医療は流 転する
――医療人類学の冒険2――
Everything of what
kind of medicines flows
垂水源之介先生インタビュー集
◆ 伝統医療は、絶えず変化している
−−近代医療と伝統医療について、どうお考えでしょうか。
池田光穂 この問題を考えるときは、まず近代医療があり、それに対して伝統医療があるという二元論を捨てる必要があります。そして、変 わりうる存在として伝統医療をみるという態度も必要だと思います。
変わらないと思われている伝統医療も、実は非常に変化しているんです。たとえば、三〇年前に調べた伝統医療が現在もそのままの形で 残っているかというと、決してそうではない。
もちろん、変わらない部分はあります。たとえば、身体観は変わりにくいですよね。しかし、技術や、くすりの内容などは、簡単に変わっ てしまう。
近代医療は、変わらなければいけない、進歩しなければいけないというような、強烈な強迫観念にとりつかれた医療システムです。伝統医 療は、どちらかというと、基本的に変わらないことをよしとする。近代医療法に対して、「昔から続いている」といって自分を正当化する。変わらないことが権 威になりえた医療なんです。
しかし、社会や病気が変われば医療も変わるのは当然でしょう。変わらなければ、人びとに見放されて滅びるしかないわけですからね。だ から、現在残っている伝統医療は、絶えず変化してきたとみたほうがよいと思います。つまり、洋の東西を問わず医療というものは、社会の中で絶えず変化して いるものなのです。
◆ 中央アメリカの医療は、いま
−−中央アメリカの伝統医療は、現在どうなっているのでしょうか。
池田 ホンデュラスの先住民であるインディヘナの間には、マヤ文明の影響がたくさん残っています。そのような観点からみると、インディヘナ の人たちに伝統的な要素をもつ治療体系が残っているのは事実です。
おもしろいのは、都市が伝統医療を締め出し、農村などの遅れた地域だけに伝統医療が残っているかというと、そうではないということです。 都市部を中心に、復興運動や伝統医療への評価が高まり、住民の間に急速に普及することだってあるんです。
−−ホンデュラスでは、健康をどのように考えているのでしょうか。
池田 歴史的にどのように変化してきたかはわかりません。しかし、一般の人たちの病気に関する表現は非常に多様です。それに対して、健康に 関する表現は、非常に少ない。この事実をどのように考えるかですよね。仮説的に「病気」と「病気に対決する」という考え方が基本にあって、健康を強度で理 解するような積極的な考え方は、あとからやって来たという気がします。
特に若い人は、マスメディアを通して、ジョギングやエアロビクスといった、積極的な健康情報を知っているわけです。時間の差はあっても、 日本とあまり変わらない状況が普及しはじめていると思います。
◆ “トリップ”できる社会はどこに?
−−くすりについて、どうお考えでしょうか。
池田 くすりをめぐる問題は、くすりそのものよりも、近代科学や近代薬学から社会的な側面を完全に落としてしまった近代文明に原因があるの ではないでしょうか。
くすりは、人類の歴史の中で、もともと社会的に様式化されて使われてきました。人間を取り巻く現象なり環境がないと、くすりは効かないん です。 最近、若い人の間で薬物中毒が問題になっています。薬物(ドラッグ)がからだによくないのは確かです。しかし、ただ効能面からみてよくないというだけで はいけない。ドラッグを使用しないと若者が楽しく“トリップ”できる環境がなくなったとか、失業問題などが原因になって、ドラッグが社会からの逃避の手段 としてしか利用されない。その意味では、近代社会はドラッグのもつ可能性をかなり限られた形でしか利用していないと思います。
◆ 病気と健康の決定権はだれに?
−−自覚症状がないのに、健康診断で病気といわれることがありますね。
池田 病気や健康は、文化的に決定されるものです。しかし、だれもが決定権を握っているわけではなく、特定の人が病気と健康を判定すること ができる。そして、特定の人が治すと信じられている。
病気に直面したとき、人はさまざまな対応を試みます。しかし、病気であるか否かを決定できる人は、本人ではなく、このような治療者なんで す。そして、その治療者の権威を支えているのが、患者や、患者の家族です。もちろん、治療者は社会の支持がないと十分に機能しません。この構図がないと、 病気や健康は存在できない。だから、普遍的で純粋な「健康」や「病気」があると信じるのは、まちがいだと思います。
近代資本主義のもとでの治療者の権威は、異常といえるほど肥大化しました。しかし、これは特殊な歴史的産物であって、普遍的とはいえませ ん。
健康を推進しようとするのは、いつも為政者です。一般の人にとって、マイナスの状態をニュートラルにするのが病気と人間とのつきあい方で あって、健康を求めることに対して、それほど積極的ではないんです。
しかし、健康が積極的なものになれば、今度は病気が忌み嫌われる存在になる。かつて、ルネ・デュボスという細菌学者は、「病気との共存」 を唱えました。“病気は駆逐できない。むしろ、病原菌と人間がダイナミックな関係の中で共存するという形で人間の健康を達成すべきである”といいました。 しかし、病気が忌み嫌われる存在になれば、病気との共存という発想や意見が非常にトーン・ダウンしてしまうのも、無理ないんです。
◆ 医療者は神か
−−先生は『医療と神々』という本を書かれましたね。
池田 医療援助や医療人類学の社会性を一般の人たちに伝えたい、そういう気持ちで書いたんです。
−−神というと、すべてをゆだねてしまうというイメージがありますね。
池田 たとえば、人は神様に供物を捧げます。しかし、実は、供物を媒体として、イメージした「人」とつながる。人間以外のものを媒体とし て、人間のことを想像するんです。
どの社会にも神への帰依は存在しますし、神以外の人や社会に対して絶対的に帰依するという考え方もある。
日本では、患者が医療者に対して絶対的に帰依してきましたよね。患者にしてみれば、医療者にすがることによって、もろもろの判断を停止す れば楽です。でも、医療に関していうと、外科手術のような治療を除けば、治療法にすがるだけでは大きな効果は期待できません。むしろ、治癒は医療者の介入 と患者の側の自助努力の調和によって達成すると考えたほうが得策です。だから、医療者にすがるより「契約」を結んだほうがいい。「おすがり」によって、自 己判断が止まってしまうのは、よくありません。
権威を与えられ、尊敬される医療者と、保護を受ける患者。しかし、このような関係にある患者と医療者のどちらの立場からも、真の医療の姿 みることは、非常に難しいと思います。だから第三の立場として、医療人類学者が必要になってくる。医療人類学がなんらかの形で医療にかかわっていくとした ら、そのあたりが重要になってくると思います。
◆ 医療人類学は誤解されている
−−医療人類学は、いまどのように役立っているのでしょうか。
池田 誤解されて使われています。医療人類学者の野心は、現代医療のあり方を、文化現象として、より違った角度から分析し、私たちの認識に おける転倒を指摘して、まったく違った形で提示したいことにあります。そうすることによって、医療や健康のあり方を異なった視点から論じたい。そういう野 心をもっている人類学者からいわせると、世の中に流布している医療人類学の知識は、誤って使われているといいたいですね。
医療者は、患者を正しく導くための社会的・文化的背景を教えてくれる専門家として、医療人類学者に期待します。医療人類学の知識があれ ば、患者の行動や病気の変化をある程度予測することができ、それに対して治療指針を立てることができる。そういう形で医療人類学に期待するんです。
一方、患者である一般の人たちは、近代医療に対する自分の不信感をある程度拭い去るための素材を提供してくれるのではないか、エキゾチッ クな治療法を知りたい、自分が依拠している医療システムとは違ったものを具体的に教えてくれるのではないかという期待をもっています。
この見方は、いずれも誤っていると思います。なぜなら、医療者も患者も、現実を直視していないからです。患者と医療者の権力関係、利益や 情報の不均衡といった現実の問題から目をそらし、伝統医療に幻想を求めたり、医療人類学に過剰な期待を寄せる。そういう誤りを示すために、医療人類学が誕 生したにもかかわらず、知識を批判のために使わず、利用可能な技術として、それも現実の問題を結果的に肯定するものとして使っていると思うんです。
自己を反省するために知識を使うのではなく、反省はほどほどにして、むしろ自己をより強力に肯定するために知識を使おうとする。これは、 明らかに誤っています。
◆ 民間療法に期待する
−−民間療法については、どうお考えですか。
池田 個人的には好きです。私が民間療法を唯一評価するのは、民間療法に近代医療への批判的な機能をみるといいますか、民間療法の存在様式 に、近代医療批判をみるからです。民間医療家にはどんどんがんばってもらって、もっと強烈な治療法を編みだしてほしいですね。
「〇〇療法ががんを治す」といわれると、現実に治せないとはわかっていても、期待をしてしまう。科学も理論もひっくり返す医療が存在する という期待をいだかせるだけのパワーが、民間療法にはあるんです。
◆ 世の中に意味のないものはない
−−民間療法は科学的に証明できないから意味がない、といわれますね。
池田 そうです。科学者にとっては意味のないことです。近代科学の考え方に照らして意味がないという点で、民間療法はすべて「迷信」だとい えます。しかし、民間療法が社会的な存在としてあって、それに対して支持する人がいるという点では、民間療法は社会的に意味があるといえますよね。
エヴァンズープリチャードという高名な人類学者は、彼がアフリカの社会を研究しているとき、穀物を保存している蔵が倒れ、下敷きになった 老人が死んだことを“柱が腐って折れたために蔵が倒れ、偶然そこにいた老人が死んだ”と記録しています。
しかし、彼によると、これはヨーロッパ人の論理であり、現地の論理でいえば“だれかが悪い意図をも って呪いをかけ、蔵を倒した。だから、ほかならぬその老人が死んだ”という因果関係が成り立つ。論理の立て方は、社会によって違うことは十分に考えられま す。
私たちだって、もし家族ががんにかかったら、治療効果を期待できない科学療法よりも、科学的な効果が証明されていないくすりを選ぶことが あるでしょう。これは、先の論理と非常に似ています。科学的な普遍性よりも、そのくすりでがんが治ったという経験的事実のほうがたいせつですよね。
世の中に意味のないものはないし、意味がないと思われているものごとの中にこそ意味がある。それをみつけだして、人びとに広く伝える。そ れが人類学なんです。
◆ 「未開の学問」を離れて
池田 かつて人類学は「未開の学問」と呼ばれていました。未開の土地に行き、エキゾチックな文化を調べ、文明社会の人たちに手際よく示す。異質 なものみせてくれる点で、医療人類学の枠組みはまちがっていなかったといえます。しかし、その対象は、近代とは完全に切断された、あるいは、切断されたと 思いこんでいた社会だった。
しかし最近、医療人類学をはじめとする人類学が、異質な文化を調べるだけでなく、自分の生活の問題を考えるきっかけになるような、現実的な性 格をもつようになっています。
私は、人類学が非常に存在意義のある新しい段階に入ったと考えています。今後、医療人類学が社会に貢献する局面がますます増える。そんな気が しています。