ビルドゥングス・ロマン ・「こうした物事の見方によって、まったく異なるアートの歴史のモデルが提示される。それは教養小説、すなわち、自己についての自己認識において頂点に達 する、自己陶冶の小説によって物語として体現される―つのモデルである。これは近年の―つのジャンルであり、フェミニズム文学にもっぱら見出されるという ことも、思うに不適切ではない。そこでヒロインが読者と彼女自身に提起する問いは、彼女が何者であるのかであり、一人の女性であるとはいかなることなのか でもある。この形式を備えた偉大なる哲学の著作が、ヘーゲルの驚嘆すべき『精神現象学』である」(207) |
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35 |
・「あいにくながら、ヘーゲルの体系に従えば、精神の探究および精神の
運命の最終到達点は、哲学である。というのも主に、その存在の何たるか(what it
is)についての問いは、その存在の何たるかの一部であって、それ自体に固有の本質は、それ自体についての主要な諸問題の一っをなしているという意味で、
哲学は本質的に再帰的(reflexive)なものなのだから」(207) ・「すなわち、アートの哲学的な歴史は、その存在を、ついにはそれに固有の哲学へと吸収されるところに本質を持っている。それゆえ、そのアイデンテイティ を自己理解に負う、何らかの存在の真なる可能性と保証の一っが、自己=理論化(self theoretization)であるということを、アートの哲学的な歴史は体現している。つまり、ヘーゲルにおいて精神の神曲の―つである歴史の偉大な ドラマは啓蒙が自らの啓蒙によって成り立つ、最終的な自己啓蒙の瞬間において終焉する」(208) |
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36 |
・「アートの歴史的な重要性は、それゆえ、それがアートの哲学を可能と
し、かつ重要なものとするという事実のなかにある」(208)——これは論証というよりも居直り ・「それは、もろもろの物体は、それらの理論が無限の域に近づくにつれて、ゼロに接近するということである。それゆえ、実質的に終焉を迎えているのはただ 理論だけであり、とうとうアートは、アートそのものの純然たる思考の煌(きら)めきのなかに気化され始めている。またアートはいわば、もっぱらアートに固 有の理論的な意識の対象として残存している」(208)——居直りは続く。 |
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37 |
・このパラグラフ全部の引用:「こうした類いの見解に妥当性の最小限度
の可能性があるならば、アートは一つの終焉を迎えたと示すことができる。もちろんアートの制作は存続するであろう。しかし、わたしがアートの脱=歴史的な
時点と呼びたいと思うところに生きているアート制作者は、非常に長きにわたって期待されてきたような、歴史的な重要性や意義を欠如した作品を生み出すであ
ろう。アートの何たるか、および、その意味の数々の何たるか(what art is and means)
が知られることになるとき、アートの歴史段階は終わる。アーティストたちは哲学への道を切り拓いた。そして時機は、その任務がとうとう哲学者たちの手に移
されるところへ達した。このことを受容しうるようになる程度まで詳論して、わたしは結論としたい」(208-209) |
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38 |
【5】 ・「「歴史の終焉(the end of history)」という言い回しは、それが、あらゆる物事を終わらせるわれらが権能(power) 、人類を現にある状態から一挙に放逐するわれらが権能の地位に就けられるや、同時に不吉な含みを伴なう。黙示録(Apocal ypse)はありうる未来像をいつも備えてきたが、それが今日ほど現実味を帯びているように思われることは滅多になかった。雁史を作るべく残されたものが 何もない言い換えれば、もはや人間がいないとき、もはや歴史は存在しないであろう」(209) |
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39 |
・コジェーヴの引用がある |
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40 |
・マルクス、プラトン、ヘーゲル ・このパラグラフの文書は、空疎である(210-211) |
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41 |
・全部のパラグラフの引用:「歴史の終焉は、ヘーゲルが絶対知(Absolu te Knowledge) の到来として物語るものと一致し、かつ、実
際のところ同一である。知識とその対象の間に隔たりが存在しないとき、あるいは、知識がそれ自身
の対象であり、それゆえ主観であると同時に客観であるとき、知識は絶対的である。『精神現象学』
の最終段落は、次のように述べることで、それが取り扱う主題の哲学的な終結を特徴づける。すな
わち、哲学的な終結は「自らを完全に知ること、その存在の何たるかを知ることに本質がある」。知識の
外部にはもはや何もなく、認識する直観の光を通さない不透明性もない。それほどの知識の概念を体現
しようとしているものがあるとすれば、それはわれらが時代のアートである。なぜなら、アート作品と
しての物体(オブジェクト)が、いまや理論的な意識による輝きに満ちているため、客体(オブジェクト)と主体の間の区別はほと
んど打破されているからであり、また、アートが行為における哲学なのか、あるいは哲学が思想におけ
るアートであるのかは、大した問題ではないからである。ヘーゲルは「次のことは疑いなく事実であ
る」と、その『芸術哲学』で書いている。「すなわちアートは、単なる気晴らしや娯楽として用いること
ができ、われらが環境を装飾し、われらが生活の外的状況に生活の質を向上させる外観を刷り込んだり、
装飾として配されることで他の主題を強調したりする」。こうした機能をこそ、コジェーヴは脱=歴史的
な時代に人間を幸福にするものの一つとして、アートを語るときに考慮していたに違いない。それは一
種の遊びである。しかし、この種のアートは「他の主題に従属しているがゆえに」、真に自由なのではな
いとヘーゲルは主張する。彼は続けて言う。アートが真に自由であるのは、「それが自らを、宗教および
哲学と共有する―つの領野に樹ち立てて、そのことによって、自らを通じて……最も広範にわたる精神
的な真理を意識に痛感させる、よりいっそうの―つの様態と形式となっている」ときのみである。この
ことすべてを、そして、ヘーゲルらしくもさらに多くのことを語った後、陰鬱であるか否かの判定は読
者に委ねるが、彼はこう結論づける。「アートは、わたしたちにとって過去のものであり、かつ、過去の
ものであり続ける」。また、「その最高の可能性という側面では、アートは真正なる真理と生命を失って
おり、かつての必要性と実在物のなかでの優越した地位とを維持しえているというより、むしろわれら
が観念の世界へと移し替えられている」。それゆえ―つの「アートの学問」ないしアートの学
(Kunstwissenschaft)——これによってヘーゲルが意味していたのは、なるほど今日の学問分野で実践
されているようなアート史と遠いものではないが、それよりもむしろ彼自身が従事していた類いの文化
哲学の一種である——が「わたしたちに固有の時代において、アートがそれ自身だけで満足を与える
に十分であった時代よりもはるかに喫緊に必要とされている」。さらに、このまった<驚くべき一節に
おいて、続けて彼は言う。「わたしたちはアートによって……科学的にその本性をつきとめるべく、そ
れを反省的に熟考することへと誘われる'」。そしてこれは、現に試みられていることをわたしたちが知
るアート史ではまったくない。今日むしろ無気力となっているこの分野は、ヘーゲルがそうなることを
意図したように、認識することに関しては活発であることの帰結であると、わたしは確信しているのであ
はあるが。しかし、アート史がわたしたちの知っている形式を備えることも可能ではある。なぜなら、
わたしたちがアートとして知っていたアートは終焉しているのだから
」(211-212) |
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42 |
・多元主義の称揚(213) ・「『精神現象学』の結びの段落は、精神の歴史の哲学的な終結を、次のように特徴づけている。すなわちそれは、「自らの何たるかを完全に知っていることから成り立っており、自らの実体を知っているということに本質を持っている」」(214) |
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