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落語「文違い」の搾取の食物連鎖の構造

On Hierarchy of Fraud in RAKUGO's program entitle "The difference of letters"

池田光穂

江戸の落語に文違い(ふみちがい)という演目がある。初代柳家小せんの作と伝えられる。内藤新宿の岡場所を舞台にした、一種の廓噺である(ウィキペディ ア)。

そのシノプシスはつぎようなものである。

内藤新宿の飯盛女・お杉は、「お父っつぁんが無心してきたので、20両 (※単位は演者によって円とも)を用立ててほしい」と嘘をつき、なじみ客の半七に色っぽくねだるが、半七はその半額程度しか持っていないため、応じること ができない。そこでお杉は、同じくなじみ客で、隣の部屋に待つ田舎者の角蔵のもとへ行き、「おっ母さんが病気で、高い薬の人参を買ってやりたい」と嘘をつ き、角蔵が取引のために持っていた預かり金をせしめ、あらためて半七に足りない分をせびって20両を得る。
お杉は半七に「お父っつぁんに渡してくる」と言い残し、半七や角蔵の部 屋から離れた一室に向かう。そこには目を布で押さえている男が座っている。男は芳次郎(よしじろう)という名の、お杉の本当の恋人で、なおかつ、お杉に金 を無心した本当の相手だった。
金を受け取った芳次郎はそそくさと帰る。お杉は置き忘れられた手紙を見 つける。読んでみると、小筆(こふで)という名の別の飯盛女が芳次郎に宛てたもので、「田舎の大尽(=富豪)の身請けを断ったが、代わりに50両を要求さ れている。眼病と偽り、お杉をだましてしまえ」という意味の内容が書かれている。お杉は悔し泣きをしながら、半七の部屋に戻るために部屋を出る。
そのころ、半七もお杉が落としていった手紙を見つけ、読むと芳次郎の名 で「眼病をわずらい、このままでは目が見えなくなるので、薬代として20両がいる。父親に無心されたと偽り、半七をだましてしまえ」と書かれていたので、 怒り狂う。お杉が半七の部屋に戻るやいなや、互いにだまされ合って気が立っているふたりは、「7両(あるいは5両)かたりやがった(=だまし取った)な」 「なにさ、そんなはした金。あたしは20両だよ」とすさまじい口論を経て、喧嘩になる。
お杉と半七の口論を壁越しに聞いていた角蔵は、店の者を呼びつけ、「早 く止めてこ(=止めてこい)! 間夫(まぶ=浮気相手)から金子(きんす)を受け取ったとか渡したとかで、お杉が殴られているだ。あれは色でも欲でもなく、お杉のかかさまの病のために、 おらが恵んだものだ」と言うが、すぐに向かおうとする店の者を押しとどめ、
「いや、やめておこう。それを言ったら、おらが間夫だとわかっちまう」 (オチ・サゲ)

こ の落語が面白い(興味深い)のは、詐欺の連鎖構造が暴露されるのだが、この寓意の面白い点は、無限連鎖講の頂点の連中が、高額な漁夫の利を得て、末端の連 中は痴話話にあけくれ、あげくのはてに、自分の銭が巨悪に吸い取られてしまうことに無自覚で、かつ、自分のスキャンダルを知られまいとして、泣き寝入りす る様を上手に描いた点である。

マルクス主義では、ものから搾り上げる=搾取という ことを広く使うのではなくて、労働搾取あるいは労働からの搾取(Exploitation of labour)というふうに理解する。労働搾取とは、広義には「ある主体が他の主体を不当に利用すること」と定義される概念である。労働者とその使用者の 間の力の非対称性や価値の不平等な交換に基づく不公正な社会的関係を意味する。搾取について語るとき、社会理論的には消費との直接的な関連性があり、伝統 的には、搾取とは、他者が劣位にあるために不当に利用され、搾取者が力を持つことであるとされてきたからである。マルクスの搾取概念は、資本主義経済にお いては、単にブルジョアジーが生産手段を独占して、労働者の賃金を掠め取るという不道徳ではなく、かりに、労働者にちとって人間的によきブルジョアであっ ても、資本主義の構造の中では労働者への賃金のなかに未来への資本投資のための不払い労働が含まれる。不払い労働とは、計算で算出されるような概念ではな く、資本主義がもつ必然性であり矛盾(=支払いが正当に見えても不払い労働分は資本の増殖に直結するからであり、それを回避することは不可能)である。古 典派経済学者の創設者アダム・スミスは、搾取をマルクスのように特定の経済システムに固有の体系的現象とは見なさず、むしろ任意の道徳的不公正としてとら えた(→「搾取」)。

リ ンク

文 献

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