「健康」の発明
——医療人類学の冒険1——
垂水源之介先生インタビュー集
◆快楽を求めて
−−先生の研究の動機となっているのは、なんでしょうか。
池田光穂 ひとことでいえば「快楽の実現」です。学生にも、「自分たちの生活をもっと楽しくするにはどうすればいいのかを考えてほしい」、 そう呼びかけているんです。既存の考え方をみつめ直して、批判したり、反省するための新しい材料をみつける。それが、私の方法の原則です。
人間社会はどうあるべきかを問い、私たちに適した社会とは何かを問う。私たちには、そういう、もっと有益で、新たな視点が必要なんだ。そ ういいたいんです。
◆批判の目をもって医療をみる
−−医療人類学は、どのような学問でしょうか。
池田 「医療とは何か」を探究する学問です。「近代医学は、迷信を退け、合理的なものだけを抽出して成り立っているといわれているが、果た して本当なのか」「患者は、近代医療の中にシャーマンをみることはないのか」「シャーマンは、伝統医療の中でどのような機能を果たしていたのか」というよ うに、近代医療を批判する立場から、調査や研究を行います。健康観や病気観の問題から、病気に対する信仰や治療の問題、宇宙観の問題、身体と宇宙との関係 まで、さまざまな議論を行います。「近代医療には、どこか欠陥があるのではないか」「全体観からみると、どこかに問題があったのではないか」、そういう動 機が背景にあるんです。
たとえば、欧米で中医学の重要性を主張したのは、医師ではなく、医療人類学者だったんです。また、一九七八年にWHOが「アルマアタ宣 言」で「プライマリ・ヘルスケア」の考え方を示しました。その結果、各国の伝統医療を尊重し、伝統医療のシステムを利用しようという動きが起こりました。 こうして、近代医療が相対化されるようになるわけですが、これも医療人類学の影響なんですね。
◆新しい視点から医療を考える
−−現在の医療について、どうお考えでしょうか。
池田 人類学の立場から医療の問題を考えるとき、医者と患者、つまり医療を行う側と受ける側の対立という図式を前提にすることは、もはやで きなくなっています。
医療は、常に社会環境の中で行われます。そう考えると、医療を行う側と受ける側の対立図式にもとづく批判や、患者の側が常に被害者である といった考え方には、おのずから限界がみえてきますよね。いくら医者を批判したところで、社会や世界の問題を抜きにしては考えられないんです。
そういう立場から現在の医療をみると、現在の医療に最も必要なのは、社会参加のあり方を考えることといえます。医療者は積極的に社会に参 加し、患者は社会性をもって医療を求める。最近、健康な人やボランティアの人が自発的に医療にかかわるようになりましたが、それを医療に取り込むにはどう すればいいのかを考える必要があると思います。医療の現場を社会から遊離した場と考えてはいけません。
◆医療援助に疑問あり
−−先生は、なぜ中央アメリカを研究するようになったのですか。
池田 青年海外協力隊の一員として派遣されたのが、たまたま中央アメリカのホンデュラスという国だったんです。最初から人類学の調査をする ために行ったのではありません。
「旅行」だといったら怒られるかもしれないけれど、私の中では、海外の人とふれ合いたいとか、自分の八方ふさがりの状態を何とかしたいと いった気持ちで行ったんですね。まさに、特殊な形態の旅だった。そのときの経験から、医療や医療援助、観光、そして「エコ・ツーリズム」の問題に関心をも つようになったんです。
国際援助を行うとき、カネやモノについては延々と議論されます。しかし、実際に援助が成功するか否かは、人と人とのふれ合いなど、人間的 な要素が大きく影響してきます。いくらたくさんの技術をもっていても、適切な言語能力がなかったり、現地の人に対する偏見をもっていたりすると、人間関係 はうまくいきませんし、そもそもそれが欠けていると、技術や知識を伝達できないですからね。
帰国後も、協力隊のニュースが送られてくるんですが、派遣する国が増えたとか、派遣人員が増えたとか、お金をいくら使ったかとか、そうい う形でしか評価していない。派遣された人が現地で実際に体験したことが、次の派遣計画に反映されていないんです。また、その体験を日本の社会フィードバッ クすることに関しては、どうも過小評価されていると思います。
◆旅を通して社会を考える
−−先生は、「エコ・ツーリズム」をテーマに、旅や観光について論文を書いていらっしゃいますね。
池田 実はいま、熊本県の天草で行われている「イルカ・ウォッチング」をテーマに、エコ・ツーリズムの研究をしているんです。
エコ・ツーリズムは“環境との調和を重視した旅行であり、すなわち野生、自然そのものや環境を破壊せずに自然や文化を楽しむ観光のこと” です。
旅や観光は、より積極的なものを求めていくという、人間の基本的な営みであり、快楽を充足させることです。しかし、快楽の充足は、常にさ まざまな代償を払わねばなりません。また、すべての人が快楽を享受してきたわけではありません。たとえば、先進国の人は旅行する一方で、開発途上国の人は もてなすだけという、国際的な不平等があります。他方、開発途上国の人たちは、先進国にやってきますが、今日では欠かすことのできない労働力になりつつあ ります。
観光という枠組みを通して、そこで起こっている社会現象を分析し、それを医療と比較検討してみる。そうすることによって、たとえば、医療 を施す側が一方的に無実の患者を搾取しているのではなく、患者の側も医療を特権化させることで、医療の妥当性をチェックするという義務を放棄してきたので はないか。医療を社会性のもとに考え直すことを通して、新しい「もう一つの医療」を創造することができるのではないか。そんなふうに考えながら研究をして います。医療人類学の実践モデルとして観光研究がある、ともいえますね。
◆旅が癒すのではなく、人が癒す
−−よく、「旅は人を癒す」といいますね。
池田 旅に出ると癒されるのは、大自然にふれるとか、大きな景色に感動するからだといわれます。しかし、それは表層的な理解です。
未知の土地にでかけるということはある意味での癒しだと思います。人は、人間関係の煩わしさから逃れるために旅に出る。しかし、実際に は、自分の周囲の人以外の人たちとのふれ合いがないと、旅は成立しないし、癒されない。これはおもしろいことです。
土地が癒すというのは、あくまでも私たちの信仰であって、実際は人が癒すんです。人的な媒介があって初めて、旅が旅人の意識を変え、リフ レッシュさせる。だから、異郷での恋のように、一期一会的な人間の出会いを楽しんでこそ、癒されたと感じるし、巡礼のように、旅をきっかけに精神的に成長 したり、具体的に病気が治ったりすることもあるんです。
◆旅は、癒しのきっかけになる
池田 人とのふれ合いという視点から旅の癒しの問題を考えてみましょう。
たとえば、タイのリゾートに行くと、現地の人が、あたかも召使いのように世話してくれます。旅行者は、それを、タイの人たちの優しさにふ れるといいますよね。しかし、タイの人たちが日本の私たちのところに来るかというと、決してそうではない。ひょっとすると、タイの人たちが旅行者に対し て、心の底から尽くしてくれているのかもしれないし、私たちがお金をもって来るから尽くしてくれるのかもしれない。あるいは、その両方かもしれないし、ど ちらでもないのかもしれない。
タイのリゾートは私たちをリフレッシュさせ、癒してくれるかもしれないが、それは場所ではなく、人である。しかし、その人が善良だからな のか、そうでないのか、本当のところはよくわからない。
確かなのは、場所ではなく人的な介在があって、初めて癒しが可能になる、ということです。そして、その人がどのような意図をもつか、旅人 にはよくわからない。しかしこの場合、場所なくして癒しはありえない。
これは、癒しの空間がもつ固有の性格です。では、これを病院と比較してみましょう。
◆入院することは、旅に出ること?
池田 病院に入院するということは医療を受けるということです。しかし、看護婦さんに世話になるということは、人を媒体として異所的な体験 をすることでもある。そうすると、実は「入院をするということは、旅に出ることである」といえるかもしれない。これは非常に重要な要素だと思うんです。
このような視点から考えると、ベッド数や医師の数だけで医療の水準を判定する見方が、いかに限界のあるものなのかが、はっきりしてきます よね。患者が病院でどのようにふるまっているのか、医療者はどのようにケアしているのかといったことも、その社会の医療水準や社会のあり方を評価する違っ た尺度になります。人を媒介にすると、医療にしても観光にしても、違った側面がみえてくる。そこが重要ではないでしょうか。
◆健康と病気の距離が広がっている
−−健康と病気の問題については、どうお考えですか。
池田 最近、健康と病気の「距離」が、どんどん広がっていると感じます。
昔は、病気というマイナスの状態を、医療によってニュートラルなポジションに戻せば、それでよかったわけです。わざわざ「健康」というプ ラスの概念を立てる必要がなかったんですね。
ところが、WHOが「身体だけでなく社会的にも精神的にも健康であることがたいせつである」といいはじめてから、健康が世界的な規模で積 極的に推進されるようになった。今日では、マイナスをニュートラルなポジションに戻すだけでなく、さらにプラスのほうにもっていこうとする考え方、つま り、生活のあり方や身体の存在などについての考え方を健康と考えるようになってきています。
健康観をより積極的なものにし、人びとの関心を高めたWHOの姿勢は正しかったと思いますし、画期的だったと思います。しかし、その一方 では、「病気を撲滅しなければいけない」というような、病気のもつ否定的な価値を相対的に強くしたのも事実です。マイナスをニュートラルに戻すだけにとど まらず、さらにプラスにしなければならない、そういう傾向が強くなればなるほど、病気と健康の距離がどんどん広がっていくわけですよね。
そのような状況を加速させているのが、近代医学の普及です。世界じゅうで近代医学が合理的なものとして受け入れられ、それが各国の医療の 標準になる。中国でさえ、中医学と近代医学の折衷であるとか、共存という形をとらざるをえないようになっているわけです。「健康」の概念が発明され半世紀 もたたぬうちに世界じゅうにまん延しはじめたのです。
◆健康は、個人から地球の問題に
池田 健康は個人が体験するものです。けれど、地域や社会の健康、あるいは、こういう表現は問題があるかもしれませんが、国家の健康という ように、考えを展開していくと、地球の健康の問題にたどりつく。コスモロジカル、つまり宇宙論的な健康の考え方につながってきますよね。 私がどうして環境問題に興味をもつようになったかというと、環境問題は地球の健康の問題だからです。環境問題は、医療の問題と非常に深く結びついてい る。 世界の人びとがそれぞれ体験しているレベルの健康を考える。さらに、医療を地球的な規模で考える。地球レベルの健康を考えようとするなら、環境問題を抜 きにしては語れない。このように、興味が次から次へと展開してきている。こうしたことを、旅という枠組みを通して考えてみよう、ということなんです。
■クレジット:「健康」の発明:医療人類学の冒険:垂水源之介先生インタビュー集