じめによんでね

イルカと日本人

に改題されました!

(旧題)イルカ・ウォッチングと現代社会

――エコ・ツーリズム研究ノート――

On Cultural Disposition of Japanese watching dolphns and whales inshore:

An anthropological essay.

池田光穂

(c)Mitzubishi Ikeda 1996-2006

読みやすい版:イルカと日本人(改題)

イルカ・ウォッチングと現代社会

――エコ・ツーリズム研究ノート――

池田光穂

  • はじめに
  • イルカ・ウォッチャーとしての柳田国男
  • イルカの民俗学
  • イルカを捕る
  • イルカの人助け
  • 天草のイルカ・ウォッチング――その素描
  • エコ・ツーリズムとしてのイルカ・ウォッチング
  • イルカと日本人

  • はじめに 

     観光は世界で最大でかつ最も急成長している産業である。観光産業のなかでも自然を対象にしたエコ・ツーリズムは近年注目を浴び、また著しい成長をとげた部門である(1)。 このような成長の背景には「環境主義」(environmentalism)すなわち、世界の先進諸国において1960年代に登場し70年代半ば以降一時 停滞しながらも、80年代以降ふたたび勢力を持ち直した一連の思潮あるいはその実践が果たした影響があることは言うまでもない(2)。環境保全は現代人にとって重要な社会的課題として意識されるようになった。それゆえにエコ・ツーリズムが自然保護の可能性を引き出す現代人の実践活動の一形態ととらえる見解が一方である(3)。 しかし同時に反公害運動から自然食品やエコロジー運動などへと環境保全の意識と実践の形態が変化するにつれ、「自然」を人間の手によって回復させる対象と してとらえるのではなく、現代生活において何らかの価値をもつ「消費」の対象としてとらえられるようになったことも事実である。「自然」の商品化という観 点からみると、エコ・ツーリズムもまた「自然」とそのイメージを消費する現代人の新しい生活スタイルのなかに組み込まれたものとする見解も当然のことなが らある。すなわちエコ・ツーリズムをめぐる諸現象には、現代人の動植物をも含めた自然観を含む環境主義と観光という消費行動を切り結ぶ、他の社会現象には 見ることのできないユニークな結節点があると言えよう。

     ここでは現代日本におけるエコ・ツーリズムの生成と定着の問題を より具体的に考察するために、熊本県天草郡五和町におけるイルカ・ウォッチングをその事例として取り上げる。したがって本稿はエコ・ツーリズムの理念的な 検討よりも、イルカをめぐる民俗学とその意味、さらには表象を操作する場としてのエコ・ツーリズムに着目して事実とその解釈に力点がおかれていることを予 めことわっておく。

    イルカ・ウォッチャーとしての柳田国男 (目次に戻る)

     日本民俗学の創始者である柳田国男は、またイルカ・ウォッチング の創始者でもある。というのは彼は九州での調査のおりに鹿児島の錦江湾で、あるいは国際連盟信託統治委員としてヨーロッパへの赴任や帰還の途上のインド洋 で、船と平行して泳ぐイルカを眺めて感慨に耽っているからである。彼の述懐によると、イルカはあたかも「船を護送」しているようであり、また「一つの目的 に狂奔するような、自由なる遊戯を観た」という。さらに「見えざる霊に由つて、人界に、遣わされたるもののごとく、我々で思うことが出来るのだ」と述べて いる(柳田国男『海豚文明』1924年)。

     むろんこれだけを根拠にして柳田をウォッチングの創始者とするに は過大評価のそしりは免れない。もうすこし説明が必要である。柳田はこのような群をなして泳ぐイルカが、「日本人」のみならず世界のさまざまな民族をし て、我々の世界の外側から遣わされた使者としてみたり、イルカが群をなしてあたかも寺社に参詣しているのだと理解する習俗がうまれたと理解した。彼はこの 習俗のことがずっと気になっていたらしい。佐渡には海豚参詣の話が伝わっており盆踊りの唄のなかに目敏く、イルカを殺した罰が報われるという一節「達者の 伝次が焼けた、いるか殺したその罰で」を彼は発見し、「今でも海豚を見又は話を聞くたびに、一度でも連想を馳せなかったことが無い」と述懐しているほどで ある(『佐渡一巡記』1932年)。やがて『海上の道』に収載されるようになる雑誌『民間伝承』の彼の喜寿の記念号(1951年)において、「知りたいと 思ふ事二三」ということのなかに海豚参詣について、彼は次のように書いている。

     この大きな動物の奇異なる群行動が、海に生を営む人々に注意せら れ、又深い印象を与えたことは自然だが、その感激なり理解なりの、口碑や技芸の中に伝わったものに偶然とは思われない東西の一致がある。……毎年時を定め て回遊して来るのを、海に臨んだ著名なる霊地に、参拝するものとする解説は、かなりひろく分布している。これも寄物のいくつかの信仰のように、海と彼方と の心の行通いが、もとは常識であった名残りではないかどうか。できるならば地図の上にその分布を痕づけ、かつその言伝えの種々相を分類してみたい(4)

     これを読むかぎり柳田は、人々がイルカをどのようにみているのかということにかなり興味を抱いていたことがわかる。残念ながら習俗の分布を地図上に確かめるイルカ信仰の文明史ともいうべき彼のプロジェクトは未完、それも設計図だけに終わった。

     柳田は『民間伝承』を通して全国の寄稿者が提示した民俗資料につ いてこのような疑問やコメントを書いた。柳田のイルカに対する関心に応えたのは、佐渡出身の民俗学者である北見俊夫である。北見は1951年7月の調査で 知り得た対馬の浅茅湾の海豚とりについて報告している(北見俊夫『日本海島文化の研究』1989年)。  柳田とウォッチングの関係はそれだけではない。柳田がイルカに興味をいだくだけでなく、イルカに感情移入していたふしがあるからである。それはイルカに ついて最初に言及した『海豚文明』という短いエッセーに戻らねばならない。これは、すこし悲しいトーンを帯びてはいるが、日本におけるイルカ保護の主張の 嚆矢をなすものである。その冒頭は「灘萬」の食料品売場に売られていたイルカの肉片を彼が発見することから始まる。

     ○ 灘萬の食品売場に、煎餅にしては少々透明な、薯の切乾しよりもずっと美しい、たとえば枇杷色のセルロイドの破片をみたような物をならべて、何かと思ったら紙の小札に、イルカとある。

     ○ どう考えて見ても是が我々の旧友の、あのむくむくとした、真黒な眼の小さい、飄逸にしてかつ極度に善良なる、海豚と呼ばるる海の遊民がこの新しい世紀から受けねばならぬ待遇とは思われぬ。

     ○ 少なくともこれはポセイドンに対する冒涜である。……  ……渡世とは言いながら叩き殺す浦人たちはつらい。海豚は追われると大きな声をして鳴くそうだ。今や彼らは鳴いても何もならぬ新発明の世の中に出会ったのである。

     彼は船上で人なつこく泳ぐイルカを好んで眺めていただけでなく、 どうもそれを可愛らしい、ないしはそれに近い感情で見ていたと言えそうである。それだけでなく、先に触れたように、イルカと人間の交わりに興味をもち、民 俗学ないしは文明論的な観点から研究しそれをまとめようとしていた。だが、現実はイルカの群れの遊泳をみてそれを参詣とみたてる心象風景を日本人は忘れよ うとしていた。彼は食料品売場に売られているイルカの肉片をみながら、時代の変遷を哀れんでいる。これには柳田国男の民俗学にみられる基本的なトーンであ る「滅びゆく」研究対象をサルベージするという心的傾向(mentality)と通底するものがある(Marilyn Ivy,1995, Discourse of the Vanishing.)。柳田のなかに現代の我々をみることはたやすい。柳田が日本最初のイルカ・ウォッチャーであるというのはこのような意味からであ る。

    イルカの民俗学 (目次に戻る)

     イルカの多くは外洋で回遊する。柳田がインド洋の沖合いでみたの は、あたかも船を護送するかのように泳ぐ光景であった。外洋を航行する船にのれば誰しもがしばしばそのような光景にであうはずである。動力船の舳先では推 進力によって回りの海水は押し出されているのでイルカはちょうど波乗りのようにわずかな力で船と同じ速力で伴走するかのごとく流れに乗ることができるの だ。  またイルカは群れて泳ぐ性質があり、高度なコミュニケーション能力をもっていることもよく知られている。このようなイルカの性質はふるくから知られてお り、そのさまを人びとはイルカの参詣と呼んできた。このようなイルカの回遊を、地方によっては、宮まいり、観音まり、墓参り、白山まいり、磯部さんまいり などと呼んでいた。呼び方にはさらにユニークなものもあり群の列がきれいに縦一列に並ぶことから、イルカの千本づれや千匹ガチと呼んだこともある。一年の 限られた時期に回遊し列をなして近海を泳ぐさまが巡礼のように見えたからである。対馬では、銛による突き漁でイルカを捕獲していたが、かならず1匹は逃が すようにした。すると翌年の命日には仲間を呼んで供養のためにふたたび姿をあらわすという。

     もちろん昔の人はウォッチングをして感心していただけではない。 追い込み漁や突き漁も広くおこなわれていた。イルカは非常にデリケートな性質をもっていて、脅すと集団で混乱状態に陥り、船縁を叩くわずかな音で簡単に追 い込むことができる。さらに奇妙な性質としてイルカ自体が浜に乗り上げ座礁するというストランディング(stranding)という現象も古くから知られ ており、浜辺の人たちに偶然の収穫をもたらすことがある。『古事記』には大漁の意味する「鼻の毀れたる入鹿魚」があがった浦が血で染まりそれが現在の「敦 賀」の名前のもとになったというエピソードがある。

     しかしそれを一般化して日本の漁民がイルカを発見したら漁をおこ ない、すべて食用にしていたとすることはできない。イルカの群泳をみて千載一遇のチャンスとばかり他の魚の漁を中断してイルカの追い込み漁に専念するもの がいたというものがいる一方で、そのままやり過ごしたり祟りを畏れていた漁民まで、イルカへの態度は地方によってかなりひらきがある。この点は重要であ る。というのはイルカやクジラを食用することが野蛮であると日本の伝統的なやり方を非難する人の中に、すべての日本人がイルカやクジラをみて涎を流してい るようなステレオタイプがあるが、これが誤りである証拠になるからである。イルカに対する伝統的な考え方は、次に述べるように多様で複雑であり一般化する ことはできない。

     にもかかわらずイルカを捕る人も捕らない人のあいだにも共通して いたことがある。それは、イルカに対する信条や信仰である。伊豆や対馬では、イルカの供養塔を建ててその霊を供養した。全国的にみて、魚類が供養されるこ とは少ないが、イルカやクジラを捕っていたところではそれらを供養する習慣があった。魚類とは別格の扱いがあったことは事実である。供養にはイルカやクジ ラとりが出漁の前に祈願するものから、共同体のなかで本格的に法要をおこなうものまで様々である。

     イルカは神さまや仏さまの使いであることもある。熱海ではイルカ網で地引き漁をしていたら木造のお地蔵さまがかかり、それを本尊にしたお寺が建てられた。漁師たちは、毎年イルカの大漁を祈って初物をそれにお供えするという。

     柳田国男が佐渡の北小浦で採取した話につぎのようなものがある。 イルカの別名を当地ではカエシモンというが、これはイルカが魚の群を追って獲物を食べるときには、下から魚群の真ん中に突っ込んで浮き上がり散り散りにし て捕るということから来ているらしい。しかし北小浦の人たちは海でイルカと出会ったときにはカエシモンとかイルカとは呼ばず、オエベスあるいはオベスサン と呼んで節分の豆を撒くらしい。カエシモンのほかにはメッコというのもあるらしいが、そのようなことを船上で口にするとイルカが暴れて網を破ったり船を壊 すというのだ。

     オベスサンとはエビス(恵比寿あるいは夷)のことである。エビス は、古くから生業をまもり利益や収穫をもたらす神さまとして知られているが、海では別の意味もある。それは「異人」であり、それが幸をもたらすという信仰 がある。この異人がクジラやイルカを表すことは佐渡の例でも明らかであるが、水死体や漂着物などもエビスとよばれることはよく知られている。対馬の伝承で は、イルカは平家の落人の末裔であり、落武者の女房たちが、自分の夫と思うふやけた死体を競って引き揚げたという説話がある。これは水死体とイルカの関係 を示唆する。北小浦の事例をみると、イルカは一方では異界からの訪問者であり、自らの肉をもって幸をもたらす一方で、タブーを口にすると漁師に害をおよぼ し、またそれに節分の豆を撒いており、イルカを災厄とみたてるという相反するものとしてとらえられている。水死体同様、イルカにも両義的な性格が付与され ている(5)

    イルカを捕る

     先に柳田国男がイルカに抱いた心的傾向を紹介した。これは別の角 度から見れば、言説を通してイルカの観賞「価値」を発見したという功績を認めることができる。つまりイルカの保護と結びつく現代の運動派のウォッチャーに も通ずるところがある。しかし、日本で伝統的にイルカの生態や行動にもっとも通じていたのはほかならぬイルカ漁をおこなう漁師であった。こちらは獲物をと るために必要として生じたウォッチングであり世界でも最も古い歴史をもつ漁労のひとつの活動である(6)。 イルカは栄養学を持ち出すまでもなく高品質のたんぱく質源である。また群れて沖合いに現れるので、それを捕獲することははなはだ機会的ではあるが、成功す れば共同体に大漁をもたらすことになる。そのため、イルカの生態、漁法、捕獲後の分配についての知識と実践がイルカ漁をおこなうところではよく発達してき た。

     日本近海のイルカには、マイルカ(Delphinus delphis)、入道いるか・ぼうずいるか(オキゴンドウPseudorca crassidens)(7)、 カマイルカ(Lagenorhynchus obliquidens)の三種類がよく捕獲されるという。マイルカはイルカのなかでも体は小さいほうであるが、大きなイルカは前寄りに小さなものは後ろ 寄りに泳ぎ、群でなすときの頭数は巨大という。入道いるかは体はマイルカよりも大きく、潮吹き穴が左右にあり、群れるときは最大20頭までという。そして カマイルカは性格が強靭で捕まえることが最も難しいという。イルカは音に敏感で先導するイルカに追随する性格を利用して追い込む。また、イルカに対してモ リやカギなどを使ってしとめると当然のことながら狂暴性を発揮するけれども、ゆるやかに抱くとおとなしくなる。そのためにイルカを「ジョロウのバケ」つま り娼婦の生まれ変わりとする伝承があった。したがって浅瀬に追い込んだイルカを小脇に抱きかかえて陸にあげる捕獲方法があったことが示唆される(農商務省 水産局『日本水産捕採誌』1910年)。  考えられうるイルカの捕獲法は(1)銛をもって突く方法と、(2)追い込んで捕らえる方法の二つに大別される。後者の、追い込んで捕らえる方法にはさら に(2.1)浅瀬で抱きかかえる方法と、(2.2)イルカ網とよばれる網で捕獲する方法に分類できる。また、イルカ網によるものにはさらに(2.2.1) 地曳網をもちいる方法と、(2.2.2)立切網とよばれる網で沿岸に仕切をつくりそこにイルカを追い込むものがある。

     現代日本では抱きかかえ法をみることができないが、洗練された組 織的な労働力を迅速に動員できるときには効率よくイルカを捕獲できるので、よく使われた漁法であったと考えられる。ソロモン諸島のマライタ島の人たちは、 丸木をくり貫いた五メートルにみたない総勢50隻のカヌーで20キロの沖合いまで船出してイルカを沿岸にまで追い込み、この抱きかかえ法で漁をおこなう。 そのような多数のカヌーをお互いにほとんど見えなくなるまで分散させ旗を上げながらイルカに気づかれないように徐々に追い込んでゆく。そして、沿岸のラ グーン(潟)に追い込んで陸で待機していた村の人たちが海に入りイルカをゆっくりと抱きかかえてカヌーに載せて捕獲するという。マライタの人たちはその際 にゆっくりとイルカを抱きかかえ、片手で口をつかみ別の手で体を軽くたたくのだが、それをイルカを安心させることだと説明する(竹川大介「イルカが来る 村」『イルカとナマコと海人たち』秋道智彌編、1995年)。

     イルカの捕獲方法は、捕まえる場所や追い込む海岸地形さらにはイ ルカの種類などと密接に関連して発達してきた。銛突きによるものは日本では少なく千葉の安房で発達したが、これは捕鯨がこの方法によるものであったためで あり、捕獲頭数そのものも少なかった。追い込んで網で捕らえるもののうちイルカ用の地曳網は編み目が大きく、また普通の魚を捕まえるものとは異なり、網に 袋状のものはついていなかった。他方、立切網でそこに追い込むという漁法も能登の珠洲でおこなわれたものでは、船とともに垣網を移動させて徐々にイルカを 誘導してゆく方法がとられた(日本学士院『明治前日本漁業技術史』1982年)。ちなみに、この珠洲には縄文時代にさかのぼれる真脇遺跡があり、イルカの 骨と石の鏃がたくさん出土している。考古学者の平口哲夫さんは、この骨の多くはマイルカとカマイルカからなるが、量的にはカマイルカのほうが多いことを報 告されている。このことから、平口さんはマイルカは抱きかかえ漁でも捕獲できるが、気性の荒いカマイルカは浅瀬に追い込んで石の槍でしとめたのではないか と説明する(平口哲夫「日欧における捕鯨の起源」『国際海洋生物研究所報告』5号、1995年)。伊豆半島では網による追い込みをおこなうが、マイルカと カマイルカでは網の目の大きさや素材が異なるという。  五島列島は捕鯨やイルカ漁が昔から有名な地域であるがここでも網を用いて追い込みをおこなう。ここでユニークなのは捕獲法ではなくイルカの発見から捕獲 までの人びとの動きである。中通島の有川や魚目では、イルカを発見するための小屋を設営したり船を出して捜索をおこなうことはしない。漁師は鯛つりや船上 で漁網を曳いているときに、イルカを発見すれば、それまでの漁を中断する。イルカの発見者はとっさに着ていた服などを棹にさして付近の船に知らせる。それ を発見した別の船でもイルカの探索に切り替え、これを発見した際に二番、三番とイルカを追い込むというのである(農商務省水産局『日本水産捕採誌』 1910年)。

     ここで旗や目印をあげてしだいにイルカを追い込むさまは、マライ タ島での操業とよく似ている。これもイルカの性格を熟知して、用意周到に捕獲の体制に移行できるようにした人びとの工夫のたまものだと言える。五島列島の 場合、獲物を発見した際に漁を中断し、漁師たちは一致団結して捕獲を試み、発見者の順に捕獲されたイルカは分配されるので、漁師は競ってイルカを発見しよ うとする。しかしながら同時に、イルカの肉は村落の各戸にゆきわたるよう配慮されたという。その意味ではイルカの肉は人びとにとって貴重なタンパク源で あったとともに、互酬性を通して人びとが共同体の紐帯を確認するための獲物でもあったのだ。イルカが異界から現れて幸をもたらすという信仰やイルカの群泳 をイルカ参詣と表現するきめの細かい観察は、沿岸の人びとが第一級のイルカ・ウォッチャーであったことを証明するものである。

    イルカの人助け

     世界中のイルカをめぐる神話・民話・逸話には人助けをしたというプロットが展開するものが多い。

     ギリシャ・ローマ神話ではイルカは海神ポセイドンの使いで、海で 溺れていたアリオンを助けた。プルターク『英雄伝』では、コリアノスという男が捕獲されまさに殺されようとしているイルカを漁師から買い取り、これを逃が し、後に海で溺れそうになるのをイルカが恩返しするという話がある。どの話もイルカと人間が強い絆で結ばれているという話である。

     日本でその種の話を探してみたが、なかなかそのような話がない。 ただし、クジラでならある。宮城県唐桑町の『御崎明神冥助の記』(1800年)という記録では、クジラが人を助けたという話が伝わっている。四方を海で囲 まれておりイルカと遭遇する機会があり、その行動をきちんと観察していたにもかかわらず、日本では人助けをするものとはみなかったのか。この違いはギリ シャ・ローマと伝統日本の動物観の違いにねざすものなのだろうか。

     さて神話や伝承ではイルカが人間と感情の交流をもったり、イルカ 自身が恩義を感じる知性があるとの前提にたって擬人化されている。しかし、そのような行動をもっと科学的に観察したものはいなかったのだろうか。つまり、 イルカの人助けを動物行動学(ethology)の観点から解釈する試みがなかったのだろうか。アリストテレスはその著書『動物誌』(紀元前4世紀ごろ) のなかでイルカの知性について述べている。

     海の動物の中で話題の最も多いのはイルカであって、それらはイル カのおとなしくて馴れやすい性質を示しているが、タラスやカリアやその他の地方での少年に対する愛情や欲情の実例さえあげている。またカリア地方で一頭の イルカが捕らえられて負傷したとき、イルカの大群が一度にどっと港へおしよせてきて、漁師が捕らえられたイルカを放してやるまで去りやらず、放してやる と、みんな一しょに出ていったという。また小さいイルカたちには必ず大きなイルカが一頭つきそって守っている。すでに大きなイルカが泳いでいて、死んだイ ルカが深みへ沈みそうになると、その下へ泳いで行って、背中にのせて持ち上げているのが見られた。まるで死んだイルカに同情し、他の肉食動物に食われない ようにしてやっているようである。(8)

     この解釈を敷衍してイルカによる人助けを説明することができない だろうか。つまりイルカは同種どうしの結びつきがたいへんつよい。またお互いに群のなかでかばい合う性質もまた強い。アリストテレスは、当時の人たちの解 釈であるイルカが人間の少年に感情を抱くほどの習性があるという主張を排して、むしろイルカは人間をあたかも死んだ同種のイルカと誤認しているのではない かと理解するのである。そうすると、溺れそうになった人間や遊泳している人間を持ち上げようとするイルカの行動の解釈に整合性が与えられる。これは擬人的 な解釈ではなく、動物の側からの行動の動機を説明するという点で、今日の動物行動学の基本的な視座とかわらない。  しかし、今日にいたるまで、イルカの擬人的解釈が後をたたない。イルカの神経生物学やコミュニケーション研究の泰斗ジョン・リリーもまたそのような誤謬 に陥った。生物学出身の民族学者であり精神分裂病の発症に関するユニークな研究でも著名なグレゴリー・ベイトソンは晩年に、リリーと共同してイルカの知性 について研究したが、彼もイルカの人助けはイルカの側のある種の誤解によるものだと考えていたらしい(メアリー・ベイトソン『娘の眼から』1993年、 p.300)。

     イルカは人間とのつきあいに積極的で、溺れているひとを助け、攻 撃されても自分からは攻撃しないことがよく知られているが、そのことをグレゴリーはこんなふうに解釈していた。多くの哺乳動物は自分と同じ種に属する子供 を攻撃しないのだが(人間もかなりの程度までそうだ)、こうした子供への攻撃を禁じるシグナルが、イルカの場合、人間にも適応されるのだろうと。言いかえ れば、人間はイルカにとって子供のような存在に映り、子供に接するような態度で人間に接するということだ。

     アリストテレス同様、ベイトソンもまたイルカの人助けが、イルカ の側の行動学的な誤認、つまり人間をイルカの子供として見ることに起因するものであると指摘しているのである。こうしてみるとイルカが溺れそうになってい る人を人助けしたという話そのものはかなり信憑性がある。ただし、それはイルカが人間と感情的な交流をもつ能力があるゆえなのではなく、イルカの側の大い なる誤解によるものだということになる。  九州天草のイルカ・ウォッチングに従事する遊漁船の船長さんは、海上においてイルカを観察する際に、お客さんがはしゃぐとイルカも「嬉しくなってジャン プする」ことを教えてくださった。これもまた人間を中心とした解釈である。そのような行動の解釈は、水族館のイルカショーでみられるおなじみの解説と類似 のものである。擬人化を通して人間がイルカに投影する「感情」の解釈は歴史や文化の多様性を超えて共通している。しかしこれを人間の文化現象における「普 遍性」で説明できない。古代のレスボス島と19世紀初頭の三陸海岸、そして1950年の対馬でのイルカ(クジラ)解釈に共通点があることは、驚くべきこと であり、それらの社会的文脈の差異からこの事実を説明してゆくことが求められている。

    天草のイルカ・ウォッチング――その素描(9) (目次に戻る)

     九州にある天草諸島は行政上は熊本県に属している。だが天草五橋 が架かるまでは人や文化の交流ではむしろ地理的に近い長崎と深い関係があった。たしかに地元の人のお国なまりは、長崎弁に近く聞こえるし、かつての通婚圏 は長崎や島原の比重が圧倒的に高かったという。その意味で1966年の五橋の完成以降は、熊本を中心とする物流や人的交流がきわめて盛んになった。熊本市 からドライブすると現在では島に出かけるというよりも実質的に半島部を旅する気分になる。  熊本市から約2時間で天草での最大の島である下島の表玄関ともいえる本渡市に着く。さらにそこから半時間ほど車で走ると下島の北端の人口1万2千の五和 町である。そこからは雲仙普賢岳をいただく島原半島が目と鼻の先に見渡せる。ここは有明海と東シナ海に通じる天草灘をつなぐ狭い海峡部分で早崎瀬戸とよば れる。この早崎瀬戸を挟んで野生のバンドウイルカあるいはハンドウイルカ(Tursiops truncatus)が二、三百頭生息している。ハンドウイルカには沿岸を中心に生息するものと、沖合いを広い範囲にわたって移動するものがあり、早崎瀬 戸のイルカは沿岸系のものである。

     もともとイルカは天草の沿岸には多数生息していたものらしい。老 練の漁師さんたちの話だとかつてはそこかしこにいたという。しかしながら、天草の各地で定置網漁がおこなわれるようになってから、イルカは厄介あつかいさ れるようになった。古くはイルカは大漁のあかしであったが、漁業が効率を中心に操業されるようになると漁師のライバルとして嫌われるようになる。外洋を回 遊するイルカは、迷いこんでくるだけで定着することはない。沿岸系のイルカであれば、捕獲されればそれまでで、周囲のから新しい生息地をもとめて別の群が やってこないかぎり、そこはイルカのいない海になってしまう。推測の域をでないが、そのようにして沿岸性のイルカが減少してきたことは十分考えられる。

     ところがこの早崎瀬戸は文字どおり潮の流れがはやく定置網には適 さない地形であり、通詞島と二江という天草でも有数の水揚げを誇る漁師には、素潜りを中心として生計をたてるものが多かったこともイルカにとって幸いし た。この素潜りの伝統は古く、縄文時代から古墳時代にかけての遺物が出土する沖ノ原には、古墳時代の製塩土器とともにアワビなどを剥がすときに使われたと 思われる打製尖頭状石器が大量に出土している。また江戸時代の十八世紀の中頃には御照覧と称した素潜りのデモンストレーションを代官所の役人の前で披露し たという記録も残っている。この潜水の伝統は明治期にはサルベージ会社が設立され、全国の沈没船の引き揚げに従事したことにも活かされた。早崎瀬戸では漁 師とイルカが長年にわたって共存してきたと言えそうである。

     このイルカの生息地にやってきたのが現在、天草海洋研究所を主宰 されている長岡秀則さんである。彼は製塩の研究のためにこの五和町を訪れ、地元の人たちと交流を深めるうちにやがてこの土地に根をおろすことになった。さ て彼が1992年に、町おこしのためにイルカ・ウォッチングを提唱したのがそもそものはじまりである。長岡さんが最初に遊漁船をはじめとする地元の人たち にウォッチングの話をもちかけた時にはだれもがその提案に耳を傾けなかった。というのは船に乗って5分も経たないうちにイルカが群泳する海域に着くことが できるからである。すなわち地元の人たちにとってはイルカは珍しいものでも何でもなかった。そのようなものが町おこしの原動力になり、観光客を呼ぶとは当 時誰も信じなかったのである。

     ところが1993年から本格化したイルカ・ウォッチングは福岡をはじめとする北部九州の都市の人たちを中心に人気をよび、観光客はうなぎのぼりに増えて94年には年間2万人を突破し、95年には3万人以上になると推定されている(五和町役場商工水産課調べ)。

     さて天草のイルカ・ウォッチングとはどのようなものだろうか。そ の内容というのはきわめてシンプルである。五和町周辺にはウォッチング業者が十数団体ある。それぞれの業者には契約してある遊漁船つまり船長さんが所有す る船があり、業者の斡旋によって所定の料金を払いライフジャケットを装着してイルカが群れて泳ぐ場所でそれを見物するというものである。イルカが早崎瀬戸 を東から西へとゆっくり回遊している場所に着くのには10分もかからない。いくつかの群が海面を泳いだり、時にはジャンプする姿がみられる(10)。 乗船客は口々にイルカが海面に出てきた場所を指さして歓声をあげる。子連れのイルカも見える。遊漁船はイルカの群から距離をおいて観察するという業界の自 主ルールがあるが、イルカそのものが船に近づいてくることもある。見学時間はおよそ一時間で、業界の自主ルールがもうけられており基本的にはイルカを遠巻 きにして眺めるという形式をとることが定められている。

     イルカ・ウォッチングの乗船客はおおむね満足して下船をする。熊 本大学文学部の1995年度の文化人類学の実習授業の自由研究としてこのテーマにとりくんでいる学生がおり、彼らがウォッチング客にアンケートやインタ ビューをとった。それによるとほとんどのお客が満足をしているが、それは乗船前に人びとが想像していたよりも近くでたくさんのイルカを見ることができるこ とによるらしい。イルカが自然の群れであることもウォッチング客を喜ばせるらしい。ある船長さんによると、お客のなかにはイルカを餌付けしていると思って いる人がおり、船長さんが早崎瀬戸に昔からいる野生のハンドウイルカであり、人間の側の介入が一切ないことを説明すると、多くの人が驚くという。

     日本には1990年代になってからクジラやイルカのウォッチング する団体や業者が相ついで現れた。これは比較的新しい社会現象である。日本でどれくらいの人たちがクジラやイルカを対象にしたウォッチングに参加している のか正確な統計はない。ホエール・ウォッチングを専門に研究しているエリック・ホイト氏によると、世界では1994年には400万人から540万人が参加 し、関連事業もふくむ総合収益では約三億ドルと報告している。日本では同じくホイト氏の推計では1993年に2万5千人、1300万ドルとのことである (佐藤晴子訳編『ホエールウォッチング読本』1995年)。これには天草のイルカ・ウォッチングなどは試算に入っていないと思われる。外洋に出ることの多 いホエール・ウォッチングなどが一度に多くの人を動員する例をみることが少ないために、一度に大量の船が出る天草の事例はかなり特異なものであるし、また その規模も突出したものであることがわかる。

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     筆者は、日本におけるエコ・ツーリズム、とくにイルカ・ウォッチ ングに関して調査研究に着手してまだ日が浅い。しかし、研究に着手してから、なぜ日本でイルカ・ウォッチングをはじめ、イルカやクジラに関連した書籍やイ ルカやクジラのグッズなどが流行ったのか、ということについてコメント求められたりするし、また私自身もこの問題に回答を与えようと仮説をたてさまざまな 努力をしている。ここで筆者がしばしば求められる「ホエール(鯨)とイルカ・ウォッチング・ブームに関する疑問」をまとめてみる。それらは、およそ次の8 つの疑問からなる。

    ホエールとイルカ・ウォッチング・ブームに関するの8つの疑問

    • (1)どうして日本ではクジラよりもイルカ・ウォッチングが流行るのか?
    • (2)どうして西洋開発国でホエール・ウォッチングに人気があるのか?
    • (3)どうしてかつて捕鯨に従事していた人が、ホエール・ウォッチングをはじめたのか?
    • (4)クジラ(イルカ)・ウォッチャーのなかには、いろいろなクジラをみたくなって世界を駆けめぐるものがいるが、それはなぜか?
    • (5)反捕鯨の人たちが、クジラをみて喜ぶという習慣をどうして世界中に広めようとするのか?
    • (6)ニュージーランドでの観察報告などから、クジラ(イルカ)ウォッチャーは、辛抱強くなく、クジラ(イルカ)がいないことがわかると、旅行の日程を変更して別の行動をおこすことがわかっているが、それはなぜか?
    • (7)どうして、クジラウォッチャーは、自然保護と研究と趣味を上手にリンクして、それを楽しみに変えてしまうのだろうか?
    • (8)IWC加盟国にホエール・ウォッチングが普及しているいっぽうで、非加盟国には意外とウォッチングの人気がない、あるいは知られることが少ないのはなぜか?

    これまでに述べてきたエコ・ツーリズムに関して論じてきたことのお さらい、あるいは応用問題として、この8つの疑問について考えることはたいへん意味がある。なぜならば、これらの問いがエコ・ツーリズムを考える際の社会 性というものを我々に関心を向けさせてくれるからである。

     日本におけるイルカ・ウォッチングの流行について考えてみよう。 まず地球環境に対する危機意識がはたして我々をしてイルカに興味をいだかせることに直接むすびつくだろうか。エコロジー問題とイルカをむすびつけて考える ことはさほど難しくない。しかし、それだけではあまりにも現実感に欠ける。その欠けた環をつなげるものは、お土産で売られているイルカ・グッズにみられ る、デフォルメされたイルカ(クジラ)に隠されていると思われる。クジラとイルカの絵はがき、Tシャツ、あるいは小さな置物などグッズを比較してみると一 目瞭然だが、クジラに対してイルカは擬人化されたり漫画的にデフォルメされており我々のマスコットないしは友人として描かれている。これは日本に限られた ことではないが、イルカは我々の等身大の友人、それもどうも年下つまり幼児的なあるいは子どものように考えられているようだ。それも中性のセクシュアリ ティーとしてである。現実のイルカ・ウォッチングでは、親子連れのイルカが観察され、人びとの注目を集めるにもかかわらず、陸に上がればこの中性の子ども のイメージがそこかしこに出てくる。天草の遊漁船に乗るウォッチャーは「イルカさん・イルカちゃん」という愛称を受け入れるのであるが、このイメージに完 全にオーバーラップする。

     ところで近年のイジメによる生徒の自殺など、子供にまつわる話題 に明るいものが少ない。現代人がイメージするイルカの世界はそのようなものとは無縁の世界である。クジラよりももっと身近にある表象であるイルカが選ばれ たのはそのような背景によるものではなかろうか。イルカは現実にはありえない無垢でセクシュアリティーのない中性の子どもを表象しているのである。  最近ではイルカに触れたり、一緒に泳いだりすることが心身症や自閉症の治療として効果があるのではないかという期待が高まっている。また、アメリカを中 心としてそのような治療(ヒーリング)を大々的に宣伝している業者があり、また日本からもツアーが組まれたりしている。その中には、イルカが人間以上の能 力、場合によっては超能力すらも持つというものがある。この場合注意しておかねばならないことは、病気が治ったり癒されたという経験的な事実と、業者が宣 伝する「科学的な治療根拠」とは別々に考える必要があることである。つまりそれらの「科学的根拠」はかなり怪しい。このようなイルカに対する非科学的な過 剰な期待は、1960年代に西洋に登場したある種の宗教的狂信に近いものであり、このことは動物学や人類学の研究者のあいだでひろく認められている(フ リーマン編『くじらの文化人類学』1969年)。

     つぎに捕鯨とホエールおよびイルカ・ウォッチングの関係である。 先進国に急速に広がった反捕鯨運動の広がりは、通常考えられてきたような鯨類の資源管理という理由のほかに、右にのべたような西洋で近年になって生まれた クジラの熱狂的な保護思想に色濃く影響されたものである。反捕鯨キャンペーンのなかには、日本の調査捕鯨船にオブザーバーとして乗り込みながら、そのビデ オで撮影した捕鯨の様子のうち凄惨なシーンばかりを編集して関係者やマスメディアに配布したという事例もあった。捕鯨論争はつねにメディア戦争の側面があ り、資源管理をめぐる科学的な議論というものをイメージをめぐる政治的対立抗争から分けることは実際には不可能である(川端裕人『クジラを捕って、考え た』1995年)。ホエール・ウォッチングを推進した人のなかには観光で儲けようとした者のほかに、反捕鯨キャンペーンに従事した人たちがおり、クジラの 素晴らしさを知れば、クジラへの愛着がわき、自分たちの運動に共鳴してくれるだろうという思惑があった。そのために、ホエール・ウォッチングはIWC加盟 国を含めて先進国で人気を博するようになってきたのだ。言葉をかえれば、先進諸国における捕鯨と反捕鯨の論争が一般の人びとをしてクジラに対する関心を喚 起して、クジラに関するエコ・ツーリズムを生み出したのである。

     いずれにせよ先住民による沿岸の捕鯨を除いてはクジラが捕れなく なった。しかしながら沿岸にせよ、遠洋にせよ捕鯨とは、成員の強固なチームワークによって編成される高度な活動である。どのような形態のものでも捕鯨の技 術はきわめて洗練されており、遠洋捕鯨ではそれが頂点にまで達した。現在ホエール・ウォッチングに従事する人たちの中にはかつて捕鯨船で活躍した人たちも 多い。彼らはクジラを追尾するプロフェッショナルなのである。そのような技術をもった人たちが、捕鯨銛の替わりに、ホエール・ウォッチャーにカメラの望遠 レンズを持たせてある種の「産業転換」を遂げたと考えてみると、事態はそれほど奇妙には映らない。もちろん日本におけるホエール・ウォッチングの成長は、 西洋のウォッチング推進者にとって驚きであった。世界屈指の捕鯨国であり、また調査捕鯨を通して頑なに捕鯨を続けている日本というステレオタイプを抱いて いる人たちにとって、それはあまりにも対照的な光景だったからである。しかし、日本の沿岸捕鯨の民族誌学的な調査が明らかにしたように、象徴的食物として 鯨肉が共同体の全戸に配られたこと、毎年定期的に鯨供養をおこなったことなど、鯨肉を消費することとクジラに対するある種の親近感をもつことが必ずしも相 反するものではなく、場合によっては共存するものであることを示している。

     最後にホエール・ウォッチャーについて考えてみよう。捕鯨者とし ての日本人は長年のあいだクジラを捕獲し、それを解体し、たんぱく源として文字どおり消費してきた。しかしながら、ホエール・ウォッチャーも別の意味で 「消費」者なのである。それはクジラのイメージを消費しているという比喩的な意味においてである。だから、一般の多くのホエール・ウォッチャーは反捕鯨論 者でも自然保護崇拝者なのでもない。ちょうど天草のイルカ・ウォッチャーがそうではないように。したがって、ウォッチャーの性格は一般の観光客のそれとな んら異なるものではない。その違いは観光において消費されるイメージが他の観光の表象なのではなく「イルカちゃん」に置き変わったことである。ニュージー ランドのカイコウラにおけるホエール・ウォッチング観光では、ごく普通の観光客において予想されることが、そのままウォッチャーにもあてはまる。つまり、 海上の天候不良などによってホエール・ウォッチングが中止になると、観光客はそのまま別の観光地に予定を変更し、スケジュールの許さない限りは戻ってこな い。ウォッチングを推奨する人たちは、そのような観光客の歩留まりを確保するための施設やイベントを定期的におこなう必要性を指摘している。

     現代のホエール・ウォッチャーは決して特殊な観光客なのではな い。その意味で文化人類学者も含めた我々現代人はすべてその観光客の潜在的な予備軍であることになる。ホエール・ウォッチャーをエコ・ツーリスト一般に敷 衍してみることは可能であろうか。エコ・ツーリズムをマス・ツーリズムの延長上として考えるのか、あるいは後者から逸脱した特殊な旅行形態なのであるか は、そのプランニングにどのように関わるかという実践的ないしは政治的立場によって決定される。しかしながら、所与のエコ・ツーリストが、どのような社会 階層に属し心的傾向を持つのかという調査は日本ではおこなわれていないのが現状である。しかし、そのような基礎資料はエコ・ツーリズムの社会的インパクト を考える上で不可欠である。またエコ・ツーリストとしての体験がその人本人のアイデンティティ形成にいかなる寄与をするのかという課題もある。今後の研究 に待ちたい。

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     本稿では先に、日本において昔からイルカを観察してきた伝統的な イルカ・ウォッチャーとはイルカ漁をおこなう漁師であり、沿岸のイルカをめぐる信仰をささえてきた人たちであったと述べた。人びとはイルカが連れそってお 参りにゆくというさまをイルカ参詣と呼んだり、イルカをエビスとみなし、それを外界から人びとに幸福をもたらす異人とみなしてきたのである。つまりイルカ をタンパク源として食用にしながらも、それを擬人化し、また時には畏怖の対象にすることを通して、一種の人びとの一定の資源管理の発想つまり土着的な持続 的開発の考え方があったことが示唆される。

     他方、イルカに食料としての魅力を感じるのではなく、船上でイル カの群泳を眺めたり、イルカの民俗伝承にこだわってきた柳田国男に近代的なイルカ・ウォッチャー発生の姿を我々はみてきた。なぜ近代的といえるのだろう か。それは民間のイルカ伝承を研究対象として客観化する態度を柳田はとったからである。柳田においてはイルカはもはや畏怖の対象でも食物でもない。イルカ は人間と久しく文明をともにしてきた旧友であり、イルカに関する民間の伝承はその文明を思い出させてくれるロマンを投影させる対象なのである。

     しかし今日、イルカ参詣という言葉などいったい誰が知っていると いうのだろうか。現代人は本物のイルカを水族館で見て、イルカに関する情報をテレビや雑誌や書籍などで知る。イルカ・ウォッチング・ブームの背景には、全 国の水族館でイルカが身近に接することができ、またイルカ・ショーなどをとおして人間の仲間として身近になってきたということもある。イルカ・ウォッ チャーのみならず、現代人も何らかのかたちでイルカのイメージを消費するわけだから、イメージとしての商品の売り手は、つねにイルカの科学的な情報を売り 物にするとは限らない。いや、むしろ人間がイルカに投影する「現代人の信仰」につけこんで、さまざまな新種の商売をおこなうことになる。イルカを可愛い子 どもにみたてたり、文明を築く知性があると信じ込んだりすることである。我々の身の回りにあるイルカ・グッズや写真集、イルカによるヒーリング(信仰治 療)などはその典型である。柳田がイルカのなかにみたものはイルカ伝承から構築される古代文明のロマンであり、我々がイルカ・ウォッチャーのなかにみるの は、純粋で無垢な、そして性的に無難なイルカのフェティッシュなイメージである。

     イルカ・ウォッチングは現代社会の文脈のなかで理解される必要が ある。天草でのウォッチングの計画が出たときも地元の人たちが、商売として成り立たないのではないか、と疑ったのも無理からぬことである。いつも、イルカ をみてきた人にイルカの治療効果などということを言っても笑われるだけである。イルカ・ウォッチングを宣伝する旅行代理店業者がターゲットとして最初に目 をつけたのは福岡の都市生活者であった。それはたんに人口の多さだけでなく都会人がイルカをみて楽しむだろうという「現代人の信仰」の実態を十分に承知し ていたからである。そして、予想どおりイルカ・ウォッチャーは福岡の都会から、熊本市とその近郊都市へ広がり、最終的には本渡市へ、そして最後は地元の幼 稚園へとその動員の輪を広げていったのである。イルカ・ウォッチングが都会のファッションたるゆえんである。

     現在遊漁船業者の大手の天草イルカ・ウォッチング・センターやそれに関わる長岡さんたちは国内のクジラ愛好者が組織するNGOなどと連携を強めつつある。長岡さんは天草のイルカの保護と地元との共存をもくろんだ陳情やロビー活動をおこなっている(11)。 もちろん行政サイドからの関心も高まりつつある。県や水産庁などもエコ・ツーリズムとしてのイルカ(ホエール)・ウォッチングを検討するために視察に訪れ ており、期せずしてエコ・ツーリズムのメッカになった五和町はさまざまな対応に追われている。この一連の現象から次のようなことがわかる。イルカ・ウォッ チングは環境保護や鯨保護運動という動機で始まったのではなく経済的な動機から始まったこと。そしてイルカ・ウォッチングの産業としての有望性が出てきた 後に、環境問題を軸としてウォッチングに新たな意味がつけ加えられようとしていること。またそれらの意味づけには、天草の環境保全とイルカが結びつきを深 め、同時にその社会認識の変化と深く関連していること。そして、そのような変化は明らかにイルカという文化表象の操作を通して可能になったいうことであ る。

     今やイルカを可愛いとは言えないまでも面白い見せ物の対象になっ たことを否定する人はいない。柳田国男が店頭でイルカの肉をみながら覚えた怒りは、七〇年後の現在において今ようやく鎮められようとしている。そして、イ ルカで町おこしの気運が高まってきた天草の五和町では公共、民間を問わずさまざまなイベントが過去二、三年のあいだ目白押しに開催された。地元の若い世代 の人びとにも変化が起こりつつある。池崎剛さんは、福岡の大学を卒業して地元にUターンしてきた若者の一人である。彼は町おこしにさまざまなかたちで関わ るなかで「イルカに逢える島 イメージソング」という副題のついた『イルカの歌』を作詞・作曲した。彼自身もイベントのおりにはギターとハーモニカを交え て唱う。この詩が訴えるメッセージは現代人のイルカとのふれあいを考えるうえでたいへん興味深い。

      母なる海よ 命の海よ 鮮やかに 輝いて

      私の心を つつみゆく いつまでも かわらずに

      とどめなく 落ちる涙を かわかせぬ 時は

      温かな 潮風に ふかれてみよう

      真っ赤な太陽をうけ 天にとどくように

      舞踊る イルカたちに あなたは逢うでしょう

      母なる海よ 命の海よ 鮮やかに 輝いて   

      私の心を つつみゆく いつまでも かわらずに

      群をなし 寄り添ってくる すてきな仲間たちは

      赤ん坊みたいに 笑みかける イルカたちよ

      いつでも 愛をもって 力強く 泳ぎゆく

      その美しき 姿に そっと 触れたくて

      母なる海よ 命の海よ 鮮やかに 輝いて   

      私の心を つつみゆく いつまでも かわらずに

      青き海、高き空よ 熱き わが願い

      人は皆 ふれあいを 求めて 生きてゆく

      人と自然のぬくもりが 絶えないかぎり

      時をこえて 語りゆく イルカの歌を

      母なる海よ 命の海よ 鮮やかに 輝いて   

      私の心を つつみゆく いつまでも かわらずに  (池崎剛 copyright 1994)

     柳田国男がイルカと人間の交流に思いをはせ、調査地のイルカ伝承 に関心をもちそれを採集したように、今後は池崎さんの歌を含めて現代人のイルカイメージに関する資料として詳しく分析する必要が生ずるだろう。しかし、こ のような分析をおこなう際に、対象の文化の本質を解明するという認識論にもとづく従来の文化人類学がおこなってきたような方法には限界がある(12)。 筆者は、その代替案として別の民族誌の方法を提言したい。それは、先にも触れた長岡さんや池崎さんをインフォーマントとしてみるのではなく、実験的な民族 誌研究などで指摘されてきたような、文化人類学者と共同しながら自らの民族誌作成を実践するような自己民族誌学者(auto-ethnographer) として認め、共同で民族誌を作りあげてゆくことである。それによって、民族誌は固定した文化を表象する装置であることをやめ、人類学者と自己民族誌学者で ある具体的な顔をもった現地の人びとを媒介するメディアとしての新たな役割を獲得することに違いない。本稿はそのような試みの第一歩である。


    (1)エコ・ツーリズムとは、 広義には自然を対象とした観光である。しかし通常この用語が使われる際には、自然環境への愛着や自然保護思想などが含意されるとともに、観光の目的地や近 隣の動植物や住民へのインパクトを最小限に抑えた実践であることが強調される。この新しいエコ・ツーリズムという用語で表象されるものには、明らかに現代 人の環境思想の投影をみることができる(池田光穂「エコ・ツーリズムの四つの顔」『アドバタイジング』No.441、1993年)。[本文に戻る]

    (2)アメリカ合衆国における 環境主義の歴史的展開を論じたダンラップとマーティングによると、環境主義とも言える組織的思想的形態は19世紀末に始まる第一の波、第二次大戦後のフラ ンクリン・ルーズベルト時代の第二の波、そして50年代以降の第三の波に分かれるという。しかし筆者はこれとは異なる見解をとる。つまり環境主義が科学的 な正当性を主張する根拠を与えかつ世界的な広がりをもつ運動に転化するようになったと考えられる、1960年代に始まる生態系のシステム論にもとづく「定 量革命」を、環境主義の出発点としてとらえる(ダンラップとマーティング『現代アメリカの環境主義』満田久義監訳、1993年)。[本文に戻る]

    (3)お互いに矛盾するように 思われる環境保全と観光開発を「調停」する論理が「持続的開発」である。これは、1987年に「環境と開発に関する世界委員会」が提唱したのを皮切りに昨 年のリオデジャネイロの地球サミットでは基本理念とまでになった開発の理念である。自然保護の立場からエコ・ツーリズムの可能性を検討した次の文献を参照 のこと。Boo, Elizabeth.,1990, Ecotourism: The Potentials and Pitfalls, Vol.1 and Vol.2. Washington,D.C.: World Wildlife Fund.  [本文に戻る]

    (4)出典は筑摩書房刊『柳田国男全集』によったが、それ以降の引用も含めて、かなづかいは現代風に書き換えた。 [本文に戻る]

    (5)イルカに関するフォークロアはすべて文献に依拠した。北見の前掲書(文中)の他に「いるか」『日本民俗辞典』弘文堂、1972年などを参照した。[本文に戻る]

    (6)能登半島にある縄文時代 の真脇遺跡からは、小型(カマイルカ、マイルカ)、中型(ハンドウイルカ)、大型(オキゴンドウ、コビレゴンドウ、ハナゴンドウ)の鯨類が出土する。金沢 医科大学の平口哲夫さんによると、北海道噴火湾周辺の遺跡の他には、イルカの骨が大量に出土する遺跡は世界にも例をみないという(平口哲夫「動物考古学に おけるイルカ遺体の個体別分析」『日本海セトロジー研究』4号、pp.43-52、1994年)。 [本文に戻る]

    (7)地方における和名である「入道いるか」「ぼうずいるか」には他にコビレゴウンドウ(Globicephala macrorhynchus)が含まれるかもしれない。この推定に関しては熊本大学医学部の児玉公道教授ならびに国立博物館動物研究部の山田格先生のご教示によった。記して感謝したい。 [本文に戻る]

    (8)訳文は岩波書店刊『アリストテレス全集』の島崎三郎の翻訳によった。 [本文に戻る]

    (9)この節に関する情報は、 天草海洋研究所を主宰されている長岡秀則さんと天草イルカ・ウォッチング・センターの野崎多喜子さんに多くを負っている。記して感謝する。また、本学学生 との調査の着手当時にお世話になったイルカ・ウォッチングの遊漁船の船長のひとり福田忍さんが1996年1月に不幸にも逝去された。福田さんのご冥福を祈 りたい。[本文に戻る]

    (10)長岡秀則さんによる と、イルカの行動範囲は東の五和町鬼池沖から西の苓北町の富岡半島沖までの東西16キロの範囲に生息する。群全体の頭数は200から300頭で、94年は 12頭、95年の夏までに6頭の出産を確認している。イルカの日周行動はおおまかに朝と昼と夕方に次のように区分できる。朝は鬼池沖で幾つかのグループに 分かれて採食し、昼は通詞島周辺を遊泳するが採食はせずにもっぱら交尾などをしており、夕方は富岡沖でおもにイカの群を追い採食する。五和町のイルカの群 が沿岸系であるにもかかわらず、2月から5月までは発見が難しい時期があるようで、とくに3月と4月のシーズンは1週間ちかく付近で観察されることがない こともある。この時期は漁獲の不漁期と一致するという。 [本文に戻る]

    (11)例えば筆者も参加し た「イルカを守る熊本県民の会」(代表委員・長岡秀則ほか4名)が1995年9月に福島譲二・熊本県知事にイルカの保護をもりこんだ陳情書を提出した。こ の陳情は「(1)すもぐり漁の安全を確保する、(2)イルカウォッチングのルールを制定する、(3)ウォッチング船の隻数制限と運行時間の調整などを規定 した条例や対策」を講じるように熊本県に要請したものである。 [本文に戻る]

    (12)「伝統」の概念をめ ぐるハンドラーらの論文は、文化表象の正当性をめぐる議論に本質主義を動員することがいかに柔軟性を欠いたものになるのかについて我々に教えてくれた。イ ルカの文化表象もまたその操作をめぐる政治的な力学の所産であることを我々に示唆する(Handler.R., and J.Linnekin, 1984, Tradition, Genuine or Spurious. Jornal of American Folklore 97:273-290.)。 [本文に戻る]

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