宝志和尚、影の事
『宇治拾遺物語』9巻(107)宝志和尚、影の事(原文)
宝志和尚影事
昔、もろこしに宝志和尚といふ聖(ひじり)有。いみじく尊くおはしければ、御門「かの聖 のすがたを、影(えい)に書き とらん」とて、絵師三人をつかはして、「もし一人しては、書たがゆる事もあり」とて、三人して、面々にうつすべきよし、仰ふくめられて、つかはさせ給に、 三人の絵師、聖のもとへ参りて、かく宣旨を蒙てまうでたるよし申ければ、「しばし」といひて、法服の装束して出あひ給へるを、三人の絵師、おのおの書くべ き絹をひろげて、三人ならびて筆をくださんとするに、聖「しばらく。我まことの影あり。それを見て書きうつすべ し」とありければ、絵師、左右なく書かずして、聖の御影をみれば、大ゆびのつめにて、額の皮をさしきりて、皮を左右へ引きのけてあるより、金色の菩薩の、 かほをさし出たり。一人の絵師は、十一面観音とみる。一人の絵師は、聖観音とおがみ奉りける。おのおの見るまゝにうつし奉りて、持て参りたりければ、御門 おどろき給て、別の使を給て、問はせ給ふに、かい消つやうにして失せ給ひぬ。それよりぞ「たゞ人にてはおはせざりけり」と申あへりける。
典拠:https://goo.gl/1xoDx0
宝誌和尚立像——京都・西往寺
「武帝の問いに対し、「十二識」や「安楽禁」と答えることで、十二因縁の教義や、終生修 行を途絶えさせないことを教えた。また、陳御虜という人物のために保誌の真形を現したところ、その光相が菩薩像のようであった、としており、後世の宝誌像の原型となる説話 が、既に同時代の『高僧伝』(梁・慧皎『高僧伝』巻10「梁京師釈保誌伝」)中で語られていたことが分かる」(ウィキペディア)
なお正面像は、ちくま文庫版のロラン・バルト『表徴の帝国』に収載の際に、この西往寺の宝誌和尚像の顔が使われているが、フラン ス語原版にはそれはない。この本は、ウィキペディアによると「ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在す る。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメー ジの輝きを持つ」という。
もちろん、このバルトの本の解説と上掲の宝誌和尚の説話とは、何の関係もない。
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