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皇學館大学小史

History of Kogakkan University


倉田山移転後の神宮皇學館(大正10年)/ 海外修学旅行記念写真旅順二〇三高地(大正11年)[皇學館のあゆみ]

皇學館大学(小史)——日本語ウィキペディアより

1882 年(明治15年)に伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王(1824-1891)の令旨によって林崎文庫に設置された神宮皇學館を母体とする。主として神職や教員の養成にあたり、 1903年(明治36年)に官立の旧制専門学校(内務省所管の宗教系旧制専門学校)を経て、1940年(昭和15年)には旧制の官立大学(文部省所管)に なるが、第二次世界大戦終結後は国家神道を推進した機関の一つとして、いわゆる神道指令を受けて廃学・解散を余儀なくされた。その後、旧制神宮皇學館大學 の関係者らによって神宮皇學館大學再興期成会が結成され、現在の大学は1962年(昭和37年)にあえて私立大学として、再興された。

前 史・神宮教院

明 治維新以前、伊勢神宮では神職の養成や神道・学問の研究、文書の保存などを神宮文庫の前身にあたる豊宮崎文庫や林崎文庫が主に担っていたが(神宮文庫・沿 革の項を参照)、大教宣布[5]や近代社格制度の整備に代表される、新政府の神道国教化の推進政策の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作 り、全国への神道の布教をはかる動きが起こった。そこで、当時神宮少宮司の地位にあった浦田長民らが中心となって設立したのが神宮教院であるが、これが皇 學館の源流である[6][7]。1872年(明治5年)10月28日、教部省に「神宮教院開設届」が提出され、翌1873年(明治6年)には全国からの新 入生を集めて神宮教院が開校した。1876年(明治9年)の「神宮教院規則」によると、生徒は8 - 15歳程度までの「幼学生」と16 - 18歳程の「講習生」に分けられ、寮生活の中で教学を修めることになっていた。幼学生の多くは近隣から通学していたが、小学校が近くの地区に設立される と、ほとんどの生徒はそちらに転校したため、教院生の数は激減することとなった。一方で講習生には県外出身者が多かった[7]。

1876 年(明治9年)10月、神宮教院はその規則が改定され、神宮教院本教館として新たに置かれた。皇學館直接の母体となったのはこの本教館である。教職員は館 長・大教授・大管事1人ずつの下に、中教授・中管事、小教授・小管事、寮長、舎長が配置され、学生の学年は下等(普通学生)・中等・上等(それぞれ専門学 生)に三分されていた。修業年限は4年と10か月で、授業形態は、下等から上級に進むにつれ、授読や授講から輪講、独習が多くなっていった。上等段階の学 習では、キリスト教の『聖書』も使用されており、その内容の多岐さから、布教活動のための人材養成としての側面をうかがうことができる[7]。

ま た、神宮教院は全国を13の教区に分けて布教活動を行っていたが、この教区制が本教館へ全国からの学生を確保する役割も果たしており、北は仙台、南は薩摩 と幅広い地域からの出身者が学んでいた。1879年(明治12年)には、定員を50名にし、15 - 25歳の、終生教義に従うことを願った者に入学資格を与え、年限を4年とすることなどを定めたが、学生間の対立激化が直接の契機となって、本教館は 1881年(明治14年)12月9日の布達をもって閉校せざるを得なくなった。社会的にも、当時の神道をめぐる政策の情勢が、祭政一致から分離の方向に動 きつつあり、教導職の意義が揺らいでいたことも間接的に影響していたと考えられる[7](教導職は1884年(明治17年)に廃止)。

神 宮皇學館の創設

神 宮教院本教館が廃止されてから半年に満たない1882年(明治15年)4月30日、久邇宮朝彦親王より「今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事」な る布達が出され、同年7月6日には内務卿・皇典講究所賛襄の山田顕義宛に「皇學館設置ノ儀向」が提出され、教育機関の再興運動が始まった。ただし、学校の 設立は順調に進んだわけではなく、内務省からの設置認可は1883年(明治16年)5月26日にようやく下り、生徒を募集して教育活動を本格的に始めたの は1885年(明治18年)以降のことであった(開校式は1883年(明治16年)4月28日に挙行)。皇學館の教育目的から教導職の養成はなくなり、基 礎教養を授けた上で神道の専門教育を施すという新たな目標が掲げられた。設立当初は小学校との両方に籍を置く児童もいたが、1886年(明治19年)の小 学校令公布によって、そのような幼年者は小学校に転籍され、皇學館は中等課程以上の学校となる方向付けがとられた。1887年(明治20年)には皇學館か ら神宮皇學館に改称され、学科は尋常科(尋常小学校卒業程度の者を対象・4年制)とその上級にあたる高等科(4年制)に編成し直された。のち、一時期は尋 常中学校相当のレベルに短縮されたものの、専門教育機関としての体裁を整える方向に進み、幾度の改定を経て、1899年(明治32年)には、予科生を全員 三重県立第四中学校に移して予科を廃したことで、本科(4年制)・専科(3年制)からなる専門学校となった。1898年(明治31年)には予科・本科生に 徴兵猶予の資格が、1899年(明治32年)9月には中等学校教員の無試験検定資格(歴史科・国語漢文科)が認定され、1902年(明治35年)2月には 本科卒業生に奏任官、専科卒業生に判任官相当の神職資格が付与されることとなった。そして、名実ともに1903年(明治36年)9月1日より、「神宮皇學 館官制」[8]に基づく、内務省管轄の官立専門学校(ただし専門学校令によらない)として認定されるに至った[9]。

教 育の充実

以 後、神宮皇學館は「国体ヲ講ジ、道義ヲ明ニシ、之レガ発揮ト実践トヲ期スル」ことを目標に教育活動を行い、環境の広報・発展に努めた。本科は中学校卒業・ 専門学校入学者検定合格者を対象とする4年制の課程であるのに対して、専科は中学校3年終了もしくは16歳以上を入学資格とする速成課程であったが、 1917年(大正6年)には専科卒業者にも教員免許が認定されるように科目の改正が行われ、1921年(大正10年)9月には文部省より専門学校に準じる 学校に指定され、1924年(大正13年)には本科卒業者を高等学校および大学予科卒業者と同等とすることが認められた[10]。

し かし、学校の水準や地位が向上した一方で、大正時代末期には創立当初の精神に立ち帰るべきとの声が高くなり、制度の改革がなされた。背景には、神道を学ん だり神職に就いたりすることよりも、中等学校教員免許を無試験で取得することを目的にして入学する者が多く、事実上は教員養成所と変わるところがないとい う当時の現状に対する批判が関係者の間で高まったことにある。事実、1927年(昭和2年)の卒業生の就職状況では、本科卒業者の4分の3近くが教職に あった。1925年から1926年の間に行われた改正では、本科の上に1年間の研究科を設け、専科を廃止して新たに神職養成部を置くことや、科目に「神道 科」を追加することが行われた。神職養成部は、高等小学校卒業者を対象とする4年制の普通科として置かれることとなり(1931年(昭和6年)より尋常小 学校卒業者対象・5年制に改定)、中等教育段階で普通神職を養成することを目標に生徒を募集した。それでも教員志望者・就職者は減少することなく、神宮皇 學館は全国の中等諸学校に卒業生を送り続けていった[10]。

な お、施設・環境面では、それまで宇治山田市宇治館町にあった校地が教育に不適であるとして、1916年(大正5年)から3年の歳月をかけ、市内の倉田山に 総面積2万3千超坪の大規模な学園用地を造成し、以後同地を皇學館の本拠地とした。1928年(昭和3年)の大講堂完成をはじめ、1930年代には教室や 寮などの各施設が整備・充実されていき、一大学園としての姿を整えていった。1932年(昭和7年)には創立50周年を記念して館歌が制定された [10]。1939年には伊勢神宮の附属施設として惟神道場がキャンパスに隣接して建設された。

大 学昇格と廃止

大 学令が1918年(大正7年)に定められたことで、神宮皇學館を単科大学に昇格させる議論自体は1920年代より以前から一部で挙がっていたが、昇格計画 が表面化したのは「大学昇格期成同盟会」が卒業生らによって組織された1934年(昭和9年)のことであった。1935年(昭和10年)には第1回調査会 が、内務省神社局、神宮司庁といった関係官庁と学校、同盟会によって開かれたが、翌年の第3回調査会で、神社局により、内務省管轄での大学設置は不可能で あり、神職養成のための大学を置くことは困難で、勅令手続きも難しいとの回答がなされたことで、昇格運動はひとまず学校の充実に向かうこととなった。しか し、同年頃から、伊勢神宮を中心として、国民精神高揚を目指して宇治山田市を聖地化する「大神都聖地計画」案が具体化したことで、精神的施設の必要性の観 点から、神宮皇學館の大学昇格が再び浮上することとなった。1937年(昭和12年)から市会、県会、皇學館、三重県選出の国会議員らが一致して昇格運動 を積極的に行った結果、1940年(昭和15年)には文部省所管の官立大学として、「神道精神の闡明」を掲げた神宮皇學館大學が置かれることが決定し、同 年4月には予科第1期生を迎えて開学した。なお、内務省管轄の神宮皇學館は募集を停止し、全在籍者の卒業をもって廃止することとなった。1941年(昭和 16年)には、従来の神宮皇學館に代わって神職を養成する附属専門部(3年制)が開設され、翌年には学部(3年制)が開かれた。予備教育を施す予科は別と して、学部・専門部の学科課程は神道関係の科目が多く、「皇国固有ノ教学ノ基本ニ培フ学術ノ理論及応用ヲ教授」することが使命とされた[11]。

大 東亜戦争中、旧・神宮皇學館は、1942年(昭和17年)9月に本科、1944年(昭和19年)2月に普通科最後の卒業生を送り出して廃止され、1943 年(昭和18年)には、文系学生の徴兵猶予が停止されたことで学部学生の約4割にあたる151名が同年12月に入営した。1945年(昭和20年)に入っ てからは倉田山の校地が宇治山田空襲によって建物の多くを焼失し、8月15日の日本の降伏以降、神宮皇學館大学は国家神道を担ってきた一機関としてその命 運がいよいよ危機的なものとなった。存続をはかるために、同年10月24日、大学は「皇學館大学」と改称し、神道科目を削減することを文部省に願い出、学 生の側も12月に大会を開き、国家神道色を払った上で大学を存続するよう、文部省に宛てた決議文を作成したが、連合国軍最高司令官総司令部が神道指令を同 年12月15日に発したことや、その他の大学存続案(私立学校に転換、または他大学との合併など)[注 2]が決まらなかったこともあり、 神宮皇學館大學は1946年(昭和21年)2月20日に閉学式を行い[12]、同年3月14日の勅令によって廃学・解散となった。職員は希望調査の上での 転任となり、卒業生以外の学生は他の大学や高等学校・専門学校に移っていった。校地は宇治山田市が購入し、図書などは名古屋大学などに移管され、皇學館の 歴史は一時中絶した[13]。

再 興

皇 學館は廃止されたものの、卒業生を中心に再興する気運は強く、1946年(昭和21年)9月1日には三重県知事に私立各種学校としての「伊勢専門学館」設 置申請が館友代表の早川満三郎より提出された。神道指令では私立の神職養成所の設置は禁じられていなかったため、早川はかつての皇學館との違いを強調する ことで認可を同月10日に得、10月に授業を開始したが、三重県軍政部は教職員の多くが神宮皇學館で務めていた者であることを問題視し、「超国家主義的」 であるとして同年内に閉鎖させた。次の試みとして、非皇學館出身者を校長に迎えた「清明高等学院」を1948年(昭和23年)に開校したが、入学者が少な かったために、これも自然閉校となった[13]。

大 学再興運動は、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立する状況下で再び活発化する。「日本文化研究所」の設置を目指す財団法人五十鈴会が 1951年(昭和26年)に発足し、翌年には「神宮皇學館大學再興期成会」が結成された。1954年(昭和29年)、五十鈴会第2回全国大会では「日本文 化の最高学府」として大学を再興すること決議され、同年9月20日には神宮大宮司宛に皇學館を短期大学として設置する案が提出され、宇治山田市議会でも大 学再興の請願が採択されたが、1955年(昭和30年)、神宮は大学でなく、より純粋な神職養成所としての「神宮皇學館」を開くことを決定した。当時の関 係者の一部からは「大学を再開しても学生が集まらない」、「大学を開設することで國學院大學との間で競合関係が生まれるのは好ましくなく、國學院を唯一の 神道大学として充実させるべき」などの懸念や、伊勢の地にはより実践的な養成施設を置くべきであるとの意見が出されていたことからも、再興運動が一枚岩で なく、順調に進まなかったことがうかがえる。だが、運動が挫折したわけではなく、1959年(昭和34年)に吉田茂を会長に戴いた「皇學館後援会」が発足 した。会長の吉田以外に、同後援会には副会長として池田勇人、財界からは石坂泰三、足立正、小林中、杉道助、太田垣士郎らが参加した。彼らが全国の財界人 に働きかけて賛助を呼びかけたり、県が後援会からの協力要請を採択したりして大学設置への動きは加速し、1962年(昭和37年)2月17日には、関係者 の長年の悲願だった大学の設置が文部省より認可された。同年4月25日には開学式が挙行され、神宮皇學館大学の再興が完成した[14]。

現 在、以降は省略[https://x.gd/GR4ist]を参照のこと

5.^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
6.^ 『三重県教育史 第1巻』第2章 近代教育の胎動 第3節 教導職の教化活動、p.285 - 292
7.^ a b c d 『三重県教育史 第1巻』第3章 近代教育の創始 第3節 創設期の中学校、p. 608 - 612
8.^ 神宮皇学館官制(明治36年8月31日勅令第130号) - 国立国会図書館 日本法令索引
9.^ 『三重県教育史 第1巻』第4章 近代教育の形成 第3節 中等普通教育及び専門教育の整備、p. 908 - 913
10.^ a b c 『三重県教育史 第2巻』第6章 大正期の教育 第6節 三重高等農林学校の開設と高等専門教育、p. 250 - 262
11.^ 『三重県教育史 第2巻』第8章 昭和初期の教育 第6節 高等専門教育の展開 p. 756 - 770
12.^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、351頁。ISBN 4-00-022512-X。
13.^ a b 『三重県教育史 第3巻』第14章 新学制下の学校教育 第6節 大学・短大・高等専門学校教育 p. 423 - 426
14.^ 『三重県教育史 第3巻』第14章 新学制下の学校教育 第6節 大学・短大・高等専門学校教育 p. 897 - 900

平泉澄(ひらいずみ きよし、1895年2月15日 - 1984年2月18日)と皇国史観


☆ 平泉澄(ひらいずみ きよし、1895年2月15日 - 1984年2月18日)は、日本の歴史学者、東京帝国大学教授である。皇国史観で知られ、日本の保守・ナショナリズム政治に大きな影響を与えた。平泉寺白 山神社の神職でもあった。

平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年〈明治28年〉2月15日 - 1984年〈昭和59年〉2月18日)は、日本の国史学者。文学博士。専門は日本中世史。東京帝国大学教授。号は布布木の屋、寒林子、白山隠士[要出 典]。 福井県出身の国史学者。東京帝国大学教授、平泉寺白山神社第4代宮司、皇學館大学学 事顧問等を歴任。白山神社名誉宮司、玄成院第二十四世。 国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、「代表的な皇国史観の歴史家」といわれており[注 1]、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。近衛文麿など[注 2]政界とのつながりも深かった[3]。 日本を守る国民会議の結成に際して、発起人として参加している[4]。著作に『中世に於ける社寺と社会との関係』(1926年11月15日)、『国史学の 骨髄』(1932年9月18日)など。
Hiraizumi Kiyoshi (平泉 澄, 15 February 1895 – 18 February 1984) was a Japanese historian and professor of history at the Imperial University of Tokyo. He is best known for Kōkoku Shikan (皇國史観, the emperor-centred view of history) theory and was highly influential in Japanese conservative and nationalist politics. He was also a shinto priest at Heisenji Hakusan Shrine.
平泉澄(ひらいずみ きよし、1895年2月15日 - 1984年2月18日)は、日本の歴史学者、東京帝国大学教授である。皇国史観で知られ、日本の保守・ナショナリズム政治に大きな影響を与えた。平泉寺白 山神社の神職でもあった。
Life and work

Hiraizumi was born on 15 February 1895 to a father who was a priest at the Heisenji Hakusan shrine in Katsuyama.[1] He was educated at Fourth Higher School (Kanazawa University), graduating from Tokyo Imperial University in 1918.[2][3]

He began working as a lecturer at his alma mater only a few years later, in 1923, and three years later held the post of associate professor in the Faculty of Letters; in 1935 he was promoted to full professor.[4] He also helped to found the History Education Seminar, which oversaw the content of history textbooks; he also contributed to educational materials for both the police and the military.[3] Hiraizumi promulgated an approach to history known as kōkoku goji shikan, a highly nationalist view centred on the importance of Imperial Japan.[1][2] This view gained official endorsement from the Ministry of Education.[5] Despite being technically subordinate to the departmental head, Kuroita Katsume, Hiraizumi was considered by the faculty's students to be in charge of the history department.[6] With the backing of the Ministry, Hiraizumi created a new course known as Nihon shisoshi koza or History of Japanese Thought, which was highly politicised, emphasising Hiraizumi's belief in the divine origin of the Japanese Imperial line.[4] He also chaired a political student organisation named the Shukokai, which promulgated nationalist views enshrining the importance of the Emperor,[7] and was appointed by Kanokogi Kazunobu as a member of the Dai Ajia Kyokai (Greater Asian Association), a group of politicians, diplomats and others which was dedicated to spreading Japanese nationalist thinking throughout Asia. This society included Kōki Hirota, Konoe Fumimaro and Araki Sadao among its members, as well as many other notable personages.[8]

Hiraizumi had travelled in Europe during the early 1930s.[2] He took inspiration from the German nationalism of Gottlieb Fichte, but was heavily critical of the French Revolution, considering the concept of civilian revolution to be an entirely foreign concept to the Japanese.[3]

Hiraizumi resigned from the University after the Allied Occupation, and returned to his home prefecture of Fukui, though he continued to give lectures.[3] He continued to espouse nationalist views and argued in favour of a mythology-based version of history (even his later books claim the Emperor Jimmu was a real historical figure and treat the Nihon Shoki and Kojiki as historical sources).[9] However, without Hiraizumi's presence the ultra-nationalist trends of the University's history department began to be reversed, and his views began to fall out of fashion, replaced by Marxist historiography.[10] Eventually, Hiraizumi took up his father's role as a priest at the Heisenji Hakusan Shrine, where the spirit of Izanami is enshrined; on his retirement in 1981 the role passed to his son, Akira Hiraizumi.[3][1] Hiraizumi died on 18 February 1984.
https://en.wikipedia.org/wiki/Hiraizumi_Kiyoshi
生涯と仕事

平泉は1895年2月15日、勝山の平泉寺白山神社の宮司であった父のもとに生まれた[1]。第四高等学校(金沢大学)で学び、1918年に東京帝国大学 を卒業した[2][3]。

母校で講師として働き始めたのはわずか数年後の1923年で、3年後には文学部助教授となり、1935年には正教授に昇進した[4]。また、歴史教科書の 内容を監修する歴史教育ゼミナールの設立に尽力し、警察や軍隊の教材にも貢献した。 [3]平泉は、皇国御史観として知られる歴史観を広めた。この歴史観は、大日本帝国の重要性を中心とする高度な国家主義的見解であり、文部省の公式な支持 を得た[1][2]。 [平泉は文部省の後ろ盾を得て、「日本思想史講座」という新しい講座を開設したが、これは日本の皇統の神的起源に対する平泉の信念を強調するもので、非常 に政治的なものであった[6]。 4]彼はまた、天皇の重要性を謳う国家主義的な見解を広めた政治的な学生組織「修交会」の議長も務め[7]、アジア全域に日本の国家主義的な考え方を広め ることを目的とした政治家、外交官などのグループである「大亜細亜協会」のメンバーに、鹿子木一信によって任命された[8]。この協会のメンバーには、広 田弘毅、近衛文麿、荒木貞夫のほか、多くの著名人が含まれていた[8]。

平泉は1930年代初頭にヨーロッパを旅行していた[2]。彼はゴットリープ・フィヒテのドイツ国民主義からインスピレーションを得たが、フランス革命に は激しく批判的であり、市民革命という概念は日本人にとって全く異質なものであると考えていた[3]。

連合国軍の占領後、平泉は大学を辞職し、故郷の福井県に戻ったが、講義は続けていた[3]。平泉はナショナリスト的な考えを支持し続け、神話に基づく歴史 を主張した(後の著書でも神武天皇は実在の歴史上の人物であり、日本書紀や古事記を史料として扱っていると主張している)[9]。 [しかし、平泉の存在がなければ、大学の歴史学部の超国家主義的な傾向は逆転し始め、彼の見解はマルクス主義的な歴史学に取って代わられ、廃れ始めた。 [10]やがて平泉は、イザナミの霊が祀られている平泉寺白山神社の神官として父の役割を引き継いだ。1981年に引退すると、その役割は息子の平泉明に 引き継がれた[3][1]。平泉は1984年2月18日に死去した。

Major works
Chusei ni okeru seishin seikatsu (Spiritual Life in Medieval Japan), 1926[2]
Chusei ni okeru shaji to shakai to no kankei (The Relationship of Shrines and Temples in the Society of Medieval Japan)[2]
Kokushigaku no kotsuzui (The Heart of National History)[2]
Kenmu chuko no hongi (True Meaning of the Kenmu Restoration), 1934[2]
Shonen Nihon Shi (Japanese History for Young People), 1970[3]
著作
平泉の著作の全容は、弟子の田中卓によって以下の文献にまとめられている。

『平泉史学と皇国史観』田中卓著、青々企画、2000年。
『平泉澄博士全著作紹介』田中卓編著、勉誠出版、2004年。
肖像と略歴、著作年譜のほか研究文献目録も収められている。
ほかに錦正社で、約十冊が新版再刊されている
評伝
神道史學會(神道史学会)『神道史研究・平泉澄博士と神道』 1985年1月
日本学協会『日本・平泉澄先生を偲ぶ』 1985年2月
藝林会『藝林・平泉澄先生追悼』 1986年3月
今谷明「平泉澄」(今谷明・大濱徹也ら編『20世紀の歴史家たち』(1)所収。刀水書房、1997年7月)
田々宮英太郎『神の国と超歴史家・平泉澄』 雄山閣出版、2000年11月
田中卓『平泉史学と皇国史観』 青々企画 2000年12月
植村和秀『丸山眞男と平泉澄』(パルマケイア叢書)柏書房 2004年10月
若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ日本評伝選)ミネルヴァ書房 2006年4月
田中卓『平泉史学の神髄』 国書刊行会 2012年12月
立花隆『天皇と東大-大日本帝国の生と死 下』文藝春秋、2005年
坂口太郎『大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄―その史学史的考察―』北九州市立松本清張記念館、第19回松本清張研究奨励事業研究報告書、 2019年
同年、東京帝国大学講師。1925年(大正14年)より1年間、自宅に 学生を集め洞院公賢の日記『園太暦』の講読会を行う。
1926年(大正15年)、東京帝国大学助教授。1927年(昭和2年)秩父宮雍仁親王に謁見。1929年(昭和4年)高松宮宣仁親王に謁見[注 3]。
1930年(昭和5年)歴史学研究法の追求と大学の史学研究室の在り方、フランス革命の研究を目的に欧米外遊[注 4]。1931年(昭和6年)7月に帰国後、学生の思想教導に携わる[注 5]。
1932年(昭和7年)東京帝大の学生団体「朱光会」会長に就任。昭和天皇に「楠木正成の功績」を進講。
1933年(昭和8年)4月に「青々塾」開塾。軍の教育機関で講義を行う。満洲視察。満洲国執政愛新覚羅溥儀と会見。
1935年(昭和10年)2月、史学会の常務理事に就任。同年3月、東京帝国大学教授に昇任。
1938年(昭和13年)満洲建国大学の創設に参画。1940年(昭和15年)3月、満洲で皇帝溥儀に「日本と支那及西洋諸国との国体及び道義の根本的差 異に関する講話」を進講。
1941年(昭和16年)12月、海軍勅任嘱託就任[注 6]。
終戦後
1945年(昭和20年)8月17日、東京帝国大学教授辞職[注 7]。1946年(昭和21年)白山神社第3代宮司就任。1948年(昭和23年)公職追放となる[注 8]。
1954年(昭和29年)東京銀座に国史研究室を設置[注 9]。1958年(昭和33年)東京都品川区に転居。
1984年(昭和59年)2月18日、肺炎のため死去。89歳没。
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