フレキシブルでインフレキシブルなメディア理解に向けて
エミリー・マーチンは『フレキシビリティ──ポリオの日々からエイズの時代までのアメリカ文化における免疫性の役割』(1994)という 興味深い民族誌において、1950年代以降のアメリカ合衆国における免疫概念が、どのような大衆化を遂げたかについて専門家ならびに非専門家へのインター ビュー調査、科学的読み物の分析等を駆使して明らかにしている。
マーチンの著作のタイトルにあるように、フレキシブル=柔軟な身体は、現代の北アメリカにおける身体のあり方を表象するものである。それ は、外部から要請された身体のあり方についての隠喩的表現であると同時に、人々が受容しつつある身体の表象でもある。例えば、免疫学における身体の防御機 構の説明のように、身体はさまざな外部から個々の侵襲を守るために柔軟に対応することを要求される。それは身体の外部へも伸展してゆくメタファーである。 ちょうど会社組織が雇用者調整を柔軟にして、不確実な経済環境を生き残ったり、解雇された労働者がフレキシブルに次の雇用機会を生かしていけるように。フ レキシブルな身体=世界観は、我々に可能性を付与するが、同時に我々をかえって弱い存在に陥れる可能性も持つ。そして、フレキシブルな身体のあり方は、別 の局面では古典的でインフレキシブルな疾病観や健康観への挑戦となる。文化の本質主義に代表されるようなインフレキシブルな他者表象への挑戦でもあるから だ。
高度メディア社会においてフレキシブルというメタファーはどのような局面において流通しているだろうか。メディア利用のスタイルにフレキ シビリティは暗黙のうちに要求されており、メディアの利用は、我々のフレキシビリティを高めるという表現も、コンピュータをはじめとするビジネス機器の広 告の中で発見することは困難ではない。フレキシビリティは我々の生活のあり方をも表象する。
フレキシブルな身体意識がなぜ今日の人々のあいだで受容されるのだろうか。フレキシブルな身体意識は、主体性の確立という、近代の身体の 成り立ちの古めかしい図式と、どのような関係をもつのだろうか。そして、フレキシブルという外部から与えらたメタファーを、はたして我々自身が操作可能な メタファーとして新たに組み直して使うことが可能なのだろうか。
このようなフレキシブルな身体についての問いは、高度メディアの状況についても同じように発することができる。なぜ高度なメディアを利用 することが良しとされて、さしたる抵抗もなく受容されつつあるのだろうか。高度メディアの発達によって、我々のアイデンティティの形成の様式は変わりうる のだろうか。そして、我々は高度なメディアを、自分たちに与えられた以上に可能性のあるものとして利用しているのだろうか。
高度メディア社会における人類学的な調査研究の活動が、その独自性を発揮できるのはメディアとしての身体と、ちょうどマクルーハンが言っ たような身体の延長としてのメディアの相互作用(弁証法)を明らかにすることにある。ともに我々の考え方の基本にある隠喩的想像力に関わる事象であり、今 日における権力と暴力について考えるための重要な尺度となっているからである。
「メディアは我々自身を形づくる:社会意識の産出に関する予備的考察」より
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